「済南事件」 端緒から解決まで |
「済南事件」といえば、ネットの世界では、中村粲氏『大東亜戦争への道』の影響か、「日本人居留民十数名殺害事件」をイメージする方が多いようです。 しかし、中国側資料では、「済南事件」は「五三惨案」として知られ、逆に、「日本軍の攻撃により中国人数千人が犠牲となった事件」として認識されています。 「済南事件」とは、果たしてどのような事件だったのか。 コンテンツ「済南事件」では「事件に対する見方」に焦点を当てましたが、こちらでは、「事件の経緯」を包括的に説明していきたいと思います。 事件は、北伐により中国統一を図る蒋介石軍が、居留民保護を理由に済南に進出した日本軍(第二次山東出兵)と出会ったところから始まります。 一九二八年五月一日、蒋介石軍は、とりあえずは平和裡に済南に入城しました。日本側は防護施設(バリケード)をつくって待ち構えていましたが、入城当初は蒋介石軍が意外と秩序正しかったこともあり、蒋介石の要請を受けた形で、防護施設を撤去します。 しかし五月三日、突発的に、双方の軍事衝突が始まりました。事件の発生の原因につき、日中双方の見解は、真っ向から衝突します。 まずは、日本側の見解です。
南軍による掠奪事件が発生。日本軍が現場に赴くと掠奪兵はただちに自分の兵舎へ逃走。それを追った日本軍に対して歩哨が射撃してきたので日本軍は応戦し、歩哨を射殺。それをきっかけに戦闘となり、全商埠地内に波及した。 要約すれば、このようなことになると思います。 中村粲氏など、この日本側見解を無批判に引用している論稿も散見されますが、中国側の見解はこれとは全く異なります。邵建国氏による要約で見ていきましょう。
次の『蒋介石秘録』では、このうち(二)が事件の発端とされています。これが、中国側の一応の公式見解であると見ても差し支えないでしょう。
一体真の原因は何なのか。両者の間では、最初の死者が中国側に発生したことだけは一致していますが、どちら側に責任が大きいか、という肝心な点については、完全に見解が分かれます。 以上、事件の原因については、日本側資料・中国側資料に諸説が入り乱れているのが現状であり、ストレートに原因を特定 することはできそうにありません。 「済南事件」をめぐる各種学術論文でも、概ね上記の見解を併記して、 例えば「今のところ事実関係を特定するのは困難である」(服部龍二氏『済南事件の経緯と原因』=『軍事史学』通巻第136号)というように事実判定を避けるものが主流であるようです。 しかしこれが、双方とも望まない、偶発的な戦闘であったことは、間違いなく言えます。 日本側が戦闘を意図していなかったのはもちろん、蒋介石軍にとっても、「北伐」の妨げになるような余計な戦闘は極力避けたいところです。 このような事情を背景に、日中両軍の停戦努力により、三日深夜、南軍と日本軍との間で、停戦協定が成立します。
その後、南軍の命令伝達の不徹底などにより四日に入っても散発的な戦闘が続きますが、とりあえず紛争は一旦の終結を見ます。しかし、日本軍内部では、この事件を「膺懲」の口実としようとする動きが進行していました。
一方、現地の西田駐在武官は国内のマスコミ向けに、「280名が虐殺された」という情報を流しました。
実際の虐殺数は十二名、しかも必ずしも南軍の仕業とは断定できない、ということは、既に済南事件コンテンツで見たとおりですが、この時点では「十二名殺害」の事実すら判明していません。 これは日本国内の「膺懲」世論を煽るための作為的な情報操作であった、と思われます。 現地で実際に「十二名」の邦人居留民の死体が発見されたのは、5日午後3時のことでした。
当初の出兵目的は、「居留民保護」というあくまで防衛的な性格のものであったはずなのですが、いつのまにか、「膺懲」(こらしめ)という、強硬なものに変わってしまったわけです。 「虐殺死体」の発見を契機として、中央の姿勢はますます強硬なものになりました。その意を受けた現地軍は、中国側に対して、厳しい要求を突きつけます。
しかしこの通告は、相手が条件を呑まないことを見越した、いわば「攻撃開始へのアリバイ作り」に過ぎませんでした。中国側はこれに従わないであろうという「予想」は、「支那事変出兵史」にも明記されています。
回答期限は、わずか12時間です。中国側は一方的な「回答期限」の設定に苦慮しますが、その中でも、一応の回答を用意して、日本側に提出します。
しかし、「通告」を「膺懲」の口実程度にしか考えていない日本軍が、この回答を認めるはずもありませんでした。
「全面屈服」以外の回答は無視、というわけです。かくして、日本軍による、済南城への総攻撃が開始されることになりました。中国側の記録によれば、この際に数千名の被害者が出たことは、既に見たとおりです。 余談ですが、この時点では、蒋介石の主力部隊は、既に済南にはありませんでした。
つまり「主力部隊」が存在しない以上、日本軍にとっても、「膺懲」自体が無意味な行為であったはずです。 さて、「済南事件」は、最終的には翌昭和四年三月二十八日、外交的に決着を見ます。日中双方とも「自国側の損害」を強調したため、損害賠償問題が協定締結の妨げとなっていましたが、 とりあえずは「双方の損害数」を「共同委員会」で調査することとなりました。 かくて日本軍は「二箇月以内に全部撤去」することとなり、「事件」の後始末はようやく終了します。
しかしこの「解決」は、中国側にとっては必ずしも満足のいくものではありませんでした。蒋介石によれば、かくしてこの事件は、「民衆の反日機運を決定的にするもの」になることになります。
最後に、「事件」の評価・その影響について、二名の研究者の見解を紹介し、コンテンツのしめくくりとしましょう。
(2006.1.28)
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