盧溝橋事件 「第一発」問題



 「南京事件」と異なり、「盧溝橋事件」論議では、少なくとも日本国内に関する限り、明らかなトンデモ議論を見かけることはほとんどありません。「事件の見方」はともかく、「事実認識」については、左右双方、概ねの一致を見ているように思われます。

 ただしそれは「専門家」の間でのことで、必ずしも専門家とは言えない方の記述には、かなり怪しげなものがあるのも事実です。例えば、たまたま見かけた、東中野修道氏の記述です。

東中野修道氏 『南京事件 「証拠写真」を検証する』より 

 北京郊外の蘆溝橋で、日本軍はいつものように実弾ではなく空砲を使って演習していた。ところが、昭和十二年七月七日二十二時四十分、日本軍が発砲される。秦郁彦『盧溝橋事件の研究』でも明らかなように、これは中国第二十九軍が放った一撃であった。

 一発のみで終わっていたのであれば偶発的なものだったとも言えるが、さらに第二撃、第三撃、第四撃とつづいた。そうなると偶発的どころか意図的な射撃、すなわち挑発と言わざるを得ないであろう。 そう判断した日本軍は、結局、第一撃から七時間が経過した七月八日の視界明瞭な午前五時半、第四撃を受けたのち、ようやく反撃に出たのである。

(同書 P27)



 東中野氏の説明では、「盧溝橋事件は一方的に中国側に責任がある」ということになってしまいそうです。
以下、主として日本側の当事者の資料をもとに、事実経過を見ていきましょう。
*今日では、「蘆溝橋」ではなく、「くさかんむり」のない「盧溝橋」が正しい表記とされています。以下では、原文で「蘆溝橋」を使っている場合には「蘆溝橋」と、「盧溝橋」を使っている場合には「盧溝橋」と表示するようにしていますが、必ずしも厳密ではありません。 ご容赦ください。

**東中野氏言うところの「第四撃」は、次の記事で取り上げます。 なお「第四撃」という言い方は東中野氏特有のもので、「第三撃まで」と「第四撃」なるものの性格が全く異なることから、通常の「盧溝橋」論議では、「第四撃」という表現は使われません。

 

 「盧溝橋事件」と聞いた時に、誰しもがイメージするのが、「誰が第一発を射ったのか」という、いわゆる「第一発問題」でしょう。

 しかしこの問題は、「盧溝橋事件」の全体像を見渡した時には、必ずしも重要な問題とは言えないかもしれません。日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍兵士の偶発射撃の可能性が高い」ということで、ほぼ一致を見ています。

 ただしひとつだけ注意を払うべきは、中国側は何のきっかけもなく突然射撃を行ったわけではなく、日本軍の演習中の空砲射撃が中国軍の「偶発射撃」を誘発した可能性が高い、という事実です。 以下、資料を頼りに、「第一発」問題を、追っていきましょう。
*「第一発」からして「中国共産党の陰謀」と見る見方は、日本軍と中国軍との間に中間策動者が位置するだけの間隙がなかった、という事実から、今日ではほぼ否定されています。 また、中国側研究者の間では、「日本軍の陰謀」とする見方が主流ですが、日本側研究者の間では、これは無理のある見方である、との見解が一般的です。
**当コンテンツは、「盧溝橋事件」の包括的な説明を試みたものではありません。以下では、「兵一名行方不明問題」を省略するなど、かなり端折った説明を行っておりますので、予め御了解願います。




 まず最初に、「第一発」時点での日本軍の指揮ラインを確認しておきます。「登場人物と役割」が頭に入っていないと、以下の文章が大変読みづらいものになるのではないかと懸念しますので、ここは必ず押さえておいて下さい。

 日本側の事件の当事者は、「支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊第八中隊」でした。ラインの指揮官は、以下の通りです。

第一連隊 連隊長 牟田口廉也
第三大隊 大隊長 一木清直
第八中隊 中隊長 清水節郎

 牟田口連隊長は、のちのインパール作戦の指揮者。一木大隊長は、ガタルカナルの戦いで「一木支隊」を指揮し、戦死しています。お二人とも「太平洋戦争史」では有名な名前ですので、ご記憶の方も多いと思います。

 なお、この3名とも「事件」について詳細な手記を残しており、「事件」研究の一級資料となっています。




 さらに、演習時の位置関係です。永定河堤防(竜王廟附近)では、中国軍が作業を行っている。その東側に第八中隊が中国軍を背に布陣している。さらにその東側に日本軍の「仮設敵」がいる。ここまでを、御記憶ください。

 
盧溝橋演習要図


「部隊」の位置関係だけを簡略化すると、次の通りとなります。


西  
(永定河堤防)中国軍が作業中 第八中隊が東を向いて布陣 演習仮設敵(日本軍)


 



 まずは、日本軍の「公式見解」として、「歩兵第一連隊」、「歩兵第一連隊第三大隊」の「戦闘詳報」の記述を見ていきましょう。

支那駐屯軍歩兵第一連隊 『蘆溝橋附近戦闘詳報

自昭和十二年七月八日至昭和十二年七月九日


 第一 戦闘前に於ける彼我形勢の概要
(略)

五 事変の発端

  第八中隊夜間演習中支那側より射撃を受く 第八中隊は七月七日午後七時三十分より夜間演習を実施し龍王廟附近より東方大瓦窑に向ひ敵主陣地に対し薄暮を利用する接敵次で黎明突撃動作を演練せり  而して該中隊長が特に龍王廟を背にし東面して演習を実施したるは予て龍王廟附近には夜間支那軍配兵しあるを知り其誤解を避けんが為なり

 右演習中該中隊は午後十時四十分頃龍王廟附近の支那軍の既設陣地より突如数発の射撃を受く 之に於て中隊長は直に演習を中止し集合喇叭を吹奏す  然るに再び蘆溝橋城壁方向より十数発の射撃を受く

 此間中隊長は大瓦窑西方「トウチカ」附近に中隊を集結せしむ 然るに兵一名不在なるを知り断然膺懲するに決し応戦の準備をなしつつ伝令を派して在豊台大隊長に急報す

 (みすず書房『現代史資料12 日中戦争4』 P341)


支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊 『戦闘詳報』

<作戦第一日>

第一 戦闘前に於ける彼我形勢の概要


(二)我軍の夜間演習


1 第八中隊は七月七日午後七時三十分より竜王廟附近より東方大瓦窑に向ひ夜間演習を実施す(演習科目薄暮より敵主陣地に対する接敵及黎明攻撃)

2 右演習中該中隊は午後十時四十分頃竜王廟附近支軍の既設陣地より突如数発の射撃を受く

3 之に於て中隊長は演習を中止し集合の喇叭を吹奏す 然るに再ひ蘆溝橋城壁方向より十数発の射撃を受く

4 此間中隊長は大瓦窑西方「トウチカ」附近に中隊を集結せしむ、然るに兵一名不在なるを知り断然膺懲するに決し 応戦の準備をなしつつ本件を岩谷曹長及兵一名(共に支那馬に乗馬す)をして在豊台大隊長に急報す

5 岩谷曹長は豊台西端附近にて夜間演習より帰還中の第七中隊に通報しつつ大隊長官舎に至り報告す
  時正に午後十一時五十七、八分頃なり

6 第七中隊長は駆歩にて大隊長官舎に来連絡し演習帰還中に第八中隊の演習地区の方向にて疑はしき銃声を聞き不審を懐きつつありし処なりと併せ報告す

(秦郁彦氏『盧溝橋事件の研究』P380〜P382)
 



 昭和十二年七月七日、日本軍夜間演習中の午後十時四十分、永定河堤防の中国軍の方向から数発の銃声が聞こえました。 清水中隊長が演習中止の喇叭を吹かせたところ、今度は「盧溝橋城」の方向から十数発の銃声がありました。

 これが、東中野氏の言う、「第一発」「第二発」です。

*「盧溝橋城」は、通常は「苑平県城」と呼ばれます。演習地の南側方向です。

 当時現場にいた兵士たちの証言を見ても、弾丸の数・方向等について細部の相違はあるものの、事実関係は概ね上のストーリーで一致しています。




 それでは、中国側の「発砲」を引き起こしたものは何か。上の記述を読むと、中国側が何の前触れもなく突然発砲してきたかのように見えますが、実際には、日本側の「演習射撃」がそのきっかけとなった可能性が高い 、と見られています。


 第八中隊中隊長、清水節郎氏の手記を見てみましょう。

 
清水節郎氏の手記

 午後一〇時半ごろ前段の訓練を終り、明朝黎明時まで休憩(野宿)するため、私は各小隊長・仮設敵司令に伝令をもって演習中止、集合の命令を伝達させた。 喇叭を吹けば早く集合できるが、中隊では訓練の必要上夜間はなるべく喇叭を使わぬ習慣にしていたのである。

 さて私が立ってこの集合状況を見ていると、にわかに仮設敵の軽機関銃が射撃を始めた。 演習中止になったのを知らず部隊が伝令を見て射っているのだろうとみていると、突如後方から数発の小銃射撃を受けたしかに実弾だと直感した。

 しかるに我が仮設敵はこれに気付かぬらしく、いぜん空包射撃を続けている。そこで傍らの喇叭手に命じて急ぎ集合喇叭を吹奏させると、ふたたび右後方鉄道橋に近い堤防方向から十数発の射撃を受けた。 この前後に振り返ってみると、芦溝橋城壁と堤防上に懐中電灯らしきものの明滅するのが認められた(なにかの合図らしい)。

(秦郁彦氏『日中戦争史』P165) 


 「仮設敵」(日本軍)が、日本軍の方向に向かってなぜか空砲射撃を始めた。その方向の延長線上には、永定河堤防上の中国軍部隊がいます。 すると今度は、中国軍側から射撃音が聞こえた。この経緯から見ると、日本軍の演習射撃が、中国軍の銃撃の引金になった、と見ることは十分可能でしょう。


 この見方は、現場にいた第八中隊員の間でも、ある程度共通のものであったようです。

佐藤一男氏 『蘆溝橋の銃声、一発』より


 最初の一発は、大瓦窑に配置された我が仮設敵が、演習実施部隊に演習上の約束に基き、ある時点に於て軽機(二〜三基)を以て我々演習部隊に対し、猛烈な空包射撃を一斉に開始したときだった。 空包を知らない中国軍は、軽機の空包射撃の物凄い火焔を見て驚き、恐怖のあまり発砲したのでは・・・? と思った。

 そして二回目の三発は・・・この喇叭を合図に日本軍が夜間攻撃でも・・・と思い込み、これまた恐怖のあまり発砲したのでは・・・と思った。

*佐藤氏は、当時、第八中隊第一小隊第一分隊長、軍曹。


(戦友会『支駐歩一会々報』 第十一号 P72〜P73)


長沢連治氏 『蘆溝橋事件を想起して』より


4.我が仮設敵の空砲射撃

 ご承知のように中国軍には空包はなかった。仮設敵は永定河に向けて配置された。つまり散兵壕に配されていた中国兵にも向っている。

 演習進行中に中隊長の指示で射つのだが、その時どうも間違って早目に射ってしまったらしい。 遅い早いは別として射てば小銃も軽機も銃口の先で火光を放つ。それが中国の壕内兵の目に映じたのは当然である。

 これを中国側某要人があの晩蘆溝橋方面で盛んに銃声が聞えた。 こちらが一発も射たないのに日本軍の攻撃を受けたからだと事件の責任を日本軍に押しつける。自分を有利にしようとする為、空包も実包にしてしまうのは中国人の得意芸である。


5.彼等の嫌やがらせ

 私の思うに、お前等がこっちに向けて火を放つなら当方からも少しぶっ放なしてやれとの気持ちを起したのでは ? 射とうにも空砲などないから所詮は実弾だ。射たれた方は、暗夜に鉄砲でも、背後から突如実弾の飛行音を浴せられたらどんな気持ちになるか ?  それも一度ならず二度、三度やられたら、古来から「弓をひく」と云うことを敵意の現れと云い伝えられてきた日本軍人である。現場に居合せた人でなくともお分りと思う。

(以下略)

*長沢氏は当時、第八中隊分隊長・伍長。

(戦友会『支駐歩一会々報』 第十一号 P31〜P32)



 第一連隊副官であった河野又四郎少佐も、ほぼ同じ見方です。


河野又三郎少佐の手記より


  中国兵は空包を持たない。平時でも彼等の携行弾は実包である。彼等の射撃は仮令「嚇し」「示威」「暴発」などかりそめの射撃でも実弾が飛出す。

 空包は発射音だけ、実包は発射音に続き実弾が飛ぶため空気との摩擦音が生じる。日本兵は射撃を受けた場合、それが空包か、実包かすぐ聞分けるが、空包を知らぬ中国兵には聞分けはない。

 龍王廟の中国兵は其の日防禦工事をしていたと云うから、日本軍の攻撃を予想し戦々競々としていたものと考えられる。

昼間ならば龍王廟と大瓦窑との距離は約一、〇〇〇米あるから、小銃射撃はさまで感じなかったであらうが当夜は真の暗夜であり、銃声はすぐそこのように錯覚する。 我が仮設敵の空包を「ソレ日本軍の攻撃」とばかり反射的に射撃したものと想はれる。(水鳥の羽音を敵襲と誤りし平家の如く)

 次に喇叭であるが、これは日中双方とも相手方の喇叭音を聞いても其の意味はわからない。我が方の「集合」喇叭を彼等は日本の攻撃合図と誤解したかも知れない。

 以上の如く双方とも相手の実情を知らぬために起った誤解である。

(岡野篤夫『蘆溝橋橋事件の実相』P143〜P144)


 日本軍の軽機関銃が演習中に「空砲射撃」を開始した。中国軍はそれを日本軍の攻撃と誤認して「射撃」を行った。日本軍はただちに喇叭の合図で集合する。 すると今度は、中国軍はその喇叭を「攻撃合図」と誤認して、再び射撃を行った。以上の資料を見ると、概ねこのような事実経過であったであろう、と思われます。

 これを「中国軍の挑発」とみなすことは、無理のある見方である、と言えると思います。


*なお、行方不明になっていた志村二等兵が中国軍陣地に近づいたため中国側が発砲した、という説もあります。いずれにしても、「第一発」「第二発」を中国側の一方的な「挑発」と見ることは難しいでしょう。




次に、「第三発」です。「戦闘詳報」の記述は、極めて簡単です。

 
支那駐屯軍歩兵第一連隊 『蘆溝橋附近戦闘詳報

自昭和十二年七月八日至昭和十二年七月九日


第三 戦闘経緯

一 聯隊長の決心

 聯隊長は午前稍過ぎ第三大隊長より電話を以て次の報告に接す

 午前三時二十五分龍王廟方向にて三発の銃声を聞く 支那軍が二面も発砲するは純然たる対敵行為なりと認む

 (みすず書房『現代史資料12 日中戦争4』 P342)



 比較的解明度の高い「第一発」「第二発」に比較して、「第三発」の原因は、決して明らかにされているとはいえません。また、関係者の手記を見ても、上記『戦闘詳報』を上回る内容はほとんどありません。

 その中で、辛うじて「第三発」の原因について触れているのが、寺田浄氏の記述、また、第一連隊副官の河野氏の手記です。

寺田浄氏『第一線の見た蘆溝橋事件記』より


  大隊長は一文字山を占領すると、ただちに各中銃隊に配備を命じた。歩兵砲、機関銃隊も、平素の訓練通り陣地構築をはじめた。

 指揮官は常に一歩先を考えねばならない。大隊長は各中銃隊長を集めて次の対策にかかった。

 「夜が明けたら、蘆溝橋城に交渉にいこう。誰々と通訳、それに憲兵」

 あとは交渉に臨む方針を考えてか、言葉が切れた。と突然、

 「パン、パン。パン」

 暗夜に三発の銃声。時は三時半、またも竜王廟方向である。
皆の雑談はやんだ。耳をそば立てて、暗中の敵陣地を注視した。しかし続く銃声は聞えなかった。

 その頃一文字山の前方より灯が一つ、明滅しながら近づいて来た。三橋上等兵と、安武通訳が取調べのため山を降りた。駱駝の一群であった。静寂の中に一犬が鳴いた。数犬の遠ぼえが無気味に続いた。

 程経て、第八中隊の岩谷曹長が馬を走らせて来た。

 「中隊の位置に帰ろうとして、竜王廟付近をさがしていましたら、射たれました」と報告した。


 大隊長はその報告が、終わるか終わらないかに、「馬鹿! 射たれてなぜ射たぬ」と大喝した。

 この発砲も、あとで述べる兵一名の行方不明報告、桜井顧問より聞いた秦徳純の言葉とともに、大隊長、連隊長の情況判断、決心、そしてその決心に基づいて取られた処置に大きい影響を与えた。言葉を変えると、事件進展の三大要素ともいうべきものであった。

(同書 P48〜P49)


 
河野又三郎少佐の手記より


  一文字山の大隊長は勢立って来たものの、不明の兵が無事であったので、勢を削がれ振上げた拳の下しようがない。兎に角連隊長より調査を命ぜられているから、中国兵の動静を見るため一文字山前万に兵を進めた。

 このとき龍王廟方面で銃声がした(この銃声は第八中隊の岩谷曹長と兵一名が、乗馬伝令として豊台に報告に出され、其の帰途、中隊が見当らぬため龍王廟まで行き右往左往していたのを、 同地の中国兵に射撃されたものと後刻判明した)

(岡野篤夫『蘆溝橋橋事件の実相』P139)


 日本軍の伝令が、中国軍陣地に近づき過ぎたために、中国軍から銃撃された、という見方です。

 中国側の資料でも、「第三発」に直接触れたものではありませんが、中国軍の側でも「迎撃」の指示が出ていたことを伺わせる記述があります。

金振中『死すとも亡国奴にはならず』より


 この日の昼食後、敵情を偵察するために、私は平服に着替えた後、スコップを担いで鉄橋の東約五〇〇メートルにおける日本軍演習地の方向に歩いて行き、日本軍の動静を偵察した。

 ちょうど盧溝橋駅を通り過ぎようとした時、日本軍の部隊が雨と泥濘の中をも物ともせず、盧溝橋を目標として攻撃演習を行なっているのが、はるか遠方に見えた。そしてその後方では、砲兵があたかも大敵に臨むかのように、緊張して戦闘の準備作業をしていた。 さらにその後方からは、戦車の轟々たる音がしだいに近づいて来るのが聞こえた。

*「ゆう」注 現場には「戦車」は存在せず、この記述は金振中氏の記憶違いであると思われます。

 こうした情況を見てとった私は、すぐに大隊本部へ戻って将校会議を開き、私の目撃した一部始終を報告した。 そして各中隊に対し、十分なる戦闘準備をなすよう指示し、日本軍が我が陣地の一〇〇メートル以内に進入したら射撃してもよく、敵が我が砲火網から逃れられないようにせよ、と命じた。

(秦郁彦氏『盧溝橋事件の研究』P401〜P402)

 


  これは、あるいは中国側の「過剰防衛」と見ることができるかもしれません。しかしいずれにせよ、中国側の一方的な「挑発」であったと断言することはできないでしょう。




  以上、「第一発」から「第三発」までを見てきました。

 東中野氏は、これを、「偶発的どころか意図的な射撃、すなわち挑発と言わざるを得ないであろう」と決め付けました。

 しかしこのように見ていくと、これらの射撃を、単なる一方的な「挑発」と断言することは到底できず、むしろ、日本軍の動きに呼応した(あるいは誤認した)「偶発射撃」と考えることが妥当であるように思われます。

(2005.2.19)


HOME 次へ