「通州事件」とは、日本の傀儡政権であった「冀東防共自治政府」の保安隊が日本側に対して反乱を起こし、約200名の日本人居留民(ただし厳密には、このうち約半数は朝鮮人)を虐殺した、
という事件です。この事件は、当時日本の「暴支膺懲」を煽り立てる絶好の材料とされ、今日でも「南京虐殺」の相殺材料であるかのように利用されることが珍しくありません。
今日の我々は、当時のような単純な「暴支膺懲」の視点ではなく、事件の背景や意味づけなど、多面的な視点から「事件」を見る必要があるでしょう。ここでは、「事件」に関連したいくつかの記述を紹介します。
*ネットでは、事件の「残虐性」のみをことさらに強調する発言が目立ちます。 事件が「残虐」であったことは事実ですが、私は、歴史学の視点からは、そのような見方は一面的なものであると考えます。 なおそういう方が、 「通州事件」をはるかに上回る規模の日本軍による虐殺事件、「平頂山事件」に言及することは、まずありません。
まず事件の概要について、信夫信三郎氏のまとめを紹介します。
信夫信三郎「聖断の歴史学」より
7 通州事件(三)
通州に駐屯していた日本の特務機関(陸軍の諜報工作機関)は、一九三七年七月二六日、日本軍の北京・天津地区にたいする攻撃が迫ったため、
通州門外の兵営に駐屯していた中国第二九軍の部隊にたいし「貴部隊が停戦協定線上に駐屯せられる事は、
在留邦人の保全と冀東の安寧に害がある」という理由で二七日午前三時までに武装を解除するとともに北京に向けて退去するよう要求した。
しかし、第二九軍はうごこうとしなかった。日本軍は、二七日午前四時から攻撃を開始し、午前一一時ごろまでに第二九軍を掃蕩した。通州門外に中国軍隊はいなくなった。
ところが、日本軍は、通州の中国軍隊兵舎のとなりに冀東防共自治政府保安隊の幹部訓練所があることをよく知らず、保安隊の隊員を第二九軍の兵士と誤認して爆撃し、
数名の保安隊員を死傷させた。
特務機関長の細木繁中佐は、冀東防共自治政府の長官に陳謝し、犠牲者の家族に挨拶し、賠償に誠意をつくした。
北京特務機関補佐官として現地にいた寺西忠輔大尉は、日本軍が誠意をつくしたため、「保安隊員は心中の鬱憤を軽々に、表面立って爆発させる事はしなかったのである」としるしたが、 北平駐在大使館付武官補佐官として北平にいた今井武夫少佐は、保安隊員は「関東軍飛行隊から兵舎を誤爆されて憤激の余り、愈々抗日戦の態度を明かにした」と述べた。
七月二九日、保安隊は予定の行動に蜂起した。日本軍の守備隊は、北京南苑の攻撃に向っていて通州の守備は手薄であった。 まさか傀儡政権の保安隊が抗日の蜂起をするとは夢にもおもわず、逆に通州は安全だというので北京から戦火を避けて避難してくるものさえあった。
日本軍は完全に虚をつかれた。 留守を守る守備隊の数は、寄せ集めて百十名ばかりであった。保安隊の攻撃は、通州守備隊と特務機関に集中した。守備隊長藤尾心一中尉と機関長細木繁中佐は戦死した。
守備隊と特務機関のつぎには居留民が攻撃をうけた。居留民の家は一軒のこらず襲撃をうけ、掠奪と殺戮にあった。
掠奪には保安隊員だけでなく市民も加わった。日本人の旅館近水楼の掠奪は徹底的であった。死体には烏が群がった。性別のわからない死体もあり、新聞は「鬼畜の行為」とつたえた。
陸軍省がしらべた犠牲者の数は、八月五日現在で発見できたもの一八四名、男九三名、女五七名、性別不明者三四名であり、
生き残って保護をうけたものの数は、一三四名、その内訳は「内地人」七七名と「半島人」(朝鮮人)五七名であった。
当時の支那駐屯軍司令官香月清司中将の『支那事変回想録摘記』が記録する犠牲者の数は、日本人一〇四名と朝鮮人一〇八名であり、
朝鮮人の大多数は「アヘン密貿易者および醜業婦にして在住未登録なりしもの」であった。
朝鮮人のアヘン密貿易者が多数いたことは、通州がアヘンをもってする中国毒化政策の重要な拠点であったことを示していた。通州事件は、日本の中国「毒化政策」にたいする中国民族の恐怖と抵抗を標示していた。
戦史家児島襄は、「在留邦人三百八十五人のうち幼児十二人をふくむ二百二十三人が殺され、そのうち三十四人は性別不明なまでに惨殺されていた」と指摘し、
「生き残った者は、かろうじて教会に逃げこみ、あるいは例外的な中国人の好意でかくまわれ、中国服を着用して変装できた人々であった」としるした。
七月三〇日、守備隊に増援部隊が加わり、事件はおさまった。
(P115〜P116)
*信夫氏は「誤爆」を事件の契機とする従来の通説に従っていますが、反乱の首謀者だった張慶餘の回想記公表(1986年)以降は、
「張慶餘は事件前から冀察政権(ゆう注 中国側)の要人・・・と連絡を切らさず」「通州の防備が空白となった機会」をとらえて反乱に踏み切った、という説明が有力になっているようです。
(秦郁彦氏「盧溝橋事件の研究」P313〜)
2004.8.18
「通州事件」の直接の引き金については、こちらにアップしましたので、興味のある方はご覧ください。
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これに続けて、信夫氏は、事件の発表経緯に関する興味深い資料を掲載しています。
これによれば、支那派遣司令部は、当初は「配下の保安隊」の「叛乱」を隠そうとしたが、結局「保安隊とせずに中国人の部隊」として発表することにした、ということであるようです。
信夫信三郎「聖断の歴史学」より
8 通州事件(四)
通州事件は、飼犬に手を噛まれたような事件であり、不幸な事件であるとともに不名誉な事件であった。
松村秀逸少佐は、陸軍省の新聞班に所属し、盧溝橋事件が起るとともに天津へ出張してきていたが、通州事件の報に接した支那派遣軍司令部の狼狽ぶりをしるした―
その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は、幕僚の首脳者が集っている席上に呼ばれて、<この事件は、新聞にでないようにしてくれ>との相談を受けた。
「それは駄目だ。通州は北京に近く、各国人監視のなかに行われたこの残劇(ママ)が、わからぬ筈はない。もう租界の無線にのって、世界中に拡まっていますヨ」
「君は、わざわざ東京の新聞班から、やってきたんじゃないか。それ位の事が出来ないのか」
「新聞班から来たから出来ないのだ。この事件をかくせなどと言われるなら、常識を疑わざるを得ない」
あとは、売言葉に買言葉で激論になった。私は、まだ少佐だったし、相手は大、中佐の参謀連中だった。
あまり馬鹿気たことを言うので、こちらも少々腹が立ち、配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々たる口吻であるのが癪にさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。
激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって<よし、議論はわかった。
事ここに至っては、かくすななどと(ママ)姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方がないだろう。
保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御詫しなければならない>と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。
<では発表します>と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は
「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。
―かくして通州事件はあかるみに出たが、新聞は逆に「地獄絵巻」を書き立てて日本の読者を煽りたてた。
(P116〜P117)
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「事件」に対する歴史学者の見解として、江口氏、および大杉氏のものを紹介します。
江口圭一「十五年戦争研究史論」より
補論 通州事件について
中国の抗日は日本の侵略にたいする反撃であり、正当・当然であるからといって、通州保安隊その他による日本人・朝鮮人・女性・幼児にいたる無差別虐殺は容認できるものではない。
しかし通州事件の評価・位置づけには少なくとも以下の三点への留意が必要である。
第一は、事件が中国で、それも日本のさらなる中国侵略の拠点とされた通州で発生したという単純な事実である。
中国軍が日本へ侵攻し、たとえば九州で引きおこした日本人虐殺事件ではないのである。異なる次元・地平に属するものを相殺のためにもち出すことはできない。
第二は、中国側にとってもある意味で「魔の通州」と呼ぶべき事情が存在していたことである。 通州は冀東政権の本拠地であり、華北併呑の舌端であるとともに、アヘン・麻薬の密造・密輸による「中国毒化」の大拠点であった。
ヘロイン製造にあたった山内三郎は「冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった」と記し、 中国の作家林語堂は「偽冀東政権は日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であった」と書いた。
信夫信三郎「通州事件」は「日本の中国『毒化政策』に恐怖し憤激した通州の市民が保安隊反乱の混乱に乗じて日本の居留民―および朝鮮人に―に報復した抗日事件」として通州事件をとらえた。
第三は、日本軍の守備責任の問題である。通州の日本軍主力は北平総攻撃にむかっており、反乱に対応できなかった。
支那駐屯軍司令官であった香月清治中将は、杉山元陸軍大臣から通州事件について再三「遺憾」の意をあらわせと催促されたのにたいして、
通州に於て予期せざる保衛隊の叛乱に遭いて多数常人(一般人)は生命を殞すに至りたることは甚だ不幸の事に相違なきも之は寧ろ一種の避け難かりし天災と見るを適当とするが如し。
軍は当然努むべきことを努め貴重なる将兵多数の生命を犠牲となせり。・・・此の局部の事象を以て軍司令官が謝罪的遺憾の意を表明するは軍爾後の作戦指導及志気に影響する所大なりと信ずるものなり。
と回答した。
軍司令官は「天災」といってのけたが、山中恒氏はこれを「初めから日本人居留民などを切り捨てていた」と断ずる。
いずれにせよ通州事件は日本を逆上させ、 「暴支膺懲」を加速し増幅させた。中国は通州での非行について高すぎる代償を支払わされることとなる。
(P239〜P241)
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大杉一雄「日中十五年戦争史」より
悲劇、通州事件の真実
今回の通州の場合、虐殺は日本軍の誤爆によって触発されたといわれる。たしかに七月ニ十七日の通州近傍の冀察第二十九軍との戦闘の際、援護した日本空軍が誤って保安隊を襲撃したことは事実である
(寺平忠輔『盧溝橋事件』)。
しかし事件の真因はそのようなところにあるのではなかった。盧溝橋事件以後の日中両軍の衝突が決定的になると、冀察側から冀東保安隊に対し、抗日決起の強力な働きかけが行われていた。
たまたま廊坊、広安門での二十九軍勝利の情報が伝わり、これに刺激された冀東各地の保安隊が、二十九日午前二時を期して一斉に蜂起し日本側を攻撃したものである(今井武夫『支那事変の回想』)。
同盟軍といっても名ばかりのことで、平等な立場での協力ではなく、むしろ傀儡政権の保安隊であることに不満をもつ将兵がいて当然であり、いつ寝返っても不思議はない状況であった。
「通州事件は戦争が生んだ最大の悲惨事であった。私は悲しみ且つ憤る。・・・しかし武力によっては解決できない何物かがそこにあり、また支那民衆の抗日意識の根強さが尋常なものでないことを、率直に教えている」
(『改造』三七年十月号アンケート「北支事変の感想」に対する鈴木茂三郎の回答「武力で解決出来ないもの」)のであった。
しかし当時このような見解が発表されることはまれで、もっばら中国軍の暴虐が宣伝されていたのである。 鈴木はさらに続けて「抗日の原因はよし支那側の誤解であろうとも抗日の原因を……究明しなければ日支問題の根本的解決がむつかしくはないかと思う」と述べているが、
さすが戦後日本社会党の委員長をつとめた人だけあって正鵠を射た批判を示していた。
また山川均も短文の回答を寄せており、そのタイトルが「支那人の鬼畜性」となっていたため、戦後問題にされたが、
その真意は「むやみに国民感情を排外主義の方向に煽動し刺激することの危険」を警告したものといえる。
これに対し現在、通州事件を「南京大虐殺」と対抗させてとりあげる向きがあるが、両者はその規模も性格もまったく違うことを認識すべきである。
(P271〜P272)
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また「保守派」の秦郁彦氏も、「通州事件」については、このように冷静な見解を語っています。
秦郁彦 『中村粲氏への反論 謙虚な昭和史研究を』より
この種の残虐事件で、今もよく引き合いに出されるのが、盧溝橋事件から三週間後に北京近郊の通州で起きた邦人虐殺事件である。 死者百二十数人と数も多く、その惨状を見聞きして敵愾心を高めた京都第十六師団の兵士が、華中に転戦して南京で報復したという説すらある。
当時の日本の新聞も大々的に宣伝したものだが、実は日本のカイライ政権である冀東政府の保安隊が、日本機に通州の兵舎を誤爆され、疑心暗鬼となっておこした反乱によるもので、 いわば飼犬に手を噛まれたようなもの。さすがの日本軍も、殷汝耕政府主席の費任は問えなかった(戦後、漢奸として処刑)。
ところが、今でも南京虐殺が話題になると通州事件を持ち出Lて相殺しようとする人が少なくない。中村氏はさすがにパスしたが、本誌十月号の「まいおぴにおん」欄で、
田久保忠衛氏が「冀東政府の所在地だった通州などで日本人が受けた惨劇はどう考えたらいいのか」と相殺論を展開している。
おそらく中国人が日本人を集団虐殺した唯一に近い「例証」として、今後も長く通州事件は語りつがれるのではあるまいか。
アジアでもっとも温和な仏教徒との定評があったカンボジアでポル・ポトの大虐殺が起きたように、残虐性と民族性を結びつける議論は成り立たぬし、不毛だと筆者は考える。
そうだとすると、○○人も日本人を惨殺した、というたぐいの情報集めに血まなこになる必要もない、というものである。
(『諸君!』 1989年11月号 P216)
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「冀東政権」の存在が中国経済に与えた影響、そしてその存在が「反日感情」を刺激していた事情については、当時憲兵として上海にいた塚本誠氏が、コンパクトにまとめています。
塚本誠「ある情報将校の記録」より
昭和十年十一月、日本の工作により華北に段汝耕を主班とする冀東政権が樹立された。これは段汝耕という留日学生出身の、中国ではあまり高く評価されていない男に、通州を中心とした停戦地域内に地方政権をたてさせ、
そこを通じて日本の商品を合法的に中国に「密輸出」しようとしたものである。
日本の商品は大連に陸上げされると、鉄道で満州を通ってこの政府の「領土」にはいる。その時、その商品はごく安い税がかけられる。
冀東政権は中国のなかにある地方政権ということになっているから、ここで一度税をかけられた商品はそこから中国のどこに運ばれようと、中国では二度と税はかけられない。
いや中国があえてそれに税をかけようとすれば日本から厳重な抗議が出ることを覚悟しなければならない。
だからこういう合法的密輸品が中国の市場に大手をふって汎濫すれば、中国の商工業は破算するしかない。もし中国政府にそれを阻止する力がないとすれば、
中国はもはや国家の破算を待つばかりだ。これが中国の愛国者を捉えた切迫した感情だった。この感情で一番ゆさぶられたのは若い学生たちだった。
十年十二月、北京の学生が冀東政権に反対して起ちあがると、それにつづいて上海では学生が蒋政府に対して対日抗戦の請願デモを行った。これは必然的ななりゆきである。この運動はたちまち全土に波及した。
(P149〜P150)
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なおこの「通州事件」は、南京戦終了まもない1937年12月下旬、「冀東自治政府」と日本との間で、「正式解決」を見ています。当時の新聞記事を紹介します。
「大阪朝日新聞」昭和12年12月23日"
通州事件愈よ解決
冀東政府から誠意披露
【北京特電 二十二日発】
去る七月二十九日日支軍衝突と同時に冀東保安隊の反乱によつて発生した通州事件の悲惨なる想出は今なほわが国民の脳裡を去りやらぬ痛恨事であるが、
冀東政府の現政務長官池宗墨氏は事件解決策につき北京大使館当局と種々折衝中のところ大体左のごとき解決案を発見、 池長官は二、三日中に北京大使館に森島参事官を訪問、
冀東政府を代表し正式陳謝をなし犠牲者に対する慰藉金、日本側機関に対する損害賠償など合計百二十万円を日本側に交付し、
これをもつて同事件の正式解決をはかることに決定した。
即ち冀東自治政府としては北京の中華民国臨時政府に正式合流をなすに先立ち通州事件の正式解決をいそぎ、もつて日本国民に対する慰藉、陳謝の態度を明にしたものである。
なほ前長官殷汝耕氏も事件後厳重な取調べを受けつつあつたが間もなく同事件に通謀したる事実なきことも明白になりこれまた近く釈放されるものと見られる、
また我が同胞の尊き霊を永遠になぐさめるため遭難地通州に大供養塔が建設されることになつてゐるが、右基金は冀東政府要路者の心からなる義金によるものである。
(同紙 一面左下 三段記事)
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「東京日日新聞」昭和12年12月25日
通州事件正式解決
冀東政府と公文交換
【北京廿四日発同盟】
未曾有の惨事として世人の記憶新たなる通州事件の解決方に関しては冀東政府長官池宗墨氏と日本大使館森島参事官との間に折衝が続けられてゐたが、
今廿四日午後四時半池長官は北京大使館を訪問し公文を手交して正式陳謝と将来の保障をなし併せてこの事件による被害者に対する弔意賠償金を手交し
森島参事官より右に対する回答文を手交、ここに同事件は全く解決を告げるに至った、交換公文の全文左の如し
*「ゆう」注 以下、「書翰」の全文が掲載されています。原文は改行も文字間もない大変読みづらいものですので、適宜改行を入れて読みやすくしました。
なお、マイクロフィッシュのコピーで判読困難な箇所もあり、その部分は■で表示してあります。
【冀東政府より森島参事官宛て書翰】
以書翰啓上致候 陳者 本年七月廿九日通州において冀東政府保安隊の叛乱勃発し多数貴国民を殺傷し且貴国人所有財産に尠からず損害を与へたる不幸なる事件発生致候処
右に関し本官は責任の重大なるを痛感しここに冀東政府を代表し貴国政府に対し深甚なる陳謝の意を表し候
冀東政府は本事件責任者及び加害者を厳重処断する意向なるところ、 右関係者はすでに辞任しまたは逃亡若くは貴国軍により討伐せられたるをもつて最早処分の方法無之次第につき右事情御諒察相成度、
なほ将来は再び斯くの如き不祥事件を発生せしめざるやう誓つて万般の処置を構ずべく候
冀東政府は死者及び負傷者に対し夫々弔慰金及び見舞金を贈呈し、或は物質的損害につき相当の賠償を支払うべく右総額として金百廿万円を提供致度に付
貴官において然るべく分配方御取計らひ御煩らせ度く右に御異存無きにおいては前記金額中、金四十万円は直ちに御送付致すべく残額金八十万円も成るべく速かに調達の上御送付可申上候、
なほ本事件による犠牲者の慰霊塔を建設敷地提供方御要求の次第も諒承致候については、早速当方代表者会同実地検分の上協議決定のことと致度候、
右に関し何分の御回答を致度候、右申し講じ旁々本官は■に重ねて閣下に向つて敬意を表し候 敬具
中華民国二十六年十二月二十四日
冀東防共自治政府代理政務長官 池宗墨
在中華民国日本帝国大使館 森島守人閣下
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【森島参事官より冀東政府池長官宛て返論】
以貴論啓上致候、陳者本月廿四日付書翰をもつて左の通り御照会相成諒承致候(中略)
よつて本官は貴官申出の次第を受諾し貴政府において貴論記載の各項を誠実に履行せられたる上は 本事件は解決を見たるものと認むべく候
右回答旁々本官はここに重ねて閣下に向つて敬意を表し候
昭和十二年十二月廿四日
在中華民国日本帝国大使館参事官 森島守人
冀東防共自治政府代理政務長官 池宗墨閣下
(ゆう注 「中略」は原文通り)
*「弔慰金は遭難者に配分 大使館当局談」との記事がこれに続きますが、省略します。
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(同紙二面左下 見出し四段、記事五段) |
「東京朝日新聞」昭和12年12月26日
通州事件の解決に感無量
思ひ出に生きる遺児節ちゃん 温い祖父の膝下に
支那事変に於ける第二の尼港事件として国民の痛憤を買つた通州事件で、非業の最期を遂げた遭難者に対し百二十万円の弔慰見舞金、
慰霊塔の建設等で二十四日北京において日本大使館と冀東政府長官池宗墨氏との間に解決がついたが地下の霊や遺族や奇跡の生存者達は感慨無量のものがあらう
通州事件で両親冀東医院○○直之助氏(三六)母シゲ子さん(三一)妹紀子ちゃん(二才)の一家全部を失ひながらも使用人支那人看護婦のためたつた一人救はれた可憐の孤児○○節子さん(五才)は
祖父渋谷区○○ ○○直太郎氏(六一)に淋しく育てられてゐるが
廿五日は母方の実家群馬県利根郡水上村 ○○周作さん方へ遊びに行つて不在
時折あの残虐な当時をフト思ひ出しては子供ながらも淋しい顔をするものの元気で可愛く、時々支那の歌を唱つてゐる
又感心な支那の看護婦何鳳岐さんも満州国吉林省の病院に勤めつつ時折節子チャンの消息を尋ねてくる、直太郎は語る
通州事件は重大な国際問題ですからその解決方法は利欲に偏してはならないと私はかねがね思つてゐます、五千円の収入のあつた方は十万円の請求をしていいといふ方もありますが、私はそんな考へはありません、
元元あの事件は運命の悪戯の仕業と思つて何もかもあきらめてゐます
ただ残された節子だけは身体を丈夫に芸術や学問を十分させる義務が私にかかつてゐるのでどうしてもあの子は立派に育てたいと思つています、
あの子を救って呉れた支那人看護婦何鳳岐さんからも損害賠償の点を心配して「損害の件はどんなにしましたか、伺ひ申し上げます」とつたない文字ながら真情溢るる手紙を数日前呉れました
(同紙十面上 見出し四段、記事五段)
*記事中の氏名、住所は、プライバシーを考慮して、○○としました。
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2010.9.25追記
川合貞吉『或る革命家の回想』に、尾崎秀実が「通州事件」に言及した記録を見つけました。当時における「支那通」のひとつの見方として、紹介しておきます。
川合貞吉『或る革命家の回想』より
それから、話が七月に起きた中国人による日本人虐殺の通州事件に及ぶと、
「あれは君、支那民族の怒りの姿だよ、眠れる獅子が目を醒まして咆哮した姿だ。冀東地域へ入りこんでいる日本人に碌な奴はいない。
淫売、破落戸(ごろつき)、事件屋 ― そんな連中が兵隊の威力をかりて威張り散らし、
悪辣極まることをして土着民を絞り虐待しているんだ。そういう政策を押し進めている日本の民度の低さに罪があるんだ」
と、尾崎は悲しそうな顔をした。(P300)
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なお尾崎は、のち「コミンテルンのスパイ」として処刑されたというイメージが強いのですが、この時期は著名なジャーナリストとして活躍しており、特に中国の内部情勢についての的確な分析には定評がありました。
当然ながら上のような見解が当時のメディアに発表されることはありませんでしたが、「暴支膺懲」ムードの日本の中で、知識人らしい冷静な見方を披歴したもの、と言えるかもしれません。
(2003.11.9記 2004.2.29一部補記 2004.11.23秦氏の見解を追加 2010.9.25『或る革命家の回想』追加)
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