パル判決書



*「パル判決書」のうち、「南京事件」関連部分を抜粋しました。

 
『共同研究 パル判決書』(下)より


 南京暴行事件に関する二名の主な証人は許伝音ジョン・ギレスピー・マギーとである。

 許氏はイリノイ大学の哲学博士である。法廷外でとられた同氏の陳述は本件において証拠として提出されようとした。これは検察側文書一七三四号であった。われわれはこれを却下し、同氏は裁判所において尋問を受けなければならないと決定した。したがって同氏はそのとおり尋問をされたのである。氏は南京に居住、一九三七年十二月紅卍字会に関係している。

 マギー氏は一九一二年から一九四〇年まで南京の聖公会の牧師であって、一九三七年十二月およぴ一九三八年一月および二月をつうじて南京にいたのである。(P561)

 右の証人はいずれもわれわれにたいして、南京において犯された残虐行為の恐ろしい陳述をしたのである。しかしその証拠を曲説とか、誇張とかを感ずることなく読むことは困難である。本官は両証人の申し立てたすべてのことを容認することは、あまり賢明でないことを示すために、いくつかの実例を指摘するに止めよう。


 許博士はつぎのような話をわれわれにした。氏自身の言葉によってそれを述べてみよう。氏いわく、
一、「私は自分の眼で、日本兵が浴室で婦人を強姦したのを見ました。着物が外にかけてあり、そうしてその後われわれは浴室のドアーを見つけたところ、そこには裸の女が泣いて非常に悄然としていました」。

二、「・・・・われわれはキャンプにゆき、そこに住んでいると伝えられていた二人の日本人を捕えようとしました。そこに着いたとき、一人の日本人がそこに腰を下しており、隅に女が泣いておるのを見ました。私は福田にたいしこの日本兵が強姦したのですと言いました」。


三、「・・・・あるときわれわれは強姦している日本人を捕えました。そして彼は裸でした。彼は寝ていたのです。だからわれわれは彼を縛り、警察署に連れていきました」。

四、「私は、他の事件を知っております。それは船頭で、かれは紅卍字会の一人であって、私にこんなことをいいました。彼はそれを自分の船のうえで見、それが自分の船のうえで起こったのであります。尊敬すべき一家族がその船に乗って河を横切ろうとしたのです。ところが河の真中に二人の日本兵がやってきました。 かれらは船を検査しようとしたのですが、そこに若い女を見たとき、それは若い婦人と娘でしたが、その両親と一人の夫の眼のまえで二人は強姦しはじめました」。
(P562-P563)

「強姦してから日本兵は、その家族の老人にたいして「よかったろう」と言いました。そこでかれの息子であり、一人の若い婦人の夫であったのが非常に憤慨し、日本兵を殴りはじめました。老人はこのようなことに我慢できず、また皆のためにむずかしいことになることを恐れて、河の中に飛び込みました。そうしますとかれの年をとった妻、それは若い夫の母親ですが、彼女も泣きはじめ、夫についで河のなかに飛込みました。 私はちょっと申すことを忘れましたが、日本兵が老人にたいしてよかったかどうかを聞いたとき、その日本兵は、その老人に若い女を強姦することを勧めたので、若い女たちは皆河のなかに飛び込みました。

私はこれを見たのです。ですから一家全部が河に飛び込み、溺死してしまったのです。これはなにもまた聞きの話ではありません。これは真実のほんとうの話であります。この話はわれわれが、長いこと知っておる船頭から聞いたのであります」


つぎにマギー氏の証拠からいくつかの事例をとってみよう。

一、「十二月十八日に私は私どもの委員会の委員であったスパーリング氏と一緒に南京の住宅街に行きました。すべての家に日本の兵隊がおり、女を求めていたように見えました。私どもは一軒の家にはいりました。その家の一階で一人の女が泣いており、そこにおった中国人が、彼女は強姦されたのだとわれわれに告げました。(P5643-P564)

 その家の三階にはもう一人日本兵がおるということでした。私はそこにゆき、指摘された部屋にはいろうとしました。ドアーは鍵がかかっていました。私はドアーを叩き、怒鳴ったところ、スパーリングはただちに私のところにやってきました。十分ほどたった後一人の日本兵がなかには女を残して出てきました」。

二、「私は他の一軒の家に呼ばれ、その二階の婦人部屋から三名の日本人を追出しました。そこでそこにいた中国人が一つの部屋を指さしました。私はその部屋に飛び込み、ドアーを押し開けたところそこに兵隊を見ました。それは日本兵で強姦していたところでした。私は部屋からかれらを追出しました・・・・」。

三、「私はほとんど三十年来知っておりました一婦人 ― われわれの信者の一人ですが、彼女は部屋の中に一人の少女とおったところ、日本兵がはいってき、彼女はかれの前に膝をつき、少女に手をつけないよう願ったと私に告げました。日本兵は銃剣の平ったい方で彼女の顔を殴り、少女を強姦したのであります」。


 これらの証人はいい聞かされたすべての話をそのまま受入れ、どの事件も強姦事件とみなしていたようである。

 船頭の話を受入れることは実際容易にできることであろうか。その場にいたのはほんの二名の日本兵だけであった。他方、強姦された娘たち、彼女らの父親およびその一人娘の夫もいた。そこには船頭自身ももちろんいたのである。その一家全体は生命より名誉を重んじていた。その一家全体はいずれも河のなかに飛び込み溺死してしまった。(P564-P565)

 こんな家族であった以上、「両親および一人の夫の眼のまえで」娘たちを二名の兵隊が強姦しえたであろうか。いかにして許博士はこの話の中に真実らしくないものを認めなかったであろうか。かれは船頭が長い間紅卍字会に関係していたから、この話を「真実のほんとうの」ものとしてわれわれに与えることができるというわけになる、というのであろうか。

 他のいろいろの説はたしかに日本兵の中国婦人にたいする不当な行動の実例として認めることができる。しかし証人らは躊躇することなくそれを強姦事件と主張している。 ある部屋の中に一人の兵隊と一人の中国の娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれを強姦した後寝たのであると、われわれにたいしいえるということになるのである。また証人はこの話をするにつれて、自分の語っていることには疑いはないと、ほとんどその気持になっていたのである。

 われわれはここにおいて昂奮した、あるいは偏見の眼をもった者によって目撃された事件の話を与えられているのではないか、本官はこの点についてたしかではない。

 もしわれわれが証拠を注意深く判断すれば、でき事を見る機会は多くの場合においてもっともはかないものであったに違いないということを、われわれは発見するであろう。

 しかも証人の断言的態度は、ある場合には知識をうる機会に反比例しているのである。多くの場合にはかれらの信念は、かれらをして軽信させることに、あるいは役立った昂奮だけによって導かれ、その信念はかれらをして蓋然性と可能性の積極的解説者たらしめる作用をしたのである。 風説とか器用な推測とか、すべての関連のないものは、おそらく被害者にとってはありがちの感情によってつくられた最悪事を信ずる傾向によって、包まれてしまったのである。(P565-P566)

 これに関し、本件において提出された証拠にたいしいいうるすべてのことを念頭において、宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である。(P566)


 
『共同研究 パル判決書』(下)より


  問題は被告に、かかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある。以上述ペたように、被告にたいする訴追はつぎのとおりである。

(一)かれらは特定の者をしてその行為を犯すことを命令し、授権し、かつ許可し、それらの者は実際にその行為を犯したこと(訴因第五十四)。あるいは、

(二)かれらは故意にまた不注意に、かような犯罪的行為を犯すことを防止する適当な手段をとるべき法律上の義務を無視したこと(訴因第五十五)。

 想起しなければならないことは、多くの場合において、これら残虐行為を実際に犯したかどで訴追されたものは、その直接上官とともに戦勝国によってすでに「厳重なる裁判」を受けたということである。われわれは検察側からこの犯罪人の長い名簿をもらっている。証拠として提出されたこれらの名簿の長さは、主張されている残虐行為の邪悪性と残忍性とはなんら比較しうるものではない。

 これら非道な行為を犯したとみなされたすべてのものにたいし、戦勝国が誤った寛大な態度を示したと非難しうるものは一人もいないと本官は思う。(P566-P567)

 この処刑によって憤怒のどのようなものも十分に鎮圧せられたものとみなしえられ、かような慣怒から起こる報復の激情と希望は、満足されたものと考えられる。「道徳的再建の行為」または「世界の良心が人類の威厳を新たに主張する方法」としても、かような裁判および処刑は、その数において不十分ではなかった。

 ここにおいてわれわれは冷静に、はたして罪がわれわれの裁いている被告に及ぶものか、どうかを見ることである。

 第一に本官は、諸国の「当時日本の権力下にあった・・・・一般人」にたいし犯された残虐行為を考察してみよう。このために訴因第五十四およぴ第五十五を同時に取り上げることにする。

 起訴事実はつぎのように二つの異なった期間を包含する。

一、中国における残虐行為に関しては、その期間は一九三一年九月十八日から一九四五年九月二日までである。

二、他の戦闘地域に関する残虐行為に関しては、その期間は一九四一年十二月七日から一九四五年九月二日までである。

 残虐行為に関する証拠は、一九三七年十二月十三日南京陥落後の同市における残虐行為から実際始まっているのであるから、本官は上述の期間の第一は、その期日から始まったものとして、つぎの期間に細分する。(P567)

(a)一九三七年十二月十三日から一九四一年十二月六日までの期間。
(b)一九四一年十二月七日から一九四五年九月二日までの期間。

 想起すペきことは、検察側はこれらの残虐行為を訴因第五十四において一般的に主張する以外、訴因第四十五ないし第五十において、中国において犯されたかような残虐行為のいくつかの特定の事件について訴追していることである。

 訴因第四十五は南京で起こったことに関するものである。その期間は一九三七年十二月十二日およぴその後引続きとなっている。

 当時被告広田は外務大臣、賀屋は大蔵大臣、また木戸は文部大臣であった。他の被告のだれも当時閣員ではなかった。

 関係ある軍隊は、被告松井が司令官であり、被告武藤が、参謀副長であった中支方面軍であった。被告畑は一九三八年二月十七日、松井大将に代って軍司令官となった。本官はその軍隊の構成を後ほどさらに詳しく考慮してみる。

 以上からみれば、南京事件に関するかぎり、他のどの被告も関係はない。われわれはこのことをはっきりと念頭においておかなければならない。(P568)
                 


(中略)

 
『共同研究 パル判決書』(下)より


 検察側は、南京暴行事件に関するかぎり、つぎにあげる人物がそれに関する知識をもっていたことを立証したと、主張しているのである。
 すなわち、

一、当時中支派遣軍を指揮していた松井被告(法廷証第一一五号およぴ第二五五号)、
二、中国における日本外交官、
三、東京の外務省、
四、外務大臣、広田被告、                 .
五、当時朝鮮総督であった南被告、
六、中支派遣の日本無任所公使、伊藤述史、
七、貴族院、
八、木戸被告、

である。(P593)

 松井被告が知っていたという点に関しては、本人の陳述、すなわち一九三七年十二月十七日には南京におり、上海帰還まで一週間そこに留まったと述べたことに頼っているのである。そして南京入城と同時に、日本外交官から、当地において軍隊が多くの暴虐行為を犯したことを聞いたというのである。

 当時参謀副長であった武藤破告は、松井大将とともに、入城式のために南京に行ったものであり、当地に十日間、留まったと述べた。

 松井大将は一九三八年二月まで司令官の位置に留まったが、事態を改善するための有効的な手段は、この期間中なんらとられなかったと検察側は指摘したのである。

 日本外交官が知っていたという点に関する証拠は、南京陥落当時同地にいたドイツ、英国、アメリカおよびデンマーク人の一団をもって組織した、南京難民地区の国際委員会の秘書L・スマイス博士の証言である。スマイス博士は、一九三七年十二月十四日から一九三八年二月十日までこの委員会の秘書であった。

 かれの証言というのは、同委員会が南京の日本領事館にたいして、毎日個人的報告をなしたというのである。スマイス博士は、領事館はなんらかの処置を講ずることをそのたぴごとに約束したが、一九三八年二月にいたるまでの事態を改善するための有効的な手段が、とられなかったと述べているのである。

 難民地区国際委員会の創設委員だった南京大学の歴史学教授ペイツ博士は、最初の三週間ほとんど毎日、まえの日のことに関するタイブした報告または書翰を持って領事館に行き、またしばしば 館員とその件に関する会談をなしたと証言をしている。これらの館員というのは、領事であった福井氏、田中氏と称する人物および副領事福田篤泰氏である。福田氏は、現在総理大臣吉田の秘書である。(P594-P595)

 ペイツ博士によればこれらの日本人外交官は、悪条件のもとにわずかながらかれらのできうることを誠意をもってなそうと努めていたのであるが、かれら自身軍をすこぶる怖れ、上海を通じて東京にこれらの通信を伝達する以外にはなにもできなかったとのことである 。これらの領事館員は、また南京の秩序を回復させるべき強い命令が東京から数回発せられたことを証人に確言しているのである。

 またこの証人は、外国の外交官およびこの代表団に同行した一日本人の友人から、ある高級陸軍将校が多数の下級将校および下士官を集めて、陸軍の名誉のために、その振舞いを改善しなければいけないということを、すこぶる厳重に申し渡したことを開いたのである。

 さらに証人は、一九三八年二月五日および六日までは状態が実質的には改善されず、また南京の日本領事館が作成した報告は、領事館によって東京の日本外務省に送られたことを知っていたことを証言したのである。「二月六日、七日ごろから状態は明らかによくなりまして、それ以後夏までいろいろ重大な事件はありましたが、それまでのように非常に大仕掛けの堪えがたいのはありませんでした」。

 証人はまた「私は東京駐在大使グルー氏から南京米国大使館に送られた電報をいくつか見ました。そしてこの電報で、南京から送られた報告について、グルー氏およぴ外務省の官吏の間になされた会談について相当詳細にわたって言及していたのであります。この外務省の官吏の中には、 広田氏がふくまれています」と述べている。(P595-P596)

 もちろん証人には、これらの報告が実際に東京に送られたかどうか、あるいはまた、誰にあてられたかは、この方法以外に知るよしもなかったのである。検察側によれば、「 これら残虐行為に開する報告はすべて、外国新聞の非難報道とともに、広田に送達せられたが、報告が続々入りつつあったときでさえも、かれは同問題を陸相に迫 らず、また内閣に計りませんでした」と。

 証拠によれば、広田はこれを当時の陸軍大臣杉山大将に伝えたのである。陸軍大臣はただちに処置をとることを約し、かつまた実際に厳重な警告を送った。したがって広田はグルーにたいして、「もっとも厳重な訓令が大本営から発せられ、在支のすべての司令官に渡されるはずである。その主意は、これらの掠奪は中止せられるべきこと、および本間少将が南京に派遣せられ、調査をなし、命令の遵奉を確めること」を確言したのである(法廷証第三二八号)。

 一月十九日にグルー氏が、同氏の抗議にたいして処置を広田氏がとり、かつまた「東京よりの訓令をもって前線の部隊にこれを厳守せしめるため峻烈な手段が考慮されつつある」と東京から報告していることが証拠になっている。

 南被告は、その当時朝鮮総督であった。かれは新聞の残虐行為の報道を読んだのである。この事実が検察側の主張をどのように助けるものであるかは、本官としては了解できない 。これはたんにこれらの残虐行為に関する新聞報道があったことを示すだけである。なにびともこれを否定してはいない。(P596-P597)

 一九三七年九月から一九三八年二月まで、中国派遣の日本無任所公使であった伊藤述史は、南京にあった日本陸軍が当時種々の残虐行為を犯したむねの報告を、当地の外交団および新聞記者から受けたことを証言した。さらに、かれは、これら報告の真実性は究明はしなかったが、東京の外務省に送った報告の一般的要約は、すペて外務大臣あてであったことを証言した。

 残虐行為に関する外国新聞報道に関しては、事態がすでに収拾された後の一九三八年二月十六日の貴族院予算委員会において言及されたのである。そこには木戸被告が出席していた。

 しかしながら、本官としては、なにゆえにこの事実が検察側の国策であるという議論をすこしでも支持するものであるか了解しがたい。このような批判およぴ論評は、むしろ、かような仮説に反するものとなるのである。

 さきにあげた証拠は、南京残虐行為の報告が東京の政府に達したことを明らかに示すものである。この証拠はまた、政府がこの間題に関する処置をとって、ついに軍司令官松井大将が畑大将と更迭されたことを明らかにしている。残虐行為もまた二月の初旬までに 終熄した。この証拠をもって、かような残虐行為が日本政府の政策の結果であるという結論に、われわれが追い込まれなければならない理由を、本官としては解釈しがたいのである 。(P597)


 (中略)

『共同研究 パル判決書』(下)より


  本官としては、まず第一に南京において行われたと主張されている残虐事件を取りあげてみる。

 検察側証拠によれば、一九三七年十二月十三日南京陥落のさい、城内における中国軍隊の抵抗はすべて終息したのである。日本の兵隊は城内に侵入して、街上の非戦闘員を無差別に射撃した。そして日本の兵隊が同市を完全に掌握してしまうと強姦、殺害、拷問および劫椋の狂宴が始まり、六週間続いたというのである。

 最初の数日間、二万名以上の者が日本人によって処刑された。最初の六週間以内に、南京城内およびその周辺において殺害された者の数の見積りは二十六万ないし三十万人の間を上下し、これらの者はすべて実際には裁判に付されることなく、殺戮されたのである。第三紅卍字会および崇善堂の記録によって、この二団体の埋葬した死体が十五万五千以上であった事実が、これらの見積りの正確性を示している。

 このおなじ六週間の間に二万人をくだらない婦女子が日本の兵隊によって強姦された。

 以上が検察側の南京残虐事件の顛末である。

 すでに本官が指摘したように、この物語の全部を受け容れることはいささか困難である。そこにはある程度の誇張とたぶんある程度の歪曲があったのである。本官はすでにかような若干の例をあげた。その証言には慎重な検討を要するところのあまりに熱心すぎた証人が、明らかに若干いたのである。

 ここに陳福宝と名乗る一人の証人について触れてみよう。この証人の陳述は法廷証第二〇八号である。この陳述において、かれは、十二月十四日三十九人の民間人が避難民地域から連行され、小さな池の岸に連れていかれて機関銃で射殺されるのを目撃したとあえていっている。証人によれば、これは米国大使館の付近で、朝白日のもとに行われたのである。(P599-P600)

 十六日にかれは、日本軍に捕われたいく多の壮健な若者が銃剣で殺されていたのをふたたぴ目撃した。そのおなじ日の午後、かれは大平路に連れていかれ、三人の日本兵が二軒の建物に放火するのを見た。かれはこの日本兵の名前をもあげることができたのである。

 この証人は本官の目にはいささか変わった証人に見える。日本人はかれを各所に連れてその種々の悪業を見せながらも、かれを傷つけずに赦すほどかれを特別に好んでいたようである。

 この証人は、本官がすでに述べたように、日本軍が南京にはいったその二日目に難民地区から三十九名の者を連れだしたといっている。証人は、これが起こった日付はたしかに十二月十四日であるとしている。この一団の人のうち、その日に三十七名の者が殺された。許伝音博士でさえ、かようなことが十二月十四日に起こったとはいえなかったのである。 かれは難民収容所に関する十二月十四日の日本兵の行動に関して述べているのであるが、その日に収容所から何者も連れ出されたとはいっていない。

 いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠にたいして悪くいうことのできることがらをすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつペイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく二月六日あるいは七日すぎてからである。(P600-P601)

 弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。かれらはたんに誇張されていることを愬(うった)えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。(P601)
 

(2005.5.21)


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