盧溝橋事件 衝突前史

−1936年「兵三倍増強問題」−


 「盧溝橋事件」は、決して、何の前触れもなく、突然起った事件ではありません。当時、現地では軍事的緊張が高まっており、事実上一触即発の状態にありました。秦郁彦氏の言葉を借りれば、「盧溝橋の「第一発」は、現場の中国側当事者から見ると、爆発寸前の張りつめた空気のなかで起きたと言えそうだ」(『盧溝橋事件』P97)という情況でした。

  本コンテンツでは、「盧溝橋事件」の遠因としてしばしば言及される、1936年春の支那駐屯軍の兵力増強、いわゆる「兵三倍増強問題」を取り上げたいと思います。まずは、日本側の立場に立った岡野氏の見解から見ていきましょう。


 
岡野篤夫氏『盧溝橋事件の実相』より 


 なぜ、軍備を三倍に増強したのか?


友人  ふーん、そういうものですかねえ。けれど、日本軍はその駐屯軍を一年前に三倍に増やしたというじゃないですか。やっぱり何かやる下心があったんじゃないですか。

  それも、知らない人達にそう思い込ませるための中国側の宣伝ですよ。日本軍はその時わざわざ「支那駐屯軍増強」などと自分で宣伝しているので、それを逆手に使われているわけです。確かに増強は増強なんですが、中国軍が言いふらしているように、中国と事を構えるための増強ではないんです。

 一つは満州の関東軍が、北支の支那駐屯軍が微力だということを口実にして北支に介入して来る傾向があったので、それこそ日中戦争を起す心配の種子となりますから、陸軍の中央部は関東軍に口出しをさせないため、駐屯軍を増強してみせたんですよ。

 しかし、それより何より、北支の居留民は以前からみるとずっと殖えていますし、居住する範囲も広まっている、そこへもって来てその前年、昭和十年には宋哲元率いる兵力十万を誇る第二十九軍がチャハル省からこの地区に移って来た。

 この第二十九軍の首脳部は日本とも仲よくやっていましたし、日本から軍事顧問を派遣してもいたんですが、その内実は抗日意識が極めて強い軍隊でした。当時その実体はよくわからなかったわけですが、本書の後半部に書かれた中共側の記録をみればそれがよくわかります。

 こういう状態ですから北支全体で約二千人、北京歩兵隊は五百人というのではどうにも少な過ぎたわけです。そこで北京と天津を連隊編成にして全部で五千五百人ほどになったわけです。

 なるほど倍率で言えば二倍か三倍になったわけですが、数から言えば第二十九軍の十万に比べればとても戦争を始められる兵力とは言えません。しかも北京・豊台にいた人員はそのうちの千二、三百人です。つまり ”三倍に” 増強と強調する言い方のうちに、誤解を生むレトリックがあるわけです。

 それからもう一こと言いますとね、昭和十一年に内地からやって来た兵隊は二年兵が半分、あとの半分はその年入営した初年兵です。そして事件に先だっ昭和十二年の三月、その二年兵は満期除隊して内地に還り、代りにまた新しい初年兵が入って来たわけです。

 ということは、この北京の連隊も内地の各連隊と全く同じで、初年兵を一人前の兵隊に育てるための部隊だったことがわかります。戦争をおっぱじめるための精鋭部隊とは似ても似つかぬヒヨコ部隊です。だからこそ演習も酷しかったんです。

(P97〜P98)


岡野氏の論を要約すれば、

1.この増強は、「中国と事を構えるため」のものではない。現地で独走しがちな、関東軍を牽制するためのものである。

2.居留民も増えており、駐屯軍の兵力が2500人程度では少なすぎる。また、「倍率」は三倍だが、人数で見れば大した増強ではない。

ということになるでしょう。しかし私見では、これは日本側の立場のみを一方的に強調した、一面的な議論であると思われます。

 以下、諸論者の見解、当時の軍幹部の見解を合わせて、この問題を見ていきましょう。





まず、「駐屯軍」の性格、歴史的背景です。これについては、秦氏がコンパクトにまとめています。


 
秦郁彦氏『盧溝橋事件の研究』より

 駐屯兵力の規模については、一九〇一年四月の列国司令官会議で一万二二〇〇人(のち二万人へ)の総枠と国別の割当枠が合意されたが、義和国の乱が終結したあと各国が派遣した平時兵力は上限をはるかに下まわった。そのかわり、辛亥革命、北伐など有事の場合には、各国は独自の判断で増兵し、中国が事前協議を受けることはなかった。

 帝国主義時代の遺物とはいえ、多数の外国軍隊が首都周辺に駐兵するという状況は、中国にとって屈辱的現実にはちがいなかった。ベルサイユ会議やワシントン会議で中国代表が撤退を要望し、一時はそれを支持する決議が採択されたこともあるが、実現せずに終る。

 しかし長年月の間に、列国駐屯軍の性格も少しずつ変っていく。本国の事情などで駐兵権を放棄する国も出たし、残っていても儀礼的役割しか果さず、演習も形だけに近い駐屯軍は珍しくなかった。そのなかで、日本軍だけは実戦部隊に近い特異な性格を保持する。

 北清事変の翌年に編成された清国駐屯軍は一九一一年に支那駐屯軍と改称し、一九三六年まで二五年間に二四代の司令官(大佐か少将)が交代したが、兵力は前記した二度の有事と満州事変直後を除くと概して一千人以下の水準で推移した。

 一九三六年四月、広田内閣は閣議で支那駐屯軍の増強を決定、十八日の軍令陸甲第六号によって支那駐屯軍を新編成に改編した。軍司令官は親補職に格上げして兵力を約三倍に増員し、それまで部隊は一年の交代制だったのを永駐制とした。

 新編制によって内地から華北に派遣される諸隊は五月下旬までに輸送され、軍は六月上旬に編制を完結する。編制定員は明確でないが、改編前の六月一日現在の総人員は戦史叢書によると一七七一人(馬一七四頭)だったのが、六月十日現在には五七七四人(馬六四八頭)に増加している。

 盧溝橋事件勃発時の兵力数には数説あり、中国側は二倍以上も過大に見積っているが、実数は約五六〇〇人ぐらいかと思われる。

 基幹兵力は北平と天津駐屯の歩兵隊を軸に新編した歩兵第一、第二連隊で、新設の支那駐屯歩兵旅団に編入された。軍直轄の支那駐屯砲兵連隊と戦車隊も新編されたので、火力は旧編制の三倍以上となった。

 (P52〜P54)


 しばしば、法的根拠が存在することをもって「兵駐屯に問題はない」とする議論を見かけますが、これもまた一面的なものと言えるかもしれません。立脚する条約は当時から30年以上も前のものであり、しかもその条約は、秦氏も書くとおり、中国側から見れば「屈辱的」なものでした。


 さらに言えば、この「兵三倍増強」以前は、そもそも「盧溝橋」附近に日本軍は配備されていませんでした。その意味では、古屋氏の言説通り、この「兵三倍増強」が「盧溝橋事件」の直接の「可能性」を生んだ、という言い方もできるでしょう。


古屋哲夫氏『日中戦争』より


 なぜ蘆溝橋に日本軍がいたのか

  たとえば、なぜ蘆溝橋事件がおこったのか、とつきつめてゆけば、そこに日本軍が居たから、ということになるであろう。では、さらに、どうしてそんな北京郊外という要地に日本軍が居るのか、といえば、ことは一九〇〇(明治三三)年の義和団事件にまでさかのぼってしまうのである。

 日本はこのとき、列強中で最大の軍隊を送って義和団鎮圧軍の主力となるわけであるが、翌一九〇一年九月、英・米・露・独・伊など日本をふくむ一一か国は、清朝との間の講和条約ともいうべき「最終議定書」に調印、これによって、北京の外交団が義和団に包囲されるなどといった事態の再発を防ぐために、北京と海岸との間の要点を占領する権利を獲得したのであった(第九条)。

 そしてさらに翌年、天津還付に関する交換公文によって、天津全市への駐兵権が追加されるにいたった。

 日本もこの権利にもとづき、「清国駐屯軍」を編成、やがて辛亥革命による清朝の滅亡にともなって「支那駐屯軍」と改称した。本書でもこの軍隊を指すときは、支那駐屯軍の名称を用いることにするが、蘆溝橋付近で演習していたのは、まさにこのなかの一部隊であった。


 起動力としての関東軍

 しかしそれは、義和団事件議定書の駐兵権が、直接に、蘆溝橋事件に結びついたということではない。

 当初の国際会議で日本に割り当てられた兵数は一五七〇名であり、以後この兵力は天津に司令部をおき北京の公使館区域護衛兵を除けば、山海関付近を中心に天津以東に配置されていたのであるから、この段階では、日本軍が北京郊外で演習するという事態はおこりえなかったはずである。


 したがって蘆溝橋事件の可能性が生ずるのは、事件の前年の三六年六月に、支那駐屯軍が約三倍に増強され(総人員は増強前の六月一日の一七七一名から、増強後の六月一〇日には五七七四名に達した)、天津より北京に近い豊台にまで駐兵区域を拡大したためであった。

 この増兵は、これまで列国が任意に、たんに通告のみで、情勢に応じて増兵あるいは撤兵の措置をとってきたという慣例を利用して、中国側の抗議を無視して実施されたものであるが、このとき同時に軍中央部は、支那駐屯軍に対し義和団事件議定書の規定をこえる、新たな任務を与えており、その点で、条約(議定書)違反の性格を持つものであった。

 すなわち、この増強にあたって、支那駐屯軍には、渤海湾より北京に至る交通の確保および在留日本人の保護というこれまでの任務のほかに、新たに、塘沽協定の履行状況の監視と同協定によって設定されていた非武装地域の治安維持が命ぜられたのである。

(P15〜P16)


 


 さて次は、日本側から見た「増強」の事情です。 岡野氏の説く通り、この「増強」が中国への圧力を意識したものではなく、「支那駐屯軍対関東軍」という構図の中で関東軍を押さえるために行われたものである、というのは一般的な説明になっています。


『河邊虎四郎少将回想応答録』より

 支那駐屯軍の増強

 所がさういふ風な色々な北支に於ける政治的工作が関東軍に依つてなされるといふことが、東京− 中央部及政界でも喧しくなつたやうに思ひます。中央は之を心配され、其の原因の一つとして支那駐屯軍が余りに関東軍に比して薄弱だから関東軍は出しやばる、之に対抗するものを作つたらよからうといふ風に考へられたらしいのであります。

 私は公平に考へまして、即ち関東軍の参謀たる立場に於てではなく考へまして適当でないと思ひ意見を提出したことがあります。私の見方としまして北支に今兵力を殖やす理由はないと思ひました。

 大体支那駐屯軍は義和団事件後の条約に依つて出来たものでありまして、兵力には制限がないのでありますが、今に於て兵を増すといふことは愈々北支に対する武力的工作を進めるのだといふ感じを支那人には勿論、外国人にも与へることになり、陸軍の内部的情勢の調整が主目的で之を行ぶのは宜しくないと考へました。

 若し北支に出兵が必要なら関東軍から兵を出せば五時間かからんで之はやれる、無論支那駐屯軍司令部の機構を強化することは差支なからうけれども増兵は不必要であり、 それだけの兵があるならば現在熱河の方には兵は足らぬから其の方に出すのが良いといふ考で意見具申をしたこともあります。

 実際さう思つて居りましたが、中央では愈々支那駐屯軍の増強が定めらるることになりまして、昭和十一年三月か五月に実際の増強を見ました。 而も其の動機は表面の理由は色々ありますが関東軍が出しやばるのを封じて支那駐屯軍に支那問題をやらさうといふ真意があつたと思ひます。

(みすず書房 『現代史資料12 日中戦争4』P411)

 


 即ち「兵三倍増強」の動機は、関東軍の「出しゃばり」を防ぐために、支那駐屯軍を増強して対抗する、という、陸軍内部での勢力争いであるに過ぎませんでした。

 河辺少将は、対中国情勢という観点からは、客観的に見て「北支に今兵力を増やす理由はない」ことを、正直に告白しています。

 


 しかし、そんな陸軍内部の事情は、中国側の預かり知らぬところでしたし、また、そのような事情が中国側に伝えられるはずもありません。この増強は、 中国側からは、冀東防共自治政府の成立、綏遠事件などと合わせて「日本の中国進出の新段階」として捉えられ、当然のことながら、中国側の激しく抗議するところとなりました。


今井武夫氏『支那事変の回想』より


  天津を中心として北寧鉄道(山海関−北平鉄道)沿線に駐屯した、日本の支那駐屯軍は俗に天津軍と通称されていたが、この年五月従来の兵力を倍加していた。

 元来この増兵は満洲事変以来関東軍が、中国関内の情勢に関心をたかめ、とかく越境介入して事件を複雑化する恐れがあったので、天津軍の実力を増強して関東軍の干渉を封じ、両軍の対立を緩和せんとするものであった。

 このため北平駐屯部隊も倍加されたので、兵舎の設備関係もあって、一大隊を新たに豊台に駐屯した。始め通州に駐屯の案であったが、北寧線より遠隔し過ぎ、北清事変終末犠定書の趣旨に違反するため、 豊台の旧英国兵営跡を利用することとした。

 然るに豊台は北寧、平漢両線の分岐要点であるため、北平を戦略的に遮断する意図と誤解され、却て中国側の神経を刺激し、兎角物議の種となり前述の豊台事件を惹起するに至った。


(同書 P13)


  兵増強、豊台への駐屯が、中国側をいたく「刺激」し緊張を高めた、との見方です。この見方は、さまざまな「盧溝橋事件」研究者の論稿に見ることができます。


 
秦郁彦氏『盧溝橋事件の研究』より

 また日本側が増兵を「暗黙の威力」(参謀次長口演)と称しても、中国側はかえって武力による明示的威嚇と受けとめ、外交ルートで抗議して中止を求め、各地で増兵反対の抗議やデモが燃えあがった。

 とくに増加兵力のうち歩兵第一連隊第三大隊を新たに豊台へ配備したこと、周辺で頻繁な演習をくり返したことなどが、盧溝橋事件の遠因となったことが指摘されてきた。東京裁判でも検察官や検察側証人は、豊台の駐兵と演習が条約違反であることを主張して弁護側と論戦を交えている。

(P52〜P56)


島田俊彦氏『華北工作と国交調整』より


  要するに、兵力増強に関する日本側の主張は次のとおりであった。

 すなわち華北の各国軍隊の駐屯には、北清事変の最終議定書が有効であるかぎり、中国政府は口をはさむことができない。 まして中国に直接関係のない兵力量の問題(各国軍司令官会議の決議による)については、なおさらのことである。

 しかも各国軍司令官会議の決議による兵力量の問題も、なるほど総兵力量決議は無視されたことがないが、 各国は時局の変化に伴って任意に増兵を行ない、割当量に関する決議を無視したことは 一度や二度ではなかった。

 しかも関係各国も、これを黙って見すごしてきた事実からみて、果して各国軍司令官会議の決議が有効に存在しているかどうかは、疑問だというのであった。

 国民政府は五月十八日、許世英・駐日大使を通じて日本の外務当局に現在事実上駐兵を増加する必要が皆無であることと、日本軍の増兵が慣例に反するばかりでなく、 広田前外相の不脅威・不侵略政策にも合致しないこととを指摘した文書を交付した(これにたいし、日本側は二十二日、上述の日本側の主張を内容とする反論を中国側に送った)。

 国民政府はこれ以上日本側を追及しなかったが、五月末から約一ヵ月にわたり、天津をはじめとして北平、南京、上海、広東、広西(南寧)などで、幾度か華北増兵反対を叫ぷ激しい学生運動が展開された。

 日本側は天津軍の増強に閑し、五月十四日北平大使館から関係国である英・米・仏・伊各国駐華大使に非公式通告を行なったが、列国が天津軍増勢に内心反対であったことはいうまでもない。

  しかし前述のとおり、反対を表示する法的根拠がないので、沈黙を守っていたが、英国下院では日本の増兵問題に関する質問があったということもあり、今回の増兵は、日本の大陸政策の根拠地を強化したものであって、 今後の日本の対華政策は硬化されるであろうと判断したようである。

(『太平洋戦争への道 開戦外交史3 日中戦争(上)』P187〜P188)


安井三吉氏『盧溝橋事件』より


 しかし、緊迫の華北に、支那駐屯軍の兵力を倍加させることそれ自体が華北の情勢を危険なものにしていくのである。旅団規模の兵力は、一つの作戦を展開できるほどのものと言われる。支那駐屯軍が鉄道守備や居留民保護にとどまらず、 華北への積極的工作にいよいよ乗り出してきたと中国側が受けとめるのは自然であろう。

 五月一四日、日本は、支那駐屯軍の増強を英、米、仏、伊各国の駐華大使に通知した。各国からはとくに反応はなかったが、中国外交部は、五月一八日、許世英駐日大使を通じて、日本政府に激しい抗議と華北増兵の中止を申し入れた。

 日本外務省の回答は、増兵は、華北情勢の「不安」に対処するためで、辛丑条約に基づくものだというものであった。許大使は、六月一日、外務省に有田外相を訪ね、重ねて増兵中止を申し入れたが、日本側の回答は変わらなかった。

 五月二八日、天津で挙行された学生のデモでは、支那駐屯軍の増兵に反対するスローガンが公然と掲げられ、日本側の抗議にもかかわらず宋哲元は、これを特に取り締まろうとはしなかった。 支那駐屯軍の華北増兵は、中国側の疑惑を深め、抗日意識をいっそうかきたてる結果をもたらし、宋哲元の姿勢を抗日に向かわせる一つの契機となった。
(P100〜P101)


 
松崎昭一氏『支那駐屯軍増強問題(上)』より

 燃えたつ青葉に彩られた昭和一一年五月の中国では、尖鋭的な熱気に包まれた抗日救国会の設立が、全国規模で急速度に盛り上がっていた。

 抗日救国会の結成は、前年一二月一三日、上海における国民党系の上海各大学学生救国連合会を皮切りに、以後、北京(当時、北平、以下同)、天津、上海、武漢などの大都市を中心に国民党系、共産系、民主団体、知識人、進歩的婦人たちを包み込んで、 思想の支持母体の垣根を越えた横断的な組織化の輪を広げつつあった。

 これら抗日救国会誕生の発端は、前年、華北において日本側の主導のもとで展開された武力を背景とする政治工作、すなわち梅津・何応欽協定(六月一〇日)、 土肥原・秦徳純協定(六月二七日)その半年後の(傀儡)冀東防共自治委月合成立(一一月二五日)、続く冀察政務委月会発足(一二月一八日)であった。

 いずれも中国に対する深刻な主権侵害、重大な国辱行為と受け止め、政府(南京)とは別に、 国民の反・抗日の積極的な意思表示として全国規模の実力抗議運動として立ち上がったものだった。

 その最中の同(昭和十一年)五月十五日、陸軍省当局は、ときの支那駐屯軍の兵力( 一千七七〇人=同六月一日現在 ) を、砲兵、戦車部隊などを含めて一気に三倍強の約五千七七〇人に強化する旨を発表、それと共に、この目的は「華北における防共と、同地方在留邦人の万全な保護のための止むを得ざる措置」と説明した。いわゆる「支那駐屯軍増強問題」である。

 だがこの中国の抗・反日のボルテージの高まりを冷静に観察したならば、日本側にどのような必然的理由があるにせよ、支那駐屯軍の増強は中国民衆の憤激を加増させ、 自ら日中関係に一触即発の状況を求める危険な行動であることは一目瞭然であろう。

 そうした非常事態の発生を考慮しなければならないこの「絶対険悪の時点」に、なぜ敢えて支那駐屯軍の兵力増強の手段が強行されたのか。しかも中国に対しては無通告の兵力増強なのである。

 果たして同一八日、中国は許世英駐日大使を通じて激しい抗議文を外務当局に提出した。これに対し、日本側は、兵力の増加は「必要最低限」のものであり、「決して中国の主権を侵害したり脅威を与えるものではない」との回答をするに止まった 。

 これに先立ち、英、米、仏、伊など中国関係列国の駐中華大使には非公式に兵力増強についての通告を行ったが、各国とも沈黙、静観の態度を以て応じた。

 (『国学院雑誌』平成7年2月号)


 


 このようにして「事件」に向けた「緊張状態」がつくられていく中、日本軍の演習はますます激しさを増していきました。日本軍側から見れば「検閲を意識した新兵教育」に過ぎなかったわけですが、これが中国側を強く刺激し、「事件」に向けて緊張を一層高めていくことになります。

 犬養毅の三男、犬養健氏も、こんな記述を残しています。


犬養健氏『揚子江は今も流れている』より


 その翌日が七月七日―あの長い長い戦争―太平洋戦争にまで発展して日本を敗残の国にしてしまった、あの長い戦争の第一夜が訪れて来たのである。

 この晩北京郊外の豊台に駐屯している日本軍は蘆溝橋の付近で夜間演習を行っていた。この夜間演習というものが大体私には分らない。あれほど流弾が毎夜のように放たれている最中に、いかに条約上の権益として得ていたものとはいえ、中国の旧都の郊外でわざわざ夜中に演習をやらないでもよさそうなものである。

 これは一体いかなる心理か。―結局は半世紀以来の中国軽侮の心持である。ところがこの軽侮の念が軽侮の念として当時は、そろそろ中国には通用しなくなって来ていた。

 何故かというのに、その前年の秋、蒙古の独立運動を企てた日本の軍人と浪人の混成軍が完膚なきまでに敗北したので、中国じゅうの新聞は、「日本軍敗る。日本軍はもはや恐るるに足らず」と書き立て、北京天津の地方はことにお祭騒ぎを演じた。

 その直後が蘆溝橋の演習である。当時のロンドン・タイムズの記者が、「日本軍が連日敢えて行っている刺戟的な夜間演習によって、何らかの不祥事が起らなけれは、これこそは奇蹟というものである」と書いたが、現地の事情を描写してまことに適切である。

(中公文庫 『揚子江は今も流れている』P91)

*「筆者紹介」より  明治二十九年(一八九六)、東京に生れる。犬養毅の三男。・・・昭和五年より政友会総裁の父親を助けて政界に進む。逓信参与官、日華和平条約折衝委員、外務政務次官、法務大臣などの要職を歴任して、昭和三十六年八月没。


 「盧溝橋事件」の研究者、江口氏、安井氏も、ほぼ同じ見解を持ちます。


 
江口圭一氏『盧溝橋事件』より

 日本軍は支那駐屯軍を配備し、司令部を天津においたことから、天津軍と通称された。兵力は、一九三六年四月に一七七一名から五七七四名へと、いっきょに三・二六倍に増強された。
(P7)

 増強された支那駐屯軍の部隊は、一九三六年五月に日本を出発した。第三大隊は塘沽港に上陸して通州にしばらく駐留した後、六月三〇日、豊台にうつった。

 そして翌三七年三月、関東地区から初年兵をむかえ、 たまたま歩兵操典(歩兵の動作・戦闘法にかんする教科書)が改正されたこともあって、連日猛訓練をおこない、初年兵教育がいちおうおわると、七月上旬の中隊教練の検閲にそなえて、六月中旬から夜間演習を中心に訓練を実施した。

  問題は、それが中国軍の目と鼻の先でおこなわれ、中国側を強く刺激していたことである。

(中略)

 つまり、苑平県城に配備された金振中部隊の、わずかに鉄道線路をはさんだだけの目の前で、日本軍は演習を行っていたのである。もし日中両国が親密な友好関係にあったのいうのならば、 あるいは日中両軍が緊密な軍事同盟を結んでいたというのならば、それも問題なかったかもしれない。

(中略)

 しかし一九三五年以来、日本が華北分離工作をおしすすめた結果、日中間の全般的関係は年とともに険悪となり、三六年から三七年にかけて全中国に抗日の声があ ふれる状態となっていた。第二九軍の内部にも抗日の動きがひろがり、 とくに、馮治安がひきいる第三七師にその傾向が強く、すでに支那駐屯軍とのあいだでいくつかのトラブルをおこしていた。

(P9〜P10)


 
安井三吉氏『盧溝橋事件』より


 一〇月二六日から一一月四日まで、支那駐屯軍は平津地区一帯で大演習を挙行した。秋に入って、平津地区の状況はいよいよ緊迫の度を強め、中国側は、支那駐屯軍の動向にますます疑惑を深め、支那駐屯軍は、すでに一万四、五千を越え、 これに「在郷軍人」、大陸浪人、特務工作員などその態勢は数か月で驚くほど増強されているなどと受けとめていた。

 加えて、このころ、北平特務機関長松室孝良が関東軍に送ったという「秘密報告書」なるものが中国側で問題となっていた。その中で松室は、 今回の増兵の目的を「戦わずして勝つだけの威力」を備えるためであると書いている。この文書の真偽は不明だが、この時期、中国側はこれを本物として重大視していた。

 支那駐屯軍の秋季大演習も、中国軍に対し威力を誇示して「対日恐怖症」にかからせるためだ、ととらえていた。

 豊台事件後、日本軍の演習は、以前は百人以下だったのが百人以上、ときには二、三百人にも達し、 その範囲も豊台、盧溝橋一帯から、永定河を越えて、長辛店、さらには良郷までに及ぶようになった。また、演習も露営や行軍を含み、 いつでも駐屯に転換できる準備がなされている。

 いまや日本軍は、その実力によって華北制圧に乗り出そうとしている、というのが当時の華北の中国人の深刻な受けとめ方であった。

(P107〜P108)


 このような「一触即発」の状況の下、数発の銃声をきっかけに、「盧溝橋事件」が起きたわけです。



 日本軍が「兵三倍増強」を行った直接の動機は、「増加した居留民の保護」などというきれいごとではなく、「支那駐屯軍」と「関東軍」の勢力争いの中で「関東軍」を牽制する、という、全くの軍内部の事情によるものに過ぎませんでした。

 確かに「中国を攻撃するための兵力増強」ではなかったのかもしれませんが、これはあくまで「日本軍の内部事情」であるに過ぎず、当の中国がそれをどのように受け取ったのか、はまた別の話になります。

  この「兵増強」が日中間の緊張を高め、また「盧溝橋事件」への下地をつくるものであったことは否定できませんし、また、中国の反応も考慮せずに「内部事情」のみで一方的な「兵増強」を行 い、「事件」へ向けて緊張を高めた責任は免れないでしょう。

*一部には、「緊張の高まり」の原因を、日本人に対して頻発したテロ事件に求める意見もあります。しかし、そもそも「テロ事件」の原因となる「反日感情」を呼び起こしたものが、「冀東防共自治政府」という傀儡政権の設立、 蒙古の反乱を助長しようとした「綏遠事件」等、日本側の一連の「華北分離工作」にあることを思えば、これは事の本質を捉えていない見方である、と私は考えます。

(2005.12.24)


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