汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か?

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』(1)


 さてここで、「汪兆銘工作=コミンテルン陰謀説」を取り上げてみましょう。

 念のためですが、この「陰謀説」がアカデミズムの世界でまともに取り上げられることは、全くといっていいほどありません。この「怪説」は、事実上無視されている形です。

 にもかかわらず、ネットの世界には、これをあたかも「広く認められた常識」であるかのように書くサイトが存在し、それなりの影響力を持っている様子です。以下、この「陰謀論」を唱えるほとんど唯一の文献である三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』を、見ていくことにしましょう。



 この本では、萱野長知とともに日中和平運動に携わっていたという、松本藏次という人物の回想が語られます。

 要約すれば、1938年の夏、萱野の「和平工作」は成功直前までいった。しかし松本重治−高宗武ら「汪兆銘工作」グループが萱野の「和平工作」を妨害したため、結局は失敗に終わった、という内容です。

 そして松本蔵次は、松本重治がコミンテルンのスパイ・尾崎秀実と懇意であったことから、この背後にはコミンテルンの謀略があったに違いない、と決めつけます。


 しかし、熱心なピース・フィーラーであったはずの松本重治らが、実は「日中和平」を潰す意図を持っていた、とする見方は、明らかに事実に反します。

 また、松本重治ら「汪兆銘工作」グループが、近衛内閣のブレーンの会である「朝飯会」などを通じて尾崎秀実と懇意であったことは事実であるにしても、尾崎が「汪兆銘工作」に積極的に影響力を行使しようとした形跡は、ほとんど見ることができません。

 松本藏次の回想は、「萱野工作」を調べる上で一定の資料価値があるものです。しかし、萱野−松本(藏)−三田村という伝聞の過程でかなり話が歪んでいること、また、三田村の「コミンテルン陰謀説」に沿う形での根拠の薄い「想像」が混じっていることから、慎重な読み方をする必要があります。

 以下、この回想に沿って、見ていきましょう。



< 目 次 >


汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か? 
三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』(1) (本稿)



汪兆銘工作はコミンテルンの陰謀か? 三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』(2)

1 尾崎秀実は汪兆銘工作を主導したのか?

2 周囲は尾崎の正体を知っていたのか?

3 松本重治、西園寺、犬養は尾崎の協力者だったのか?

4 尾崎と西園寺の旅行の目的は松本重治との密談だったのか?



 松本重治は「和平工作潰し」を狙ったのか?

 松本重治、高宗武が、どのように萱野工作を「潰した」のか。松本蔵次は、こう語ります。

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』より

 日華全面和平工作を打ち壊した者

(略) 

 その結果板垣も、近衛もこの茅野(「ゆう」注 萱野長知。この本では「茅野」と表記)老の交渉と孔祥熙の提案を承認し、この線で日華双方共、和平実現に努力することとなった。

 そこで茅野老は、五月十七日か八日頃東京を出発、上海に行き、上海に到着と同時に賈存得に連絡した所、丁度その頃親日派要人の暗殺事件などあって、賈との会見に警戒を要したため、二三日空費したのである。

 その頃同盟通信の上海支局長をしてゐた松本重治氏が、丁度上海にゐた。

 松本氏は前から近衛とも親交があり、当時日華和平交渉はいくつかの線で試みられており、松本氏もその一人であることをかねて聞いていた茅野老は、賈存得との会見を待ってゐる間に、松本氏と会つて、香港方面の事情を聞き、又茅野老からは、賈存得との交渉経過をありのままに松本重治氏に話した。

 あとで茅野老は、この松本重治氏との会見を、「運命の日だった」と述懐していたそうであるが、歴史の方向は僅かなところで全く思ひもよらぬ方向に切り変へられるものである。

 松本重治氏の真意が何処にあったかは別として、この松本氏に茅野老が孔祥熙との交渉経過を打ち明けたことが、日本の運命に決定的な方向を与へたことは事実のやうである。(P153)
※「ゆう」注 この回想では、日付が概ね一ヵ月前にずれている。『小川平吉日記』によれば、萱野は六月九日上京、その後連日のように小川の下に来訪している。最後の来訪は六月十七日、その後中国に戻り、「工作」の進展を報告する電報が上海から小川に来るのが六月二十八日なので、松本重治との会談が事実ならばこの間であると思われる。なお松本重治には『上海時代』『近衛時代』などの回想録があるが、この会談のエピソードは登場しない。
(略)

 茅野老と松本藏次氏は、すぐ船の手配をして六月二十八日東京に着いた。着京と同時に茅野老は先づ板垣陸相に会って、右の居正夫人との交渉の結果を報告し、日本側の態度決定を要求した。
※「ゆう」注 実際には七月末頃のことと思われる。高宗武の訪日は七月五日〜二十一日頃なので、その以前であることはありえない。

 ところが板垣陸相の態度は前と全然変っており、板垣は「中国側に全然戦意なし、この儘で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」といふ。

 そこで茅野老は「それはとんでもない話である。国民政府には七段構への長期抗戦の用意が出来てゐる。中国側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出たのだ」とひらきなおったととろ、

 板垣は、「実は君の留守中に、松本重治が国民政府の高宗武をつれて来た。これは高宗武から直接聞いた意見で、中国側には全然戦意がなくなつた。無条件和平論が高まつており、この無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だといふ話をして行つた。軍の幕僚連もこの情報を信じてゐるから、君のとりきめた話は、折角だが、とりあげることは出来ない」といふのだ。(P155-P156)

 この板垣の意見に憤慨し、且失望した茅野老は、早速近衛首相に会って談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を信用し、亦、軍の態度がそうなつた以上仕方がないといひ出した。

 丁度その頃、松本藏次氏は大川周明、白鳥敏夫、後藤隆之助など近衛及陸軍と連絡ある連中に会つて話してみたが、何れも板垣、近衛と同様の意見で固つており、日本の政府及陸軍の、この強硬方針はどうにもならぬところへ来てしまつたことがわかつた。(P156)

*「ゆう」注 あまりに長文であるため、「萱野工作」の進捗を記述した部分などは、省略しています。全文はこちらに掲載しました。



 1938年当時、いくつもの「日中和平工作」ルートが交錯していました。

 松本重治と萱野長知は、それぞれの中国とのコネクションを活用し、松本(重)は国民党政府元亜州局長高宗武ラインと、萱野は行政院副院長の孔祥煕につながるラインとの交渉を行っていました。

 高宗武ルートは、のち、「汪兆銘工作」に発展していきます。

 萱野は松本重治と会談した際に、自分のルートの進捗を松本に話しました。すると松本はあわてて高宗武を来日させ、高は板垣陸相に「中国側に戦意なし」という出鱈目な話を吹き込み、成功直前までいっていた萱野の和平工作を潰してしまった、というわけです。



 最初に書いた通り、松本重治や高宗武が実は「和平」を潰す意図を持っていた、などという見方は、明らかに事実と相違します。例えば、1938年3月頃の、松本と高の会話を紹介しましょう。

松本重治『上海時代』(下)より

(略)(「ゆう」注 高宗武)君は、遮るように、いった。

「軍人は戦争が商売だからいいが、外交官である僕は、呑気に考えてはいられないのだ。戦争が長期化し、拡大すれば、両国とも、消耗がひどいに定まっているし、戦禍は、主として中国民衆が被害者になるのだよ。僕としては、何とかして和平の方向に両国を向けねばならんと考えているのだ。それで、しつこいようだが、君の意見を尋ねているんだ」と、熱を籠めていう。

 私が、高君の顔をじいっと眺めていると、たんなる情報集めをやりに来たのではなく、「通郵問題」以来、高君が日中関係のために挺身してきた姿勢が、今日までも続けられているように思え、国境を越え、戦争の真最中でも、友人たるに変りはないという感じを得た。

「宗武、僕が一介の新聞記者であり、政府や軍部の代弁者でないことは、君の知っているとおりだ。
常識から考えても、戦争はよくないよ。ことにこんどの日中戦争は、よろしくない。 日本の国民は、『何々占領』とか『何々陥落』とかいって、捷報続きで、酔いしれている。中国国民の多くの人々が、悲惨な戦禍を被っている。(略)」(P266-P267)



 二人は、真摯に「日中の和平を実現したい」という考えから「運動」を始めた、と解するのが自然でしょう。

 松本の他にも、西義顕、犬養健、西園寺公一といった「高宗武ルート」関係者がそれぞれ回想を残していますが、どのように読んでも、彼らが実は「和平」をぶちこわそうと考えていた、などというとんでもない読み方はできそうにありません。

 ネットの世界などで「陰謀論」を支持する人々は、このような「回想」にほとんど目を通していないのかもしれません。



 また、萱野の工作を知って松本重治があわてて自分の側の工作を進めた、というのも根拠薄弱です。例えば戸部良一氏は、このようにコメントしています。

戸部良一『宇垣・孔祥熙工作』より

 なお、三田村『戦争と共産主義』(「ゆう」注 『大東亜戦争とコミンテルンの陰謀』の旧題)では、上海で萱野が松本重治に賈存徳との交渉経緯を語り、それによって高宗武工作を急いだかのように記述されているが(一七三頁)、萱野の情報が松本重治の行動にどれほどの影響を与えたかは疑問である。

(『防衛大学校紀要』1987年9月 P70)


 さらに松本(重)の回想を見ると、実際には、高宗武の東京行きは、松本(重)が萱野と会談する前に決定していたことがわかります。

松本重治『上海時代』(下)より

 五月末になると、西(義顕)君が噂したことのあった近衛内閣の大改造が断行された。広田に代って宇垣が外相になったことにつき、高君と周(仏海)君とはいろいろ推測を逞しゅうしたが、「国民政府を対手にせず」との路線を変更しようとする可能性が、少なからずあるとの推断に、二人は一致した。

 そこで、
周君が高君に対し、「東京へ行ってほどうか」と、しきりに勧説した。
高君も食指大いに動き始めたころ、蒋介石は、高君が香港に行くことに反対の意向であるということを、陳布雷が内々に高君に知らせてきた。

 進退谷まった高君が、周君に相談に行くと、「蒋さんのほうは僕が引き受けるから、断然東京に行くべし」との意見であったので、高君が六月十日ごろ香港に出てきたのだという経緯が私に判った。(P293)



 六月十七日ひる前に、私はふたたび香港に来た。

 伊藤君が船着場まで迎えに来てくれた。香港ホテルまで、いっしょに車で来てくれた伊藤君の話によると、彼は五月中旬から、そして西君は五月二十日ごろからずっと香港に来ていて、しばしば高君と会ってきた。

 その結果、二人の勧めによって、高君も日本行きをだいたい決意しているらしいが、「五郎」(松本)が賛成すれば、最終的に、そこで決めるという気持ちらしい。(P290-P291)



 そして六月十七日以降、松本(重)は高宗武と四回の会談を重ね、高宗武の日本訪問の決心を引き出します。高宗武の回想によれば、決心を固めた高は、六月二十三日には香港を出て上海に向かった、ということです。

陳鵬仁『日本の対汪兆銘工作』より

 高宗武の日本公式訪問のため、西義顕は六月十九日郵船墨洋丸に乗って日本に帰り、影佐にすべての準備を依頼した。

 六月二十三日、高宗武は伊藤芳男に伴われてエンプレス・オブ・ジャパン号で香港を出発、上海を経て、七月二日(「ゆう」注 実際には七月五日)に横浜に到着した。松本重治は高宗武と伊藤を見送った後、上海から福岡に飛び、五日、東京に帰着していた。

(原注 高宗武「東渡日記」(『台北総統府機要室特交案』第二十七巻)

(国立政治大学国際関係研究センター『問題と研究』 1997年12月号所収 P82)


 萱野によれば、「会談」は上海で行われています。そして松本(重)が上海に戻ったのは、香港で高の説得を終えた後のことです。従って「会談」の時期にはもう、高は日本訪問の決意を固めていたことになります。

 松本が「会談」を受けて萱野に対抗して工作を急いだ、というのは、萱野の「想像」に過ぎない、と見るのが自然でしょう。
 

*実際の話、松本重治は、自分と異なるルートの「和平工作」を、ライバル視していたわけではなかったようです。例えば、萱野と同様に、宇垣外相の意を受けて和平工作を行っていた神尾茂(朝日新聞記者)とは、なごやかに情報交換を行っています。松本(重)が萱野に「高宗武の訪日計画」のことを話さなかったのは、松本が事前の情報漏れによる失敗を恐れて極秘裏に事を運んでいたからだ、と解釈して、特に問題はないでしょう。

松本重治『上海時代』(下)より

 晩めしは、神尾氏と二人だけでゆっくり話し合った。神尾氏は、宇垣−孔祥煕、張群を背景とする張季鸞−緒方を背景とする神尾の二つのチャソネルが出来つつあると確認してくれた。 そして、緒方氏は近衛・宇垣両氏と連絡を保っていることも私には判った。

 それだけ打ち明けてくれたので、私も、高宗武の東京行きのこと、高君が多田・杉山・岩永三氏らに会ったことを、あらかた話をした。 神尾氏から、張季鸞が、日本が相手とすべきは、絶対に蒋介石であると主張していること、神尾氏と喬輔三との接触は喬君の家庭ぐるみの交際なので、旅に出ている自分(神尾)は温かい歓待を嬉しく思っていることなどを聞いた。(P306)

*「ゆう」注 神尾茂『香港日記』P73、8月28日の項にも同様の記述あり。



 高宗武は日本で何を語ったのか?

 次に、「高宗武が来日時に何を発言し、どのような影響を与えたか」ということを見ていきましょう。 

 松本藏次回想では、高宗武は「中国側には全然戦意がなくなつた。無条件和平論が高まつており、この無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だ」と語ったことになっていますが、これはかなり怪しげです。

 高が日本訪問中にどのような発言を行ったかについては、今井武夫、松本重治、影佐禎明、西義顕、犬養健などが手記を残していますが、「中国側には全然戦意がなくなった」という趣旨の記録を見ることはできません

影佐禎昭『曾走路我記』より

 五、六月に至り高宗武君が来京した。(「ゆう」注 七月の間違い)これは董道寧君の報告を聞いてから来たものであらう。高宗武君とは箱根で二回会見した。

 高氏の語る所は結局

「蒋政権を否認した日本の現状としては日支問の和平を招来する為には蒋氏以外の人を求めなければなるまい。それにはどうしても汪精衛氏を措いては他には之を求め難い。

 汪氏は予てから速に日支問題を解決するの必要を痛感し和平論を称道しては居るが国民政府部内に於ては到底彼の主張は容れられないので寧ろ政府の外部から国民運動を起し和平運動を展開し以て蒋氏をして和平論を傾聴せしむるの契機を造成するといふのが適当である


と云ふのであったと記憶してゐる。

(みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』P359-P360)


松本重治『上海時代』(下)より

 岩永さんは高君を温かく迎えてくれたが、高君は、

 「では、ご挨拶やお礼は抜きで、本論に入らせていただきます。こんどの和平運動は、松本君と僕とがやり始めたのです。こんどの訪日で、陸軍の責任者たちも、撤兵の声明、領土・賠償の不要求、治外法権の撤廃というような線を考えておられることが判りました。これならば、中国側も、抗戦路線を止揚して、和平運動がやれるという確信ができました。

 ただ、蒋介石領導とするか、汪兆銘領導とするか、私自身、まだ迷っているのです。一長一短ありますからね。しかし、日本側には、どうも、汪兆銘相手ならばという気分があるようです。中国側では、この点がまだ問題で、日本側としては、戦争の大乗的解決に、ほんとに固まっているかが問題です。岩永さんあたりのご尽力が願わしいです」と述べた。(P303)



西義顕『悲劇の証人』より

 ただ、彼は、日本がこの条件を実践する誠意のあることを事実をもって示すならば、少なくともまず汪兆銘を主班とする中国内部の和平勢力は直ちに戦いをやめ、両国の和平を調停し、全面的和平回復の活動を開始するであろうことを付言し、彼自身がそうした勢力の結成に努力しつつあるひとりであることをも表明して、まず、日本政府が、右条件の実践を天下に公約する声明を発出することにより、和平の気運を促進すべきことを、きわめて単刀直入に要求したのである。(P195-P196)



今井武夫 『支那事変の回想』より

 高は日本滞在間に、板垣陸軍大臣や多田参謀次長等と会談した。その際同席した私の印象では、既に蒋介石を中心とした日華間の事変収拾策は之れを断念したらしく、改めてこの問題を主張することなく、専ら日本側の発言を熱心に聴取するだけだった。 (P69)
 


 総合すると、一連の会談の中で「和平派」汪兆銘の存在が浮上したことは事実であるようです。しかし、「中国側には全然戦意がなくなった」とまでの強い発言の形跡を見ることはできません。

 それどころか、汪兆銘政府の軍事顧問顧問であった岡田芳政など、それとは全く反対のことを語っています。

『座談会 軍事顧問部を語る』より

岡田(芳) いやいやそうじゃない。そのときは高宗武がはっきりと蒋介石は英米と組んで長期決戦の決意をしている、ということいってるんですね。しかし和平の望みはなきにあらずと。これは高宗武の言い方ですけれでも―

 しかし、その響き方、受け取り方が日本側は実に鈍いなあ。当時の私はもちろんそんなことは知らなかったけれども。

(略)

岡田(芳) しかし、少なくともそのときの高宗武は蒋介石の態度が長期抗戦という考えになりつつありますよといいながら、一面においては汪兆銘をピンチヒッターに出して和平をやろうという気持ちがあるわけですよ。たしかにそうでしたね。

(『偕行』1985年4月号 P12)


 戸部良一氏によるまとめを見ましょう。

戸部良一『宇垣・孔祥熙工作』より

 いずれにせよ、高がもたらした情報のなかで重要なのは、蒋がここ当面は日本との和平を考慮してはおらず自発的に下野する可能性もないということであった。

 また、高の発案かそれとも日本側の発案かは別として、この高の来日を契機として、汪を中心とした和平勢力を国民政府の外に結集し、その圧力で蒋を下野に追い込むという構想が生まれたことも重要である。

(『防衛大学校紀要』1987年9月 P32)



 「蒋がここ当面は日本との和平を考慮してはおらず自発的に下野する可能性もない」 ―これが高の発言のポイントであってみれば、「無条件和平論が高まった」とする松本藏次回想とは、かなりニュアンスが違います。

 高−板垣−萱野−松本(藏)−三田村という伝聞の過程で、話が大きく歪んでしまった、と見るのが自然でしょう。




 ただし結果的には、高の来日により「和平派汪兆銘」の存在が日本に知られ、そのために「萱野工作」が一時的にせよ後退を強いられたのは事実です。

 しかし、高が「汪兆銘」の話をしたのは「和平」そのものを潰す意図であった、などという無茶な解釈を行う必要は全くありません。


 実を言えば、これは高宗武にとって、日本側の強硬な要求に対応するための、ぎりぎりの妥協の産物でした。

今井武夫 『支那事変の回想』より

 しかし蒋の真意にそむいて香港に出て来た高は今まで西、伊藤等と会談を重ねているうち、彼従来の考え方に重大な齟齬のあったことに気付いた。

 即ち中国側首脳部の真意は、飽くまで蒋介石領導の下に対日和平を実現せんとするにあったから、前述のような蒋介石の意向を和平条件として提案したが、日本側は近衛声明の手前もあり、その善後策として、一時蒋介石に代って他の要人、為し得れば汪兆銘によって時局の収拾を希望している事を知ったので、高は日華和平を推進するに伴い、自ら窮地に陥ったことを自覚し、大いに懊悩した。(P68)

 日本側は断固として「蒋介石の辞任」を要求してくる。しかし蒋にはそんな意思などあろうはずもない。であれば、「和平派」汪兆銘と日本側が手を結んで蒋を辞任に追い込み、和平を実現するしかない。

―結果としては失敗に終わったものの、高宗武らの目標があくまで「和平達成」にあったことは疑いようもありません。

*のちの話になりますが、松本(重)、高らの「汪兆銘との和平構想」が失敗に終わった原因は、近衛首相の「裏切り」と、汪兆銘の予想外の政治的影響力の無さにありました。詳しくは、「汪兆銘 その理想と現実」をご覧ください。

**なお、「汪兆銘工作」については、純粋な和平運動から出発したが、、中途から「変質」して「陰謀」的なものになってしまった、という見方(戸部良一)と、当初から「陰謀」として出発した(劉傑)という見方があります。私見では「変質」説の方に説得力を感じますが、いずれにしても、少なくとも「陰謀」を企てたのは陸軍側であり、松本重治ら民間人グループは終始純粋な「和平運動」として「工作」を進めようとしていた、ということは言えるでしょう。

 運動の中心にあった西義顕などは、むしろこの高の訪日の成果を高く評価しています。

西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より

 こうして、高宗武は、少なくとも近衛首相と板垣陸相とを動かすことに成功したのであるが、ここで注目すべきことは、元来和平論者たる近衛を説得しえたということはとにかく、板垣を動かしたということが、これは相当な事であったということである。

 板垣は、広い包容力と、ひとたび引受けたら責任をもって断行するという蛮勇に近いまでの断行力とによって、陸軍部内の各派閥を超越して、とくにその少壮中堅層の衆望を集めていたのであり、近衛もその点を買って改造内閣の陸相に迎えたのであったが、そうした板垣なればこそ、ひとたび事変拡大派や侵略主義者グループに拉し去られんか、往年の「満洲事変の板垣」に立帰る公算も大きく、それだけに危険な存在ではあったのである。

 その板垣を、和平の線に引っばりつけてしまったということだけでも、高宗武の大きな功績があり、影佐の大きな成功があったわけである。(P197)



 陸軍はもちろん、陸軍の強硬な要求に悩む政府筋も、この「汪兆銘中心の和平派結集による蒋介石退陣」というウルトラCの構想に飛びつくことになります。

 そのため、萱野−孔祥煕ルートは、一時的にせよ霞んでしまう結果となりました。しかしそれにしても、「高宗武らの「和平運動」は、実は「和平」そのものを潰そうという深謀遠慮であった」という見方は、まず「妄想」の域に属する、と考えてよいでしょう。

*付け加えるならば、松本重治らの構想を見る時に、当時の「和平運動」が置かれていた大変な悪条件を見逃すわけにはいきません。

 「反戦運動」などというものがあろうはずもなく、国民世論は「暴支膺懲」一色、しかも「蒋介石相手にせず」の近衛声明によって、中国側とおおっぴらに直接交渉することすらできない。陸軍は、「蒋介石辞任」などという中国側が絶対飲みそうにない無茶な要求を突き付けてくる。 「和平運動」にとって、環境は最悪でした。

 松本(重)らの構想は、このような厳しい環境の下、何とか陸軍を納得させて「和平」を実現しようとする苦肉の策であった、と言えるかもしれません。

 当時の、「強硬論」を支える広範な国民世論の存在、また、「国民政府対手にせず」との近衛声明が「和平交渉」の大きな障害となったことについては、「和平工作を阻んだもの 近衛声明、そして国内世論」をご覧ください。



 さらに言えば、萱野は自分の「和平工作」が成功直前であったかのように語っていますが、実際には、萱野が語るほどには「萱野工作」は進捗しておらず、成功の見込みも疑わしいものだった、とする見方が一般的です。

劉傑『日中戦争下の外交』より

 小川は萱野の工作について、「何れにするも講和の端緒を得たるは萱野の功なり。政府が初めて国民政府内講和派の決心を知りしも亦萱野氏の功なり」と高く評価している。

 しかし、先の賈存徳の回想によれば、孔祥熙が萱野への手紙の中で具体的な提案を行っていない。それどころか、賈存徳への指示の中で孔祥熙は、萱野の背後に誰がいるか、松本蔵次はどういう経歴の人なのか、などについて賈存徳に調べるよう命じている。

 つまり、孔祥熙が萱野の手紙を見ただけで、それほど重大な条件を日本側に提示するわけがなかったはずである。(P198)



 萱野から和平の斡旋に関する書簡を受け取った孔祥熙も情報収集に必死だったに違いない。

 孔祥熙にとって、萱野のチャンネルは所詮公式ルートではなかった。彼は萱野→賈存徳チャンネルを保持しながら、日本側の公式見解を打診するため、秘書の蕎輔三を中村豊一香港総領事のところへ派遣したのである。六月二三日のことであった。(P199-P200) 



戸部良一『ピース・フィーラー』より

 さらに六月九日には萱野が東京に到着して小川平吉に次のように報告し、これを小川は翌日宇垣と近衛に伝えていた。

 孔等は愈々講和の決心を定めたり、蒋介石は之を下野せしめ第三国を介せずして直接談判を開かんと欲す、講和の上は国民政府は勿論之を解散し北京南京新政府と合して新政府を建設する見込みなりと彼の決意なり。

 講和派漸次勢力を得て団結せるものの如し、又彼等は蒋の下野を希望するなり。

 萱野の報告は国民政府の解散や既成政権との合流、蒋の下野など、かなり希望的観測を含んでいたように思われる。


 ただし、萱野が伝えた孔祥煕の和平の意思がその後の宇垣の和平工作に大きな影響を与えたことは否定できない。(P212)



 萱野は交渉の進展をはかるため、七月五日、松本蔵次や賈存徳らとともに香港に向かった。

 香港に移った後、萱野は馬伯援、居正夫人などと接触した。中国側は、蒋下野にはその後の政治的混乱と共産化の危険があることを強調し、漢口陥落後になれば和平がきわめて困難になろうと指摘した。

 結局萱野は、蒋下野問題以外についてはほぼ解決のメドがついたと見なし、残る蒋下野問題に関して国内の了解を得るべく、七月下旬帰国の途についた。

 この間、萱野からの情報は小川平吉によって逐一近衛や宇垣に伝えられていた。

 蒋下野問題以外に関する萱野と中国側との合意が、共産党との絶縁を別として具体的にどのような内容のものであったかは不明である。

 小川によれば「交渉開始前ニ於テハ講和条件ヲモ成ルベク漠然タルモノトシテ、彼ノ面目上交渉ニ応ジ易カラシムルヲ要ス」とされているので、萱野はあまり具体的なことを要求しなかったのであろう。(P218)



また、萱野らが携わった「宇垣工作」自体についても、戸部良一氏は次のような評価を下しています。

戸部良一『ピース・フィーラー』より

 さらに、軍艦上での宇垣・孔直接談判については、日本側の期待がいかにも過剰であったように思われる。

 宇垣の外相辞任がなくても、直接談判が実現したかどうかは疑問である。また、たとえそれが実現しても、交渉がうまく妥結し得たかどうかは分からない。

 和平条件について日本側と中国側との間には、蒋下野問題を別にしても、まだ相当の開きがあった。
(P253)

*「ゆう」注 孔祥煕を交渉相手とする「宇垣工作」は、その後も、萱野を始め、神尾茂(朝日新聞記者)、中村豊一(香港総領事)ら、いくつものルートで続けられました。最終的には、宇垣の外相辞任により終結することになります。


 萱野らの交渉は、まだ「和平条件」を話し合う段階には至らず、「中国側を交渉のテーブルにつかせる」のが精一杯であった、と見るべきでしょう。

 また、例え「交渉のテーブル」を用意できたとしても、宇垣らは、前に書いたような「陸軍の蒋介石辞任要求」にどう対処するか、ということについては、事実上「ノー・アイデア」でした。「日中双方が納得する和平条件」に至るのはそう簡単なことではなかったかもしれません。




 高宗武は蒋介石に何を報告したか?

 これに続けて、松本藏次はこのように回想します。

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』より

 日華全面和平工作を打ち壊した者

 そこで松本藏次氏は茅野老を東京に残したまま出発し、七月始め長崎から上海に船で行き、十日か十一日の夜、賈存得に会つて板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝へた。(「ゆう」注 既述の通り、この回想では、日付は概ね一か月程度前にずれている。実際には八月のことと思われる)

 すると賈は非常に驚いて、直ちに上海国民銀行六階に設けられてゐた秘密連絡所から、漢口政府に電報でこの旨を連絡した。

 すると漢口政府からすぐ返電して来たが、それによると、高宗武が東京から漢口政府に対し全く正反対に、日本側に戦意なし、中国が飽迄抗戦を継続すれは日本側は無条件で停戦、撤兵するといふ秘密電報が入つていることがわかつた。

 つまり高宗武は日華双方に全く正反対の情報を送つて、切角ここまで進んで来た和平交渉を打ち壊してしまつたのである。(P156)



 高宗武は、中国には逆に「日本側に戦意なし」との偽情報を流し、「和平工作」を妨害した、という主張です。

 実際には高宗武はどのような報告を行ったのか。汪精衛(汪兆銘)の回想を見てみましょう。

『汪精衛自叙伝』より

 高宗武は日本へ行つて時の首相平沼男(爵)、有田外相にまで面会して、その報告を持つて帰つた。(「ゆう」注 当時の首相は近衛、外相は宇垣であり、これは間違い。なお、高が首相・外相と面会した事実はない)

 その時、どういふ資格であつたかははつきりしない。が、わたくしは未だ情報蒐集位にしか思惟しなかつた。

 高宗武の報告中には、『平沼首相にも有田外相にも会つたが、汪精衛の出馬を日本は希望してゐる』といふことが書いてあつたさうだ。

 高は香港に帰つて来た時は、どうしても漢口に帰る勇気がなかつた。漢口へ帰れば逮捕されるか、或は監禁されて到底漢口を出ることが不可能になるので、その報告を周隆庠に手交し、それから周佛海に送り更に蒋介石へと伝達された。

 周佛海は高宗武の報告を披見して、之れは先づ蒋介石に見せるより、わたくしに相談した方がよいと思つて直ちにやつて来た。

 『実はこの報告は、蒋介石に見せるものですが、汪先生に出て貰ひたいといふ、日本側の希望が書いてあるので、若し御都合が悪ければ汪先生の字を削つて貰つてもよいです』

 『それはかまはない』とわたくしがいつたので、そのまま蒋介石に伝達した。(P187)

 蒋は高宗武の報告を一見してから張群に渡して『貴君がこれを見たら、汪氏に見せなさい』と指示した。つまり、蒋介石は事前にわたくしが已に見たといふことは知らなかつた。

 しかし、二、三日後に、蒋は陳布雷を呼んで『高宗武はけしからん奴だ。誰が日本へ行かしたのだツ』と詰問し、非常に怒つて『今日から以後、高宗武とは無関係である』といつて、彼に与へてゐた月八千元の経費も中止するやうな指令を発したといふ。

 周佛海は高宗武に対して責任を感じ、非常に困惑したが、宣伝費の方から毎月三千元を支出して高宗武に『まあ、もう少し形勢を見よう。とにかく貴君はそこで、当分待つて居て貰ひたい』と慰撫するより詮方なかつた。(P188)

 松本藏次の回想とは、全く様子が違います。「日本側に戦意なし」などという報告を行った気配は、全くありません。

 劉傑氏によれば、高宗武の報告書の内容は、1992年2月、台湾の近代中国雑誌社が刊行する『近代中国』(129号)に掲載された、ということです。劉傑氏の要約を見ましょう。


劉傑『漢奸裁判』より

高宗武の報告書


(略)

 次に、日本滞在中、高宗武は一連の会談をこなしたが、板垣、影佐、岩永らとの会談の焦点は、蒋介石下野の問題であった。

 日本側は、「対手とせず」声明の影響を重視し、蒋介石の下野を戦争解決の前提とみなし、中国側の譲歩を迫った。これに対し、高宗武は次のように中国の立場を表明している。(P39)

 「もし日本人が、蒋介石先生が職から離れれば、中国の抗日気運が解消できると認識しているならば、それは見当違いも甚だしい。

 中国の抗日の気運は、数十年来の日本の侵略行為によってもたらされたものである。日本が侵略行為を中止すれば、中国の抗日の気運も即時解消できるだろう。

 
日本のため、中国のため、そして中日間の懸案を解決するため、蒋委員長の指導がなくてはならない。正直に言えば、現在の中国では、日本と戦えるのが蒋委員長であり、日本と講和できるのも蒋委員長ただひとりである」(「高・岩永会談記録」)(P39-P40)

そして、中国側の見かたとして、次の四点を日本側に伝えた。

一、東亜の大局を考えれば、一月一六日の声明(「対手とせず」声明)を即時に取り消さなければならない。
二、講和に際し、原則だけではなく、具体的な条件も提示すべし。
三、現在の中国では、日本と講和する人がいるとすれば、それは王克敏や梁鴻志であろう。
四、日本が中国の日本外交担当者を民族の英雄に仕立てることができなければ、中日問題は永遠に解決できないだろう。(P40)

 王克敏は、日中戦争勃発後の一九三七年一二月、北京に成立した「中華民国臨時政府」の行政委員長である。一方の梁鴻志は、三八年三月、日本占領後の南京に成立した「中華民国維新政府」の行政院長に就任した人物である。

 二人とも日本の占領地にできた傀儡政権の指導者の立場にあり、蒋介石国民政府側から見れば、まさしく売国奴であり、漢奸であった。(P40-P41)

 要するに、高宗武は日本側の要求を退け、蒋介石の下野の可能性を正面から否定し、日本側の対中政策の転換がなければ、日中戦争の解決はあり得ないとの立場を明確にしたのである。
(P41)


 高宗武は、「日本側に戦意なし」などという偽情報を流すどころか、「日本側の要求を退け、蒋介石の下野の可能性を正面から否定し、日本側の対中政策の転換がなければ、日中戦争の解決はあり得ないとの立場を明確にした」ということです。

 さらに言えば、実はこの情報を萱野にもたらしたという賈存徳は、『孔祥煕 其人其事』(中文)に、『孔祥煕与日本"和談"的片談』と題する回想を寄せています。

 萱野と孔祥煕の交渉を仲介した経験を詳しく語っていますが、上のようなエピソードを見ることは全くできません。

もしこれが事実であるならば、賈存徳が、萱野との交渉に決定的影響を与えたこのエピソードになぜ触れないのか、不思議に思うところです。


 以上を総合すると、これは、萱野もしくは松本(藏)の「創作」に近いものではないか、とも思えてきます。少なくとも、高が中国側に「日本側に戦意なし」などという偽情報を流した、という事実は存在しない、と考えてよいでしょう。

*高は『高宗武回憶録』(英文の中文訳)という回想録を残しています。これは必ずしも高の全生涯を語ったものではなく、例えばこの日本訪問のエピソードは省略されています。しかし『回憶録』によれば、高は、のち1939年秋以降、何度も汪兆銘に「民族の裏切り者になるべきではない」と進言し、汪の政権樹立を阻止しようとしています。最終的には説得をあきらめて運動から離脱したわけですが、これは明らかに、松本蔵次や三田村の見方からは説明のつかない行動でしょう。
(2010.4.29)