| 盧溝橋事件 最初の衝突 ー7月8日午前5時30分ー |
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先のコンテンツでは、「第三発」までは、中国軍の一部兵士の「反射的射撃」、あるいはせいぜい「過剰防衛」のレベルに過ぎないことを見てきました。 この時点では、「中国軍とおぼしき銃声が三回にわたり聞こえた」という小事件であるに過ぎません。これまでのところでは、日本側の損害は皆無であることに、ご注意ください。 このコンテンツでは、この「小事件」が、なぜ「本格衝突」に発展してしまったのか、その経緯を追っていきます。 日本軍は、この「第三発」までを「中国軍の挑発」と決め付け、7月8日午前4時20分、中国軍に対する「攻撃」を決意しました。
二人のうちどちらが先に「攻撃決意」を行ったのか、当事者双方に食い違いが見られますが、一木大隊長の手記に従えば、大隊長が「断然攻撃をしたい」、と意見具申を行い、連隊長が「やって宜しい」、と許可を下したようです。 こうして、日本軍は「戦闘開始」を決意しました。一木大隊長は、部隊に攻撃開始命令を下します。
ところが、思わぬ偶然から、この「攻撃命令」は実行されませんでした。北平(北京)から現場にかけつけた森田中佐が、射撃にストップをかけたのです。
森田中佐は、「4時20分」の攻撃許可を知らなかったようです。森田中佐との話し合いがなかなかつかず、一木大隊長は、いったんは攻撃をあきらめます。 これ以降の経緯を、一木中佐は、このように証言していますが・・・。
これだけを読むと、朝食休憩を行っている日本軍に対して、中国側が一方的に射撃を行ったように見えます。『戦闘詳報』の記述も、概ね似たようなものになっています。 しかし一見して、この一木中佐の証言は不自然です。一木中佐は、日本軍の「攻撃が鈍ったと見」て中国軍が射撃を開始した、と証言していますが、「先制攻撃」の動機としてはあまりに弱いと感じるのは、私ばかりではないでしょう。 実は、一木中佐は、経緯の重大な一部を、「証言」から省略していたのでした。例えば、寺田浄氏の記述を見ましょう。
日本軍は、中国軍から先に発砲するように仕向けていたわけです。第八中隊第一小隊長、野地中尉の記述は、さらに詳細です。
東中野氏は、衝突の原因を中国軍の「挑発」に求めていましたが、実際には、「挑発」を行ったのはどう見ても日本軍でした。 当時の北京特務機関補佐官、寺平忠輔氏の記述は、さらに明快です。
寺平氏もまた、「中国軍が一木大隊の攻撃を、頓挫したとあなどって射ちかかってきたのでは決してない」と、一木証言を明確に否定しています。 策が功を奏して思惑通り中国軍への攻撃を開始できた一木中佐は、実に気分爽快だったようです。「座談会」の次の発言が、一木中佐の心境を暗示しています。
午前5時30分、最初に射撃を行ったのは中国軍でした。 しかし日本軍はそれより先に「攻撃」の決意を行っており、それが実行されなかったのはほんの「偶然」からに過ぎません。 また、中国軍が射撃を行うにあたっては、間違いなく、日本軍の「挑発」がその背景にありました。 最後に、江口氏の「事件」に対する評価を紹介しましょう。
(2005.2.20)
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