ラーベ日記、12月9日の射撃音


 既に取り上げたように、田中正明氏は、「ラーベ日記の虚妄を糾す 『南京の真実』は真実か?」(『月刊日本』1998年1月号)の中で、ラーベ日記に対し、様々な批判を試みています。

  しかし、事実を誤認した見当違いの批判、あるいは細かな揚げ足とりのオンパレードで、とても「ラーベ日記」の批判に成功しているとは思われません。

 「ラーベは武器商人」等、既に私のHPの各所で指摘した誤りも数多くありますが、ここでは、「12月9日の射撃音」の例を、取り上げてみることにします。

田中正明氏『南京の真実』は真実か?

 十二月九日、松井軍司令官は休戦を命じ、城内の唐生智軍に対して『降伏勧告のビラ』を空から全市にばら撒いて講和を呼びかけている。その間攻撃を中止して、十日正午まで待機した。そして唐生智司令官の使者を中山門で待った。

 しかるにラーベの十二月九日の日記には、「中華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区内に響いている。明かりが消され、暗闇の中を負傷者が足を引きずるようにして歩いているのが見える・・・」

 全然「降伏勧告のビラ」も休戦のことも触れておらず、戦闘は続いていたことになっている。

(『月刊日本』1998年1月号 P50)

  実際には12月9日には戦闘がなかったのに、ラーベは「戦闘」をでっちあげた、ととれる書き方です。



 まず、ラーベ日記の該当部分を見ましょう。

ジョン・ラーベ日記 12月9日

 燃えさかる下関を通り抜けての帰り道はなんともすさまじく、この世のものとも思えない。安全区に関する記者会見が終わる直前、夜の七時にたどりつき、どうにか顔だけは出せた。

 そうこうしているうちに、日本軍は城門の前まで来ているとのことだ。あるいはその手前に。中華門と光華門から砲声と機関銃の射撃音が聞こえ、安全区中に響いている。

*「ゆう」注 英訳では以下の通り。  You can here thundering canon and machine-gun fire at the South Gate and across from Goan Hoa Men. なお、細かいことですが、英訳には「安全区中」の文字は見えません。


 明かりが消され、暗闇のなかを負傷者が足をひきずるようにして歩いているのが見える。看護する人はいない。医者も衛生隊も、もうここにはいないのだ。鼓楼病院だけが、使命感に燃えるアメリカ人医師たちによってどうにか持ちこたえている。

 安全区の通りは大きな包みを背負った難民であふれかえっている。旧交通部(兵器局)は難民のために開放され、たちまちいっぱいになった。われわれは部屋を二つ立ち入り禁止にした。武器と弾薬を見つけたからだ。難民の中には脱走兵がいて、軍服と武器を差し出した。

(「南京の真実」文庫版 P105)


ジョン・ラーベ日記 12月10日

 不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。

 きのうの朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。 中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。

 今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜、南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。

(「南京の真実」文庫版 P106)

 中華門光華門はいずれも南京城南側の門です。12月9日時点では、日本軍は光華門には達しましたが、まだ中華門には達していません。



 さて、「12月9日夜」から「10日未明」までの、光華門方面の戦闘状況を見ていきましょう。

『証言による南京戦史』(7)

光華門の占領 (『敦賀聯隊史』、宮部一三著『風雲南京城』に拠る)

 9日午後から夜にかけて、敵兵の逆襲、夜襲が盛んとなり、その上に敗残兵が各方面から光華門に入ろうとして四辺に充満し、敵の鉄砲火も激しくなった。さらに、雨花台及び紫金山方面の集中射撃のため、わが軍の損害はさらに増加した。

(「偕行」1984年10月号 P5)


西坂中氏述懐 (歩兵第三十六聯隊軍曹)

 私は歩兵第三十六聯隊(脇坂部隊)の一兵士として南京攻略戦に参加した。12月9日未明、光華門に突入し城壁の一角を占領したが、夜明けとともに城壁上から敵の一斉射撃をうけ、第一大隊は伊藤善光少佐以下多数の戦死者を出したまま、城壁の一角を死守していた。

 われわれは、松井軍司令官から「降伏通告の期限まで戦闘中止」との命令をうけて、10日正午まで攻撃を中止したが、敵はそんなことに容赦なく、わが方に猛射を加えた。

(「偕行」1984年10月号 P6)



 
『南京城光華門一番乗りの実相』

山際喜一(当時、歩兵第三十六連隊第一中隊長。現、福井信用金庫理事長)

 あまつさえ、城外で防禦陣を布くはずだった中国軍が、日本軍の猛速の突撃にそのままとり残され、城内に入ることもならず最後の抵抗を試みてくる。わが中隊もまた、城壁の敵と射ち合い、背後をおびやかす残兵を撃破せねばならぬという忙しい戦闘に追いまくられた。

 こうして突撃路も開かれぬまま、空しく九日の夜を過ごす。火閃を吐きつづける敵の機銃と電流鉄条網が発する白い火花。私たちは濠の中で一睡もしなかった。城壁は傲然と横たわり、堅く閉ざされたままだ。この夜は雲一つない月空で、地上もかなり明るかった。

 十日が明けたが、戦闘はいぜんとして膠着したままだ。師団司令部や旅団司令部も前進してきたが、わが連隊本部との間には敵の残兵が充満し、これとの小競り合いをつづけている。

(「歴史と人物」 昭和60年冬号 P260)


『戦場より帰りて(日記)』

陸軍歩兵中尉 山際喜一

十二月十日

 昨夜は種々思ひを廻らし一睡もせず。他部隊に撃退せられし敗残兵の大部隊が逆襲し来り応戦に暇なし。今日は母の命日だ冥福を祈る。煙草が喫ひたくとも無い。愈々午後五時突撃の命下る。 (以下略)

(「偕行社記事」 昭和14年1月 第772号 P154)


『死なう! 光華門で』

読売新聞社 宮本菊夫

(「ゆう」注 12月9日)夜になつた。光華門頭の第一夜は不安と焦燥と緊張の中に暮れていつた。部隊長はグツと下唇を噛んで、粗末なテーブルの上に擴げられた地図を睨んでゐる。ローソクの灯がその瞳にゆらゆらと輝いてゐる。 劉家口、大場鎮、蘇州河、蘇州、無錫、金壇、淳化鎮と曳かれてゐる図上の赤い線はいま光華門まで延びてゐる。

 一番乗りの輝やかしき戦捷の態勢にありながらこの孤立、部隊長の脳裡にはいまどんな作戦が巡らされてゐるのだらう。 幕僚もひとしく額を集めて火の気の無い部屋に秘策が練られてゐる。敵陣からは夜に入つて益々はげしい弾丸の雨、屋根に軒にバリバリと炸裂している。

 かくして十日未明、部隊長は口をすすいで遥かに東天を拝し、一睡もせぬ充血した眼をかつと開いて本部前の広場に部下を集めた。城門によつてゐた決死隊も副官命令で、夜陰に乗じ一旦引揚げて来てゐた。○○旗手が粛々と○○を捧げて部隊長の傍に立つた。(「ゆう」注 「○○」は原文通り) 全将兵は黙々と頭を垂れた。

 厳粛なる黎明、無言の訣別? 一杯の葡萄酒が、いや葡萄酒の一滴づつが全将兵に分たれた。あらゆる瞳が濡れてゐる。最後に『天皇陛下万歳』が江南の野に轟き渡つた。兵たちは異口同音に叫んだ『死なう! 光華門で』 糧食も弾薬も補給の途絶えた今、残るは肉弾のみ。これが部隊長の無言の大指令であつたのだ。

 再び戦線は布かれた。突撃ラッパが嚠喨(りゅうよう)と響き渡つた。火花が散る。白煙が揚る。土煙が立つ。空に飛行機が、地に戦車が、江南の天地はこの一瞬ぐらぐらと揺らいだそうだ。わが陣営からは貴志大尉、葛野中尉、杉山少尉、中田少尉の決死隊がヂリヂリと城門に迫つてゆく。殪れても倒れても屍を踏み越え乗り越え突き進んでゆく。

 部隊長は眼鏡をあてたまま、数時間にわたつて敵陣を睨み続けてゐる。誰もが飲まず食わずの奮戦だ。午後になつた。城内に昨日に続く爆音が数回続けざまに起つた。

(文芸春秋社『話』 昭和13年2月号 P223)


 光華門攻略戦の指揮官である、脇坂連隊長自身の記述です。

『南京城攻撃手記』

陸軍少将 脇坂次郎

 脇坂部隊は遮二無二驀進(ばくしん)し、敵をして抵抗の余裕を与へず一挙に此の部落を突破突進し殆んど敵の抵抗を受くることなく、九日午前五時十五分遂に光華門前に達す。

(中略)

 午後一時頃より防空学校西端附近の無名部落に敵兵続々集結し其の数四乃至五百に達するを目撃するや、清水部隊は急襲的集中攻撃に依り之に多大の損害を与え西方に撃退す。 午後十時頃約二百名の敵は協和橋及之に平行せる鉄橋に対し夜襲し来れるを以て○○部隊及機関銃は之を猛射し、交戦約三十分にして之を西南方に撃退す。

 本夕以降特に各方面より圧迫せられ光華門に入らんとする敗残兵我が部隊の間に充満し来る。

 翌十日敵は続々兵力を光華門附近に集中し、敵の銃砲火益々熾烈にして又背後方たる雨花台方向並に紫金山方向よりする砲兵の集中射撃に人馬の死傷続出す。

(「偕行社記事」 昭和14年1月 第772号 P135〜P136)


 以上、9日夜から10日未明にかけては、日本側からの積極攻勢はなかったようですが、間違いなく戦闘は続いていたようです。田中氏のラーベ日記批判は、見当外れのものである、と言えるでしょう。



 なおウィルソンも、12月9日夜の砲撃について、書き記しています。

『金陵大学病院からの手紙』

ロバート・O・ウィルソン医師

12月9日 木曜日

 私たちのあるがままの様子を伝えるラジオ報道を君が聞いているとしたら、私たちがここで元気でいることにびっくりするのは間違いない。私たちは自身のことについてはあまり気を使っていない。

 ちょうど市の外から聞こえる大砲の音を聞きながらこの手紙を書いている。きょうは市の内部と外部の双方から同時に八発の発射音を数えた。日本軍の先頭は数ヵ所で城壁に到達している。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P275)


(2004.2.11記)


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