西條八十『燦たり南京入城式』



   『日の出』昭和十三年二月号掲載

下関波止場に立ちて

 僕等の乗つた駆逐艦「H―」が南京の下関埠頭に着いたのは深夜だつた。朝九時になつてやつと上陸が許された。

 夙(はや)く起きた連中は、対岸に盛な銃声を聞き、遠く炎々と火の手の揚るのを見たといつた。

 想ふに、晴れの入城式を前にして、昨夜は一夜、街路の死体取片付けや、残敵の掃蕩で、兵隊さんたち徹宵忙しかつたらしい。

 ランチで、まづ桟橋横付の軍艦「A―」に移された。

 そこで色の白い温顔な艦長から、赤ラベルのジヨニーウオーカを御馳走になつた。

「おねでたい日ですから、まあ一杯」

 艦長大佐の顔は誰かに似てゐる。

 やつと思ひだした。十年ほど以前僕の家にゐて、その後直木三十五の家で自殺した松竹の女優人見ゆかり。あの娘のお父さんにソツクリなのだ。

 そんなことを考へて、グラスを傾けながら僕は船窓から朝の長江を見てゐた。ひろい河筋、隅田川ぐらゐ濁つてゐるが、浮いてる死骸など見えない。

 でも、膩(あぶら)らしいものがキラキラ一面に光つてゐて、見馴れない黒水鳥が、艦近く、浮いたり沈んだりしてゐる。

 艦から板橋を伝はつて上陸した。

 人つ子一人居ない波止場、改札口を出ると、広場にはただ数台の消防自動車が置いてあるだけ、むかふに兵隊さんが二三十人、休んでゐた。

 天気はすばらしく佳い。

 もう日がカンカン照つてゐる。

「いつたい、こんなガランとした静けさの中に、入城式をほんとに始めるのかな」

 そんな気がする。

 なんにしても、一刻も早く今日の式場へ行きたいので、艦に交渉して、やつと消防自動車へ乗せて行つて貰ふことにした。

 乗込むとなつたら、運転手の兵隊さん、どこからか薔薇の花模様のついた素晴らしく華麗なレースの布を持つて来て、ゴシゴシそこら拭掃除をはじめた。

「勿体ないですな、そんな布で」

「なあに蒋介石の賜り物ですよ」

 兵隊さん、ニヤリと笑ふ。

 このとき読売紙の村田東亜部長が、遅ればせに、社の自動車で僕を迎へに来てくれた。

 だが、結局、氏も、消防組に加入することになつて、みんな横坐り、電線の燕よろしくの恰好で出発。

 出かける途端に見ると波止場の筋向ふに、高い板塀があつた。その中は、支那兵の死体の山。「そろそろ始まつたな」と思ふ。

(P238-P239)



入城式光景

 まつしぐらに走つてゆく、幅広い中山北路。ポプラの並木路閲兵式に列する軍隊が続々行進してゆく。最初に潜つたのは宏大で暗鬱な把江門。

 驚くほど厚い鉄の扉の蔭に、一河岸の米蔵の俵を寄せ集めたほど積上げられた土嚢。

 このあたりから、往来に土民服を着た支那兵の死体やら、軍馬の屍が、夥しく見えはじめた。

 人住まぬ英国領事館、鉄道局、金陵大学、軍政部などが、ボンペイの廃墟のやうに棟を並べてゐて、辻々には枯芝でカモフラージユした土窟。「公共防空壕」と大書してある。

「覗いてみたいな」

と、車の上でいふと、

「およしなさい。今は避難民の共同便所ばかりだから」

と、兵隊さんに叱られた。

 中山飯店と名残りの看板だけ出てゐる、大きな料理店の隣に、読売新聞の従軍陣所が在つた。僕は今日の印象記を同紙に書いて送る打合せがあるので、そこで車を下りた。

 評論家の原勝君も、ユーモリストの中村正常君も、交際(つきあ)つて一緒に下りる。

 見かけだけ立派な洋館に、古馴染の眞柄写真部長はじめ、若い記者連、いづれも髭蓬々、山賊のやうな恰好で、前庭で焚火をしてゐた。

 番茶を御馳走になるが、どうも昨日までのチヤンチヤンバラバラの埃が入つてゐるやうな気がして喉に通らない。鉢に盛つたアンコなど親切に持つて来てくれるが、どうも手が出ない。

「今夜はここへお泊りなさい」

と、言つてくれるが、前庭の隅々を見ると、尾籠な話だが、人糞だらけ。

 神経質な僕にはとても我慢出来さうもない。

 早いところ、入城式前に、要処要処を見物してしまはうと考へて、早速自動車を飛ばせて貰つた。

 光華門、通済門、大校飛行場など、皇軍勇戦の生々しい戦跡を廻つて戻ると、すでに午後一時近く、中山門より国民政府に続く三キロの大道の両側は将兵の輝かしい堵列だ。

 北側に上海派遣軍の勇士、南側に杭州湾上陸部隊の猛者。

 破れ裂けた戦闘帽。

 眼ばかり光つてゐる。汗と日焦(や)けの真黒な顔。そのうへに翩翻とひるがへる日章旗の鮮かさ。―変な形容だが、黒い岩根のうへを舞ふ朱の胡蝶とも言へるだらうか。

 第一番に朝香宮殿下の御召自動車。次に松井最高指揮官と杭州湾上陸の柳川部隊長の自動車が、中山門下に到着した。

 一時半。嚠喨たる喇叭の響とともに、歴史的入城式が始つた。

 頭右! の号令も高らか、全将士捧銃(ささげつつ)の中を、松井最高指揮官を先頭に朝香宮殿下、柳川部隊長、つづく各幕僚の堂々たる騎乗の姿。揺れながら遠くなる、その影、影、影。捧げた銃の蔭から、ふり仰ぐ兵の瞳は、言ひ合せたやうにみんな涙で濡れてゐる。手がブルブル昂奮でふるへてゐる。

 各部隊長は、軍司令官の閲兵が済むと、今度は自分が幕僚を引つれて、その閲兵の列に加はつてゆくのだ。

 拝観の僕等は忙しい。

 中山門から、今度は国民政府へと急ぐ。

(P239-P240)



国民政府

 巨(おお)きな石造の国民政府の門前には、あの午後、五六十人も非戦闘員の日本人が居たらうか。どうも記憶がはつきりしない。もつと居たのかも知れない。

 なにしろ、自動車から下されて、その群の中に立つと僕はさつそく、入城式の印象詩を書かなければならなかつた。まはりにどんな人間が居るのやら、正直眼を配る暇もなかつた。

 僕の手には鉛筆と、それから、さつき読売支部で、貰つてきた、支那紙の書簡箋がある。詩稿は三時半に大校飛行場から福岡目がけて飛ぶ飛行機に、是非乗せなければならないのだ。

 皮の上衣を着て、ゴルフ・パンツを穿いて、重い軍用靴をぶら下げて立つた儘、人込みの中で書くのだ。

 時計を見ると、もう直ぐ二時だ。

「もすこし退つて下さい」

 夢中で、鉛筆を舐めてる耳もとで、兵隊さんが吐鳴(どな)る。

 閲兵の行列が、いよいよ門前へやつて来た。誰も彼も夢中で吐鳴りだした。バンザイ! バンザイ!

 僕は、子供のとき、東郷さんや乃木さんの肖像を見たやうな気持で馬上に反身になつてゐる松井石根将軍の矮躯を仰いだ。長髯のピンとして、輪郭のハツキリした仙人のやうな顔!

 はるばる長江を遡つて、この異郷に歴史的モメントの将軍の顔を親しく眺める。一切が夢のやうな気がした。

 陸軍の閲兵行列が、門内に入つてしまつたとき、下関から僕らと同じ道を通つて進み来つた長谷川司令長官はじめ海軍陸戦隊将士の行列が、清新な海の匂を齎して堂々、門内へ入つた。

 そとにゐた僕等も、国民政府内へ記念すべき第一歩を印しようとして、それに続いて入る。

 と、このとき、正門の、「国民政府」と大きく金文字で刻された真上の、センター・ポールに、とてつもない大きな日章旗がスルスルと掲げられはじめた。

(P240-P241)



詩箋に筆走りて

 無量の感慨で、シーンと鳴りを鎮めてみんながそれを見まもる。絡んだり、弛んだり、それが広い門内に完全に揚るまで、かなり暇どつた。でも、囁きひとつ起こらない。みんなの眼は、心はこの世の一切を忘れて、ただひとつその紅い丸につけられたやうだ。

 やつと揚つた。翩翻(へんぽん)とひらめいた。

 とたんに、裂帛(れっぱく)のやうな万歳の声が、大きく大きく轟いた。つづいて軍楽隊の「君ヶ代」が、怒涛のやうな壮快さをもつて湧き起つた。

 晴れ渡つた青空。孫文の真つ白な廟のあるはるかな紫金山はじめ、つづく尾根尾根。―空を翔けてゐる鵲(かささぎ)、すべてのものが、いまこの光栄の旗を見まもる。

 僕はいつのまにか涙の一滴が頬を伝つてゐるのを感じた。鉛筆をとりあげて、すでに書き終へてゐた「入城式を見たり」の詩のあとに、めちやめちやに咄嗟(とっさ)の感激を書きつけた。

誰も歌はず、もの言はず
太い金文字、石の壁
国民政府の城門に
(さっ)と揚つた日章旗。

空に満ちてる 銀の翼(はね)
地に湧く湧く 歓声の
すべてが消えて 青い空
わたしは ひかる紅一点
その血の色を眺めてた。

ああこの刹那の感激を
求めて遥々旅をした
疲れたわたしの全身に
赤く灼きつくそのひかり。

このとき、「もう間に合はなくなります」

と、背後で太い声がした。さうして、村田読売記者の大きい掌が奪ふやうにわたしの持つた詩箋を取上げて行つてしまつた。(P241)




 

(2010.12.5)


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