12月13日、ラーベの行動 |
この翻訳文を見ると、ラーベたちが中山北路から上海路へ南へ曲がったところで「たくさんの市民の死体」を発見し、そこで南から(安全区内を通って)進軍してくる日本軍と出会い、あわてて来た道を引き返して中国軍兵士を救った―そのようにしか読めません。 (安全区内及び境界の通りの名称については、こちらをご覧下さい。国内サイトではなかなかいい地図が見つかりませんでしたので、中国サイトからご案内します。 安全区の中央を南北に走るのが「上海路」、安全区の南端を東西に走るのが「漢中路」です。 地図には名前がありませんが、右下の、「漢中路」と「中山路」の交差点が、「新街口」(ポツダム広場)です) これでは、「十三日」段階で「日本軍」部隊が安全区内を進軍しており、かつ侵入以前に「市民の死体」があった、というおかしなことになります。いくつかの「否定本」で、この部分がラーベ日記の記述の信憑性を疑う材料となっているようです。 しかし、この翻訳を正確なものに修正し、さらに"EYEWITNESS TO MASSACRE"所収のスマイス博士の手紙などの資料と照合すると、 この日のラーベらの行動がかなり正確に見えてきます。以下、資料を紹介しながら、まとめてみましょう。 まず、スマイスの手紙から。
スマイスはこの時、ラーベと一緒に行動していたようです。「死体目撃」談については、ラーベ日記と一致しています。なお、死体があった「神学校」とは、安全区の南端に近い「金陵女子神学校」のことだと思われます。 この「死体」の発生原因については、「戦争とは何か」所収の、フィッチの手記にも触れられています。
これは、時間的には、先程のラーベらより以前だったようです。 さらに、ラーベ自身が書いた、国際委員会文書の記録です。
この記述は、「スマイスの手紙」と概ね一致しています。 最後に、ラーベの「ヒトラーへの上申書」を紹介します。なお、こちらの方が、「日記」のオリジナルに近いものです。
ラーベらのこの日の行動が、より正確に見えてきます。ラーベらは、「漢中路」で日本軍と接触を持った後、市の南部まで出かけ、その帰路、新街口(ポツダム広場)で「何千人もの日本兵」と出会ったようです。 スマイスの手紙に登場した「自転車に乗った兵士」が、こちらにも出てきます。 以上をまとめると、資料間に微妙な食い違いはありますが、概ね以下のように考えて間違いないと思います。 1.12月13日昼前後、日本軍が進出した、との情報を受けて、外国人数人(ラーベ、スマイス、コーラ)が、日本軍と接触を持とうと、上海路経由で出発した。 2.彼らは、「神学校」(おそらく、「安全区」の南端に近い、「金陵女子神学校」)付近で、20体程度の市民の死体があることを発見した。 3.安全区の南の境である「漢中路」に達した時、「自転車に乗った日本兵」に出会った。その日本兵から、新街口(漢中路と中山路の交差点。安全区の東南の端)に近いところに「将校」がいる、との情報を受けた。 4.新街口に近い漢中路の南側(安全区と反対側)に、100名ほどの日本人部隊がいて、それを中国人たちが北側(安全区側)から見ていた(日本軍が「安全区」を意識していたのかもしれません)。そこで「将校」(隊長)に対して「安全区」のことを説明し、 「将校」の手持ちの地図に「安全区」を記入させた。 5.その後ラーベらは、市南部の「夫子廟」あたりまで出かけた。その帰路、「新街口」まで戻ると、そこに日本兵の大部隊(数千人)が北へ向かって進軍しようとしているのを見た。 6.そこで彼らは、「安全区を通って回り道をし、急遽北へ向かうことにして、鼓楼病院の裏からふたたびメインストリートに出」て、「山西道路のロータリー」にいた中国人兵士たちを武装解除して救った。 さて、問題となっている「ラーベ日記」を、英訳版から、翻訳しなおしてみましょう。
概ね、上のストーリーと符合していることがわかると思います。「ドイツ語を話す医者」との出会いと「北へ向かって行進」する日本軍を追い越したことの間には、かなりの「省略」があるようです。 なお、「日本軍将軍はあと二日(三日?)たたないとやってこない」と言ったのは、他の資料に全く登場しない「ドイツ語を話す医者」ではなく、「自転車に乗った歩哨」である、と考えた方が妥当だと思われます。
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