「朝飯会」関連資料



昭和12年6月30日「朝飯会」の怪 工藤美代子『近衛家七つの謎』よりのデータコンテンツ


<西園寺公一>

西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より

朝飯会の活性化で近衛首相を擁護する

 僕たちというのは、第一次近衛内閣時代から続けてきた「朝飯会」のメンバーのことだ。

 「朝飯会」は若手の近衛側近グループとして有名になったが、はじめの頃は"朝"ではなかったのだ。(P181)

 近衛さんの秘書官だった牛場と岸、それに尾崎あたりが相談してゲストを招き、夕食をとりながら話を聞く会を始めたのが、第一次内閣成立直後だった。メンバーは、この三人に、僕、蝋山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、渡辺佐平などだ。

 そのうち、もっと頻繁に会を開こうという意見が出て、当時の書記官長の風見さんも賛成し、「朝飯会」ということになる。この頃の会合といえば、日が暮れてから、待合や料亭でと相場が決まっており、早朝に固い政治向きの話をするというだけで目立ったものだ。

 月に二回くらい、朝の八時頃に集まって、情報を交換したり、議論した。はじめは、首相官邸のなかにある牛場の秘書官邸でやり、第一次内閣が辞職してからは、まず麹町にあった「万平ホテル」を使い、その後、僕の駿河台の家が会場になって長く続いた。

 朝飯会になってからはゲストは呼ばなかった。銀座の「スコット」というレストランから仕出しをとり、それを食べながらの自由討論だ。朝飯ではあったけど、なかなか豪華な食事だったな。時には、朝からステーキなどが出てきた。

でも、僕はこの食事代を払った記憶はないよ。多分、興津のじいさんにツケを回したのだろうね。これだけのメンバーが集まり、真面目に勉強したのだから、じいさんだって喜んで払ってくれたさ。(P182-P183)

 朝飯会については、いろいろとうるさいことをいわれたが、ここで謀議をこらすとか、具体的な方針を出して、実行に移すようなことはなかった。一言でいえば、情報交換だ。事前にその日の担当を決めていたわけではなく、集まってから「じゃァ、今日は、僕がこの問題について話す」ということが多かった。

 しばらくして、上海から帰国した松本重治や犬養健、松方三郎などが加わった。風見さんの出席率はよかったが、近衛さんは出席したことは一度もなかったはずだ

 朝飯会は近衛さんが首相を辞職しても続いたし、第二次内閣を組織してからも、再び会場を秘書官邸に戻して、十数回やった。(P183)
   


『西園寺公一に対する検事訊問調書』

八問 所謂朝飯会に付き述べよ。

 第一次近衛内閣の成立後昭和十二年秋頃

 内閣総理大臣秘書官  牛 場 友 彦
 同              岸  道  三

を中心として

松本重治
蝋山政道
佐々弘雄
笠信太郎
渡辺佐平
平 貞蔵
尾崎秀実


等が集り政治上の意見を開陳し両秘書官を通じ之を具申して近衛内閣を支援して行くことになり、屡々会合して意見を陳べて来ました。此の席には時々内閣書記官長風見章氏も出席して居りました。

昭和十三年夏尾崎秀実が内閣嘱託となってからは月二回位朝飯を共にし乍ら話合ふことになり、更に昭和十四年以降は定期的に毎週水曜日の朝集ることになりました、左様な訳で此の会合を朝飯会或は水曜会と称して居りました。

会合の場所は第一次近衛内閣時代は秘書官官舎、第一次近衛内閣総辞職後の数回は万平ホテル、昭和十四年春頃以降昭和十五年七月頃迄は駿河台の私宅、其の後は総理官邸日本間であります。

昨年七月中頃からは定期的ではなくなり暫く杜絶えてゐたこともありましたが第三次近衛内閣総辞職迄の間三、四回は聞かれて居ります。(P486-P487)

尚此の会合には

  大 養  健
  三郎こと松方義三郎

も時々出席して居ました。(P487)


(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)



『西園寺公一に対する予審訊問調書』


第四回訊問調
被告人 西園寺公一

一問 公爵近衛文麿側近の間に於ける朝飯会と云ふのがあつたか。

 朝飯会と云ふのは別に正式な名称ではございませんが、第一次近衛内閣が昭和十六年六月成立して以来(ママ)何等かの意味で近衛公の政策を助け度いと云ふ意味から、多分牛場友彦、岸道三、尾崎秀実の三人が斡旋して当時の風見書記官長の諒解を得て一つの朧気な集りが出来、初めの中は極く不定期に集つたり朝飯を共にしたりして当面の内外問題に付意見の交換をし、其の間に良い意見でも出ると牛場、岸などから近衛公或は風見書記官長へ具申して居つた様子であります

 此の集りの顔触れは前述三君の外松本重治、佐々弘雄、蝋山政道、笠信太郎、平貞蔵、渡辺佐平と私も何時の間にか其の中に加へられて居り、其の後犬養健、松方義三郎の両君も在京の折には顔を出す様になつて居りました。此の会には初めは風見さんも時々顔を出すと云ふ話でありましたが、之は当初の二、三回の外は実現されなかつたと憶えて居ります

 初めは何処でどう云ふ風に会合して居たか判然憶えて居りませんが、暫くしてから会合が段々定期的になり多分一週間に一回牛場秘書官の官舎に集り朝飯を食べながら意見を述べ合ふ様になつたのであります。さう云ふ風に第一次近衛内閣中は大体に於て此の定期的な集りが続いた様に思ひます。

 其の後此の内閣の総辞職と共に会合の揚所がなくなつたので、一時麹町区平河町の万平ホテルで此の朝飯会が数回行はれましたが、どうもホテルでは何となく人目に付き易いし感じもよくないので何処か他に適当な場所を探し度いと云ふ皆の意向であり、幹事格の牛場、尾崎なども困つて居るので私はふと思ひ付いて私の家でやつたらと提案したところ、皆賛成らしいので結局昭和十四年三月初頃かと思ひますが、駿河台の私の家に移されて会合を続けて行く事になりました。(P562-P563)

 其の後昭和十五年夏駿河台の家が中央大学に譲渡され、私が小石川区丸山町三十四番地の新宅に移ることになりましてからは、此の家が手狭でありますし折柄第二次の近衛内閣が成立し再び牛場は秘書官と為り官舎の方に場所がある様になりました為、私の方は打切つて貢ふことにしました。

 そこで恐らく牛場の斡旋によるものと思ひますが、爾来総理官邸の日本間に毎水曜集り朝飯を共にすることになったのであります。

 斯くして此の会合は定期的に続けられて居りましたが、多分独ソ開戦後暫くして日米交渉の問題で忙しくなつた頃から会合の開かれない週もある様になり、第三次近衛内閣の頃には段々影が薄くなつて来た様に思はれます。

 大体此の会合は初めの岸、牛場両氏等の考へでは、之に集る人々から各方面の問題に付て積極的な建設的な意見を出させ度いと云ふ考へから出発されたものだらうと私は思ふのでありますが、其の後の印象としては何となく纏りがなく折角活溌な議論が行はれてもそれに締め括りを付けて一つの意見にすることは殆ど行はれず、段々責任のない情報の交換に堕する様な傾向にありましたので、私は或時牛場に此の会も余り建設的にお役に立ちさうもないから一層の事止めてはどうだと話した事さへありましたが、牛場はまああせるな其の中に役に立つこともあらうからと云つて私を宥めて会は継続されて行つた次第でありました。

 其の会の費用と云ふ様なものは何処から出て居るのか聞いても見ませんでしたし、私としては一向に存じません。只私の家で会合をして居る頃私は月百円牛場から渡され、私としては辞退したのでありましたが、結局受取ることになり之は私方で会合が続けられた期間中続いた様に覚えて居ります。

 然し私方での食費には其の額は不足で私が出費で補つて居た様な有様であります。

 他の人達に対して手当があつたかどうかに付ては私は聞いても見ませんし一向に存じませんでしたが、私の感じとして何等かの手当があつたのではないかとも思はれます。(P563)

(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)



西園寺公一『貴族の退場』より

 この頃の或る日のことである。定例の朝飯会の席上、近衛さんの秘書官の牛場友彦が、吉報があるという。(P28-P29)

 「軍がねえ、永定河の線で、作戦を止めることになつた」

 こう言いながら、親指を出して見せて、続けた。

 「これにネ、杉山が約束させられたんだよ」

 一座は、ちよつとしんとしたが、ほんとかしら、と信じ難い者もあり、ほんとうとしてもその約束が果して守られるか、どうかを疑う者もあり、停戦から、講和の条件などの議論に花が咲くのであつた。

 しかし、案の定それは全くの無駄花であつた。天皇への約束は忽ち反故にされて、日本軍は、華北を踏みにじつて、行進を続けたのである。

*「ゆう」注 一九三七年七月中旬のことと思われるが、この時期に「定例の朝飯会」が存在していたというのは、他のデータと整合せず、西園寺の誤記、もしくは記憶違いであると思われる。


 この朝飯会というものは、当時ずいぶん論議の的となつたものだ。政友会の老将島田俊雄なども、この得態の知れない存在を、大分気に病んで、西園寺の小僧が、駿河台で陰謀をたくらんでいる、などと言つて歩いていたそうだ。その後、今に至るまで、この朝飯会のメンバーを指して、近衛のブレーン・トラストと解釈している人々も少くない。

 メンバーと言えば、牛場友彦、岸道三の両秘書官、朝日新聞の論説の佐々弘雄と笠信太郎、同盟通信の松本重治と松方義三郎、帝大教授の蝋山政道、法政大学関係の平貞蔵と渡辺佐平、朝日新聞の東亜問題調査室に属し、新しい中国通として売り出していた尾崎秀実などの諸君である。その後、何時の頃からか、犬養健も、この会の常連となつていた。(P29-P30)

 このメンバーは、大体、牛場や、岸の肝煎りで集つたものであり、毎週水曜日に、最年少の僕が主人役を仰せつかつて、駿河台の家に招き、銀座のスコットという西洋料理屋の料理で、朝飯を食べながら、内外の情報を交換したり、近衛首相が打つべき手や、施策について議論し合つたりする、まことにあくのない会合であつた。

 島田俊雄が、陰謀云々と言つたのは、滑稽であるが、ああいう政治家連中の目から見れば、駿河台の西園寺邸と言えば、元老の内閣首班製造工場としての印象を払底し得ず、一種の疑心暗鬼から、警戒を要すべきものと見えたのかも知れない。

 朝飯会での話は、牛場、岸両秘書官が、適当に取捨、按配して、近衛さんの参考に供されることもあり、供されないこともあつた。個々の問題に関しては、メンバーの中の一部の人々に、近衛さんから諮問を受けることもあり、また、その後、一部のメンバーは、かなり政治的な動きをするようになつたが、朝飯会自体としては、別に政治的な存在でもなく、近衛さんのブレーン・トラストなどと大袈裟に言われるほどのものでもなかつたと、僕は思つている。(P30)
 




<尾崎秀実>

『検事訊問調書』

第二十二回訊問調書
治安維持法違反
被疑者 尾崎秀実



八問 次に内閣関係に付き述べよ。

 (略)

二、次に牛場、岸両秘書官を中心とする朝飯会に付中上げます。(P222)

 第一次近衛内閣に首相秘書官となった牛場友彦は、昭和九年頃近衛公が渡米した時蝋山政道等と共に随行した関係で、近衛公と親しくなり第一次近衛内閣の成立に際して、首相の秘書に起用されたものであり、岸道三は牛場秘書官と高等学校時代の親友であつたところから、当時広東に居たのを呼戻され首相秘書官に据ゑられたのであります。

 私は牛場とは高等学校大学を通じての同級生で、昭和十一年加州ヨセミテに於て開催された太平洋問題調査会第六回大会には、同会の書記であった牛場の橋渡しに依り私も選ばれて日本代表の一人として出席しました。近衛内閣成立するに及んで間もない頃、牛場岸両名は新聞記者評論家学者等で政治経済に明るい者を物色し、此等の人達より意見や情報を得る為に時々(P222-P223)

  蝋 山 政 道
  平  貞 蔵
  佐 々 弘 雄
  笠 信太郎
  渡 辺 佐 平
  西園寺公一
  私

等を夕食に招待し、懇談を交はして居りました。其の席には風見書記官長も出席したこともあります

 蝋山政道は以前より近衛公のブレーンの一人として知られて居り、平貞蔵は満鉄大連本社で岸と同僚の間柄に在つて親しい仲であり、佐々及笠は朝日新聞社に於ける私の同僚であった上に、佐々は蝋山、平とは旧友の間柄にあり、又渡辺は岸と高等学校以来の友人関係にあり、且西園寺は牛場とオックスフォード大学以来の友人で私とは特に親しい関係にありました。

 此の顔触れは牛場、岸及私が其の周囲から選び出した人達で、何れも実際政治に強い関心を持つてゐる者のみであります。

 私が内閣嘱託になった頃私、岸、牛場で相談した結果、比較的時間の融通の付く朝八時頃に右の人達に集つて貰ひ、政治に付ての希望や意見を開陳し、両秘書官を通じて近衛内閣を扶けて行くことになり、毎月二回位宛召集して朝食を共にしながら政治外交経済を初め、色々な時事問題に付相互に意見の交換を行って来ました。

 昭和十四年初頃からは毎月水曜日の朝集合することになり、爾来検挙の一箇月半前に及びましたが、其の頃からは時局が重大化した関係もあり以後暫く中止の状態となって居たのであります。

此の朝飯会は
第一次近衛内閣時代は
牛場秘書邸で数回

第一次近衛内閣総辞職後の三箇月間は
万平ホテルで二、三回
昭和十四年四月頃以降昭和十五年十一月頃迄は
駿河台西園寺公爵邸で数十回
其の後は
首相官邸日本間で十数回
開いて居ります。

昭和十五年初頃からは牛場、蝋山、西園寺私等と親交のあつた
  同盟編輯局長 松 本 重 治
も参加し
、又
  大 養  健
も前後を通し十回位
  松 方 三 郎
は二回位出席して居ります。
(P223)

(『現代史資料(供法.哨襯音件(二)』)



<牛場友彦>

『東京刑事地方裁判所検事局訊問調書』

第二回訊問調書
牛場友彦



六問
 所謂朝飯会に付て述べよ。

 朝飯会は昭和十二年十一月頃から始められましたが、当時は私、岸道三、西園寺公一、尾崎秀実等極く少数の集りでしたが、尾崎が内閣嘱託に為つた頃から本格的となり毎週水曜日の朝秘書官々舎に集って懇談する様になりました。

此の朝飯会は第一次近衛内閣後の平沼、阿部、米内各内閣の時代も続けられ、其の間は万平ホテル、駿河台の西国寺邸等に集って居ました。(P539)

(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)



『東京刑事地方裁判所予審訊問調書』

証人尋問調書
証人 牛場友彦



四問 証人や岸道三を中心とする朝飯会と云ふのがあったのか。

 左様です。岸は始め病気をして居り第一次近衛内閣の成立後昭和十二年十一月頃癒つて出て参り、それから又静養に出掛け昭和十三年二月頃帰つて来ましたので、朝飯会は私や岸が中心になり誰が云ひ出したと云ふことなしに近衛総理には手足がないから近衛総理を補けようと云ふ気持のある若い者の集りを催しましたので、昭和十二年夏頃から私は総理大臣秘書官の官舎に居つたので其の朝飯会は同年十一月頃から其の官舎で開く様になったのでありますが、顔触れの揃ひましたのは昭和十三年二月頃岸が静養から帰つた後でありました

 顔触れは西園寺公一、尾崎秀実、佐々弘雄、松本重治、蝋山政道、渡辺佐平、笠信太郎、平貞蔵及余程後になつて支那から帰つた時等出席したのが犬養健と通称三郎と申して居る松方義三郎等でありました。

 第一次近衛内閣当時風見書記官長も一回出席したのを記憶して居ります尾崎秀実が昭和十三年七月頃内閣嘱託となりました以後は原則として毎週水曜の朝開いて居つたのであります

 第一次内閣の総辞戦後は万平ホテルで一、二回開き其の後は神田駿河台の西園寺公一の宅で開き第二次内閣の成立後は首相官邸日本間を拝借して開いて居りました。そして第三次内閣総辞職の当時迄続けて居り総辞職の前日の水曜日に開いたのが最後でありました。

其の時に尾崎が出席しなかつたので如何したのだらうと云ふ話が出ましたが、後に聞くと尾崎は検挙されたことが判りましたので其の時で其の会は打切つた訳であります。(P587-P588)

(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)



<松本重治>

『予審訊問調書』

証人尋問調書
証人 松本重治



二六問 第一次近衛内閣成立後牛揚友彦、西園寺公一等の集つた朝飯会と云ふのがあつたか。

 私は当時支那に居りましたのでそれは何う云ふ事情で何時から出来て居たものか存じませぬでしたが、昭和十三年夏頃帰朝した当時から帰る度に一、二度呼ばれて出席しました

 其の後私はずつと病気でありましたが、昭和十四年十月頃から当時多分神田駿河台の西園寺方で聞かれて居たと思ひますが数回それに出席し、第二次近衛内閣成立後は首相官邸で開かれましたので私も時々出席して居りました。(P602)

(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)




(2010.10.3)
  
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