「済南事件」 端緒から解決まで


 「済南事件」といえば、ネットの世界では、中村粲氏『大東亜戦争への道』の影響か、「日本人居留民十数名殺害事件」をイメージする方が多いようです。 しかし、中国側資料では、「済南事件」は「五三惨案」として知られ、逆に、「日本軍の攻撃により中国人数千人が犠牲となった事件」として認識されています。

 「済南事件」とは、果たしてどのような事件だったのか。 コンテンツ「済南事件」では「事件に対する見方」に焦点を当てましたが、こちらでは、「事件の経緯」を包括的に説明していきたいと思います。




 事件は、北伐により中国統一を図る蒋介石軍が、居留民保護を理由に済南に進出した日本軍(第二次山東出兵)と出会ったところから始まります。

 一九二八年五月一日、蒋介石軍は、とりあえずは平和裡に済南に入城しました。日本側は防護施設(バリケード)をつくって待ち構えていましたが、入城当初は蒋介石軍が意外と秩序正しかったこともあり、蒋介石の要請を受けた形で、防護施設を撤去します。

 しかし五月三日、突発的に、双方の軍事衝突が始まりました。事件の発生の原因につき、日中双方の見解は、真っ向から衝突します。


 まずは、日本側の見解です。

参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』より

 五月三日午前八時頃東地区警備隊に於ては 隊長(小泉中佐にして副官随行) 城内に南軍総司令を往訪し 不在の為第四中隊長(大尉難波元吉)は隊長代理として師団長の巡視を迎へんとし 東地区警備隊本部(旧朝鮮銀行社宅)に在り

 然るに午前九時三十分済南日報社(普利門、街)より「麒趾門街一の日本人住宅に支那兵闖入し掠奪を開始せり 速に来援を請ふ 現地に案内すへきに依り先つ済南日報社に来られたし」 との電話に接し 直に部下中隊に警急集合を命し 取敢す第一小隊長(中尉久米川好春)をして 小銃二分隊軽機関銃一分隊(長以下二十七にして外に田中、辻両曹長同行す 以下久米川小隊と称す)を率ゐ 先つ済南日報社に急行せしむ

 是より先緯の派出所に在りし我総領事館警察巡査二(岡田静雄 山下茂一)は署長より掠奪地に急行を命せられ 吉房方に到りしに 同家は午前九時二十分頃より南軍暴兵約三十の為掠奪せられ 主人は暴行を受け逃れて現地に在らさるも 南軍兵尚十数名同家に留れるを以て退散を要求せしに 却て彼等の為銃剣を以て威嚇せられ  山下巡査隙を見て報告に赴くや  岡田巡査は暴兵の為殴打せられ叉将に佩剣を奪はれ且射殺せられんとせしとき 恰も久米川小隊現場に到著せしかは 暴兵は忽ち東方約百米なる其兵舎に向つて遁走し 岡田巡査は辛うして危難を免れたり

 小隊長は後日の証拠として掠奪兵を逮捕せんとし逃くるを追うて其兵舎(市中に散在し其構造一般民家と大差なし)前に達するや 門内舎前に立哨中の二名の銃前哨俄然我に向つて射撃し遁入せし掠奪兵も亦加りて射撃を開始す

 小隊は一物の掩護なき路上に於て射撃を蒙り已むなく之に応戦するに決し直に射撃を開始し我に射撃を加へし敵歩哨を射殺す 時に午前十時なり

 然るに敵は兵舎及圍墻を利用して我を猛射し小隊は之に応戦して戦闘激烈となる 是に於て小隊長は責任者の徹底的膺懲を必要と認め田中曹長をして状況を中隊に報告せしむると共に中隊主力の出動に関する意見を具申せり

 此小闘を端緒として各所一斉に南軍部隊の射撃及掠奪は開始せられ瞬時にして全商埠地内に波及するに至れり 之を五月三日事件の発端となす

(『昭和三年支那事変出兵史』P225〜P226)
  


 南軍による掠奪事件が発生。日本軍が現場に赴くと掠奪兵はただちに自分の兵舎へ逃走。それを追った日本軍に対して歩哨が射撃してきたので日本軍は応戦し、歩哨を射殺。それをきっかけに戦闘となり、全商埠地内に波及した。 要約すれば、このようなことになると思います。


 中村粲氏など、この日本側見解を無批判に引用している論稿も散見されますが、中国側の見解はこれとは全く異なります。邵建国氏による要約で見ていきましょう。

邵建国『済南事件の再検討』より

 しかし、中国側の見解は国民革命軍戦史の未定稿(「ゆう」注 陳訓正『五三事変』)によれば、次のようである。

 五月三日午前九時、日本軍は数名の国民政府軍兵士を射殺し、つづいて機関銃を発射しはじめ、中国軍に多大な死傷をもたらした。まもなく商埠地のいたるところで銃撃戦が開始された。

 なぜ日本軍が中国軍を射殺したかについては、特定できないとして下記五つの見解をあげている。

(一) 四〇軍兵士の一人が日本軍兵士と口論し、衝突となった。

(二) 四〇軍の兵士が戦友を病院に連れていく途中、日本軍に通行を阻止された。

(三) 中国軍兵士が中央券(国民政府の貨幣)をもって買物しようとしたとき、日本人はそれを阻止した。

(四) 民衆が宣伝ポスターを見ていたとき、日本軍はそれを許さず、ヤジ馬が挑発した。

(五) 中国軍兵士が商埠地を通過しているところを日本軍に阻止された。

(九州大学『九州史学』 1988年9月 第93号 P61〜P62)

 


 次の『蒋介石秘録』では、このうち(二)が事件の発端とされています。これが、中国側の一応の公式見解であると見ても差し支えないでしょう。

「蒋介石秘録8 日本帝国の陰謀」より

 事件の発端はこうである。

 この朝、国民革命軍第四十軍(軍長・賀耀組)の兵士の一人が病気になった。このため、中華民国外交部山東交渉署の向かいにあるキリスト教病院(城外商埠地)に治療に連れていったところ、日本兵に通行を阻止された。 ことばが通じないまま言い争いになった。

 挑発の機会を待ちうけていた日本軍にとっては、このような口ゲンカさえ、いい口実であった。日本兵は、問答無用とばかり、いきなり発砲、革命軍の兵士と人夫それぞれ一人をその場で射殺したのである。

 残りの何人かは辛うじて病院内に逃げ込んだが、日本兵は病院をとり囲み、機関銃で乱射を加えた。これをきっかけに、日本軍の銃撃は全市にひろがった。

(同書 P19)



 一体真の原因は何なのか。両者の間では、最初の死者が中国側に発生したことだけは一致していますが、どちら側に責任が大きいか、という肝心な点については、完全に見解が分かれます。

 以上、事件の原因については、日本側資料・中国側資料に諸説が入り乱れているのが現状であり、ストレートに原因を特定 することはできそうにありません。

 
「済南事件」をめぐる各種学術論文でも、概ね上記の見解を併記して、 例えば「今のところ事実関係を特定するのは困難である」(服部龍二氏『済南事件の経緯と原因』=『軍事史学』通巻第136号)というように事実判定を避けるものが主流であるようです。

 


 しかしこれが、双方とも望まない、偶発的な戦闘であったことは、間違いなく言えます。 日本側が戦闘を意図していなかったのはもちろん、蒋介石軍にとっても、「北伐」の妨げになるような余計な戦闘は極力避けたいところです。

 このような事情を背景に、日中両軍の停戦努力により、三日深夜、南軍と日本軍との間で、停戦協定が成立します。

参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』より

 三日午後七時頃南軍総司令は総領事代理を経て師団長に対し停戦に関し代表を派遣して交渉したき旨懇望し来りしを以て師団長は参謀長を代表として之に応することとせり

 参謀長は総領事側と予め会見場所、時刻、方法等を協議の上商埠地二馬路津浦鉄道弁公処に於て南軍代表熊式輝と午後十一時頃より四日午前一時に亙り会見し  渉外事項に触れす又将来に於ける軍事行動の余地を存し単に師団の態勢立直しに必要なる最少限度の距離を離隔し射撃を中止せしむるを目途として左の協定を為せり

一、商埠地内に在る支那軍隊は直に全部商埠地外に撤退せしむること

二、日本軍の守備区域内に在りて撤退命令を伝達し得さるものは日本将校立会の上之を伝達退去せしむること 之に対し日本軍は射撃を為さす

三、本三日夜日本軍隊射撃を為ささるに拘らす万一残留南軍兵か発射する場合は日本軍は之に応射すへし
  右に関し誤解なからしむる為本夜南軍将校二を日本軍に派遣し置くこと

 (以下略)

(同書 P267〜P268)





 その後、南軍の命令伝達の不徹底などにより四日に入っても散発的な戦闘が続きますが、とりあえず紛争は一旦の終結を見ます。しかし、日本軍内部では、この事件を「膺懲」の口実としようとする動きが進行していました。

 
臼井勝美『泥沼戦争への道標 済南事件』より

  翌四日、現地の福田師団長は、事件は一応解決したが、済南付近に宿営している北伐軍はすくなくとも四万あり、しだいに日本軍に悪感情を抱くようになってきたので、 現在こそ中国問題解決のため「南方に対し断然たる膺懲の挙にいづるの好機なりと信ず」と具申し、参謀本部と現地は本事件を利用して南軍を膺懲することに完全に意見の一致をみた。

(『昭和史の瞬間』(上) P56)


 一方、現地の西田駐在武官は国内のマスコミ向けに、「280名が虐殺された」という情報を流しました。

『東京朝日新聞』 昭和三年五月五日

邦人虐殺数二百八十

      言語に絶する暴戻

【天津電通四日午後九時半発至急報】天津に入電せる確報によれば三日南軍に虐殺された邦人は二百八十名でこれは皆我軍の警備区域外居住のものである

【北京特派員四日発】南軍兵士の暴行言語に絶し尚調査中なるも日本婦人を裸体として虐殺せるを始めとしてこれに類せる酸鼻を極めた事件が甚だ多いと

北京特派員四日発】済南邦人虐殺の事実は濃厚で我軍諜者の情報によれば館駅街地方の邦人虐殺されたとのことなれど同方面は今尚我軍の力およばず真偽取調べ難きも各方面の状況より判断すれば同地に居残つたものは絶望と見る外ない、 同地居住邦人は約十家族である

(第二面、上段中、四段見出し)


 実際の虐殺数は十二名、しかも必ずしも南軍の仕業とは断定できない、ということは、既に済南事件コンテンツで見たとおりですが、この時点では「十二名殺害」の事実すら判明していません。 これは日本国内の「膺懲」世論を煽るための作為的な情報操作であった、と思われます。




 現地で実際に「十二名」の邦人居留民の死体が発見されたのは、5日午後3時のことでした。

参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』より

 次て午後三時頃南軍の為惨殺陵辱せられたる邦人九の屍体十王殿北側膠済鉄道線路附近に於て臨時済南派遣隊第六中隊の手に発見せらるるに及ひ軍民の憤激極度に達し南軍膺懲の声勃然として起れり

(同書 P284)


 当初の出兵目的は、「居留民保護」というあくまで防衛的な性格のものであったはずなのですが、いつのまにか、「膺懲」(こらしめ)という、強硬なものに変わってしまったわけです。




 「虐殺死体」の発見を契機として、中央の姿勢はますます強硬なものになりました。その意を受けた現地軍は、中国側に対して、厳しい要求を突きつけます。

参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』より


一、騒擾及其暴虐行為に関係ある高級武官の峻厳なる処刑

二、日本軍の面前に於て我軍に抗争したる軍隊の武装解除

三、南軍治下に於て一切の排日的宣伝其他の厳禁

四、南軍は済南及膠済鉄道両側沿線二十支里以外の地に離隔

五、右実行の監視を容易ならしむる為十二時間以内に辛庄及張家庄の兵営を開放

右十二時間以内に回答せられたし

 昭和三年五月七日午後四時

(同書 P295)


しかしこの通告は、相手が条件を呑まないことを見越した、いわば「攻撃開始へのアリバイ作り」に過ぎませんでした。中国側はこれに従わないであろうという「予想」は、「支那事変出兵史」にも明記されています。

参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』より

 
右要求条件は到底聴従し得さるものとなることを予想し得たりしも此際彼に一撃を加へ五月三日の事件に於ける不法を膺懲し以て帝国の武威を中外に示さんとしたるに依る

 又回答時間を十二時間に限定したるは彼をして積極的行動を取るの余裕なからしめんか為極度に制限せしものにして南軍当局にして誠意あらは此時間内に回答を為し得るものと信したれはなり

(同書 P295)


 回答期限は、わずか12時間です。中国側は一方的な「回答期限」の設定に苦慮しますが、その中でも、一応の回答を用意して、日本側に提出します。

「蒋介石秘録8 日本帝国の陰謀」より

 それでも翌八日午前、熊式輝を代表として回答を持たせた。その内容は、日本軍の要求をいちおう承諾するが、日本側でも同じように暴虐行為の責任者を処分すること、 済南城内と膠済鉄路の要地には若干の部隊を駐屯させることなどを要求したものであった。

(同書 P41)


 しかし、「通告」を「膺懲」の口実程度にしか考えていない日本軍が、この回答を認めるはずもありませんでした。

参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』より

 
(さき)に交付せし我要求条件に対する南軍よりの回答時限は刻々切迫するに拘らず八日午前三時頃総司令より 『要求条件は一部を除き他は悉く承認すへきに依り回答時限を暫く猶予せられたき』旨要請し来りたるのみにて 他に何等誠意ある回答に接せすして遂に回答時限たる八日午前四時を経過せしを以て師団長は断然作戦行動を開始するに決し各方面に対し捜索を開始せしめたり

(同書 P295)


 「全面屈服」以外の回答は無視、というわけです。かくして、日本軍による、済南城への総攻撃が開始されることになりました。中国側の記録によれば、この際に数千名の被害者が出たことは、既に見たとおりです。




 余談ですが、この時点では、蒋介石の主力部隊は、既に済南にはありませんでした。

「蒋介石秘録8 日本帝国の陰謀」より

 (四日)夜にはいって、城外にいる革命軍の大部分に、黄河を渡り、北方に進軍するよう、ひそかに命令した。日本軍の援軍が到着するまでに、本来の敵である北洋軍閥追撃の態勢をつくるとともに、日本軍と大規模な攻撃がおこるのを避けるためであった。

(同書 P34〜P35)

 


 つまり「主力部隊」が存在しない以上、日本軍にとっても、「膺懲」自体が無意味な行為であったはずです。




 さて、「済南事件」は、最終的には翌昭和四年三月二十八日、外交的に決着を見ます。日中双方とも「自国側の損害」を強調したため、損害賠償問題が協定締結の妨げとなっていましたが、 とりあえずは「双方の損害数」を「共同委員会」で調査することとなりました。

 かくて日本軍は「二箇月以内に全部撤去」することとなり、「事件」の後始末はようやく終了します。

済南事件解決に関する文書


大正四年(「ゆう」注 明らかに「昭和4年の誤り)三月二十八日南京に於て調印

会議録

一、共同声明に関するもの。

 芳澤公使及王部長はことに済南事件を解決し両国の睦誼を増進せんか為、別紙日支共同声明書を本年三月二十八日夫々東京及南京に於て発表せることに合意せり


二、損害問題に関するもの。

 王部長は済南事件の発生に依り支那側は既に損失を受け居る処 芳澤公使に於ては日本側も亦損失有る旨既に屡々陳述せられたるか、 右は事実問題に属するか故に茲に両国に於て同数の委員を任命し共同委員会を組織し 同委員会をして双方の損害数を調査し之を弁理せしめたることを提議する旨、述へたり

 芳澤公使は日支双方の受けたる損害は略同額と認められ直に之を相殺するも差支無しと信する処、王部長に於て共同委員会を設置し同委員会をして之を決定せしむへき旨提議せられたるに就ては、予は予の述へたる右相殺の趣旨を以て之に同意す。

 但し、該委員会の調査範囲は両国の個人の受けたる損害に限るへきものとする旨、述へたり 王部長は同意す、右に依り至急弁理すへし、と述へたり。

 仍て、別紙議定書の通り双方の意見一致せり。


三、日本在留民保護及其の他の問題に関するもの
 (略)


日支両国共同声明書(会議録一の別紙)

 日支両国政府は客年五月三日済南に於て発生せる事件か両国国民伝来の友誼に鑑み極めて不幸悲痛の出来事なるを認むるも、 今や両国政府及国民は切に友誼の増進を望むか故に此の際該事件に伴ふ不快の感情を記憶より一掃し以て将来両国国交の益々敦厚ならんことを期する旨、ことに声明す。


議定書(会議録二の別紙)

 昨年五月三日の済南事件に依り発生したる日支両国の受けたる損害問題に関しては、双方に於て各同数の委員を任命し日支共同委員会を設置し実地調査を為し、之を決定す。


芳澤公使より王外交部長宛往簡

 以書簡啓上致候。陳者、本使は国民政府に於て日本軍の山東撤去後全責任を以て在支日本国臣民の生命及財産の安全を保障せらるるに於ては、 帝国政府は現に山東に在る日本軍を本格解決に関する文書の交換調印の日より向ふ二箇月以内に全部撤去すへき旨、茲に貴部長に対し通告すると共に、 日本軍撤去の際に於ける引継の措置に関しては日支両国各委員を任命し現地に於て商議弁理せしめんことを提議致候。此段照会得貴意候。敬具。

(以下略)

(『昭和三年支那事変出兵史』 附録第五)
 


  しかしこの「解決」は、中国側にとっては必ずしも満足のいくものではありませんでした。蒋介石によれば、かくしてこの事件は、「民衆の反日機運を決定的にするもの」になることになります。

「蒋介石秘録8 日本帝国の陰謀」より

 交渉は二転三転し、外交部長・王正廷と日本公使・芳沢謙吉の間でようやく調印されたのは、翌年三月二十八日である。

 内容は軍事行動の責任は双方ともにとがめず、

①調印の日から二ヵ月以内に日本軍は山東駐留軍を全部撤退させる。
②双方の損害は共同で調査委員会を組織し改めて調査する ― などをきめたものであった。

 中国の外交官・蔡公時の虐殺事件は不問に付され、損害賠償も事実上タナあげになり、結局は中国側の一方的な譲歩に終わった。

 このような譲歩には、中国国内でも非難するものがあった。しかし、全国統一という大業の前には、今日の侮辱に耐え、臥薪嘗胆の故事にならうよりほかはなかった。

 以来、「国恥をそそげ」「外侮を受けない独立と自由を」の声は全国にみなぎり、人民の心は一致して中国の統一へと向かうのである。

 残念なことは、この事件が中国においては民衆の反日機運を決定的なものにし、日本においては軍閥の横暴な政治介入の道をひらいたことである。

 昭和時代の日中関係を火薬と血にまみれたものとする最初の一里塚であった。

(同書 P45〜P46)

 




 最後に、「事件」の評価・その影響について、二名の研究者の見解を紹介し、コンテンツのしめくくりとしましょう。

臼井勝美『泥沼戦争への道標 済南事件』より

 一九二八年の四月から六月にかけて、北伐軍の華北進出をめぐって惹起された山東出兵、済南事件、張作霖爆殺という一連の事件は、日本陸軍の中国に対する感覚ないし思想を遺憾なく表現している。

 条約上の根拠をもたない、他国領土への派兵駐屯という重大事が、簡単に計画実施されるばかりでなく、「軍の威信保持」という名目のもとに、居留民保護の限界をはるかに逸脱した大規模な軍事行動の展開をみる。

 五月九、一〇日の済南城への攻撃、砲火の集中などは、まったく無用の軍事干渉であり、中国世論の一致した憤激の的となり、排日感を激発させ、以後の対日不信感の根源となったのである。

(『昭和史の瞬間』(上) P60)

 


 
服部龍二『済南事件の経緯と原因』より

 済南事件は、三つの意味で外交史上の転機となるものであった。

 第一に、従来イギリスを主敵としてきた中国の排外運動は、済南事件以降には日本を標的とするようになった。山東出兵や済南事件の影響で、 南京や上海、漢口、広州などの主要都市では反日運動が激化し、岡本一策南京領事は城外への避難を余儀なくされた。

 第二に、蒋介石をはじめとする国民政府要人の対日観を悪化させ、知日派の黄郛外交部長は立場を弱めた末に親米英派の王正廷がその後任に就任する結果を招いた。

 済南事件の第三の意義は、第一次山東出兵には同情的にみえた米英両国が国民党に接近する立場から日本に批判的になったことにある。 とりわけ、日本との共同出兵を繰り返し要請してきたイギリスは、この時期から国民党との接近を開始する。イギリスは対日協調に見切りをつけていたのである。

 また、当時駐華大使であったマクマリーが一九三五年に記した長文メモランダムによれば、アメリカの政策決定者にとって済南事件は、 「あたかも我々の理想の体言者(「ゆう」注 原文通り)であるかのように米国世論が好意を寄せていた国民党に対する敵意の証拠」となったという。 済南事件は日中関係を悪化させただけでなく、ワシントン体制下での協調外交にも悪影響を与えたといわねばならない。

(『軍事史学』 通巻136号 第34巻第号 P25)

(2006.1.28)


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