盧溝橋事件 「第一発」問題 |
「南京事件」と異なり、「盧溝橋事件」論議では、少なくとも日本国内に関する限り、明らかなトンデモ議論を見かけることはほとんどありません。「事件の見方」はともかく、「事実認識」については、左右双方、概ねの一致を見ているように思われます。 ただしそれは「専門家」の間でのことで、必ずしも専門家とは言えない方の記述には、かなり怪しげなものがあるのも事実です。例えば、たまたま見かけた、東中野修道氏の記述です。
東中野氏の説明では、「盧溝橋事件は一方的に中国側に責任がある」ということになってしまいそうです。以下、主として日本側の当事者の資料をもとに、事実経過を見ていきましょう。 *今日では、「蘆溝橋」ではなく、「くさかんむり」のない「盧溝橋」が正しい表記とされています。以下では、原文で「蘆溝橋」を使っている場合には「蘆溝橋」と、「盧溝橋」を使っている場合には「盧溝橋」と表示するようにしていますが、必ずしも厳密ではありません。 ご容赦ください。 「盧溝橋事件」と聞いた時に、誰しもがイメージするのが、「誰が第一発を射ったのか」という、いわゆる「第一発問題」でしょう。 しかしこの問題は、「盧溝橋事件」の全体像を見渡した時には、必ずしも重要な問題とは言えないかもしれません。日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍兵士の偶発射撃の可能性が高い」ということで、ほぼ一致を見ています。 ただしひとつだけ注意を払うべきは、中国側は何のきっかけもなく突然射撃を行ったわけではなく、日本軍の演習中の空砲射撃が中国軍の「偶発射撃」を誘発した可能性が高い、という事実です。 以下、資料を頼りに、「第一発」問題を、追っていきましょう。 *「第一発」からして「中国共産党の陰謀」と見る見方は、日本軍と中国軍との間に中間策動者が位置するだけの間隙がなかった、という事実から、今日ではほぼ否定されています。 また、中国側研究者の間では、「日本軍の陰謀」とする見方が主流ですが、日本側研究者の間では、これは無理のある見方である、との見解が一般的です。 **当コンテンツは、「盧溝橋事件」の包括的な説明を試みたものではありません。以下では、「兵一名行方不明問題」を省略するなど、かなり端折った説明を行っておりますので、予め御了解願います。 まず最初に、「第一発」時点での日本軍の指揮ラインを確認しておきます。「登場人物と役割」が頭に入っていないと、以下の文章が大変読みづらいものになるのではないかと懸念しますので、ここは必ず押さえておいて下さい。 日本側の事件の当事者は、「支那駐屯軍歩兵第一連隊第三大隊第八中隊」でした。ラインの指揮官は、以下の通りです。 第一連隊 連隊長 牟田口廉也 第三大隊 大隊長 一木清直 第八中隊 中隊長 清水節郎 牟田口連隊長は、のちのインパール作戦の指揮者。一木大隊長は、ガタルカナルの戦いで「一木支隊」を指揮し、戦死しています。お二人とも「太平洋戦争史」では有名な名前ですので、ご記憶の方も多いと思います。 なお、この3名とも「事件」について詳細な手記を残しており、「事件」研究の一級資料となっています。 さらに、演習時の位置関係です。永定河堤防(竜王廟附近)では、中国軍が作業を行っている。その東側に第八中隊が中国軍を背に布陣している。さらにその東側に日本軍の「仮設敵」がいる。ここまでを、御記憶ください。 「部隊」の位置関係だけを簡略化すると、次の通りとなります。
まずは、日本軍の「公式見解」として、「歩兵第一連隊」、「歩兵第一連隊第三大隊」の「戦闘詳報」の記述を見ていきましょう。
昭和十二年七月七日、日本軍夜間演習中の午後十時四十分、永定河堤防の中国軍の方向から数発の銃声が聞こえました。 清水中隊長が演習中止の喇叭を吹かせたところ、今度は「盧溝橋城」の方向から十数発の銃声がありました。 これが、東中野氏の言う、「第一発」「第二発」です。 *「盧溝橋城」は、通常は「苑平県城」と呼ばれます。演習地の南側方向です。 当時現場にいた兵士たちの証言を見ても、弾丸の数・方向等について細部の相違はあるものの、事実関係は概ね上のストーリーで一致しています。 それでは、中国側の「発砲」を引き起こしたものは何か。上の記述を読むと、中国側が何の前触れもなく突然発砲してきたかのように見えますが、実際には、日本側の「演習射撃」がそのきっかけとなった可能性が高い 、と見られています。 第八中隊中隊長、清水節郎氏の手記を見てみましょう。
「仮設敵」(日本軍)が、日本軍の方向に向かってなぜか空砲射撃を始めた。その方向の延長線上には、永定河堤防上の中国軍部隊がいます。 すると今度は、中国軍側から射撃音が聞こえた。この経緯から見ると、日本軍の演習射撃が、中国軍の銃撃の引金になった、と見ることは十分可能でしょう。 この見方は、現場にいた第八中隊員の間でも、ある程度共通のものであったようです。
第一連隊副官であった河野又四郎少佐も、ほぼ同じ見方です。
日本軍の軽機関銃が演習中に「空砲射撃」を開始した。中国軍はそれを日本軍の攻撃と誤認して「射撃」を行った。日本軍はただちに喇叭の合図で集合する。 すると今度は、中国軍はその喇叭を「攻撃合図」と誤認して、再び射撃を行った。以上の資料を見ると、概ねこのような事実経過であったであろう、と思われます。 これを「中国軍の挑発」とみなすことは、無理のある見方である、と言えると思います。 *なお、行方不明になっていた志村二等兵が中国軍陣地に近づいたため中国側が発砲した、という説もあります。いずれにしても、「第一発」「第二発」を中国側の一方的な「挑発」と見ることは難しいでしょう。 次に、「第三発」です。「戦闘詳報」の記述は、極めて簡単です。
比較的解明度の高い「第一発」「第二発」に比較して、「第三発」の原因は、決して明らかにされているとはいえません。また、関係者の手記を見ても、上記『戦闘詳報』を上回る内容はほとんどありません。 その中で、辛うじて「第三発」の原因について触れているのが、寺田浄氏の記述、また、第一連隊副官の河野氏の手記です。
日本軍の伝令が、中国軍陣地に近づき過ぎたために、中国軍から銃撃された、という見方です。 中国側の資料でも、「第三発」に直接触れたものではありませんが、中国軍の側でも「迎撃」の指示が出ていたことを伺わせる記述があります。
これは、あるいは中国側の「過剰防衛」と見ることができるかもしれません。しかしいずれにせよ、中国側の一方的な「挑発」であったと断言することはできないでしょう。 以上、「第一発」から「第三発」までを見てきました。 東中野氏は、これを、「偶発的どころか意図的な射撃、すなわち挑発と言わざるを得ないであろう」と決め付けました。 しかしこのように見ていくと、これらの射撃を、単なる一方的な「挑発」と断言することは到底できず、むしろ、日本軍の動きに呼応した(あるいは誤認した)「偶発射撃」と考えることが妥当であるように思われます。 (2005.2.19)
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