下関波止場に立ちて
僕等の乗つた駆逐艦「H―」が南京の下関埠頭に着いたのは深夜だつた。朝九時になつてやつと上陸が許された。
夙(はや)く起きた連中は、対岸に盛な銃声を聞き、遠く炎々と火の手の揚るのを見たといつた。
想ふに、晴れの入城式を前にして、昨夜は一夜、街路の死体取片付けや、残敵の掃蕩で、兵隊さんたち徹宵忙しかつたらしい。
ランチで、まづ桟橋横付の軍艦「A―」に移された。
そこで色の白い温顔な艦長から、赤ラベルのジヨニーウオーカを御馳走になつた。
「おねでたい日ですから、まあ一杯」
艦長大佐の顔は誰かに似てゐる。
やつと思ひだした。十年ほど以前僕の家にゐて、その後直木三十五の家で自殺した松竹の女優人見ゆかり。あの娘のお父さんにソツクリなのだ。
そんなことを考へて、グラスを傾けながら僕は船窓から朝の長江を見てゐた。ひろい河筋、隅田川ぐらゐ濁つてゐるが、浮いてる死骸など見えない。
でも、膩(あぶら)らしいものがキラキラ一面に光つてゐて、見馴れない黒水鳥が、艦近く、浮いたり沈んだりしてゐる。
艦から板橋を伝はつて上陸した。
人つ子一人居ない波止場、改札口を出ると、広場にはただ数台の消防自動車が置いてあるだけ、むかふに兵隊さんが二三十人、休んでゐた。
天気はすばらしく佳い。
もう日がカンカン照つてゐる。
「いつたい、こんなガランとした静けさの中に、入城式をほんとに始めるのかな」
そんな気がする。
なんにしても、一刻も早く今日の式場へ行きたいので、艦に交渉して、やつと消防自動車へ乗せて行つて貰ふことにした。
乗込むとなつたら、運転手の兵隊さん、どこからか薔薇の花模様のついた素晴らしく華麗なレースの布を持つて来て、ゴシゴシそこら拭掃除をはじめた。
「勿体ないですな、そんな布で」
「なあに蒋介石の賜り物ですよ」
兵隊さん、ニヤリと笑ふ。
このとき読売紙の村田東亜部長が、遅ればせに、社の自動車で僕を迎へに来てくれた。
だが、結局、氏も、消防組に加入することになつて、みんな横坐り、電線の燕よろしくの恰好で出発。
出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があつた。その中は、支那兵の死体の山。「そろそろ始まつたな」と思ふ。
(P238-P239)
|