盧溝橋事件 衝突前史 −1936年「兵三倍増強問題」− |
「盧溝橋事件」は、決して、何の前触れもなく、突然起った事件ではありません。当時、現地では軍事的緊張が高まっており、事実上一触即発の状態にありました。秦郁彦氏の言葉を借りれば、「盧溝橋の「第一発」は、現場の中国側当事者から見ると、爆発寸前の張りつめた空気のなかで起きたと言えそうだ」(『盧溝橋事件』P97)という情況でした。 本コンテンツでは、「盧溝橋事件」の遠因としてしばしば言及される、1936年春の支那駐屯軍の兵力増強、いわゆる「兵三倍増強問題」を取り上げたいと思います。まずは、日本側の立場に立った岡野氏の見解から見ていきましょう。
岡野氏の論を要約すれば、 1.この増強は、「中国と事を構えるため」のものではない。現地で独走しがちな、関東軍を牽制するためのものである。 2.居留民も増えており、駐屯軍の兵力が2500人程度では少なすぎる。また、「倍率」は三倍だが、人数で見れば大した増強ではない。 ということになるでしょう。しかし私見では、これは日本側の立場のみを一方的に強調した、一面的な議論であると思われます。 以下、諸論者の見解、当時の軍幹部の見解を合わせて、この問題を見ていきましょう。 まず、「駐屯軍」の性格、歴史的背景です。これについては、秦氏がコンパクトにまとめています。
しばしば、法的根拠が存在することをもって「兵駐屯に問題はない」とする議論を見かけますが、これもまた一面的なものと言えるかもしれません。立脚する条約は当時から30年以上も前のものであり、しかもその条約は、秦氏も書くとおり、中国側から見れば「屈辱的」なものでした。 さらに言えば、この「兵三倍増強」以前は、そもそも「盧溝橋」附近に日本軍は配備されていませんでした。その意味では、古屋氏の言説通り、この「兵三倍増強」が「盧溝橋事件」の直接の「可能性」を生んだ、という言い方もできるでしょう。
さて次は、日本側から見た「増強」の事情です。 岡野氏の説く通り、この「増強」が中国への圧力を意識したものではなく、「支那駐屯軍対関東軍」という構図の中で関東軍を押さえるために行われたものである、というのは一般的な説明になっています。
即ち「兵三倍増強」の動機は、関東軍の「出しゃばり」を防ぐために、支那駐屯軍を増強して対抗する、という、陸軍内部での勢力争いであるに過ぎませんでした。 河辺少将は、対中国情勢という観点からは、客観的に見て「北支に今兵力を増やす理由はない」ことを、正直に告白しています。 しかし、そんな陸軍内部の事情は、中国側の預かり知らぬところでしたし、また、そのような事情が中国側に伝えられるはずもありません。この増強は、 中国側からは、冀東防共自治政府の成立、綏遠事件などと合わせて「日本の中国進出の新段階」として捉えられ、当然のことながら、中国側の激しく抗議するところとなりました。
兵増強、豊台への駐屯が、中国側をいたく「刺激」し緊張を高めた、との見方です。この見方は、さまざまな「盧溝橋事件」研究者の論稿に見ることができます。
このようにして「事件」に向けた「緊張状態」がつくられていく中、日本軍の演習はますます激しさを増していきました。日本軍側から見れば「検閲を意識した新兵教育」に過ぎなかったわけですが、これが中国側を強く刺激し、「事件」に向けて緊張を一層高めていくことになります。 犬養毅の三男、犬養健氏も、こんな記述を残しています。
「盧溝橋事件」の研究者、江口氏、安井氏も、ほぼ同じ見解を持ちます。
このような「一触即発」の状況の下、数発の銃声をきっかけに、「盧溝橋事件」が起きたわけです。 日本軍が「兵三倍増強」を行った直接の動機は、「増加した居留民の保護」などというきれいごとではなく、「支那駐屯軍」と「関東軍」の勢力争いの中で「関東軍」を牽制する、という、全くの軍内部の事情によるものに過ぎませんでした。 確かに「中国を攻撃するための兵力増強」ではなかったのかもしれませんが、これはあくまで「日本軍の内部事情」であるに過ぎず、当の中国がそれをどのように受け取ったのか、はまた別の話になります。 この「兵増強」が日中間の緊張を高め、また「盧溝橋事件」への下地をつくるものであったことは否定できませんし、また、中国の反応も考慮せずに「内部事情」のみで一方的な「兵増強」を行 い、「事件」へ向けて緊張を高めた責任は免れないでしょう。 *一部には、「緊張の高まり」の原因を、日本人に対して頻発したテロ事件に求める意見もあります。しかし、そもそも「テロ事件」の原因となる「反日感情」を呼び起こしたものが、「冀東防共自治政府」という傀儡政権の設立、 蒙古の反乱を助長しようとした「綏遠事件」等、日本側の一連の「華北分離工作」にあることを思えば、これは事の本質を捉えていない見方である、と私は考えます。 (2005.12.24)
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