陽高事件
陽高事件


 日中戦争初期の1937年9月8日深夜から翌9日未明にかけて、日本軍は山西省の陽高城を陥落させました。 中国側の抗戦意識は旺盛で、「老若男女、町ぐるみ敵対行動に出ていた」(畠山清行氏『東京兵団』)という状況であったようです。この陥落時に起きたとされる虐殺事件が、「陽高事件」です。

 この事件についての文献は乏しく、私も現在のところでは、比較的詳しいものとしては、以下の3点を発見できたに過ぎません。 総合すると、「実行部隊は不明であるが、数百人規模の虐殺事件の存在は間違いない」ということになりそうです。

 以下、読者の参考とすべく、関連記述を紹介します。


 
畠山清行氏『東京兵団 機‖枡以圈戮茲

 とに角、その逆襲から朝までの問に、この陽高県城内で、まことに不祥な事件が起っている。

 これは戦後にも問題となり、中国側でも戦犯処理の関係から、非常にカを入れて調べたことでもあるし、本戦記はあったままをできるだけ忠実に、当時の関係者からきいて書く方針をとっている。

 筆者としても、書きたくないことではあるが、『朝になってみると、北口は、兵隊や一般民の死体で山となっていた』(湯浅連隊長談)とあるごとく、 事実は事実であるから正直に書くが、残敵掃蕩に名をかりて『男狩り』をやっているのだ。つまり、県城内の男という男を、兵隊、一般民のきらいなく、一人残らず殺しつくしているのである。

 一瞬の差で、殺すか、殺されるかの戦場での出来事を、平和な今日の常識をもって律することが、あやまりであることはいうまでもない。ことに陽高の場合は、老若男女、兵と住民が一体となって我れに戦いをいどんだのだから、 一般住民、男ばかりでなく、女子供までが戦闘員だったのだ。

 そう考えれば、殺害も止むを得ないということにもなるが、正規兵の遁走した後、まったく抵抗をあきらめた住民までをも殺害したことは、たとえ生死を賭けた戦場であったにしても、非人道のそしりはまぬがれまい。

 この戦闘によって、男なしの『女護ケ島部落』となった陽高では、中国全土にわたって男を募集輸入し、戦争未亡人たちと集団結婚させ、話題を賑わしたのは後のこと。こうした残虐行為を、誰れが命じ、誰れがやったかとなると、今ではまったくわからない。

 最初に城内へ突入した湯浅部隊でないことは、湯浅連隊長がこれをみた時のおどろきを筆者に語っていることでもわかるし、酒豪として聞えた勇猛果敢な武人ではあったが、人情に厚い一面を兼ね備えている人柄からみても、彼でないことはたしかだ。

 篠原部隊の突破口の、北口に死体が山積していた点から考えれば、篠原部隊の行為と解釈されるが、それにしてもおとなしい篠原部隊長の性格からみて、彼が命令を下したとは考えられない。

 彼は、後に姫路師団長となり、中将で世を去ったが、大尉から少佐のころ、軍縮管理の国際連盟日本委員として数年間をパリで送った、フランス語の堪能な常識ある文化人である。 間違っても、部下に残虐行為を強いるような人物ではないから、おそらく彼の兵団の大隊長か中隊長クラスのものが部下の死傷に対する敵がい心のあまり独断でやったものではないかと思えるのだ。

 敗戦後、中国側では台湾にいた、事件当時の三連隊と野砲四連隊の大隊長か中隊長だった人物二人を戦犯容疑で捕え、中国本土に送って取り調べた。 もちろん、歩三も野砲四も関係のないことだから、その家族が本多兵団長にすがり、本多中将は『無関係である』ことを中国側に申し送ったのである。

(略)

 戦犯を逮捕した中国側は、彼の証明書一本で二人の将校をあっさり釈放したのである。

 その結果、陽高の大虐殺事件の犯人はいまもって不明であるし、筆者も八方手を尽くして真犯人の割り出しに努力したが、どうしても謎はとけない。

(欄外)

竹林中尉の当時の陣中日記より

 九日


 陽高払暁陥落す。支那兵にしては頑強に抵抗したり。

 陽高通過す市内悲惨言語に絶す。路傍婦女子二、三哀号を唱ふる有り。恐らく良人、戦死したるか、捕縛されしならん。小児の恐怖顔色にあらわる。可憐なり。

(「東京兵団 蟻枡以咫P138〜P141)
 



 畠山氏は「篠原部隊」を実行部隊であると推定していますが、「野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史」では、逆に「湯浅部隊」を実行部隊として考えているようです。

『野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史』より

 およそ陽高の戦い位、真相と戦闘詳報と、更に一般発表の喰ひ違ひが大きい戦闘は例を見ない。

 陽高の戦ひでは野砲兵第四聯隊は実際には一発も発射していない。然るに一部の発表記録では、九月八日の午後七時に野砲兵第四聯隊が百七発の射撃で突撃路を開き、湯浅部隊が突入し、篠原兵団も突入したとなっているが之は全くの嘘である。

 実際は、湯浅部隊の一部が梯子で真夜中に城壁に上り、内部から城門を開いて突入したのが真相で、真くらやみで何が何やら敵味方共にわからず手榴弾の投げ合ひをやり、日本軍は湯浅部隊の戦死者は猪股准尉以下三十九名、 負傷者は小林美文大尉、村沢淳大尉、二宮春忠中尉、斉藤富茂中尉、平松醇少尉等、百六十三名と云ふ実に張家口の戦闘を遥に上廻る負傷者を出した。

 怒り心頭に発した湯浅部隊は、城中の男を全部射殺した。之が後に有名な「陽高県城の男狩り」と称する大虐殺事件として、終戦後支那側から採り上げられ、 支那側は歩三と野砲四から戦犯者を数名出せと云って来た。

 我が野砲四こそ迷惑な話しである。捏造した嘘の戦闘詳報が如何に災をもたらすかを此れ程痛感した事はない、射撃せぬものは戦闘詳報にも正直に射撃せずと書くべきである。



 以下連絡掛将投の田中宗久少尉の記録が一番正確と思ふので其の記事を挿入する。

 陽高の戦いでは野砲兵第四聯隊は一発も射撃していない、それよりも連続した戦闘で人馬共に漸く疲労の度を増し、亦、特に食糧と馬糧の欠乏には苦しんだ。

 増井隊其の他は陽高東方二十里堡及び其の周辺に宿営し、九月八日夜、第一大隊の本部のみが陽高城東門外の村落で宿泊した。

 歩兵第三聯隊は、九月八日の深夜陽高城に突入した。夜中に男女の泣き叫ぶ声が城外まで聞えた。九月九日未明第一大隊本部が城内に入ると数珠つなぎにされた三百名位の男女を前に歩兵が機関銃を据えて居た。 十数名の戦死した日本兵の屍体には蓆がかけてあった。

 (中略)

 増井大尉は梢遅れて陽高城に入城した、矢張り数十人の住民が歩兵に縛られ、その横には女子供が三拝九拝して命だけは助けて呉れと日本兵に哀願して居る。

  将校に聞くとこれら住民が弾薬等の支那軍への搬送を手伝ったのだと云ふ、彼我所を替えて斯んな事が日本内地で起ったらどんな始末になるだろうか、少くとも東洋平和の聖戦を旗印に戦っている皇軍に苛酷な事が許されるだろうか、 増井大尉は歩兵の将枚に切に寛大な処置をお願いして追撃戦に移った。

 悲しい事に大虐殺事件は此の直後に起った。射殺を命令した責任者は篠原兵団と本多兵団の間に後に責任のなすり合ひが起ったが、永久に不明である。

(同書 P247〜P248)


 最後に、秦郁彦氏・佐瀬昌盛氏・常石敬一氏の編集になる「世界戦争犯罪史辞典」の記述を紹介します。この項は、秦氏が担当しています。

『世界戦争犯罪史辞典』より

陽高事件


 日中戦争初期の一九三七年九月、内モンゴルの陽高で、関東軍のチャハル兵団(兵団長東条英機中将)がひきおこした中国人虐殺事件。


 七月七日の盧溝橋事件をきっかけに日中間の戦火はしだいに拡大、八月中旬には華北ばかりではなく、華中の上海にも飛び火した。この間に中央・現地を通じ、もっとも強硬論を主張していたのは、極東ソ連軍を主敵としているはずの関東軍で、 なかでも東条参謀長は対ソ戦準備の前にまず国民政府(南京政権)に一撃を加え、背後の脅威を除去すべきであるという思想の持ち主であった。

 その関東軍は、華北の戦闘が始まると、八月一四日チャハル兵団を編成、東条はみずから兵団長に就任、二個族団をひきい内モンゴルのチャハル省へ進攻した。参謀長が部隊の指揮官を兼ねるのは陸軍の伝統に反する異例の事態だったが 、関係者は「チャハル作戦も兼務も東条の発案」で「東条の戦争」以外の何物でもなかったと証言している。
 
 作戦自体は追撃につぐ急進の連続で、八月二七日には張家口、九月一一日には大同を占領し、内モンゴルの全域を制圧した。

 大同の東北にある陽高で虐殺事件が起きたのは九月九日である。本多族団が南城門から、篠原族団が北城門から城壁を乗り越えて城内へ突入したのは八日夜だが、守備兵の猛抵抗で約一四〇人の死傷者を出す。 激高した日本軍は夜が明けて占領が終わると、城内の男という男を狩り出してしばりあげ、機関銃の集中砲火を浴びせて殺害した。

 その数は三五〇人とも五〇〇人ともいわれるが、はっきりしない。また処刑を実施した部隊名も明確でないが、東条が首相時代の一九四三年二月、秘書官との雑談で当時を回顧して、「不穏な支那人等は全部首をはねた。 一人しか捕虜は居なかった。

 
斯くの如く日本の威力を知らせておいて・・・米とか何とかを施してやった。恩威並び行われたわけだ」と語っているので、東条兵団長の責任は免れないと思われる。

 しかし、この事件は東京裁判でも中国のBC級法廷でも裁かれなかった。一説には、中国側は本多族団の歩兵第三連隊と野砲兵第四連隊を「犯人」と見当をつけ、訴追を要求したが、取りあげられなかった。

 理由は不明だが、A級被告のトップにいた東条の履歴書に、出先かぎりの人事発令だったチャハル兵団長の職歴が記載されていなかったのも一因だろう。もし東条が実質的な責任者とわかれば、東京裁判の検事団はためらわずに陽高事件を訴追したと思われる。

 東条を「平和に対する罪」に加え「虐殺の元凶」として裁く法廷効果は絶大だったからである。

   (秦郁彦)

(同書 P77〜P78)


 東条英機の「不穏な支那人等は全部首をはねた」との発言が注目されます。犯人は不明であるようですが、「虐殺事件」の存在自体は、否定することは難しいでしょう。

(2005.1.15)


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