| 昭和12年6月30日「朝飯会」の怪 工藤美代子『近衛家七つの謎』より |
|
工藤美代子氏『近衛家 七つの謎』に、「近衛文麿はなぜ尾崎秀実やゾルゲに狙われたのか」と題する章があります。 この中で工藤氏は、尾崎秀実が、蘆溝橋事件一週間前の「朝飯会」で「事件」の予告をしていたことを語り、さらにそれに続けてゾルゲの口から「盧溝橋事件=中国共産党陰謀説」を語らせます。 本の帯には「昭和史を運命づけた重要事件に新資料を駆使して挑む著者渾身のノンフィクション」とありますので、読者によっては、これをそのまま「事実」と受け止めてしまう方も出てくるかもしれません。しかし実際には、この部分は明らかな「フィクション」であると見られます。 以下、見ていきましょう。 まずは、工藤氏の記述からです。
尾崎秀実が「朝飯会」で「盧溝橋事件」の予告をした。その情報は風見章書記官長を通じて、外務省、陸軍省、参謀本部にも伝達された、というわけです。 工藤氏はこれに続けて、ゾルゲと尾崎の会話シーンを描きます。工藤氏はこの情報を、中国共産党幹部「劉少奇」筋からの伝言である、ということにして、「盧溝橋事件=中国共産党陰謀説」へ導こうと試みます。
しかし、この「朝飯会」の光景は、明らかにありえないものです。 工藤氏の記述を、読み直しましょう。
まずそもそもの話、「昭和十二年六月三十日」の時期には、まだ「朝飯会」なるものは存在しませんでした。そして「朝飯会」が「西園寺公一の屋敷」で行われるようになったのは、昭和十四年以降の話です。 「朝飯会」というのは、こんな集まりであった、と伝えられます。
「ゾルゲ事件」の調書の中に、西園寺公一、牛場友彦、尾崎秀実が「朝飯会」に触れた部分を見ることができます。詳しいデータは「朝飯会関連資料」に譲りますが、総合すると、「集まり」が始まったのは「近衛内閣成立直後」もしくは「昭和十二年十一月頃」(二通りの証言あり)、それが定期的な「朝飯会」に発展したのは尾崎が「内閣嘱託になった頃」の昭和十三年七月頃、ということになります。 そしてその舞台は、当初は「秘書官官舎」。第一次近衛内閣総辞職により「秘書官官舎」は使えなくなったので「万平ホテル」に移ったが、「ホテル」では居心地が悪く、昭和十四年三月頃から「西園寺邸」に移りました。
従って、近衛内閣成立間もない「昭和十二年六月三十日」にはそもそも「集まり」自体が存在したかどうか微妙ですし(証言者により「開始時期」はまちまちです)、例え存在したとしても「朝飯会」ではありえませんでした。 さらに、舞台が「西園寺邸」に移ったのは昭和十四年以降ですので、この時期、「西園寺邸」で「「スコット」から取り寄せた洋食の朝飯」で「朝飯会」を開いていた、ということはありえません。 さて、工藤氏の文を読み進めると、その場にいるはずのない人物が「朝飯会」に出席していることに気づきます。
松本重治はこの頃、同盟通信上海支局長として中国に常駐していました。『上海時代』によれば、松本は6月20日ごろから華北・満州の旅に出、この「朝飯会」が開かれたはずの6月30日には、北平(北京)のホテルで朴という人物と会談しています。
実際の話、松本重治が「朝飯会」メンバーになったのは、「昭和十三年夏頃」であったようです。
従って、松本重治が「昭和12年6月30日」に日本にいて、西園寺亭の「朝飯会」に出席していた、ということはありえません。 さらに工藤氏の文には、超大物の出席者が登場します。近衛文麿首相、その人です。
「いつものように」とありますので、近衛文麿首相は毎回「朝飯会」に出席していた、ということになります。 しかし先の西園寺証言を読み直すと、このような文に行き当たります。
「朝飯会関連資料」に掲載した資料群を見ても、近衛首相自身が出席している気配は全くありません。 さて、工藤氏の挙げる出席者が正確なものでしたら、「朝飯会」の常連であった尾崎秀実は、近衛文麿と頻繁に顔を合わせていたことになりますが・・・。 実際には、尾崎と近衛は「昭和十一年」が初対面で、二回目は「昭和十三年七月」だった、とのことです。
近衛文麿の証言も、上の尾崎供述を裏付けます。
従って、近衛はやはり「朝飯会」には出席していなかった、と見るべきでしょう。 ついでですが、松本重治と近衛文麿の初対面は、「昭和十二年十月頃」だった、ということです。やはり、「昭和十二年六月三十日」に、二人が「朝飯会」で顔を合わせていた、ということはありえません。
最後に、「会合」そのものは「ウソ」であるとしても、尾崎がこのような「盧溝橋事件」の予告を行った、というのが果たしてありうるのか、ということを検討しておきましょう。 工藤氏によれば、「中国通」で知られる著名なジャーナリスト尾崎秀実が、政府関係者や近衛首相(!)の前で、堂々と「盧溝橋事件」の予告を行ったことになっています。 しかもその情報は、近衛の指示により、「参謀本部では作戦を指揮する第一部長の石原莞爾(少将)、現地の責任者、河辺正三の実弟で第二課長(戦争指導)の河辺虎四郎(大佐)、第三課長(作戦、編成、動員)武藤章(大佐)たちには秘密裏に連絡され」た、ということです。 そしてそのわずか一週間後に、「予告」が実現してしまったわけです。ここまでのしっかりした話であれば、記録に残らないはずがありません。 しかし、上のエピソードは、私の知る限り、どんな資料にも登場しません。 例えば秦郁彦『盧溝橋事件の研究』P74-P75には、「事件」直前に流れたさまざまな「うわさ」を詳細にまとめられています。その中には、「東京政界の消息通 七夕の晩に、華北で第二の柳条溝が起きる」(今井武夫『支那事変の回想』。なお今井の原文は、「後になって聞くところによれば、その頃東京政界の消息通の聞に、七夕の晩に、華北で柳條溝事件の二の舞の事件が起きる、という謡言が、ささやかれていたそうである」)という出所不明の曖昧なものまで掲載されていますが、ほとんど「準公式」とも言える「尾崎情報」は、掲載されていません。 そして近衛や陸軍首脳部は、「盧溝橋事件」の第一報を聞いて、このように反応したと伝えられます。
「中国側がことを起こす」という「事前予告」を受けていたはずなのに、近衛首相は、「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」という感想を持つ。事前に情報が伝えられたはずの陸軍首脳部も、「まったく意外の困ったできごと」と認識する。 そして何よりも、これを書き遺しているのは、尾崎の「肩を叩いて誉めそやし」、尾崎の情報を「外務省、陸軍省、参謀本部へと極秘のうちに回」したはずの、当の風見章書記官長なのです。 そんな「尾崎情報」など初めから存在しなかった、と考える方が、よほど自然でしょう。 そもそも一体何のために、尾崎はこのような情報を「朝飯会」で伝えなければならなかったのか。 ゾルゲとの会話では、「これであなたの予想や読みが当たることになって、とてもやりやすくなるでしょう」というのがどうやらその動機であるようですが、動機としては弱すぎます。 大体、盧溝橋事件が本当に「中国共産党の陰謀」であったのであれば、その「陰謀」を事前に日本側にバラしてしまって、どうしようというのでしょうか。 (2010.10.3)
|