盧溝橋事件 「拡大」への道程

ー内地三個師団等派兵決定ー


 「盧溝橋事件」は、もともとは、「銃声が聞こえた」というだけの小事件でした。問題視された「兵一名行方不明」もわずか20分後には解決していますし、また、6時間後の「最初の衝突」に至るまで、日本側に損害が出たわけでもありません。

  「なぜ「銃声が聞こえた」だけの小事件が全面戦争にまで拡大してしまったのか」というミステリーは、「事件」の流れを見る上で、大変興味深いテーマでしょう。


 「盧溝橋事件」は、大きく、7月8日午前5時30分の「現地軍の最初の衝突」までの第一ステージ、そしてその後7月28日の全面衝突までの第二ステージに分けることができます。

 この第二ステージの中で、決定的なターニングポイントともいえる役割を果たしたのが、日本側の内地三個師団等の「派兵決定」です。

 このコンテンツでは、この「派兵決定」にスポットライトを当ててみることにします。
 

1  現地の動き

 「最初の衝突」は、二時間ほど続きました。その後も午後三時半頃に戦闘が再燃するなど、散発的な衝突は繰り返し発生するものの、概ねは小康状態で推移します。

 その間、特務機関の桜井徳太郎中佐、寺平忠輔大尉は、盧溝橋城内で中国側と交渉を行なっていました。「紛争」をとりあえず収める手段として、桜井中佐は、「日本軍は永定河の東岸に、中国軍は西岸に」という、「兵力引離し」提案を行ないます。

寺平忠輔氏 『盧溝橋事件』より

 「今日の事件を何とかして早く解決させたいという念願から、その最も効果的な方法を私達ここで考え出したんです。 それは日華両軍、これを永定河の東岸と西岸とにキッパリ切り離してしまう。すると地形上双方共直接いがみ合いが出来なくなる。 この間を利用して解決交渉を促進させたら、事件を現地限りに局限する事が出来ると思うんです。(以下略)」
(P151)


 盧溝橋城は、「東岸」にあります。すなわちこれは、中国軍に現に駐屯している「盧溝橋城」からの撤退を強いることに他なりません。第三者的な視点から見れば、 中国側に現在駐屯地の放棄を強いる一方的な提案である、とも言えるでしょう。

 しかし、戦いを避けたい冀察側は、基本的にはこれを呑む方向で話し合いを継続します。その結果、九日午前二時、ともかくも停戦協議が成立、同日午後〇時二十分には中国軍は盧溝橋城から撤退しました。



 さて交渉は、具体的に「事件」の後始末をどうつけるか、という次のステップに入ります。七月十日、橋本群参謀長は中国側代表の張自忠に対して、このような要求を突きつけました。

 
七月十日 支那駐屯軍より中国側への要求

一 第二九軍代表は日本軍に対し遺憾の意を表し将来責任を以て再ひ斯くの如き事件の惹起を防止することを言明すること
二 責任者の処分を行ふこと
三 蘆溝橋附近永定河左岸には支那軍隊を駐屯せしめさること
四 本事件は所謂藍衣社、共産党他抗日系各種団体の指導に胚胎する所多きに鑑み将来之か対策取締を徹底すること

右要求の受諾を文章として日本軍に提出し第四項の具体的事項は説明に止むることを得 而して右要求受諾後日支両軍は各原駐地に復帰するも蘆溝橋附近は我か要求通となす

(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』 P159〜P160)


 これまた第三者的視点から見れば、一方的な内容です。盧溝橋附近からの撤退ばかりか、どさくさに紛れて、「事件」に関与しているかどうかも定かではない「抗日団体」の取締にまで要求を広げています。

 ちなみに、この要求について、日中戦争の研究家である古屋哲夫氏の評を見ましょう。

古屋哲夫氏『日中戦争』より

 この要求を今日の常識でみれば、(一)は事件の原因・経過を十分に調査しないうちから、責任を中国側に押しつけ、 (二)は、日本軍との戦闘に参加していない盧溝橋城(宛平県城とも呼ばれる)からの中国軍の撤退を、 (三)は事件との関係が証明されているわけでもない国民党機関の抑圧を要求するものであり、事件を拡大するものと読むほかはない。

 現地でこれが不拡大と感ぜられたとしたら、これが一定地域からの中国軍の撤退と国民党機関の排除とをめざす梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定と同じ発想に立ちながら、要求の規模からいえば著しく小さかったからにほかならないであろう。

(P128〜P129)

*「ゆう」注 「戦闘に参加していない」というのは、「事件」のきっかけとなった「第一発」から「第三発」までの「銃撃」に参加していない、と読むべきでしょう。


 中国側は「盧溝橋からの撤退」に抵抗しますが、交渉を担当した今井武夫少佐の「万一中国側が、日本軍の要求条件を容認すれば、日本軍は自発的に、調印と同時に蘆溝橋周辺から撤兵しよう」との説得が功を奏し、 最終的には七月一一日午後八時、ほぼ日本側の要求に沿った形で「停戦協定」が成立します。


蘆溝橋事件現地協定(松井・秦徳純停戦協定)

一 第二九軍代表は日本軍に対し遺憾の意を表し且責任者を処分して将来責任を以て再ひ斯の如き事件の惹起を防止することを声明す

二 中国軍は豊台駐屯日本軍と接近し過き事件を惹起し易きを以て蘆溝橋城郭及龍王廟に軍を駐めす 保安隊を以て其治安を維持す
三 本事件は所謂藍衣社共産党其他抗日系各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み将来之か対策をなし且つ取締を徹底す

以上各項は悉く之を承諾す

(『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』 P171〜P172)
*この「協定」の第三項を「中国共産党陰謀説」の根拠にしようとする、とんでもない議論を見かけました。 経緯を見れば明らかなように、日本側は別に「第一発」を「共産党」の仕業と考えてこのような要求を出したわけではありません。 「抗日団体」(「共産党」だけではありません)の宣伝が二十九軍内の「抗日」気運を増長し、それが事件の誘引となった、との認識の下の要求でした。

 しかし、もとを正せば、日本が支那駐屯軍の兵力を増強して豊台に駐屯を行なったことが事件の遠因となっていたはずです。

 後からやってきた日本軍が、中国軍が豊台の近くにいるから事件が起きるんだ、だから撤退せよと言うのでは余りに身勝手、一方的な要求でしょう。

 このような「要求」が通ってしまうあたりに、当時の華北の雰囲気を窺い知ることができます。


 しかしともかくも、日本側に有利な形で「停戦協定」は成立したわけです。かくして「盧溝橋事件」は、ありふれた局地紛争として、解決されようとしていました。ところが・・・。



 中央の動き

 中央に「事件」の第一報が届いたのは、八日早朝のことです。「第一報」に対する軍部内の反応については、河辺虎四郎が興味深いエピソードを残しています。

『河辺虎四郎少将回想応答録』より

 八日の電報を見ました時の一つの例として申上げますが、軍務課長が斯ういふことを電話で言つて来ました。 「厄介なことが起つたな」。それが軍務課長の私に対する電話の第一声でありました

 。第三課長は「愉快なことが起ったね」と言つて居りました。

 当時そんな風に陸軍省と参謀本部に二つの空気があったのです


 一方は之は何とか揉み潰しをしなければならぬといふ風に思ひ、一方では此奴は面白いから油をかけてもやらさうといふ気持の上に違ひがあります。

 電話でもさういふ風な違ひがある、之は殊に控へ目にするものと徹底的に拍車を入れてやらうといふ気持といふものと違ひます。

(『現代史資料』12 「日中戦争4」 P410)

*「ゆう」注 「軍務課長」とは柴山兼四郎大佐、「第三課長」とは武藤章大佐のことです。


 以降、「厄介なことが起ったな」「愉快なことが起ったね」というのは、不拡大派と拡大派の対立を象徴する 標語のようになりました。


 「拡大派」は、「一大鉄槌を下せば、中国は反省して日本の言うことをきくようになる」(上村伸一『破滅への道』P67)と考えていました。 「一撃論」とも言われます。

 実際には、「一大鉄槌」で事態が解決するどころか、中国軍の予想外の抵抗ぶりにより、「事件」が「全面衝突」に発展して日本が泥沼の戦争に堕ちこむ羽目になったことは、後の歴史が語る通りです。


 一方「不拡大派」の考えは、このようなものでした。「厄介なことが起ったな」との言葉を残した、柴山大佐の記述です。

柴山兼四郎『盧溝橋事件の勃発』より

 当時軍は着々軍の内容を充実し、殊に空軍兵力の増強を企図し、北満に百二十五中隊を設置するの案を樹て当時の国家財政から見れば、膨大な予算を見込れる三十数億の軍事費を政府に要求するの案を審議しつつあったのである。

 従って之の軍の充実を待つて、凡ての問題を解決するも遅くはない、それにかくする事により、対支問題は武力に訴えなくとも、解決する途はなくはない。

 一方今将に建設途上にある満洲国の建設は頓挫することになり、之れが将来の国力培養に影響する処極めて大なるものがある。

 第三は若し万一本事件を拡大する時は蒋介石は何処迄も抵抗を続けるであろうことは想像に難くない。かくなると丸で泥田に脚をつっこんだと同じで、結局抜き差しならなくなる倶れが多分にある。

  此間日本の疲弊するのを待ち受け蘇聯の対日宣戦という事も考へておかねばならぬ、 それのみならず事件の進展に伴ひ或は遂に英、米の対日戦参加と言う事にならぬとも限らぬ。若し斯様な事になっては一大事である。

 先づ大体以上の様な理由で何んとしても之れを本格的日支戦争になら様努力することとなった。

(みすず書房『現代史資料12 日中戦争4』附録『現代史資料月報』より)

 参謀本部の参謀本部の「事実上の責任者」(「ゆう」注 河辺虎四郎による表現)であった石原莞爾少将も、 「目下は専念満州国の建設を完成して対「ソ」軍備を完成し之に依つて国防は安固を得るのである。支那に手を出して大体支離滅裂ならしむる事は宜しくない」 (西村敏夫回想録=みすず書房『現代史資料12 日中戦争4』P458)と、概ね似た考えを持っていました。



 八日から九日にかけての時点では、参謀本部の主導権を石原少将が握っていたこと、また、事件は「たいしたものではない」と考えられていたこともあり、「不拡大派」が優勢でした。

  八日午後六時四十二分には参謀本部から現地に対して「不拡大」を指示する電報が発せられていますし、翌九日午前八時五十分からの臨時閣議でも、「三個師団派兵」という杉山陸軍相の提案が、米内海軍相らの反対で見送りになっています。

 この「不拡大派」の優勢をくつがえす大きな材料となったのが、「国民党中央軍北上」のニュースでした。

『東京朝日新聞』 昭和十二年七月十一日

日支全面的衝突の危機!

中央四箇師、全飛行隊に 蒋介石・進撃令を下す

    前線早くも激戦展開


【十日午後十一時陸軍省に左の公電到着】

 蒋介石は四箇師を石家荘附近に北上するやう命令を発し同時に全飛行隊に対し出動命令を下したものの如し

【漢口十日発同盟】

 蒋介石は十日の廬山会議の結果、徐州を中心に駐屯中の中央軍四箇師団に対して十一日払暁を期し河南省境に集中進撃準備を命じた

(二面トップ 横一段見出し、縦六段見出し)


 「不拡大派」として積極論を押さえていた石原莞爾少将も、この報には大きく動揺したようです。

河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』より

 ある日部長(「ゆう」注 石原莞爾参謀本部第一部長)が私の室に来た際に、私は部長のいった何かの言葉にこたえて、語気を強めて、

"部長は私に対しては、私の課の意見を全面的にいれるようにいわれながら、自室に帰られては、第三課の要請意見を大体そのままとって、どんどん応急増兵や内地の動員準備を進めておられる。私は部長の真意がわからぬ"

といったところ、部長俄然色をなし 、

”何を貴公はいうか。今朝からの情報を読んだか。中国中央軍が北方に向かい動いているじゃないか"

と迫る。

 私もいささか興奮し、

"読みましたヨ。現在日本軍の処理は石原少将に全責任がかかっています。 中国中央軍の北進は、あなたの映像だと私は思います。応急派兵も内地の 動員準備も停止されたら、その映像は消えましょう"

といったところ、部長は急いでそこにあった地図を私の前につき出し、

"この配置を見よ。貴公の兄貴の旅団が全滅するのをおれが見送ってよいと思うか!"

と叱りつけるようにいう。私は

、"全滅はしますまいヨ"

といったが、それを聞こうともせず、部長は私の室から出て行った。 下僚の数人もそこにい合わせ、いささか座が白けた。

 華北の歩兵旅団長は私の実兄河辺正三少将(後の大将)であった。

(P136)
 


 河辺氏は「中央軍北上」の報を「映像」と捉えるなど冷静でしたが、この通り、石原少将は、「派兵」を認める方向に「転向」してしまいます。 

 なお実際には、この「中央軍北上の報」は、かなりの程度誇張されたものでした。

 そもそもこの情報自体、別に国民党などの正式の発表に基づくものではなく、秦郁彦氏によれば、 「要地に駐在する日本武官の情報網」や「通信社の支局情報」からのものであったと推定される、とのことです。

秦郁彦氏『盧溝橋事件』より

 こうした諸部隊の動員と移動は中国の新聞には当然ながら報道されていないが、列車を使うので一部が南京、漢口、太原、済南など要地に駐在する日本武官の情報網にひっかかってもふしぎはない。

  石原作戦部長など陸軍中央が「中央軍の北上」として神経をとがらせたのは、この種の情報と新聞社や通信社の支局情報だろうが、表7-3(略)でわかるようにあとから突き合わせてみると、 少なからぬ誤差のあったことがわかる。

 実際には、問題の四個師のうち中央軍直系は第八十四師だけで、十二日には日本政府の派兵声明に刺激された蒋介石から移動を督促されているが、十日に秦徳純が「準備不足で北上すると日本を刺激して拡大の危険があるから四個師は原駐地で待機してほしい」と要望したせいか、動きは緩慢になる。

 十二日の軍事機関長官会報は、第一次の前線使用部隊は調整師だけではなく、戦力のやや弱い部隊を混用する方針を決めるとともに、必要に応じ中共軍を綏東- 内蒙に進入させ、後方擾乱をはかろうと提案している。中央軍の「北上」にブレーキをかけたと言えよう。

 こうした変化に気づいたのはむしろ第三国筋で、早くも七月十四日の北平クロニクル紙は「中央軍が長江以北に進出した事実はなく」と伝え、 北平の米陸軍武官スチルウェル大佐は「有能な米将校の調査によると七月十六日夜までに津浦線方面で中央軍が北上した事実はなく、第二十九軍への救援意図は疑わしい」と記入した。

 二十四日付の雑誌ニューズウイークは「北上中の中央軍は途中で消えてしまったようだ」とさえ書くが、初動の四個師が目的地に到着したのは同じに十四日頃だった。

 したがって、河北省南部の原駐地をほとんど動かなかった商震軍、万福麟軍をふくめ、二十七日に支那駐屯軍が発動した第二十九軍への総攻撃に間に合っていない。空軍の北上も虚報に近く、結果的には七月十五日に今井参謀次長が「中央軍の北上は未だ確実ならず、精査を要す」(嶋田日記)と下僚をたしなめた通りとなった。

(P268〜P274)


 ともかくも、石原少将までが「派兵容認」に回ったことが、「派兵決定」への流れを決定づけます。

 かくして七月十一日、午後三時二十分頃に終了した閣議で「派兵」が決定され、同日午後六時二十四分、 「北支派兵に関する政府声明」によって「派兵決定」が公表されます。

派兵に関する政府声明(七月十一日)

 相踵ぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は堪忍静観中の処、従来我と提携して北支の治安に任じありし第二十九軍の、七月七日夜半蘆溝橋附近に於ける不法射撃に端を発し該軍と衝突の已むなきに至れり。

 為に平津方面の情勢逼迫し、我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、我方は和平解決の望を棄てず事件不拡大の方針に基き局地的解決に努力し、 一旦第二十九軍側に於て和平的解決を承諾したるに不拘突如七月十日に至り彼は不法にも我を攻撃し再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ、 而も頻りに第一線の兵力を増加し更に西苑の部隊を南進せしめ中央軍に出動を命ずる等武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく遂に北平に於ける交渉を全面的に拒否するに至れり。

 以上の事実に鑑み今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。

 思ふに北支治安の維持が帝国及満州国にとり緊急の事たるは玆に贅言を要せざる処にして支那側が不法行為は勿論排日侮日行為に対する謝罪を為し、 及今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは東亜の平和維持上極めて緊要なり。

 乃て政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり。

 然れども東亜平和の維持は帝国の常に顧念する所なるを以て政府は今後共局面不拡大の平和的折衝の望を捨てず支那側の速なる反省によりて事態の円満なる解決を希望す。 又列国権益の保全に就ては固より十分之を考慮せんとするものなり。

(昭和十二年八月「亜細亜研究会」発行 『北支事変の真相と日支関係諸条約』 P137〜P138)


 しかし後世の眼で見るならば、「現地停戦協定」の成立により「紛争」がいったんは解決したこと、また「中央軍の北上」が事実上の幻に終わったことを考えれば、「派兵決定」はあまりに拙速なものでした。

 この「派兵決定」の報は、拡大派を勢いづかせ、さらには中国側の反発を招くことにより、以降の事件拡大の大きな要因となります。



 現地では、この決定によりそれまでの「解決」気運が一変して「強硬意見」が優勢になりました。現地で停戦協定をまとめあげる上で大きな役割を果たした今井氏が、その衝撃の大きさを語ります。

今井武夫氏『支那事変の回想』より

 ところが、(「ゆう」注 七月十一日)午後二時頃特務機関に帰り着いたら、そこに私を待っていたものは、天津軍司令部から直通の至急電話であった。 当時直通電話は二本あったが、二本共私を呼出しているという。余程緊急問題と考え早速受話器を耳にすると、軍司令部の情報参謀専田盛寿少佐の声で
「本日東京の閣議は、重大な決意の下に、内地の三箇師団と関東軍及び朝鮮軍の有力部隊を動員することを決定した。
多年懸案であった中国問題を解決するため、今こそ絶好の機会である。
従って今更現地交渉の必要もないし、 又既に協定が出来たなら、之れを破棄せよ。」
という、意外に高飛車な言葉に、私は全く驚いて仕舞ったが、一言の下にしかも語気鋭く拒絶して、受話器をおいた。

 当時天津軍司令部から、特務機関に詰めかけていた軍の幕僚には、和知、大木両参謀、塚田中佐等三、四名いたが、しめっぽく沈んだ従来の機関内部の空気は、廟議決定の報道と共に一変し、 これを境として開戦気構えが旺盛となり、にわかに強硬意見が拾頭し、議論も沸騰した。

(中略)

 事件勃発以来不拡大方針を決定していた日本政府は、十一日になって、改めて現地の意見を求めることなく、独自の情勢判断に基づいて、急に華北出兵を決定し、動員の内命まで出してしまった。

 これは事変が拡大した場合に備え、現地の居留民保護のため用意したもので、当時の情勢上已むを得なかっただろうが、軍刀を抜いたら、血を見なければ鞘におさまりにくいのは、日本軍の常識であった。

 丁度現地で、日華双方が局地解決に努力中の、極めて微妙な時機だっただけに、この廟議決定はわれわれ現地の日本側代表の行動を困難にすると共に、 他方中国側にも連鎖反応を惹起して態度を硬化させ、両方面に破局的な影響を及ぼしたことも争えない。

(P30〜P31)

 


 現地支那駐屯軍(天津軍)で参謀を務めていた池田氏も、「不拡大方針」と実態との落差に戸惑った一人でした。

 中央は、口では「不拡大」を唱えながら実際には「内地部隊動員」やら「朝鮮軍・関東軍」の増派といった挑発的行動を仕掛けている。 これでは事態は収まりません。

池田純久氏『陸軍葬儀委員長』より

 さて蘆溝橋事件が起ると私は直ちに『支那と戦つてはいかぬ』と思つた。参謀長橋本少将も此の意見に同意である。軍司令官田代中将は病床にあつた。かくて我が天津軍の方針は不拡大主義ということで中央部に打電され、 現地軍隊にもそれぞれ指令は飛んだ。

 中央部からは折返し「不拡大主義を堅持せよ」と訓令が来た。

 処が関東軍からは「絶好のチヤンスだ。支那を膺懲せよ」と激励電報が来るし、来津した或る参謀は「池田君に忠告する。支那人にだまされるな、共に立つて支那を膺懲しよう」と、えらい権幕で私を叱つたものだつた。

 中央部の若い人たちから、「天津軍ぐづぐづするな」と電話がかかつて来る。

 中央部は不拡大方針を樹てながら、内地で部隊を動員したり朝鮮軍や関東軍の部隊を北支に増派して来る。誠に穏かでなくなつた。

 この情勢の中に軍司令官田代中将が長逝して後任として天津に着いた香月中将は「天津軍の参謀は腰抜け揃いだ」といわんばかりの権幕で、我々をにらみつけるという始末である。

 「これは話が違うぞ、将軍は東京を発つ迄は穏健な不拡大主義者だと聞いていたのに何時の間に色揚げしたのだろうか」 私達は首をかしげた。

 処がそれもその筈京城に立寄つて強硬論の小磯軍司令官に会い、次に関東軍の参謀達から焚きつけられて、何時の間にか強硬論者に早替りしているのだ。 私はこの新任の将軍の着任の当夜、将軍を旅舎に訪うて不拡大主義に転向させるのに午前二時までかかつた。 

(P22〜P23)


 「派兵決定」が「事件拡大の原因」となった、との見方は、事件当時、参謀本部の軍務局軍事課編成班にいた西浦氏にも共通します。「はたに油をおいていて、それで消火の目的を達しようとするのと同じ」とは、言い得て妙の表現でしょう。

西浦進氏『昭和戦争史の証言』より

 石原部長の意見として我々のきいていた処は、こちらから積極的に攻撃はしないが、北支軍の孤立を防ぐために数個師団、航空兵団を動員派遣するので、動員そのものは大規模(当時としては本当に大動員と考えていた)であるが 、思想は寧ろ戦闘事態の発生防止であるというのである。

 理論としては確かに筋が通っているが、当時の出先及び国内の気分からしては、はたに油をおいていて、それで消火の目的を達しようとするのと同じで、 事実その後の経緯が示したようにこの油が事態拡大の原因となってしまった。

 少々孤立の危険はあっても、この動員派兵そのものを参謀本部が飽くまで実施しなかった方がよかったのではあるまいか。

(P74〜P75)

 当時同盟通信社の上海支局長を務めていた大ジャーナリスト、松本重治氏も同じ見解です。

松本重治氏 『上海時代』より

 右の五相会議の申合せをそのまま、ついで開催された閣議で決定したのであった。この閣議決定が、何といっても、華北局地の事態を日中全面戦争へと悪化、発展せしめた最も重大な要因となったことは、 今はほとんど自明の歴史的事実である。

(『上海時代』(下) P131)



 さらにそれに加えて、近衛首相は同日午後九時頃、首相官邸に財界有力者や新聞・通信関係者代表等を集めて、国内世論の統一のために政府決定の了解と支援を求める、という積極的な行動に出ます。

 これは、秦郁彦氏の言葉を借りれば、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」 (秦郁彦氏『盧溝橋事件』P265)という代物でした。

 八月初め、帰国した池田参謀は、近衛首相に直接その責任を問いかけています。

池田純久氏『陸軍葬儀委員長』より

 数日たって私は近衛公を訪うた。公爵は開口一番「池田君とうとうやつたね。支那事変は軍の若い人たちの陰謀だ」といった。

 公爵も関東軍の前科を類推して軍の陰謀だといつたのだ。私は弁解して見てもつまらぬと思つた。

「公爵、戦争張本人は軍でなくて、総理たるあなたですよ」

と、いつたら公爵はビックリした顔で私を見直した。

「なんですつて?」

「そうですよ。公爵あなたの責任ですよ」と答えるなり、私は一枚の新聞を取出して公爵に見せた。それは七月十三日附のもので、折角我々が支那側と調印した現地解決案たるものは、 新聞の一隅に小さく取扱つて、一面から三面にかけて、大々的に国民の戦争熱を煽るような記事で充満していた。

「公爵、政府は不拡大主義を唱えながら、この新聞の扱いは何ですか。これでは戦争にならないのが不思議ではありませんか」

 公爵は私の真意が判ったのか黙つてしまつた。

(P29〜P30)

 近衛首相の軽率な行動によって、以降の国内世論は「強硬論」が主流となってしまい、挙国一致の「戦争」気分が醸成される結果になりました。
 


 同じく秦氏の言を借りれば、「事件」は、過去の例から言えば「局地紛争」で終わるべき性格のものでした。「拡大」に向かう流れをつくる上で、この「内地三個師団等派兵決定」が大きな役割を果たしたことは疑えません。

 最後に、「日中戦争」の研究家、江口氏の見方を紹介しましょう。

江口圭一氏『盧溝橋事件』より

 陸軍中央は七月一〇日、関東軍から二個旅団、朝鮮軍から一個師団、内地(日本国内)から三個師団を華北ヘ派兵することを決定した。

 六月四日に成立したばかりの近衛内閣は、七月一一日にまず五相会議をひらいた。 顔ぶれは首相近衛文麿、外相広田弘毅、陸相杉山元、海相米内光政、蔵相賀屋興宣である。

 五相会議は、内地師団の動員は状況によるという留保をつけて、陸軍の提案を承認した。つづいて閣議がひらかれ、 同じ決定をし、事態を「北支事変」と命名した。

 
近衛首相は、神奈川県葉山へ避暑にでかけていた天皇のもとに行き、派兵について允裁 ( 天皇の許可 )をうけた。

  そのうえで午後六時すぎ、「政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支派兵に関し政府としてとるべき所要の措置をなすことに決せり」という政府声明を発表した。

 政府はさらに、午後九時から一一時にかけて、新聞・通信社、政界、財界の代表者を順番に首相官邸にまねき、政府への協力を要請するという前例のない措置をとった。まねかれた各界の代表は、ひとり残らず政府に協力することを約束し、 いっきょに挙国一致体制がつくりだされた。

 政府声明の末尾には「政府は今後とも局面不拡大のため平和折衝の望みを捨てず」と、いちおううたわれてはいた。

 しかし、現地で停戦交渉が行われており、 この日の夜には曲がりなりにも停戦協定が調印されたというのに、「事変」、すなわち事態をはやばやと宣戦布告はしないが事実上の戦争とみなして出兵を決定し、「重大決意」を声明したうえ、 ものものしい挙国一致体制づくりをすれば、政府の真意は「局面不拡大」ではなく、その拡大、つまり中国との戦争を決意したことにあると、内外に受けとられるのが当然であった。

(P46〜P47)

(2006.2.11)



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