昭和12年6月30日「朝飯会」の怪

工藤美代子『近衛家七つの謎』より


 工藤美代子氏『近衛家 七つの謎』に、「近衛文麿はなぜ尾崎秀実やゾルゲに狙われたのか」と題する章があります。

 この中で工藤氏は、尾崎秀実が、蘆溝橋事件一週間前の「朝飯会」で「事件」の予告をしていたことを語り、さらにそれに続けてゾルゲの口から「盧溝橋事件=中国共産党陰謀説」を語らせます。

 本の帯には「昭和史を運命づけた重要事件に新資料を駆使して挑む著者渾身のノンフィクション」とありますので、読者によっては、これをそのまま「事実」と受け止めてしまう方も出てくるかもしれません。しかし実際には、この部分は明らかな「フィクション」であると見られます。

 以下、見ていきましょう。




まずは、工藤氏の記述からです。

工藤美代子『近衛家七つの謎』より


朝飯会の尾崎

 毎週水曜朝八時から始まる朝飯会の場所として、駿河台の西園寺公爵邸が数多く利用されていたことはすでに述べた。(P54-P55)

 公一の父・八郎は、男気に溢れた人格者として知られていたが、公望の娘・新と結婚して婿養子となり飯倉片町に居を構えていた。その間に生まれたのが公一である。祖父で元老の公望はいよいよ高齢となり、興津の別荘で静養の日々を送っていた。公望が死去するのは開戦前年のことで、いまはその三年前である。

 その西園寺公一の屋敷で開かれた十二年六月三十日(水)の朝飯会は、尾崎が入手したという最新情報で盛り上がっていた。

 銀座のレストラン「スコット」から取り寄せた洋食の朝飯を前に、全員が尾崎の顔を見つめた。

 折から梅雨空で鉛色の雲が重かった。幹事役の尾崎が咳払いをひとつしてから今朝の話題を切り出した。

 「内閣発足間もない時局重大な折から、またまたこのような情報をお伝えしなければならないのは、まことに遺憾であります。

 東亜問題研究会などから入りました情報によれば、来る七月上旬、北京周辺においてわが軍に対して不穏の動きをなす分子の活動が予想されております。これが発火点となって日中間の戦争へ発展、さらに長期化するおそれさえ報告されておるのです」


 朝飯を食べていた風見章や松本重治は思わずフォークを置いた。西園寺だけが落ち着いて静かに聴いていたのは、自分はそのくらいの情報は入手している、と席のメンバーにいいたいのか。(P55)

 風見が具体的な内容について訊ねると、尾崎は待っていましたとばかりに先を急いだ。

 「中国北部のわが軍は河辺正三少将の旅団が押さえていますが、ご承知のように北京周辺にはいくつもの軍閥が割拠しております。すなわち蒋介石の北伐に抗して戦っている西北軍閥のボス馮玉祥配下の石友三、陳覚生ら。それを許さじとする蒋介石軍。もっとも彼らは表には出ません。先頭で撹乱するのは宋哲元率いる二十九軍でしょう。若い兵、またはオトリが日本軍との軽い衝突を起こし、その機に乗じて国民政府が有利になるよう謀略戦を仕掛けるか。この背面にいて働くのは重慶を本拠にする藍衣社に決まっています。

 一方では、中国共産党も目を離せません。劉少奇(当時、中国北方局第一書記)の配下にある学生が突出して衝突するのかもしれません。

 繰り返すようですが、こうした部隊のどれか一つ、または複合しながら大規模な戦闘に発展させる可能性が考えられます。

 いずれにせよ、近衛内閣としては事前予知と現地対策を急がれたほうが賢明だと申し上げたい」


 いつものように黙って聞いていた近衛は、食事を終えると牛場を呼んで手配を急がせた。

 風見はいかにも感心したふうに尾崎の側へ寄ってくると肩を叩いて誉めそやした。

 「さすがだな、あんたの分析力は大いに役立つと思うよ」

 尾崎が指摘した情報は直ちに書記官長から外務省、陸軍省、参謀本部へと極秘のうちに回された。(P56)

 とりわけ、参謀本部では作戦を指揮する第一部長の石原莞爾(少将)、現地の責任者、河辺正三の実弟で第二課長(戦争指導)の河辺虎四郎(大佐)、第三課長(作戦、編成、動員)武藤章(大佐)たちには秘密裏に連絡されたが、まだ実感をもって事態を重く見る者はいなかった。

 軍隊は現場から現実の情報が入らないかぎり、なかなか兵一人動かすことはしにくい仕組みなのだ。一人、石原だけが部屋のなかを歩き回りながら誰にともなくつぶやいた。

 「万一、何か異変が起きてもあまり挑発に乗らんようにな。いま、支那での戦火の拡大は戒めねばならないのだ」(P57)



 尾崎秀実が「朝飯会」で「盧溝橋事件」の予告をした。その情報は風見章書記官長を通じて、外務省、陸軍省、参謀本部にも伝達された、というわけです。

 工藤氏はこれに続けて、ゾルゲと尾崎の会話シーンを描きます。工藤氏はこの情報を、中国共産党幹部「劉少奇」筋からの伝言である、ということにして、「盧溝橋事件=中国共産党陰謀説」へ導こうと試みます。

工藤美代子『近衛家七つの謎』より

 駿河台の屋敷を後にした尾崎は、市電に乗ると銀座七丁目の裏道に向かった。ポケットからたたまれたメモを出し「エーワン」と書かれた店を確認すると、その紙片を横丁のごみ箱にちぎって捨てた。

 ひと気の少ない店内を覗くと、奥のカウンターで鳥打帽を被った肩幅の広い男がコーヒーを飲んでいた。それまで退屈そうに『シュピーゲル』のページをめくっていた彼が口を開いた。

 「ここはドイツ大使館の人がよく使う店ですから、安心です。知り合いが来たら『朝日新聞の尾崎記者だ』と紹介すればいいのです。それで、朝はうまくいきましたか」

 ゾルゲの落ち着いたバリトンの響きが低く尾崎の耳に屈いた。

 「ああ、いわれたとおりにね。みんな驚いていたよ」(P57)

 「劉少奇同志筋からの伝言だから間違いはない。実際には宋哲元の二十九軍に北京や天津の大学生党員とシンパをたくさん潜入させているんです。彼らは抗日を叫んで日本軍を撹乱する最前線に立つはずです。これであなたの予想や読みが当たることになって、とてもやりやすくなるでしょう。私への情報はほとんどが宮城与徳からだから、信頼はダイジョウブ」

 宮城を通して現地から入ってきた情報とは、中国共産党の学生組織が変装して第二十九軍に紛れ込み、そこで日本軍を挑発するという謀略戦であった。

 独仏露三カ国語は堪能だったゾルゲも、日本語にはまだ不自由さが残っていた。しかし、石井花子が麻布鳥居坂の彼の家へ通うようになってからは、ずいぶん会話が上達したものだなと尾崎は思った。

 二人は素知らぬふりをして席を立ち、それぞれ銀座の横丁に別れた。(P58)
 






しかし、この「朝飯会」の光景は、明らかにありえないものです

工藤氏の記述を、読み直しましょう。

工藤美代子『近衛家七つの謎』より


 その西園寺公一の屋敷で開かれた十二年六月三十日(水)の朝飯会は、尾崎が入手したという最新情報で盛り上がっていた。

 銀座のレストラン「スコット」から取り寄せた洋食の朝飯を前に、全員が尾崎の顔を見つめた。(P56)

 


まずそもそもの話、「昭和十二年六月三十日」の時期には、まだ「朝飯会」なるものは存在しませんでした。そして「朝飯会」が「西園寺公一の屋敷」で行われるようになったのは、昭和十四年以降の話です。


「朝飯会」というのは、こんな集まりであった、と伝えられます。

西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より

朝飯会の活性化で近衛首相を擁護する

 僕たちというのは、第一次近衛内閣時代から続けてきた「朝飯会」のメンバーのことだ。

 「朝飯会」は若手の近衛側近グループとして有名になったが、はじめの頃は"朝"ではなかったのだ。(P181)

 近衛さんの秘書官だった牛場と岸、それに尾崎あたりが相談してゲストを招き、夕食をとりながら話を聞く会を始めたのが、第一次内閣成立直後だった。メンバーは、この三人に、僕、蝋山政道、平貞蔵、佐々弘雄、笠信太郎、渡辺佐平などだ。

 そのうち、もっと頻繁に会を開こうという意見が出て、当時の書記官長の風見さんも賛成し、「朝飯会」ということになる。この頃の会合といえば、日が暮れてから、待合や料亭でと相場が決まっており、早朝に固い政治向きの話をするというだけで目立ったものだ。

 月に二回くらい、朝の八時頃に集まって、情報を交換したり、議論した。はじめは、首相官邸のなかにある牛場の秘書官邸でやり、第一次内閣が辞職してからは、まず麹町にあった「万平ホテル」を使い、その後、僕の駿河台の家が会場になって長く続いた。

 朝飯会になってからはゲストは呼ばなかった。銀座の「スコット」というレストランから仕出しをとり、それを食べながらの自由討論だ。朝飯ではあったけど、なかなか豪華な食事だったな。時には、朝からステーキなどが出てきた。

 でも、僕はこの食事代を払った記憶はないよ。多分、興津のじいさんにツケを回したのだろうね。これだけのメンバーが集まり、真面目に勉強したのだから、じいさんだって喜んで払ってくれたさ。(P182-P183)

 朝飯会については、いろいろとうるさいことをいわれたが、ここで謀議をこらすとか、具体的な方針を出して、実行に移すようなことはなかった。一言でいえば、情報交換だ。事前にその日の担当を決めていたわけではなく、集まってから「じゃァ、今日は、僕がこの問題について話す」ということが多かった。

 しばらくして、上海から帰国した松本重治や犬養健、松方三郎などが加わった。風見さんの出席率はよかったが、近衛さんは出席したことは一度もなかったはずだ

 朝飯会は近衛さんが首相を辞職しても続いたし、第二次内閣を組織してからも、再び会場を秘書官邸に戻して、十数回やった。(P183)
   


 「ゾルゲ事件」の調書の中に、西園寺公一、牛場友彦、尾崎秀実が「朝飯会」に触れた部分を見ることができます。詳しいデータは「朝飯会関連資料」に譲りますが、総合すると、「集まり」が始まったのは「近衛内閣成立直後」もしくは「昭和十二年十一月頃」(二通りの証言あり)、それが定期的な「朝飯会」に発展したのは尾崎が「内閣嘱託になった頃」の昭和十三年七月頃、ということになります。

 そしてその舞台は、当初は「秘書官官舎」。第一次近衛内閣総辞職により「秘書官官舎」は使えなくなったので「万平ホテル」に移ったが、「ホテル」では居心地が悪く、昭和十四年三月頃から「西園寺邸」に移りました

『西園寺公一に対する予審訊問調書』


第四回訊問調
被告人 西園寺公一

一問 公爵近衛文麿側近の間に於ける朝飯会と云ふのがあつたか。

 (略)

其の後此の内閣の総辞職と共に会合の揚所がなくなつたので、一時麹町区平河町の万平ホテルで此の朝飯会が数回行はれましたが、どうもホテルでは何となく人目に付き易いし感じもよくないので何処か他に適当な場所を探し度いと云ふ皆の意向であり、幹事格の牛場、尾崎なども困つて居るので私はふと思ひ付いて私の家でやつたらと提案したところ、皆賛成らしいので結局昭和十四年三月初頃かと思ひますが、駿河台の私の家に移されて会合を続けて行く事になりました。(P562-P563)

(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)



 従って、近衛内閣成立間もない「昭和十二年六月三十日」にはそもそも「集まり」自体が存在したかどうか微妙ですし(証言者により「開始時期」はまちまちです)、例え存在したとしても「朝飯会」ではありえませんでした。さらに、舞台が「西園寺邸」に移ったのは昭和十四年以降ですので、この時期、「西園寺邸」で「「スコット」から取り寄せた洋食の朝飯」で「朝飯会」を開いていた、ということはありえません。




 さて、工藤氏の文を読み進めると、その場にいるはずのない人物が「朝飯会」に出席していることに気づきます。

工藤美代子『近衛家七つの謎』より


 朝飯を食べていた風見章や松本重治は思わずフォークを置いた。西園寺だけが落ち着いて静かに聴いていたのは、自分はそのくらいの情報は入手している、と席のメンバーにいいたいのか。(P55)


 松本重治はこの頃、同盟通信上海支局長として中国に常駐していました。『上海時代』によれば、松本は6月20日ごろから華北・満州の旅に出、この「朝飯会」が開かれたはずの6月30日には、北平(北京)のホテルで朴という人物と会談しています。

松本重治『上海時代』(下)より

 華北情勢の切迫を肌身で感じる

 近衛内閣(第一次)の出現は、国内の対立・相剋に悩んだ多くの国民の期待するところであった。青年宰相の人気は上々であったが、彼にはしっかりした政治的基盤はなかった。上海の私には、近衛新首相がどれだけ軍部の行き過ぎを抑え得るか、また彼が中国に対して如何なる経綸をその胸中に蔵しているかが少しも判らなかった。

 新聞紙面から判読すれば、新首相は、最初に貴族院改革問題を取り上げたようであったが、それも数日中に竜頭蛇尾に終ったような感じを受け、私は居ても立ってもいられぬ気持で、とにかく現地を見たいと思い、満州・華北への旅に出た。六月二十日ごろであったと記憶する。(P97)

 満州では、大連から新京(長春)へ、また帰途、大連を経て北平に赴いた。滞留すること三日間、六月三十日の朝、朴錫胤君がホテルに訪ねてくれた。朴君は吉野作造先生の弟子の一人で、東京で嘉治隆一さんの紹介で、二度ほど会ったことのある友人であった。(P98)


 実際の話、松本重治が「朝飯会」メンバーになったのは、「昭和十三年夏頃」であったようです。

『予審訊問調書』

証人尋問調書
証人 松本重治



二六問 第一次近衛内閣成立後牛揚友彦、西園寺公一等の集つた朝飯会と云ふのがあつたか。

 私は当時支那に居りましたのでそれは何う云ふ事情で何時から出来て居たものか存じませぬでしたが、昭和十三年夏頃帰朝した当時から帰る度に一、二度呼ばれて出席しました

其の後私はずつと病気でありましたが、昭和十四年十月頃から当時多分神田駿河台の西園寺方で聞かれて居たと思ひますが数回それに出席し、第二次近衛内閣成立後は首相官邸で開かれましたので私も時々出席して居りました。(P602)


(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)



 従って、松本重治が「昭和12年6月30日」に日本にいて、西園寺亭の「朝飯会」に出席していた、ということはありえません。





 さらに工藤氏の文には、超大物の出席者が登場します。近衛文麿首相、その人です。

工藤美代子『近衛家七つの謎』より


 いつものように黙って聞いていた近衛は、食事を終えると牛場を呼んで手配を急がせた。

(P56)


 「いつものように」とありますので、近衛文麿首相は毎回「朝飯会」に出席していた、ということになります。

 しかし先の西園寺証言を読み直すと、このような文に行き当たります。

西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より

 風見さんの出席率はよかったが、近衛さんは出席したことは一度もなかったはずだ。(P183)

   

 「朝飯会関連資料」に掲載した資料群を見ても、近衛首相自身が出席している気配は全くありません



 さて、工藤氏の挙げる出席者が正確なものでしたら、「朝飯会」の常連であった尾崎秀実は、近衛文麿と頻繁に顔を合わせていたことになりますが・・・。

 実際には、尾崎と近衛は「昭和十一年」が初対面で、二回目は「昭和十三年七月」だった、とのことです。

『尾崎供述概要』


第三、近衛公との関係に就て

一、近衛公とは昭和十一年暮頃星ケ岡茶寮で、
  近衛公
  牛場友彦
  佐々弘雄
  尾崎(本人)

の四人で御会ひしたのが始めて
であり、此の時は佐々弘雄が牛場に頼み公に引合はして貰ふ為の会合の様なもので、格別な話しは無かつたと記憶するが、公は非常にざつくばらんに良く話される御方で、此の時、

 平沼男を非常に推称されて居り、重臣と云ふ者は現状維持であるが中で唯一人平沼男丈は革新的だ、

と云ふ意味のことや、

 石原完爾が「日満経済研究所」に日満の統制経済の問題を研究させて居り其の結果は公の許にも来て居る、

と云ふ様なことを話されて居たことを記憶する。

二、其の後尾崎が内閣嘱託とたる迄は御会ひする機会が無かつたが、昭和十三年七月内閣嘱託となり首相官邸の牛場秘書官の部屋の隣の部屋で仕事をして居り、牛場秘書官の部屋に入つて居る時など時々公が来られて御目にかかつたことがあるが、其の間仕事の上では第一次近衛内閣の末期頃(昭和十三年暮頃)国民再組織問題で牛揚秘書官と共に公と官邸の日本間で御会ひして、当時尾崎が風見書記官長から命ぜられて研究して居つた、同問題に関しての色々の意見や尾崎の成案(風見章との関係に於て述べたるが如き案)に付説明した。(P529)

(『現代史資料(供法.哨襯音件(二)』



 近衛文麿の証言も、上の尾崎供述を裏付けます。

『予審判事訊問調書』

証人訊問調書
証人 近衛文麿


五問 尾崎秀実とは如何なる関係か。

 私は同人とは三、四回会つただけでそれは何時も牛場や西園寺と尾崎が一緒に参つたのでありました。第一次内閣の当時顔は知つて居りましたが同人が内閣の嘱託であつたと云ふことも実は知らなかつたのでありました。(P403)

(『現代史資料(供法.哨襯音件(二)』)
 

 従って、近衛はやはり「朝飯会」には出席していなかった、と見るべきでしょう。



 ついでですが、松本重治と近衛文麿の初対面は、「昭和十二年十月頃」だった、ということです。やはり、「昭和十二年六月三十日」に、二人が「朝飯会」で顔を合わせていた、ということはありえません。

『予審訊問調書』

証人尋問調書
証人 松本重治



六問 近衛文麿とは如何。

 支那事変が始まつた後、昭和十二年十月同盟通信の社長岩永裕吉が近衛さんと非常に親交のあつた関係から、岩永社長の紹介で時の総理近衛さんに現地の事情を説明に参りました。尤も其の前近衛さんがアメリカヘ行かれる際秘書として私を連れて行つて貰はうかと思つたが、私が支那に居たので牛場を推薦したと云ふ岩永氏の話でありました。其の様な事情で私は近衛さんにお目に掛つたのは今申した昭和十二年十月頃が最初であります。(P600)

(『現代史資料(掘法.哨襯音件(三)』)






 最後に、「会合」そのものは「ウソ」であるとしても、尾崎がこのような「盧溝橋事件」の予告を行った、というのが果たしてありうるのか、ということを検討しておきましょう。

 工藤氏によれば、「中国通」で知られる著名なジャーナリスト尾崎秀実が、政府関係者や近衛首相(!)の前で、堂々と「盧溝橋事件」の予告を行ったことになっています。しかもその情報は、近衛の指示により、「参謀本部では作戦を指揮する第一部長の石原莞爾(少将)、現地の責任者、河辺正三の実弟で第二課長(戦争指導)の河辺虎四郎(大佐)、第三課長(作戦、編成、動員)武藤章(大佐)たちには秘密裏に連絡され」た、ということです。

 そしてそのわずか一週間後に、「予告」が実現してしまったわけです。ここまでのしっかりした話であれば、記録に残らないはずがありません。


 しかし、上のエピソードは、私の知る限り、どんな資料にも登場しません。

 例えば秦郁彦『盧溝橋事件の研究』P74-P75には、「事件」直前に流れたさまざまな「うわさ」を詳細にまとめられています。その中には、「東京政界の消息通 七夕の晩に、華北で第二の柳条溝が起きる」(今井武夫『支那事変の回想』。なお今井の原文は、「後になって聞くところによれば、その頃東京政界の消息通の聞に、七夕の晩に、華北で柳條溝事件の二の舞の事件が起きる、という謡言が、ささやかれていたそうである」)という出所不明の曖昧なものまで掲載されていますが、ほとんど「準公式」とも言える「尾崎情報」は、掲載されていません。


 そして近衛や陸軍首脳部は、「盧溝橋事件」の第一報を聞いて、このように反応したと伝えられます。


風見章『近衛内閣

蘆溝橋事件おこる


 この事件の報告をうけると、わたしは、すぐにこれを近衛氏に伝えた。そして、杉山(元)陸相は、わがほうにとってはまったく偶発事件であるといっていることをつけ加えると、近衛氏は、「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」と、いうのであった。

 近衛氏がこういったのにはわけがある。というのは、これよりずっと前から、日本は華北に特殊権益を手にいれておかねばならぬというので、陸軍が主役となって、華北政権としきりに交渉をつづけていたのだが、話し合いはちっともはかどらず、いっかな、らちあきそうもなく、それがために陸軍の一部には、ごうを煮やすあまり、あわよくば華北を第二の満洲国たらしめんとする計画をたてて策謀している者もあるとのうわさが、近衛内閣成立の前から、消息通のあいだに伝えられていたのである。

 だから、蘆溝橋事件がおこったときいて、さては、陸軍が華北に手をつけはじめたのではないかとの疑いを持ったのは、ひとり近衛氏だけではなかったのである。

 事件がおこって、まもなくのことである。これについて、米内(光政)海相と山本(五十六)海軍次官と、わたしが話しあったおり、山本次官は、「陸軍のやつらは、なにをしでかすか、わかったものでない、油断がならんよ」といって、同じ疑いをほのめかし、米内海相もそれに同感の意を示したものである。

 事件そのものが重大であるのみならず、もしも、それが、陸軍の計画的行動であるとすれば、容易ならざる事態をかもしだすことになるのは、わかりきった話なので、近衛氏の要求もあり、わたしは、はたしてそうであるかないかを確かめたいものと、できるかぎりの情報集めにとりかかった。しかし、手にはいる情報からは、陸軍の計画的行動だと決めるわけにもゆかなかった。しかのみならず、すくなくとも陸軍首脳部は、陸相はじめ、いずれも、まったく意外の困ったできごとだとして、ひどく心配しているとしか思われなかった。

(P30-P31)



 「中国側がことを起こす」という「事前予告」を受けていたはずなのに、近衛首相は、「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」という感想を持つ。事前に情報が伝えられたはずの陸軍首脳部も、「まったく意外の困ったできごと」と認識する。

 そして何よりも、これを書き遺しているのは、尾崎の「肩を叩いて誉めそやし」、尾崎の情報を「外務省、陸軍省、参謀本部へと極秘のうちに回」したはずの、当の風見章書記官長なのです。


 そんな「尾崎情報」など初めから存在しなかった、と考える方が、よほど自然でしょう。 


 そもそも一体何のために、尾崎はこのような情報を「朝飯会」で伝えなければならなかったのか。

 ゾルゲとの会話では、「これであなたの予想や読みが当たることになって、とてもやりやすくなるでしょう」というのがどうやらその動機であるようですが、動機としては弱すぎます。

 大体、盧溝橋事件が本当に「中国共産党の陰謀」であったのであれば、その「陰謀」を事前に日本側にバラしてしまって、どうしようというのでしょうか。

(2010.10.3)
  
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