「和平工作」を阻んだもの

近衛声明、そして国内世論



 「日中戦争」は、1937年に始まりました。

 日本軍は華々しく中国大陸へ攻め込みますが、永久に戦争を続けるわけにもいきません。日本側は、さまざまなルートを使って、水面下で「和平」への道を探ります。

 1938年春から夏の段階では、「高宗武ルート」と「宇垣−孔祥煕ルート」が、最も有力なものでした。 しかしいずれの工作も、近衛首相の「国民政府対手にせず」声明、そして「主戦論」に大きく傾いていた国内世論を背景に、大変な苦労を強いられることになります。

 以下、見ていきましょう。




 
 「国民政府、対手とせず」


「和平運動」の大きな障害となったのが、近衛首相の、こんな声明でした。

第一次近衛声明

帝国政府声明

 帝国政府は南京攻略後なほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふるため今日におよべり、然るに国民政府は帝国の真意を解せず慢りに抗戦を策し内民人塗炭の苦みを察せず外東亜全局の和平を顧るところなし、 仍て帝国政府は自後国民政府を相手とせず帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立を期待し是と両国国交を調整し更生新支那の建設に協力せんとす

 元より支那の領土および主権ならびに在支列国の権益を尊重するの方針には毫もかはるところなし、いまや東亜和平に対する帝国の責任いよいよ重し、 政府は国民がこの重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望して止まず

(『大阪毎日新聞』昭和13年1月17日朝刊 1面トップ)

*原文はカタカナ。なお、通常は「対手とせず」と表記されますが、ここでは新聞記事に従って「相手とせず」と表記しています。


 「国民政府対手とせず」声明として、あまりに有名なものです。

 南京占領の報に調子に乗った日本政府は、蒋介石の国民政府なんかもう交渉相手にしない、相手にしてほしかったら日本が相手にする価値がある新政権を作れ、 と、何とも傲慢な「開き直り」をしてしまったわけです。


 どうしてこんな声明を出してしまったのか。この声明は、国内の「和平派」から「愚劣極まる」「自殺的」などの最大限の表現での批判を受ける結果になりました。


松本重治『近衛時代』(上)より

 昭和十三年一月十六日付の「爾後国民政府を対手とせず」という日本政府声明は、いかなる事情があるにせよ、愚劣極まる、どう考えても筋が通らない話だった。
(P10)


西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より

 この結果として、日華和平を念願とする近衛首相が、一月十六日の自殺的声明を出してしまったことは、軍の決定によって如何ともしがたかったからだとしても、 言語に絶する失態である。(P172)



犬養健『揚子江は今も流れている』より

○昭和十三年(一九三八年)一月十三日

 政府は途方もない声明を出した。

 「今後国民政府を相手にせず」という声明である。
軍事上「相手」にしている外国政府を指して相手にせずとは、いかなる事をするのか?

 この会議の席上、多田参謀次長は最後まで反対し、会議は翌日につづいても埒があかず、とうとう内閣がつぶれるという瀬戸際になって、しぶしぶ賛成した由。

○「相手にせず」とは法律語でもなく、徒らに「相手」に対する侮蔑感だけが強いではないかと、風見書記官長に対する批難は烈しい。(P43)



『田尻愛義回想録』より


 翌昭和十三年一月十六日に驚くべき政府声明が出た。例の国民政府・蒋介石を「対手とせず」という声明である。 宣戦布告こそないが、支那事変は国民政府を対手の戦争であるからいつかは必ず平和交渉の「対手」にしないわけにはいかない。

 ところが、翌々日になると、対手にせずとは国民政府を否認し、抹殺する意味であるとの説明が加わった。 そこで、占領地の傀儡政府を育成することによって事態を収拾することになり、国民政府との間には講和も平和も途を塞いだ声明であることがいよいよ明らかになった。大使も私どもも唖然とせざるを得なかった。

 この声明はアジア一課長の口述を中島嘉寿雄課員が速記し、相手ではなくて「対手」の文字を選んだことを後年になって知った。 中島君は私が大東亜省に移った昭和十七年以来、上海、マニラ、東京と私の秘書役をつとめてもらった練達の士である。

 戦争の対手を平和交渉、講和の相手とすることを当初から否認してかかる非常識な戦争が一体あるものであろうか。どこかが狂っている。 それでは外交活動が一切無用になるわけで、こんな無茶な声明はない。しかも外務省が起案したとは全く口が塞がらない驚きであった。(P61)




「声明」を発した当の近衛首相自身も、その4ヵ月後には「失敗」を認識せざるをえなくなった、と伝えられます。

『宇垣一成日記(2)』より


 五月二十六日に外務大臣になつた。

(中略)

 私は参議として内閣の様子を見て居ると、どうも内閣が不統一で、弱体である。これは総理を中心とした統一が充分とれた強いものにしなくてはいかぬと感じてゐたので、近衛公に入閣の条件として、

 1、内閣を強化統一すること
 2、外交を一元化すること
 3、支那に対して平和的な交渉を始めること
 4、一月十六日の近衛声明(蒋介石を相手にせずといふ声明)は必要が迫つて来たら取消すこと

 右の四条件を御承諾になればやりませうと言ふと、近衛さんは暫らく考へてゐたが「それは宜しい。四条件とも賛成だ。ぜひ入閣してくれ」といふことだつた。

 その時近衛公は「一月十六日の声明は、実は余計なことを言つたのですから― 併しうまく取消すやうに・・・」とも付け加へられた。

「それは私の胸に含んで居る。あなたの恥になるやうなことはやらない。なるべくあなたの御意向を通すやうにやるつもりだ。 併しこの声明問題が一つだけで、和平の話が纏まるといふ所に話合が進んで来たときには、あれを撤去させて貰はなければならぬかも知れない」と言ふと 公は再び「実はあれは余計なことを言つたのですから宜しく」と言はれた。

 そこで私は入閣した。

(P1240-P1241)


 かくして日本政府は、中国との和平交渉の道に、自ら大きな障害物を置くことになりました。

 蒋介石国民政府は相手にしない。それでは、誰を交渉の相手にすればいいのか。 のち、「和平交渉」を再開しようとした日本政府は、この声明の「顔を立てる」ために、大変な苦労を強いられることになります。




 「強硬論」を支持する世論


 当時において「強硬論」の中心となっていたのは、交戦当時者であった陸軍筋であった、と伝えられます。 ただここで注意しておきたいのは、このような傲慢な「強硬論」が、かなり広範な国民世論に支えられていた、という事実です。


 例えば、先の「対手にせず」声明への、街の反応です。当時の新聞記事を見ましょう。

『大阪毎日新聞』昭和13年1月17日

もう蒋介石には

降伏も許さぬゾ

対支大声明の本社号外で忽ち巷に力強き声

(リード 略)

 まづ郊外電車の待合では号外を掴んだ紳士が視線で活字を灼くように熱心に読み耽つたのち連れの中学生に渡せば

「ぢやお父さん蒋介石は日本に降参する資格もなくなるの?」と頭の好すぎた質問にお父さんの紳士に当惑顔をさせたり

 商店街では荷物を車に積み込みながら小店員が二人「憎い支那軍をトコトンまでやつつけるちゆうんやないか」 「いよいよ長い戦争になつたらワイらかて行けるで」と人しきり話の花を咲かせ、

 デパートの休憩室では断髪の令嬢三人が

 「南京が陥落してからもう一月、こんなに反省の時期を待つて上げてるのに、蒋も頭が悪いわね」 「国のことも、国民のことももう何も考へられない、一種の憐れむべき慢性抗日病に罹つてんのね」「"ああ支那よどこへ行く"だわ、廿世紀東洋最大の悲劇ね」と紅唇とりどりの批判に、一番年長なのが、

 「自棄的な蒋の焦土抗戦に対してはわが正義の長期膺懲が当然の帰結よ」

と結論づける、

 場面を道路工事の人夫さん達の中に転じて行くと、丁度お昼休みのさ中

「かう政府の肚が定つたら、北京の新政権も百万人力だ、うんと思ひつきりの活動が出来て東洋平和も目の前だ」

 と物識りらしいのが号外を読み上げれば、寒風を掘り上げた土の山に避けながらこの一団も口々に時期を得た声明を讃美して、

 巷の声は「よき声明、よき時期、よき将来の予想」と出た

(『大阪毎日新聞』昭和13年1月17日朝刊 5面トップ)


 我々は、「日中戦争」がやがて「太平洋戦争」に拡大し、最終的に日本が暗澹たる敗戦を迎えたことを知ってます。そんな今日の眼で読み返すと失笑を禁じえない内容ではあります。

 当時の新聞記事ですので、「好戦」「政府支持」の方向に内容が偏ってしまっている可能性はありますが、ともかくも、当時の気分の一端を反映したものと言えるかもしれません。




 そんな雰囲気にあって、「戦争をやめる」のは、そう簡単なことではありません。「やめる」にあたって、国民は、何らかの「成果」を求めます。

 これまで日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などを通じて、「順調に」領土を拡大してきました。 であれば、今回の戦争でも、領土ぐらいとらなければ「終わり」にはできない。これが当時においては、一般的な国民感情であったようです。

石射猪太郎『外交官の一生』より


 「中国に対してすこしも領土的野心を有せず」などといった政府の声明を、国民大衆は本気にしなかった。 彼らは中国を膺懲するからには華北か華中かの良い地域を頂戴するのは当然だと思った。

 地方へ出張したある外務省員は、その土地の有力者達から「この聖戦で占領した土地を手離すような講和をしたら、われわれは莚旗で外務省に押しかける」と詰め寄られた。

 ある自称中国通が私を来訪して、「山東か河北ぐらいをもらわにゃならぬ」と意気込んだ。 また、ある宗教家が来訪して、上海あたりを取ってしまえ、それが平和確保の道だと説いた。もっともそれはコーランを片手に剣を片手にする回教牧師だった。

 九月某日の夕方、用があって次官室に行くと、官界出身のある知名の勅選議員が来談中であった。次官が大臣室に呼ばれて席を外したあと、その人との間に事変の話が出た。

 その人はこうなったからには、長江筋の要処を割譲せしめ、その他の所を長期占領すべきだと凄い鼻意気だ。 こんな知識人でもそんな暴論を唱えるのかと、腹立ちまぎれに私はその誤りを鋭く指摘してやった。(P314-P315)


犬養健『揚子江は今も流れている』より


 影佐は老夫婦を目で追いながら、

「息子さんの武運長久を祈願に来たのでしょう。 ― しかし、今でこそ幸いに私にお辞儀をしてくれますが、このまま戦争が来年まで続いて御覧なさい。 今度は、あの人たちはこの腰ぬけ軍人めと言って、わしらに喰ってかかりに来るかも知れませんよ。

― ああいう人たちは純朴ですから、地方の政治家なぞが、戦死者の死を意義あらしめるためには、敵国から領土を取ろうではないか、賠償金を要求しようではないか、 という話になれは、これは涙を流して賛成しますよ。現にそろそろ、そういう演説が田舎ではじまっているという情報も入って来ています。

 こんな風ですから、われわれ参謀本部の主張しているような、『領土も要らない、賠償金も要らない、望むところは両国の親善のみ』というような構想に対しては、 これからはますます大きな抵抗があるものと考えなければなりませんな。勿論覚悟の前ですがね」

 私の初めて出会ったこの軍人は、意外にも、毎日複雑な環境のなかでよほど苦労をしている人らしい。彼の蒼白い頼がそれを物語っている。(P66)


影佐禎昭『曾走路我記』より


 自分は当時を回想して洵に感慨に堪へない気がすると云ふのは 当時国民一般の思想は日支事変に依て生ずるところの犠牲の代償は領土又は支配権の獲得にありと考へたものが少なくなく 御勅語の御精神の如きは一般には理解されて居らず強いことを言へば拍手を以て迎へられると云ふ状態であつた。(P360-P361)

 又政府内に於ても軍部に於てもかかる考へ方を持つてゐる者が少くなかつた。

(昭和十八年十二月記 みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収 P361)



もちろん中国側から見れば、「領土を譲る」ことなど、問題外の条件です。 中国にとっては、「満洲国」の既成事実化すら、我慢のならないことだったのですから。例えば犬養健は、中国側から伝わった、こんな軽妙な例え話を書き記しています。

犬養健『揚子江は今も流れている』より

(1938年11月15日、重光堂会談を終えた影佐の発言)

「・・・君は、二三年前に外交部次長の徐謨が有名な冗談を言って、日本側の交渉委員を苦笑させた話を覚えているだろう」

「そいつは聞いていないな」

「徐謨はこういうんだ。

日本は満洲という中国の細君と不義をして家出をさせてしまった。亭主としては、実に不愉快だが、心変りをした細君を追いかける気はない。 それに相手の男は喧嘩早くてちょっと厄介でもある。仕方なしに亭主はじっと我慢をして、この不義を見て見ない振りをしている。

ところがこの亭主の態度をいいことにして、こんどは日本は、満洲と近々晴れの結婚式を挙げるから、是非中国にも出席しろと言い出した。これは何とも中国として我慢が出来ない
」(P95-P96)




 このような国民世論を背景として、陸軍には「主戦派」が根強く存在していました。和平工作を進めていた宇垣外相が、その苦労を語っています。

宇垣一成述『身血を注いだ余が対中国親善工作の回顧』より

 一方、米、英両大使とも数次の会談によつて、段々と中国に於ける関係各国との関係も円滑に進捗して、 私の念願とする日華親善、東洋平和の曙光も漸く見え始め、前途に希望が期待されるに至つたわけである。

 ところがこの場合、問題は日本の国内にあつた。問題は国の外にあるのだが、それを解く鍵は国の内にあつたのだ。

 当時の陸軍部内の空気は和平反対の方が強く、主戦派の連中は、軍の面目にかかわる、口舌で纏められては困ると主張し、 事変解決派と見られていた板垣陸相さえ、対華和戦を決定すべき重大閣議に於て反対論を述べるという有様で、陸軍はこうして和平反対をするのみならず、一方右翼団体を使嗾して

『対米、英媚態外交を葬れ』
『宇垣クレギー会談絶対反対』
『英米の走狗宇垣を葬れ』

という外交運動までを起させたが、それは街頭の無頼の徒だけに留らず、その頃、近衛総理は私に向つて

『宇垣さん、あなたのところへ青年将校は行きませんか』

とよく訊いたものだ。

(大日本雄弁会講談社『キング』 1950年12月号 P68)



1937年のことですが、こんなエピソードもあります。

風見章『近衛内閣』より

 もっとも、中国通といわれたほどの人たちは、おおむね悲観説であったから、はやく手をひくことを考えて、大概のところで国民政府と手をうつがいいというのが、 異口同音の主張で、国民政府との講和促進論者であった。これは、いわゆる民間中国通の定論だったといっていい。

 しかし、そのころは、うかつに独自に講和促進論でも言いだすと、軍部などからにらまれて、あとのたたりがおそろしいという時勢でもあったので、 いずれも、わたしに心をゆるしての進言だけにとどまっていたようだ。

 上海にとぐろをまいていた老志士の小川愛次郎氏が、こんなことをやっていると、いまに日本がぬきさしならぬ窮地におちいるばかりか、東亜数億の民人を不幸のどんぞこに追いこむものだ、 見ていられるかというので、東京へとびだしてきて、国民政府と一日も早く和を講ずるがいいと、あちこち熱心に説きまわったことがある。

 すると、このことのために、不穏の言動をやるやつだとにらまれて、ついに憲兵隊にとらえられてしまった。 そこで、それはひどいというので、参議であった松岡洋右氏とわたしとが口をきいて、やっと同氏を釈放させたこともあった。こんなありさまだったのだ。(P99)



そして戦争が長引くにつれ、こんな国内の圧力を背景に、「和平運動」はますます困難の度を加えていくことになります。

影佐禎昭『曾走路我記』より

 それは国民政府の態度に鑑み相当の長期戦を覚悟せねばならぬ事態となつた。 戦争が永引けば犠牲が殖れば日本人の支那に対する欲求が殖えて来るのが人情の自然である。欲求が高まれば日支間の和平と云うものは愈々難しくなってくる。

(昭和十八年十二月記 みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収 P361)


 1938年当時、さまざまな「和平運動」が交錯していましたが、彼らにとって、「近衛声明」と「強硬世論」をどう乗り越えるかは、「和平」を図る上で重要な課題でした。

 当時の「日中和平交渉史」を見る上では、このような背景を押えておく必要があるでしょう。