「和平工作」を阻んだもの 近衛声明、そして国内世論 |
「日中戦争」は、1937年に始まりました。 日本軍は華々しく中国大陸へ攻め込みますが、永久に戦争を続けるわけにもいきません。日本側は、さまざまなルートを使って、水面下で「和平」への道を探ります。 1938年春から夏の段階では、「高宗武ルート」と「宇垣−孔祥煕ルート」が、最も有力なものでした。 しかしいずれの工作も、近衛首相の「国民政府対手にせず」声明、そして「主戦論」に大きく傾いていた国内世論を背景に、大変な苦労を強いられることになります。 以下、見ていきましょう。
「和平運動」の大きな障害となったのが、近衛首相の、こんな声明でした。
「国民政府対手とせず」声明として、あまりに有名なものです。 南京占領の報に調子に乗った日本政府は、蒋介石の国民政府なんかもう交渉相手にしない、相手にしてほしかったら日本が相手にする価値がある新政権を作れ、 と、何とも傲慢な「開き直り」をしてしまったわけです。 どうしてこんな声明を出してしまったのか。この声明は、国内の「和平派」から「愚劣極まる」「自殺的」などの最大限の表現での批判を受ける結果になりました。
「声明」を発した当の近衛首相自身も、その4ヵ月後には「失敗」を認識せざるをえなくなった、と伝えられます。
かくして日本政府は、中国との和平交渉の道に、自ら大きな障害物を置くことになりました。 蒋介石国民政府は相手にしない。それでは、誰を交渉の相手にすればいいのか。 のち、「和平交渉」を再開しようとした日本政府は、この声明の「顔を立てる」ために、大変な苦労を強いられることになります。
当時において「強硬論」の中心となっていたのは、交戦当時者であった陸軍筋であった、と伝えられます。 ただここで注意しておきたいのは、このような傲慢な「強硬論」が、かなり広範な国民世論に支えられていた、という事実です。 例えば、先の「対手にせず」声明への、街の反応です。当時の新聞記事を見ましょう。
我々は、「日中戦争」がやがて「太平洋戦争」に拡大し、最終的に日本が暗澹たる敗戦を迎えたことを知ってます。そんな今日の眼で読み返すと失笑を禁じえない内容ではあります。 当時の新聞記事ですので、「好戦」「政府支持」の方向に内容が偏ってしまっている可能性はありますが、ともかくも、当時の気分の一端を反映したものと言えるかもしれません。 そんな雰囲気にあって、「戦争をやめる」のは、そう簡単なことではありません。「やめる」にあたって、国民は、何らかの「成果」を求めます。 これまで日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などを通じて、「順調に」領土を拡大してきました。 であれば、今回の戦争でも、領土ぐらいとらなければ「終わり」にはできない。これが当時においては、一般的な国民感情であったようです。
もちろん中国側から見れば、「領土を譲る」ことなど、問題外の条件です。 中国にとっては、「満洲国」の既成事実化すら、我慢のならないことだったのですから。例えば犬養健は、中国側から伝わった、こんな軽妙な例え話を書き記しています。
このような国民世論を背景として、陸軍には「主戦派」が根強く存在していました。和平工作を進めていた宇垣外相が、その苦労を語っています。
1937年のことですが、こんなエピソードもあります。
そして戦争が長引くにつれ、こんな国内の圧力を背景に、「和平運動」はますます困難の度を加えていくことになります。
1938年当時、さまざまな「和平運動」が交錯していましたが、彼らにとって、「近衛声明」と「強硬世論」をどう乗り越えるかは、「和平」を図る上で重要な課題でした。 当時の「日中和平交渉史」を見る上では、このような背景を押えておく必要があるでしょう。 |