盧溝橋事件 「拡大」への道程 ー内地三個師団等派兵決定ー |
「盧溝橋事件」は、もともとは、「銃声が聞こえた」というだけの小事件でした。問題視された「兵一名行方不明」もわずか20分後には解決していますし、また、6時間後の「最初の衝突」に至るまで、日本側に損害が出たわけでもありません。 「なぜ「銃声が聞こえた」だけの小事件が全面戦争にまで拡大してしまったのか」というミステリーは、「事件」の流れを見る上で、大変興味深いテーマでしょう。 「盧溝橋事件」は、大きく、7月8日午前5時30分の「現地軍の最初の衝突」までの第一ステージ、そしてその後7月28日の全面衝突までの第二ステージに分けることができます。 この第二ステージの中で、決定的なターニングポイントともいえる役割を果たしたのが、日本側の内地三個師団等の「派兵決定」です。 このコンテンツでは、この「派兵決定」にスポットライトを当ててみることにします。
「最初の衝突」は、二時間ほど続きました。その後も午後三時半頃に戦闘が再燃するなど、散発的な衝突は繰り返し発生するものの、概ねは小康状態で推移します。 その間、特務機関の桜井徳太郎中佐、寺平忠輔大尉は、盧溝橋城内で中国側と交渉を行なっていました。「紛争」をとりあえず収める手段として、桜井中佐は、「日本軍は永定河の東岸に、中国軍は西岸に」という、「兵力引離し」提案を行ないます。
盧溝橋城は、「東岸」にあります。すなわちこれは、中国軍に現に駐屯している「盧溝橋城」からの撤退を強いることに他なりません。第三者的な視点から見れば、 中国側に現在駐屯地の放棄を強いる一方的な提案である、とも言えるでしょう。 しかし、戦いを避けたい冀察側は、基本的にはこれを呑む方向で話し合いを継続します。その結果、九日午前二時、ともかくも停戦協議が成立、同日午後〇時二十分には中国軍は盧溝橋城から撤退しました。 さて交渉は、具体的に「事件」の後始末をどうつけるか、という次のステップに入ります。七月十日、橋本群参謀長は中国側代表の張自忠に対して、このような要求を突きつけました。
これまた第三者的視点から見れば、一方的な内容です。盧溝橋附近からの撤退ばかりか、どさくさに紛れて、「事件」に関与しているかどうかも定かではない「抗日団体」の取締にまで要求を広げています。 ちなみに、この要求について、日中戦争の研究家である古屋哲夫氏の評を見ましょう。
中国側は「盧溝橋からの撤退」に抵抗しますが、交渉を担当した今井武夫少佐の「万一中国側が、日本軍の要求条件を容認すれば、日本軍は自発的に、調印と同時に蘆溝橋周辺から撤兵しよう」との説得が功を奏し、 最終的には七月一一日午後八時、ほぼ日本側の要求に沿った形で「停戦協定」が成立します。
*この「協定」の第三項を「中国共産党陰謀説」の根拠にしようとする、とんでもない議論を見かけました。 経緯を見れば明らかなように、日本側は別に「第一発」を「共産党」の仕業と考えてこのような要求を出したわけではありません。 「抗日団体」(「共産党」だけではありません)の宣伝が二十九軍内の「抗日」気運を増長し、それが事件の誘引となった、との認識の下の要求でした。 しかし、もとを正せば、日本が支那駐屯軍の兵力を増強して豊台に駐屯を行なったことが事件の遠因となっていたはずです。 後からやってきた日本軍が、中国軍が豊台の近くにいるから事件が起きるんだ、だから撤退せよ、と言うのでは余りに身勝手、一方的な要求でしょう。 このような「要求」が通ってしまうあたりに、当時の華北の雰囲気を窺い知ることができます。 しかしともかくも、日本側に有利な形で「停戦協定」は成立したわけです。かくして「盧溝橋事件」は、ありふれた局地紛争として、解決されようとしていました。ところが・・・。
中央に「事件」の第一報が届いたのは、八日早朝のことです。「第一報」に対する軍部内の反応については、河辺虎四郎が興味深いエピソードを残しています。
以降、「厄介なことが起ったな」「愉快なことが起ったね」というのは、不拡大派と拡大派の対立を象徴する 標語のようになりました。 「拡大派」は、「一大鉄槌を下せば、中国は反省して日本の言うことをきくようになる」(上村伸一『破滅への道』P67)と考えていました。 「一撃論」とも言われます。 実際には、「一大鉄槌」で事態が解決するどころか、中国軍の予想外の抵抗ぶりにより、「事件」が「全面衝突」に発展して日本が泥沼の戦争に堕ちこむ羽目になったことは、後の歴史が語る通りです。 一方「不拡大派」の考えは、このようなものでした。「厄介なことが起ったな」との言葉を残した、柴山大佐の記述です。
参謀本部の参謀本部の「事実上の責任者」(「ゆう」注 河辺虎四郎による表現)であった石原莞爾少将も、 「目下は専念満州国の建設を完成して対「ソ」軍備を完成し之に依つて国防は安固を得るのである。支那に手を出して大体支離滅裂ならしむる事は宜しくない」 (西村敏夫回想録=みすず書房『現代史資料12 日中戦争4』P458)と、概ね似た考えを持っていました。 八日から九日にかけての時点では、参謀本部の主導権を石原少将が握っていたこと、また、事件は「たいしたものではない」と考えられていたこともあり、「不拡大派」が優勢でした。 八日午後六時四十二分には参謀本部から現地に対して「不拡大」を指示する電報が発せられていますし、翌九日午前八時五十分からの臨時閣議でも、「三個師団派兵」という杉山陸軍相の提案が、米内海軍相らの反対で見送りになっています。 この「不拡大派」の優勢をくつがえす大きな材料となったのが、「国民党中央軍北上」のニュースでした。
「不拡大派」として積極論を押さえていた石原莞爾少将も、この報には大きく動揺したようです。
河辺氏は「中央軍北上」の報を「映像」と捉えるなど冷静でしたが、この通り、石原少将は、「派兵」を認める方向に「転向」してしまいます。 なお実際には、この「中央軍北上の報」は、かなりの程度誇張されたものでした。 そもそもこの情報自体、別に国民党などの正式の発表に基づくものではなく、秦郁彦氏によれば、 「要地に駐在する日本武官の情報網」や「通信社の支局情報」からのものであったと推定される、とのことです。
ともかくも、石原少将までが「派兵容認」に回ったことが、「派兵決定」への流れを決定づけます。 かくして七月十一日、午後三時二十分頃に終了した閣議で「派兵」が決定され、同日午後六時二十四分、 「北支派兵に関する政府声明」によって「派兵決定」が公表されます。
しかし後世の眼で見るならば、「現地停戦協定」の成立により「紛争」がいったんは解決したこと、また「中央軍の北上」が事実上の幻に終わったことを考えれば、「派兵決定」はあまりに拙速なものでした。 この「派兵決定」の報は、拡大派を勢いづかせ、さらには中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となります。 現地では、この決定によりそれまでの「解決」気運が一変して「強硬意見」が優勢になりました。現地で停戦協定をまとめあげる上で大きな役割を果たした今井氏が、その衝撃の大きさを語ります。
現地支那駐屯軍(天津軍)で参謀を務めていた池田氏も、「不拡大方針」と実態との落差に戸惑った一人でした。 中央は、口では「不拡大」を唱えながら実際には「内地部隊動員」やら「朝鮮軍・関東軍」の増派といった挑発的行動を仕掛けている。 これでは事態は収まりません。
「派兵決定」が「事件拡大の原因」となった、との見方は、事件当時、参謀本部の軍務局軍事課編成班にいた西浦氏にも共通します。「はたに油をおいていて、それで消火の目的を達しようとするのと同じ」とは、言い得て妙の表現でしょう。
当時同盟通信社の上海支局長を務めていた大ジャーナリスト、松本重治氏も同じ見解です。
さらにそれに加えて、近衛首相は同日午後九時頃、首相官邸に財界有力者や新聞・通信関係者代表等を集めて、国内世論の統一のために政府決定の了解と支援を求める、という積極的な行動に出ます。 これは、秦郁彦氏の言葉を借りれば、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」 (秦郁彦氏『盧溝橋事件』P265)という代物でした。 八月初め、帰国した池田参謀は、近衛首相に直接その責任を問いかけています。
近衛首相の軽率な行動によって、以降の国内世論は「強硬論」が主流となってしまい、挙国一致の「戦争」気分が醸成される結果になりました。 同じく秦氏の言を借りれば、「事件」は、過去の例から言えば「局地紛争」で終わるべき性格のものでした。「拡大」に向かう流れをつくる上で、この「内地三個師団等派兵決定」が大きな役割を果たしたことは疑えません。 最後に、「日中戦争」の研究家、江口氏の見方を紹介しましょう。
(2006.2.11)
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