済南事件(1928年)




 「済南事件」とは、1928年(昭和3年)、蒋介石率いる「国民党軍」が中国統一のための「北伐」を行った際、済南において日本軍と衝突した事件です。

 ネットの世界では、その際に生じた日本側の民間人十数名の虐殺事件が強調される傾向にありますが、まず、一般的な歴史概説書での「事件」の取り上げ方を、私の手元資料で確認しておきましょう。


 
中公文庫『日本の歴史』  第24巻「ファシズムへの道」より

済南事件と第三次出兵

 済南にいた孫伝芳などの東北軍は、国民政府軍が近づくと一戦も交えず撤退してしまった。そして五月一日には国民政府軍が入城し、二日、蒋の司令部もここに移った。

 その後、蒋介石はただちに日本軍の撤退を要求したが、その交渉の進行中に、日本軍と国民政府軍の小ぜりあいがはじまった。 そして三、四両日には小戦闘がくりかえされたが、蒋介石は急ぎ大部分の部隊を済南から撤収し、みずかちも六日には済南から北伐に向かったので、騒動はいちおう終わりをつげた。

 日本軍の死者は十名、在留邦人の犠牲者は十二名というから、そう大した事件ではなかったといっていい。 むしろ、このとき日本軍が、国民政府の特派交渉員であった蔡公時をはじめ多くの公署職員を殺害して、中国側の憤激を招いた点のほうが重大であった。

 しかしこの済南事件にたいする田中内閣の措置はまったく血迷っていた。政府は五月八日には早くも第三次出兵をきめ、九日には第三師団に動員令をくだし、青島に出発させた。国内では中国兵の暴虐を誇大に宣伝し、国民の敵愾心を煽動した。

 そして現地では、中国側にたいし十二時間の期限つきの最後通牒をつきつけたうえ、九日・十日の両日、済南の総攻撃をおこなったのである。ここでは容赦のない砲撃が市民にくわえられたため、中国側は三六〇〇の死者と一四〇〇の負傷者をだし、済南はほとんど壊滅してしまった。

 このとき、国民政府軍はすでに済南からの撤退をきめていたのだから、それはまったく南軍膺懲と日本軍の威信発揚のためだけの、無意味な殺戮と破壊であった。

 この事件は四年三月になってようやく外交交渉がすみ、日本軍が撤退することによって解決するのだが、そののこした波紋は大きかった。日本軍の暴虐ぷりは世界に有名になったし、何よりも中国民の排日は、これによって拍車をかけられた。そして蒋介石の対日政策も俄然硬化し、外交部長も親日派の黄郛から親米派の王正廷にかえられた。

 このとき以後、中国はアメリカと結んで排日政策を強化しはじめるのであるが、これこそ無定見で、武力をもてあそぶ以外に能のなかった田中外交の唯一の成果だったのである。

(執筆者 大内力氏)

(P153〜P154)

*「ゆう」注 蛇足ですが、「そう大した事件ではなかったといっていい」というのは、「歴史学的に見て」の意味であると解するところでしょう。この発言の揚げ足を取る書き込みを見かけましたので、一言。



小学館ライブラリー『昭和の歴史』第2巻「昭和の恐慌」より


第二次山東出兵と済南事件

(略)

 ところが、五月三日午前九時半、日中両軍の間で軍事衝突がおこった。

 その原因に関する主張は、日本側と中国側とでは完全にくいちがっている。日本側は、南軍兵士が『満州日報』取次販売店に乱入し、吉房長平を罵倒殴打し、家財道具を掠奪したことにはじまるというのにたいし、中国側は、日本軍守備区域で一人の中国人が射殺されたことが発端であるとしている。

 戦争の原因について両者の言い分が一致するなどということは史上例がない。済南事件はこうしてはじまった。

 済南市内での市街戦は五月三、四日の二日問で終わったが、参謀本部は、「このさい断乎たる処置をとる」こととし、「南軍膺懲(こらしめる)」の方針を固めた。 五月四日の臨時閣議は、関東軍と朝鮮軍とから二個師団の増派を決定、五月九日には名古屋の第三師団にも出動命令をくだし、約一万五〇〇〇名の兵員を補充して、革命軍との徹底抗戦を辞さずとの態勢をととのえた。

 日本軍は、九日から総攻撃を開始、済南城内に集中砲火をあびせ、一一日に済南城を軍事占領した。 この戦闘で、南軍は一般市民をふくめ死者三六〇〇名、負傷者二四〇〇名を出したのにたいし、日本軍の死傷は死者二五名、負傷者一五七名であった。

 (執筆者 中村政則氏)

(P118〜P121)



 大内力氏は、「在留邦人の犠牲者」よりも、「日本軍が、国民政府の特派交渉員であった蔡公時をはじめ多くの公署職員を殺害」した事実を重視し、さらに「容赦のない砲撃が市民にくわえられたため、中国側は三六〇〇の死者と一四〇〇の負傷者をだし」たことに言及しています。 中村政則氏は、「日本人殺害」には一言も触れていません。

 もう一つ、日中戦争の研究家、臼井勝美氏の記述を見ます。


臼井勝美氏 『泥沼戦争への道標 済南事件』より

 が、午前一〇時、麟趾門街に日中両軍の小衝突が起り、たちまち全商埠地および隣接街区に戦闘が波及し、いわゆる五・三惨案(悲惨なる事件)の勃発をみたのである。

  商埠地の各所で小戦闘が展開されながら夜にはいったが、夜半両軍のあいだに商埠地内の中国軍隊の退去に関し協定が成立し、四日午前中には大部分の撤退をみた。福田師団長の表現によれば「張合いのない」南軍の態度であった。

 五月三〜四日の戦闘で注目すべき点二、三を挙げてみよう。

 戦闘に参加した日本軍は約三五〇〇の兵員で、死者一〇名、傷者四一名を出した。一方南軍の捕虜は将校以下一一七九名、戦利品は小銃二二九七その他である。激烈な市街戦としては日本軍の死傷者が意外に少ないととがわかる。 商埠地周辺の南軍約二万は全然戦闘に参加せず、商埠地内の軍隊もほとんど散発的な抵抗しかしなかったのではないかと推察される。

 商埠地外にいた日本居留民の惨殺された者一二である。 中国側をもっとも憤激させたのは、三日夜、戦地政務委員兼外交処主任の蔡公時をはじめ済南交渉公署職員八名、勤務兵七名、まかない夫一名計一六名が殺害されたことであった。蔡主任の殺害は次のような状況のもとにおきた。

 蔡主任が北伐にともなう外国居留民との折衝の任にあたることは、国民政府から四月二三日、上海の矢田(七太郎)総領事に通告されていた。

 五月三日、蔡は済南商埠地の旧山東交渉公署で執務を開始したが、同日午前、公署建物前の道路でも戦闘があり、日本兵二名が射殺された。この日本兵士に対する狙撃が交渉公署の楼上からおこなわれたと認知した日本軍は、夜間にいたって公署の捜索を実施した。

 そのさい突然地下室から拳銃の発射を受けたので、ただちに応射するとともに、署内の一六名を射殺または刺殺した。 街路上の戦闘に対し交渉公署楼上から狙撃があったこと、室内捜索のとき拳銃が発射されたことは認めなかったが、昼間、公署前の戦闘を楼上から勤務兵が目撃していたのは中国側も認めるところであった。

 しかし、蔡主任以下の職員は原則的に無抵抗であったのであり、交渉公署の性格上からも全員をただちに刺殺したことは過当措置であったといえよう。

 国民政府は蔡特派交渉員殺害事件を、外交官に対する不法きわまりない日本軍の残虐行為としてセンセーショナルに報道し、各地で追悼会を開催したりした。

(『昭和史の瞬間』(上)P55)

 

 臼井氏も、大内氏と同じく、「中国側外交官殺害事件」に重きを置く記述を行っています。

 以上、スタンダードな歴史書では、「済南事件」中の「日本人殺害」のエピソードは、あまり重要性なものとは見られていないよう です。





 そんな中にあって、事件の一連の流れの中から、あえて「日本人居留民の虐殺」に詳しくスポットライトを当てたのが、次の中村粲氏の記述です。

中村粲氏『大東亜戦争への道』より


我軍の警備を撤去させ、日本人を襲ふ

(略)

 事件は我軍が警備を撤去した直後の五月三日朝に発生した。南軍暴兵が満洲日報取次販売店・吉房長平方を襲撃掠奪したのが発端だつた。 南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加へたため、我が救援部隊が現場に急行するや、中国兵は忽ち遁走して兵舎に隠れ、その中より銃撃を加へてきた。

 ここに於て彼我交戦状態に入り、中国兵による乱射掠奪は一挙に市中に拡大した。間もなく両軍間に停戦の申合せができたが、中国軍はこれを無視し、白旗を掲げて停戦を呼びかける我が軍使さへ射殺する暴挙に出た。 市内は凶暴な中国兵のため忽ち修羅の巷と化した(参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』)。

 「南軍鬼畜と暴れ狂ふ」「日本人は狂暴なる南軍のため盛んに虐殺されつつあり」 − 中国兵の暴状を五月四日付東京朝日新聞はかう報じてゐるが、各所で多数の男女日本人居留民が暴兵の手で惨殺されて行つた。

 前出『昭和三年支那事変出兵史』によれば、五月三日、四日の戦闘に参加した我軍の兵力は歩兵約五大隊、騎兵一小隊、野砲兵二中隊その他であつたが、その中、戦死九、負傷三十二であつた。

 またこの戦闘の間に、東西両地区警備隊は守備線外に離散してゐた我が居留民約二百八十名を弾雨を冒して収容したが、十二名(男十、女二)の居留民は三日正午頃、南軍の手によつて惨殺された。

 その後五月五日、済南駅東方鉄道線路付近に隠匿埋没してゐた鮮血生々しい死体九を、六日津浦駅付近で一を、九日には白骨と化したもの二を発見した。
 
*「ゆう」注 「その後」という表現から、先の「十二名」とはまた別の「虐殺」があったかのように錯覚しますが、これは「十二名」の死体の発見状況の記述です。 また、「各所で多数の男女日本人居留民が暴民の手で惨殺されて行った」ということですが、惨殺被害者は十二名のみであり、「各所で多数」という表現は、明らかに誤解を招きます。

なお、雑誌掲載時(『諸君!』1989年9月号)には、「前出『昭和三年支那出兵史』によれば」以下の文章がありません。 これでは、後の秦郁彦氏の批判のように、「盛んに虐殺されつつあり」との文章から、相当多数の日本人が犠牲になったかのように見えます。 中村氏は本にまとめる時に「人数」の明記等の記述を加えたようですが、このあたりの記述が重複の多いちぐはぐなものになっているのは、そのためであると思われます。

 その他南軍の爆弾によつて負傷入院後死亡したもの二、暴行侮辱を加へられたもの三十余、凌辱された婦女二、椋奪被害戸数百三十六、被害人員約四百、被害見積額は三十五万九千円に達した。


 酸鼻! 日本居留民虐殺さる

 済南事件に於て、支那兵が我が居留民に加へた暴虐凌辱は言語に絶する悪鬼の所業であつた。事件直後に惨死体を実見した南京駐在武官・佐々木到一中佐はその手記に次の如く記した。
「予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だつた。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。 ある者は焼かれて半ば骸骨となつてゐた。焼残りの自足袋で日本婦人たることがわかつたやうな始末である。わが軍の激昂はその極に達した」(『ある軍人の自伝」)

 右の佐々木中佐手記は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する左の外務省公電がこれを立証してゐる。
「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面上部を切落したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの二」(五月九日田中外相宛西田領事報告)

  支那側の蛮行の模様を精細に記録したものがある。それは我軍及び警察と支那側の立会ひの下に済南医院が行なつた検視の結果である(小川雄三「済南事件を中心として」)。そのごく一部を抜粋して、支那軍の殺人の手口の残忍非道ぶりを推察する一助ならしめよう。

(同書 P270〜P272)

*「ゆう」注 以下、小川雄三氏「済南事件を中心として」の記述に沿って、各人の遺体の状況の報告が続きますが、略します。

 


*ネットの世界では、しばしばこの「虐殺」場面や「遺体の状況」場面のみが紹介されますが、前の三氏の文を読み返せばわかる通り、これは「事件」の一エピソードであるに過ぎません。 また中村氏も、この文の前後では「事件」の経緯を詳細に記述しており、日本側見解に偏っている嫌いはあるものの、必ずしも「歴史的視点」を失っているわけではありません。

 「中国人の残虐さ」のみを取り出してこれを強調することは、事件の経緯や歴史的背景を無視した一面的な議論である、と私は考えます。 また、日本側の被害状況にのみ着目し、中国側の被害を無視するのも、公正を欠いている、と言わざるをえません。



 さて、この中村氏の文を見ると、氏は、「支那兵が我が居留民に加へた暴虐陵辱」の例示として「佐々木中佐手記」の記述を取り上げているように見えます。しかし実際の佐々木手記では、犯人は「支那兵」に特定されているわけではありません。 以下、佐々木手記の記述を見てみましょう。

 

佐々木到一 『ある軍人の自伝(増補版)』より

 ところがこの日になって重大事件が惹起されていることが明かにされた。 これより先、居留民は総領事館の命令を以て老若婦女は青島に、残留する者は限定せる警備線内引揚げを命じてあったが、それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老壮男女十六人が惨死体となってあらわれたのである。

 予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。 ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。

 わが軍の激昂はその極に達した。これではもはや容赦はならないのである。 もっとも、右の遭難者は、わが方から言えば引揚げの勧告を無視して現場に止まったものであって、その多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かったのである。

 右の惨死体は直に写真に撮られ、予はこれを携えて東上することになったのである。 (P181〜P182)



 佐々木中佐は、「惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かったのである」と記述しており、必ずしも「支那兵」の仕業とは断定していません。 この部分を省略したのは、犯人を「中国兵」と断定する自説にとって、都合が悪かったからなのでしょうか。

 この他、秦郁彦氏によれば、岡田芳政少尉も、「現地人に報復された」という見方をしていたようです。

 
秦郁彦氏 『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』より

 このあとも、中村氏は前記の狙いに沿って中国人の蛮行を、「針小棒大」に列挙してゆく努力を惜しまない。ついでだから、二、三の事例を検討してみることにしよう。

 第一の例は、時期はぐっと下るが、昭和二年の南京日本領事館と居留民に対する北伐軍の暴行である。中村氏は中国兵が「蛮行の限りをつくした」(九月号)と記すが、『日本外交史辞典』によると、死者は一人も出ていない。 都合の悪いときは数を出さず、形容詞で すませておく手法であろうか。この程度の事件をコミンテルンの煽動と大げさに決めつけているが、中村氏の「煽動」でなければ幸い。

 つづいて登場する済南事件(昭和三年五月)についても、北伐軍により「各所で多数の男女日本人居留民が暴兵の手で惨殺されて行った。 『昭和三年支那事変出兵史』(参謀本部編)によれば、虐殺の状況は、猟奇的なまでに酸鼻を極めた」と書いているが、ここでも 惨殺された居留民の数が出てこない。

 引用された参本の出兵史のミスではない。ニ七六ページには惨殺十二人(男十、女二) とあり、二千人の居留民は事前に避難したが、殺された連中は「特種営業者にして最初より避難を欲せず・・・計画的暴行にあらぎることは明らか」と注記してある。

 当時、在北京公使館の警備に当っていた岡田芳政少尉(のち大佐)の回想談によると、「殺された居留民は朝鮮人の麻薬密輸者で、日頃から悪行を重ねていたので、現地人に報復されたと聞いている」とのことである。

 そもそも、日中両軍の衝突自体が、済南駐在武官だった酒井隆少佐の陰謀説もあり、酒井は「惨殺」が起きると、中央へ誇大な数字を報告、陸軍省は邦人の惨殺三百と発表して出兵気運を煽った。 事件の処理交渉で日本側が損害賠償を要求しながら、最終的には断念したのも、阿片密売人という弱味を知られていたからだった。

 この時期以後の日中関係史を見るとき注意しなければならないのは、日本側が中国の挑発行為と発表したもので、実は日本の謀略だったという事件が少なくないことであろう。

 張作霖の爆殺(真犯人は河本大作大佐)、柳粂湖の爆破(石原莞爾中佐ら)、第一次上海事変(田中隆吉少佐)、山海関事件(落合甚九郎少佐)、福州事件(浅井敏夫大尉)などが代表的なものだが、不良中国人を買収してやらせた謀略のなかには、今も秘密がばれないでいるものがあるにちがいない。

(『諸君!』1989年11月号所収)

*「ゆう」注 これは雑誌掲載時の中村論文への批判であり、上に引用した「大東亜戦争への道」の記述とは必ずしも噛み合っていません。 先に述べた通り、雑誌掲載時の中村論文では「済南事件」の犠牲者の数が省略されており、秦氏はそれを批判しています。

 その後中村氏は秦氏に対して再反論を行いました。(『諸君!』1990年2月号所収 「秦郁彦氏における「絶対矛盾の自己同一」」)

「秦氏と違つて、筆者は虐殺十二名を少ないとは考へてゐない。無視できぬ数と考へる。といふのは、虐殺とは「殺し方」の問題であつて、秦氏の如く「数字」の問題であるとは、筆者は考へてゐないからだ。 無残な殺害は、たとへ一人であつても許されぬことで、殺された側の国民感情が激昂するのは当然だ。まして十二人ともなれば、秦氏のやうに「針小棒大」と笑殺して済ませられることではない。大量虐殺の部類に入るべき事件だ」(P246)

 この「論争」においてどちらに説得力があるかの判断は、読む方の視点や立場によって異なってくると思いますので、ここでは行いません。このような「論争」が交されたことの紹介のみに止めます。
 


 中村氏は「南軍の手によって惨殺された」と断定していますが、以上の記述を見ると、現地の軍部は必ずしもそのような見方をしておらず、彼らに恨みを持つ者が衝突のどさくさに紛れて犯行に及んだ可能性もある、と考えていたようです。


 この「日本人居留民殺害事件」に対する中国側の正式見解は、必ずしも判然としません。辛うじて、「済南事件」の事後交渉に当った中国側の外交官、張群氏の手記に、この事件に触れた部分がありましたので、紹介します。

張群『日華・風雲の七十年』より


 このような状況下で、ついに済南事件が起こった。五月三日のことである。

 この事件でわれわれが現地に派遣した交渉特派員・蔡公時が日本軍に殺害され、全国民は憤激した。各地で反日感情が高まり、青年、学生らは「日本帝国主義打倒」ののぼりを立ててデモ行進を行った。

 わが革命軍の前線部隊は軍紀もきびしく、日本軍との直接衝突を回避せよという命令を奉じて冷静を保っていたが、日本軍の現地派遣部隊指揮官の福田彦助と済南駐在武官の酒井隆は、かえって事態が鎮静するのをおそれ、本国の陸軍省に対し、 事実を誇大に報道させるよう連絡した。

 五月六日の時事新報によれば、済南に住む三百人の日本人が、革命軍によって殺害されたと、トップ記事で報じられている。これはまさに扇動記事としかいいようのないもので、のちの日本の歴史文献資料では、次のように明記されている。

 「済南事件の際、中国民衆によって殺害された日本人は十三名である。彼らはアヘンの密売を常習としていた日韓浪人で、かねてから現地中国人の恨みを買っており、戦乱にまぎれて殺害されたものである。 日本軍はこの事実を二十三倍にもふやして宣伝に使った」
(同書 P41)


 「のちの日本の歴史文献資料」がどういうものであるかは確認できませんでしたが、ともかくも、張群は、ここではその記述を借りて、自分側の見解としているようです。



 最後に、「世界戦争犯罪辞典」の記述を紹介します。私の見る限り、この記述が、「事件」に関する最もスタンダードな見方の集約であると思われます。

『世界戦争犯罪辞典』より

済南事件

(略)


 西田畊一(こういち)在済南総領事代理が酒井少佐とともに蒋介石と会見していた五月三日の午前九時半頃、事件が発生した。

 日本側の説明だと発端は、国民革命軍の正規兵約三〇人が城外の商埠地内で満州日報の取次店を営む在留邦人の吉房長平宅を掠奪したことにはじまる。 そして、この知らせを受けた久米川好春中尉が率いる日本軍約三〇人と襲撃した中国兵約三〇人との間で銃撃戦が開始され、近辺でも複数の個所で射ちあいが発生したとしている。

 実態は、国民革命軍の反日宣伝をめぐる紛糾かと推定できるが、吉房宅は、日中両軍が激戦を交わした麟趾門街からは七〇〇メートルほど離れた場所であり、軍事衝突の直接的な誘因とは考えにくい。

 一方、中国側の見解だと、病気の第四〇軍兵士一人を病院につれていく途中で、日本兵に阻止されて言い争いとなり、発砲されたという(この時、中国兵一人と中国人人夫一人が死亡)。
 いずれの言い分が正しいか検証は困難であるが、第四〇軍第三師歩兵第七団の将兵約一二〇〇人のうち、一〇〇四人までが約二時間の間に捕虜となっており、日本側一〇人に対して一五〇余人もの死者を中国側が出していることから、 中国軍にとってこの銃撃戦は突発事であり、計画的だったとは考えにくい。

 問題の居留民虐殺は、この軍事衝突の合い問に生じたが、死者一六人とも一三人(うち九人が虐殺)ともいわれる被害者の多くは朝鮮人の麻薬販売人や売春業者で、一般居留民のように避退せず、残留していたものらしい。

 ところが、五月五日と六日の朝日新聞などは「邦人虐殺数二百八十」と実際の二〇倍以上にのぼる誇大な数字を報じた。大規模出兵を望んでいた強硬派の酒井隆少佐が打電したものを陸軍省が流したものといわれている。 こうした情勢を背景に、現地の第六師団長は責任者の処刑や関係部隊の武装解除など五ヵ条の期限付要求を中国側に交付した。

 予想しない事態に中国側は驚き、回答期限の延期を要求したが、日本軍側は、「軍の威信上已むなく断然たる処置に出て要求を貫徹」すると通告したのち、八日早朝から済南城に対する大規模な攻撃を開始し、済南周辺を占領した。

 この攻撃により、中国側には、一般市民をふくむ三六〇〇人の死者と一四〇〇人もの負傷者が出たとされる(日本軍の死者は二六人、負傷者一五七人であった)。

 このような日本側の強硬姿勢は、北伐軍の進攻を遅らせ、張作霖政権との間で懸案となっている中国東北地方における鉄道問題等の契約交渉の成立をも視野に入れたものといえよう。

 これに対し、日本軍との決戦を回避した蒋介石は、中国軍を撤退させ迂回して北京へ向かい北上したため、交戦は短期間で終わった。そして外交交渉に移り、二九年三月に合意が漸く成立し、日本軍は撤兵する。

(小池聖一)

(同書 P62〜P63)

 
*2006.1.28 事件の経緯について、「済南事件」 端緒から解決までにまとめました。

(2005.1.23記)



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