資料:日中戦争における民間人殺害


 日中戦争では、中国側民間人に多くの被害者が生じました。今となってはその正確な数を知る術もありませんが、数十万−数百万のオーダーであることはほぼ確実であると思われます。

 しかし「民間人殺害」に触れた日本側資料は、必ずしも豊富なものではありません。 「無辜の民」の殺害を記録に残すことへの抵抗、 また証言をはばむ土壌の存在(コンテンツ「なぜ「証言」しないのか」参照)も、おそらくその一因でしょう。

 民間人はどのような状況で殺されたのか。それを探る一環として、本コンテンツでは、「民間人殺害」に関する日本側資料を集めてみました。 これらの資料をみると、戦争において「民間人」がいかに簡単に殺されてしまうものなのか、あらためて認識させられます。

「南京事件・敗残兵狩り」 「陽高事件」といった集団殺害事件については別コンテンツで取り上げていますので省略しました。 また、いわゆる「郷土部隊戦史」ものに登場する事例は別コンテンツにてまとめてありますので、こちらも省略しました。

**本コンテンツは、私の現在の手持ち資料のみで構成したもので、組織的・系統的な調査を行ったものではありません。例えば日中戦争後期の「燼滅作戦」関連資料は、こちらには掲載していません。



<目 次>

1 「第十軍法務部陣中日記」
  小川関治郎 「ある軍法務官の日記」


2 浦岡偉太郎 「身辺記」  

3 塩野雅一 「還って来た軍事郵便」

4 石井清太郎 「いのちの戦記」

5 恵暉雅 「大陸終戦秘話 ああなつかしの広部隊」

6 鈴木二郎 「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」



 「第十軍法務部 陣中日記」、
小川関治郎『ある軍法務官の日記』


 まずは、日本側の軍事法廷で裁かれた、明らかな「犯罪」の事例です。

 上海−南京戦を戦った第十軍(柳川兵団)には、兵士の軍紀違反行為を取り締まるべく、数名の法務官が「法務部」として従軍していました。

 当時法務部が取り扱った事件の記録は、みすず書房『続・現代史資料(6) 軍事警察』所収の「第十軍法務部陣中日誌」、及び小川関治郎『ある軍法務官の日記』に見ることができます。

 ただし第十軍に憲兵として従軍していた上砂勝七「この取締りには容易ならない苦心をしたが、何分数個師団二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは、如何とも方法が無い」「僅かに現行犯で目に余る者を取押える程度」 (「憲兵三十一年」)と述べている通り、これは氷山の一角であった、とみられます。

 しかしそれでも、ここに登場する数件の事件は、「民間人殺害」の状況を把握する上での貴重な資料になっています。

 上海−南京戦に従軍した軍法務官、小川関治郎の日記からです。

 
「小川関治郎陣中日記」より

12月26日

○松岡憲兵大尉午後六時頃来部打合せ、某少佐事件に対し同大尉は曰く 上官を脅迫し強姦し掠奪物を内地に送り暴行数度に及ぶが如き幹部の者を不問に付するが如きは不公平なり 若し隊長に於て適当の処置を為さざる場合には自分は今後兵の事件を検挙せざるべしと

○地××××、殺人、強姦、脅迫事件を受理し勾留訊問を為す 又 吉×××(少尉)岡××(少尉)殺人事件に付き勾留訊問を為す

 愈明二十七日正午に杭州に向け出発の命あり 吉×××事件は十二月十七日金山に於て支那人間に稍々不穏の挙動ある如きことを聞き直ちに部下数十名を引率し支那人部落に至り射殺斬殺を為したる事実にして  その間上官に十分連絡せざるのみならず一つの好奇心より支那人を殺害せんとの念に基くものと認めらる

 同隊は前線の戦闘には加はらず従つて支那人を殺さんとの一種独特の観念に駆られたるとも認むべく戦場にては斯かる念を生ずるもの少なからず又支那人に対する人格尊重薄きによるものの如し

(「ある軍法務官の日記」P129-P130)


数十名の兵士が部落に乱入し、中国人26人を集団殺害してしまった、という事件です。「第十軍法務部陣中日誌」の該当部分も紹介します。


 

「第十軍法務部陣中日誌」より

被告事件の受理

左記被告事件軍兵站憲兵隊より捜査報告を受け法務局へ事件受理報告を為す

被告人 第十軍後備歩兵第四大隊第四中隊

(略)

犯罪事実の概要

(一)岡□主計少尉は野戦衣糧廠金山支部に勤務中の処、自己の宿舎附近に多数の支那人雑居し或は不穏の言動を為し或は官品を窃取する等の様子ありたるより、不安に駆られ同所警備隊長吉□少尉に対し其の事情を訴ふる処あり

(二)依て吉□少尉は昭和十二年十二月十五日、部下の兵二十六名を指揮して右支那人二十六名を捕へ之を同所憲兵隊に連行せんとしたる途次、逃走を企ふる者ありたるにより右支那人を鏖殺せんとの意を生じ

(イ)内□伍長をして右支那人二名を、小□上等兵をして三名を夫々斬殺せしめ
(ロ)高□伍長、金□、菅□、金□、石□、志□、各上等兵、鈴□、菊□、茂□、岡□、斉□、大□、鵜□、仁□、山□各一等兵、七□□□□、長□□□、大□各二等兵(合計二十名)をして右支那人二十一名を射殺せしめ
(三)渡□伍長、前□、石□、椎□各一等兵、上□通訳は現場に在りて右支那人の捕縛又は見張を為し、以て右殺人を幇助したるものなり(P67-P68)

(みすず書房「続 現代史資料6 軍事警察」P67-P68)

*「ゆう」注 この資料では、プライバシー保護のため、姓の一部を□に変えています。
 


 日本側の準公式資料ともいえる「陣中日誌」に、このような「集団殺害」事例が掲載されるのは、大変珍しいことであると思われます。

 さらにこの資料には、強姦・略奪目的、あるいは「泥酔」しての殺害など、明らかな「犯罪としての民間人殺害」事例も、何点か収められています。

 
「小川関治郎陣中日記」より

11月25日

 天気快晴晴朗 但し霧厚く寒気頓に加はる

 昨夜三時半松岡憲兵大尉深夜にも拘らず重大事件なりとて連絡に来る。

 同事件は第六師団の兵五名の内一名伍長が三里程田舎の農村に至り十幾才より二十六才迄位の婦女を拉致し或る他の相当大なる空家に連れ込み強姦を恣にして且つ拉致するに当り五十五才位の女が逃げんとしたるを射殺し 尚女一名に対し大腿部に銃創を負はしめその行為の不逞極まり不軍紀も茲に至りて言語に絶す(P62-P63)



11月26日

 結局犯人は三人を殺害し三人に重傷を与へ六人の女を略取し或る離れた空家に連れ込み一室に兵一人一人宛入りその上女に酌をさせて散々勝手気侭の事を為し悪さをなしたるものにしてその最中に憲兵に取押さへられたるものにして 万一発見せられざれば女六人は殺害せらるるところなるべし

 然るに村民はその女が無事に帰りたる為その喜び限りなく併し帰りたる女の或一人の如き 自分は兎に角生命は助り帰りたるに自分の父が撃たれて死したるを知るやその悲嘆到底見るを得ざる如く泣き崩れ実に同情に堪へざりしとの談を聞き親子の人情又何処も変ることなしと思ひたり(P67)

(「ある軍法務官の日記」)


 
「第十軍法務部陣中日誌」より

12月2日

四、左記の者に対する各頭書被告事件軍兵站憲兵より送致を受け直に捜査報告を為し長官より予審請求命令ありたり

被告人 第六師団歩兵第十三聯隊第三大隊小行李
殺人、同未遂、強姦 予備役陸軍輜重兵特務兵 島□□□

被告人 同聯隊第十二中隊
強姦           予備役陸軍歩兵上等兵 田□□□

被告人 同聯隊第九中隊
強姦           予備役陸軍歩兵一等兵 鶴□□□□

被告人 同聯隊第十二中隊
強姦           予備役陸軍歩兵伍長 内□□□□(P45)

犯罪事実の概要

 被告人島□及び田□は昭和十二年十一月二十四日共謀の上強姦の目的を以て金山附近に於て支那婦人五名を拉致し来り 被告人鶴□及内□は其の情を知り乍ら各一名右婦人を受取り同日夜島□、田□、鶴□及内□は各自一名宛右婦人を強姦し、 尚
島□は右婦人拉致の際所携の銃を以て支那人三名を死傷せしめたり


五、左記被告事件軍兵站憲兵隊より捜査報告を受く

被告人 後備三方山砲兵一等兵
殺人            辻 □□

犯罪事実の概要

 被告人は嘉興に宿営中昭和十二年十一月二十九日午後五時頃
支那酒に泥酔し支那人に対する強き敵愾心に駆られ之を憎悪するの全所携の銃剣を以て通行中の支那人三名を殺害したるものなり

(『軍事警察』P45-P46)


「第十軍法務部陣中日誌」より

陣中行事報 第六号 柳川部隊法務部

<十二月二十一日 晴 湖州 被告事件の受理>

被告人 第十八師団歩兵第百二十四聯隊第四中隊
殺人掠奪 後備役陸軍歩兵上等兵 浅□□□

犯罪事実の概要

被告人は浙江省湖州に宿営中

第一、昭和十二年十一月二十九日、同僚と共に野菜徴発を思ひ立ち附近の桑畑中に栽培しありたる野菜約五貫目を抜取り(P60)

第二、被告人は前記野菜を洗滌すべく附近の農家に到り居合せたる支那婦人三名に之を洗滌せしめんとしたるに、其の中の一支那婦人は早口に何事かを放言し野菜の洗滌に応ずる風なかりしを以て、 日本軍人を軽侮するものなりとし所携の歩兵銃を以て同女を射殺したり

(『軍事警察』P60-P61)

 


 
「第十軍法務部陣中日誌」より

被告人 第十八師団歩兵第百十四聯隊機関銃隊
強盗、殺人、傷害 後備役陸軍歩兵一等兵 田□□□

犯罪事実の概要

 被告人は所属隊と共に支那浙江省杭州に宿営中昭和十三年二月十八日、杭州市外日本租界附近部落に於て自己に対し咆哮せる犬を狙撃し、因て附近に居合わせたる支那人某の足部に命中受傷せしめ、 次で順次二軒の支那人商店に立入りて金員を強奪したる上支那人二名を射殺し、更に宿営地たる杭州に帰隊の途次支那人数名に出会するや之を脅迫して各所持する金品を強奪したる上之に対し発砲し、夫々受傷せしめたるものなり

(『軍事警察』P106)


 石川達三は、上海−南京戦の第十六師団に取材した小説「生きている兵隊」の中で、いくつもの「残虐事件」事例を取り上げました。 上の事例は、その石川達三の認識に通じるものがあります。





 
 浦岡偉太郎 『身辺記』


 戦前の出版物には、当然のことながら、「民間人殺害」などという「皇軍にふさわしくない」行動の記録を見ることはほとんどありません。

 この浦岡偉太郎『身辺記』は、数少ない例外でしょう。 浦岡偉太郎氏は、昭和13年に応召を受けま したが戦地にて負傷して帰国、昭和14年、善通寺陸軍病院にて「土産話」として この『身辺記』を記しました。

 なお氏は戦後、スポーツ評論家として身を立てたようで、ネットで検索すると、「球界八十年の歩み」「大相撲五十年史」といった著作がヒットします。

浦岡偉太郎『身辺記』より

 少時して此の部落の掃蕩をやつたが、チエツコの逃げ場が判らないので不気味であつた。馬鹿みたいな爺さんが一人居て何か判らん事を言ふ。大隊本部の権と言ふ通訳が怒つて突き殺して了つた。(P33)
 


 「爺さん」が何を言ったのかわかりませんが、あるいは、あまり部落を荒すな、と日本軍に抗議したのかもしれません。日本軍は、別に武器をとって抵抗したわけでもない民間人を、いきなり「突き殺して」しまったわけです。

 なおこの「身辺記」には、こんなエピソードも登場します。

浦岡偉太郎『身辺記』より

  (昭和十三年)四月二十七日。 (略) 物凄く暑い日で汗を拭ふに遑なく、三四の部落を通過して午後一時過ぎ目指す大橋村に着いたが共匪共は部隊の来襲を知つて既に随徳寺をきめて了つた後であつた。 昨夜荒し廻つたのであらう此の部落も、至極和やかな初夏の風にのんびり静まり返つてゐる。

 只一人の獲物もなく、聊か拍子抜けの態で村長等の話をきき、茶水の接待を受け、乾パンを食ひ乍ら少時休憩。

 終つてから自棄半分の実砲射撃を行ふ。この辺恐らく共産分子でない者は無いと言つて差支へない位ださうである。何処を撃つて、誰に中つても構はないのである。 大隊砲、重機、軽機、擲弾筒をぶつ放す。胸のすく思ひがして帰途につく。(P3)



 部落の中で、盲滅法に大隊砲、機関銃などの「実砲射撃」を行う。
危なくて仕方がない光景ですが、このあたりは「共産分子」だらけですので、「何処を撃つて、誰に中つても構はない」のだそうです。住民にしてみれば、生死に関わる、大変な迷惑でしょう。

  

 
塩野雅一 『還って来た軍事郵便』


 塩野氏は、第十六師団野砲兵第二十二連隊所属。昭和十二年八月に召集を受け、上海−南京戦などに従軍。従軍中の功績により、勲七等金鵄勲章を受けています。戦後は材木商の会社を立ち上げ、地元有力協同組合の理事長を務めるなど、地元の名士であったようです。

 あとがきには「素人の私がたどたどしく綴った拙文ではあるけれど、徹頭徹尾まぎれもない真実の羅列であり、一言一句のフィクションも含まれていない」と書かれています。

塩野雅一『還って来た軍事郵便』より

 部隊は常熟、無錫、常州、丹陽と、逃げ足の速い敵を追って進撃するのであるが、途中無錫の街で見るべからざる情景を、この眼で見てしまった。 何処の部隊か定かではないが、一兵士が一才にも満たない赤子を両手で高くさし揚げて、どうするのかと思ったらかたわらのクリークヘ、こともあろうに投げこんでワイワイ騒いでいるのである。

 如何に戦争とはいえ、いかに戦死した戦友の復讐とはいえ、これが果して人間のすることだろうか。私は怒りにうちふるえてとても正視し得なかった。

 敵兵ならまだしも、戦争に何のかかわりもない無心の幼児ではないか。日本軍の兵士のなかには、こんな非道な、鬼のような奴がいたのである。部隊は街を出はずれた処で夜営をしたが、あの惨虐極まる情景が頭にこびりついて寝付かれなかった。 いま、よく新聞なんかに掲載されている中国旅行ツアーの募集広告を見て、そこに「無錫」という活字が目につくと、すぐこのことを思い出してしまうのである。

 無錫から常州へ、そして丹陽へと日本軍は怒涛の如き快進撃をつづけたのであるが、その快進撃の裏には、まだまだ残虐非道の蛮行がその跡を断たなかった。

 常熱から無錫、常州、丹陽と進撃して行くその街々には敗残兵の遺棄死体に混って、現住民男女の死体が散乱していた。その死体のなかの女性たちは下半身を裸にされて、こともあろうか、その局部に棒ぎれや竹筒が突込んであるのを私は馬上から、この眼で数回も見た。

 全く目を覆いたくなるような、非人道的な惨状である。いくら戦争だからといっても、いくら戦死した戦友の弔い合戦だからといっても、これは許されない。言語同断の蛮行であり、鬼畜にも劣る残虐行為である。(P53-P54)

 


 これは、石川達三が取材したのと同じ、「第十六師団」の事例です。直接の「目撃」であるだけに、信憑性の高い事例である、と言えるでしょう。





 石井清太郎『いのちの戦記』


 石井氏は、第十三師団第二十六旅団所属。昭和十二年九月応召、上海、南京、除州戦などに従軍した後、肺を病んで除隊となりました。この手記は、平成三年に書かれた回想です。

 ここには、南京追撃戦における「民間人殺害」の事例が記録されています。事件の直接の目撃ではなく「死体目撃」ですが、著者は、「皇軍と自らよんでいる仲間のしたこと」と認識しています。

*「第十三師団」は、「幕府山事件」で有名な「山田第百三旅団」と、石井氏の所属するこの「第二十六旅団」、及び騎兵連隊・山砲兵連隊等で構成されます。


 
石井清太郎『いのちの戦記』より

 上海の敵が敗走を始めて、降る雨の中に追う者も追われる者もあごを出した数日である。

 嘉定は十三日に落ちた。翌日霧深い朝、新しい服を着た部隊があらわれて駈けぬけるように前線へ出て行った。交替部隊がきてくれて我々は炊事する時間が与えられた。陣地にある間は、敵と僅かの距離に対峠して居て炊事どころでない。 後方から命がけで運んでくれる握飯が頼りであった。敵が後方撹乱に出ると運んでもらえないので何も食べないで戦った。

 前線に出た部隊は後衛に阻まれてか戦いが始っていた。その戦音の中に飯を炊いている。豚を一頭射止めたので、肉にありつけると髭面が明るい。飼主不在の豚は野生化していて、すばやくて射止める事は容易でない。

 豚汁を鱈腹つめこんで、焼肉をもって歩き始めた時はいくさは止んでいた。そこ此処に死体のころがっているのは、常の事で、驚ろくことはないのだが、そこで自分の正体が如何なるものであるかを知る恐ろしい事に出会った。

 それは集団難民が無惨な末路をとげているのを見てしまった事である。老人婦女子ばかりで射ち合いの中に迷いこみ、挟撃されたものなら、戦場の事とて諦めることも出来たが、残忍極まる殺戮なのに愕然としたのは私だけではない。 貧しくて遠く避難することもならず残っていたであろう無辜の民衆である。何ということを…。

 僅かばかりの食糧と貧しい寝具の類が散乱している中の死体は、見るにたえないありさまであった。皇軍と自らよんでいる仲間のしたことである。私はただ茫然として立っていた。(P26-P27)



 
石井清太郎『いのちの戦記』より

 兵にあるまじき感情を抱いて歩いていて、足もとに注意が足りなかったためか何かにつまずいた。死体だ。その死体は兵ではない。青衣を着た男の人で素足であった。脇腹を刺されている。これはあきらかに仲間の仕業だ。 それにしてもなぜ、昨日は、難民の集団を老若を問わず婦女子までも刺殺してあった。

 私達は上陸してから上海の北部戦線に、一ケ月半交戦を繰り返しながら釘づけにされていた。敗走する敵を追うている今は、稀には住民にも会うが、仲間は誰も彼らに危害など加えていない。

 追撃戦になり、食糧を貰えない我らは住民の家を荒して食糧を捜す。嫌なことを、空巣ねらいのようである。貧しい彼らの家には僅かばかりの米位しかなかった。その乏しい米も彼らには生きる大切な食糧なのである。 家に人が居る事があり、極度に怯えている姿を見るときは切なかった。

  私が旅団警備の任にあった時、閣下が、住民にはなるべく非情は避けたいと言われた。その事を戦友に伝えて、残虐な事はやらぬと誓い合っていたわれらである。旅団長は、沼田徳重陸軍少将であった。

 歩いている処はどこなのか兵にはわからない。何時死ぬかわからぬ兵にはどこでもかまわぬという気持がある。昨日前に出た部隊が遭遇した敵とのいくさは止んで、静かな朝であった。平坦な水田地帯をぬけて、起伏のある、丈高い枯草の中に曲りくねった道であった。また死体が、三人目だ。

 そこから暫らく歩いて、とんとんと下って登りになる道のまんなかに、こんどは婦女の死体を曝してあった。私は目を閉じて通りすぎた。泣くに泣けない思いである。 皇軍だなどと言うてこのざまが、糞喰えと思った。そして、このような残虐なことを止めようともせぬ指揮者のどてっばらに風穴をあけてやりたい思いであった。(P30-P31)

  


 第十三師団については、石井氏の所属部隊ではありませんが、十一月二十四日、 荻州師団長が麾下の第百四連隊長を「この兵の有様は何事だ、火つけ、どろぼう、人殺し、勝手しほうだい、 この荻洲は仙台以来、お前を見そこなったぞ。お前は南京に行かれんぞ」と叱りつけた、という記録が残っています。(「歩一〇四物語」


 さらに石井氏は、「若い女」を捕えて撃ち殺し、クリークに突き落した、という「目撃」事例を記録しています。

 
石井清太郎『いのちの戦記』より


 鎮江という旧い港街を占領した我らはここで南京攻略の戦列からはみ出された。鎮江は北辺に揚子江があり、南西の方向に低い山脈が続いていてその下に京滬線がある。駅に近い西北の小山に随道があってそこは爆撃されて埋没していた。

 汽車が通れないので駅に列車がとまっていて中に動けない傷病兵と多数の看護婦がいた。嫌な処を占領したとその時思ったが間もなく移動したので列車にとり残されていた彼らがどうなったかはわからない。

 良く晴れて風もなく十二月に這入ったとは思えぬ暖い日であった。黄色に枯れた草の平場に我らは屯ろしていた。私はマラリヤを病んだままここまで戦いつづけて来た。戦況は激しく昼夜の区別もないありさまで、マラリヤ位で戦場を抜けられる状況でなかった。

 マラリヤなどという病気は始めのうちは隔日に寒けがして発熱する程度であったが、戦争の激しさと、追撃戦になってから糧秣を貰えなくてろくな物を食べていないので体力的にもすっかり参ったらしく、師走に這入ってから毎日発熱するばかりか、 一日に二回も三回もくり返す有様でげっそり窶れ果てていた。(P47)

 その日も朝から例の高熱である。衛生兵が心配してくれてそばを離れずにいる。そこへまた一隊の兵が来て草場に腰を下した。私達のすぐ近くである。眼を開けて見るともなくおぼろな眼をむけると、兵が一人鉄甲を脱いで汗を拭いているのが見えた。 鉄甲を脱ぐなど不用意なと思いながら良く見ると髭をたくわえている。(P47-P48)

 「あいつだ」彼のは他の兵と異なり無精髭でないから一目でわかる。高熱に喘いでいる私が咄嵯に思いだしたことは、私がマラリヤに罹る前のことである。

 江蔭にむけて敗走する敵を追うている野戦で、左上膞部に擦過傷を負うて治療のため移動する小さな病院に行った。その時そこの隊長から帰隊する二人の兵を託された。隊の兵ではないが同じ部隊の兵で二人とも一等兵である。 負傷が癒えて帰る兵と私よりは年齢が上らしい一人は、上陸してすぐ神経痛で入院したという戦争をしたことのない兵であった。

 その兵、物探しの名人で、休憩の度にそこらの民家をごそごそやっては物を持ち出してくる。変な癖の人だと思いはしたが気にもしなかったが、その内に上海銀行の紙弊を雑のうがふくらむ程もって来た。それを見て苦苦しくなった私は、「地獄もお金持は優遇するそうだから大切にするとよい」と言うてしまった。その言葉が気になったらしくどこで捨てたか雑のうが平たくなっていた。

 クリークに沿うて倉庫のような建物のある部落であった。病院から貰ってきた昼食をたべおわり休んでいるとまたどこかへ行った。間もなく若い女を連れてきたのである。(P48)

 私はあきれ果てたが託された兵であれば無関心ではいられなく、その非を説いて放してやるように説得せざるを得なかった。私に強く言われた時の彼の態度は素直そうに見えたし肯づきもした。(P48-P49)

 その場で放させれば良いものを、連れてゆく後姿を不安もなく見送っていた事が私の大きな失敗であった。いくばくもなく銃声が起った。銃の安全装置を外して二人は立ち上った。 まさかと思ったが、行ってみると女を射ってクリークに突き落していたのである。

 何ということを、無辜の然も震えていた女を射つという冷酷残忍で獰猛な人間であることに私の怒りは燃えた。勿論反抗覚悟で噛みつくばかり詰りよった。その私には例の如く抵抗しなかった。ずる賢い人間とはこんな奴の事だとその時思った。 そして心の中でせせら嗤いしているであろうと。

 射ってしまったいま、どうにもならない。腹が立って我慢ならなくなった私は同行などとても出来る事でなくなってしまった。「一人で帰れ」 と吐き棄てるようにいい残して連れの兵と共にそこを出た。道路に上ってみるとクリークが赤く女の血汐に染っていた。

 私は、その憎みきれない程憎く赦せない行いをした兵が目の前に現われたのを見て、帰っていたかと安堵のような思いがしているのに気がついた。この思いはいったい何であろうか。 同じ宿命を負うた者の情などと単純に言い切れるものでなく、私などには考えても解らない複雑な感情であった。

 目を瞑じていると怯えて震えて居た哀れな女の顔が瞼に浮んだ。相手を疑うことを好まない自分が殺したように思われ悔まれてならなかった。(P49-P50)

 





 恵暉雅『大陸終戦秘話 ああなつかしの広部隊』


日中戦争末期に第五十八師団に応召した恵暉雅氏は、古参兵からの伝聞ながら、次のような話を書き記しています。

恵暉雅『大陸終戦秘話 ああなつかしの広部隊』より

  死体といえば、それをわたしたちは至るところで見た。特に道路にころがっていたのはすでにカラカラに干上がって、これがミイラというものかと思ったものである。

 その死体はもちろん敵側のもので、それも兵隊ではなく良民の死体のようだった。

 なぜ、良民の死体がころがっているのか、まさか非戦闘員をわざと殺したわけではあるまい。流れだまに当たったのか、あるいは便衣隊だったのかも知れないと思ったが、ある歴戦の古兵殿がいつか得意気に話していたことを思い出して、ゾッとしたのをおぼえている。

 その古兵殿は、つぎのように話したのである。

「クリークのそばを歩いていたら、その前をヨチヨチとバアさんが歩いてるんだ。じやまだからどけどけと、手で合図しても知らん顔で歩いている。細い一本道だから、どうにも邪魔になってしようがない。 隊列の後方からは早く歩け、なにをまごまごしているんだと怒声が飛んでくる。そこで、そのバアさんの腰をドンと蹴った。バアさんは、つんのめって、そのままクリークにドボンさ」(P87)

*著者略歴・・・1920年奄美大島生まれ。昭和一九年中央大学経済学部在学中に応召、中国にて終戦、二一年六月復員。日本教育新聞、サンケイ新聞記者を経て著述業。



 「伝聞」ではありますが、これまで見てきた諸例と比べて特に違和感のあるエピソードではなく、十分にありうる話であると考えられます。




鈴木二郎 『私はあの"南京の悲劇"を目撃した』


「南京事件」の民間人殺害に関する資料は、「南京事件 初歩の初歩」に掲載しましたので、ここでは省略します。 ひとつだけ、直接の「民間人殺害」ではありませんが、当時の雰囲気を窺わせる資料を掲載します。

 
鈴木二郎『私はあの"南京の悲劇"を目撃した』

「丸」 1971年11月号

 当時毎日新聞社会部・陸軍報道班員


この目でみた"殺人鬼”の顔

 まもなく三十四年目の"南京陥落"、そして東京陥落への一里塚ともなったなんともやりきれない思い出の、消え去らぬ『南京虐殺』の一大汚点の日がやってくる。

 わたしは、十一月九日(十二年)竜華の戦の報道を初陣として、江南の冬の広野の戦火を越えて、およそ一ヵ月目に南京城にはいり、十二月十七日の入城式を見ずに、同城を出発して上海へ帰着した。 そして、べつの作戦従軍のため、軍用船に乗ることになるが、城内四日間の駆けめぐり取材に、はからずもこの目で"戦勝軍団"の暴虐の行為を目撃することとなった。

 しかも、城内いりしたうす曇りの十二日の昼さがり、あやうく残敵掃討の四人の日本兵に突き殺されそうになった。

 そのとき、わたしは先輩記者の福島武四郎(寿克、現下野新聞社長)と二人だった。

 "死"からまぬがれたとき二人は”オレたちを殺す人間の顔をみた。戦場とはいえ、こんな経験者はほかにあるまい”と語り合ったものである。

 二人が社旗を持って、中山門内の中山路を歩き、後続の自社記者団の仮りの本部(宿舎)をさがそうと歩くうち、右手にりっぱな建物があり、『功志社』とあった。

 この建物が国府にとって、政治、外交のビルであり、迎賓館であったことはあとで知ったが、とうじ、この建物の周囲には、まだ、抵抗する敗残兵が乱発する迫撃砲弾が落下し、数百メートルさきには、日本軍飛行機の爆弾が炸裂しており 、われわれにはきわめて危険な状況であった。そんな状況から二人はあわててその建物に飛び込んだ。

 一階の広間とみられるそこは、ガランとして椅子、テーブルなどが散乱し、片すみに、丸い大きなテーブル、体もうまるりっぱなソファーがあり、よごれてはいたがそのたたずまいは、かつての豪華さをしのぶに十分だった。

 汗とアカ、ドロまみれの従軍服をまとい、クタビれたヒゲ面の二人は、内庭に落ちる砲弾におびえながらも、ホッとして、

 『とにかくひとやすみしよう。そしてここをわれわれの前線本部にしよう』

と、これも醤油でしぼったように赤ちゃけた手ぬぐいで頬かぶりをして"将軍気取り"で二つのデッカイソファーにグッタリと身を沈め、ウトウトしていた。よそ目には、避難のうらぶれた農民とみられてもしかたのない風態だった。

 突然、入口の大きな扉が、ドドッと開いたと思うと、血相をかえた四人の日本兵が、のめるように飛びこんできた。一人が指揮官らしく抜刀し、三人は銃剣を小脇にしていた。

 二人は、物音にハッとして頬かぶりのまま、瞬間立ち上がったが、日本兵と知って、ニヤリとし、気持によゆうもできて、なにかことばをかけようとした。

 そのときとつぜん抜刀の兵が、われわれを鋭くにらみ、大声を発した。

 ”突けッ! 突けッ!”

 たがいの距離は十メートルほどであったため、二人は飛び上がった。

 三人の兵は目を血走らせ、どうじに銃剣をしごいた。その銃剣が、二度、三度としごかれるとみるまに、ゴボー剣が二度、三度とわれらの胸先きで鋭く光った。

 二人はさらに飛び上がり、本能的に頬かぶりをパッととり、あとずさりしながら両手をあげて絶叫した。

 『日本人だッ! 日本人だッ!』

 相手もビックリして、銃剣のしごきをやめて、ジッとすごい目でにらんでいたが・・・。

 ガランとした部屋のなかを、上ずった声で、

 『ほかに誰もおらんのか?』

といって去ったが、残敵掃討、家宅捜索の日本兵も必死の形相で、われらを突かんとするときの顔は、"殺人鬼の顔"というものだったろう。(P97)

 土気色のヒゲ面は引きつり、奥の目は異様に光り、飛びかかるシェパードのすさまじい殺意があった。ぎゃくに彼らは死の恐怖におののく死相を、われらから感じたかどうか。われらは軍服ではない。その見さかいもなく、刺殺しようとした兵たちだった。(P97-P98)

 その夜、南京城内外各所に、"戦勝"のカガリ火が暗黒の空をこがし、そのカガリ日のたけり狂うように、すでに『虐殺』の火の手があがっていたようだ。(P98)

*「ゆう」注 鈴木氏は南京陥落の日を「十二日」と誤認していますが、そのまま掲載しました。 鈴木氏のこの論稿については、氏の「中山門から突き落される捕虜」の目撃談に対して疑問をはさむ向きも見られますが、このエピソードは、のちの下野新聞社長の福島氏と共に体験した事件であり、信頼できるものと思われます。
 


 もし二人が日本語で叫ばなければ、間違いなくそのまま殺されていたでしょう。怪しければとりあえず殺してしまえ。当時の日本軍にそんなムードが蔓延していたことがわかります。

(2008.9.6)


HOME 次へ