近衛上奏文
敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存侯
以下此の前提の下に申述べ侯、
敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存侯。
国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。
つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。即ち国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。我国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、
かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存侯。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざることは、最近欧洲諸国に対する露骨なる策動により、
明瞭となりつつある次第に御座侯。
ソ遅は欧洲に於て、其の局辺諸国にはソピエット的政権を、爾余の諸国には少くとも親ソ容共政権を樹立せんとし、着々其の工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之侯。ユーゴのチトー政権は、その最も典型的な具体表現に御座侯。ポーランドに対しては、
予めソ連内に準備せるポーランド愛国者連盟を中心に新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切侯。
ルーマニア、ブルガリア、フィンランドに対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソビエット政権に非ざれば、存在し得ざる如く強要致侯。
イランに対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、 内閣総辞職を強要致侯。スウェーデンがソ連との国交開始を提議せるに対し、ソ連はスウェーデン政権を以て、親枢軸的なりとて一蹴し、これがため外相の辞職を余儀なくせしめ侯。
占頷下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と、政府との間に深刻なる斗争が続けられ、且つこれら諸国は、何れも政治的危機に見舞われつつあり、而してこれら武装団を指導しつつあるものは、主として共産系に御座侯。
ドイツに対してはポーランドに於けると同じく已に準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図なるべく、これは英米に取り今日頭痛の種なりと存ぜられ侯。(P148-P149)
ソ連はかくの如く、欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の足場を取るも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずちんと致居候。ソ連のこの意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に、
日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連絡、日本に呼びかけ居候。
かくの如き形勢より推して考うるに、ソ連はやがて日本の内政に、干渉し来る危険十分ありと存ぜられ侯。(即ち共産党公認、ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く、共産主義者の入閣、治安維持法及び、防共協定の廃止等々)
翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々具備せられ行く観有之侯。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵慨心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する所謂新官僚の運動、
及びこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍等に御座侯。
右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之侯。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、軍部内革新論の基調も亦ここにありと存侯。皇族方の中にも、
此の主張に耳を傾けられるる方あり、と仄聞いたし侯。
職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産主義主張を受け入れ易き境遇にあり、又彼等は軍隊教育に於て、国体観念だけは徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て、
彼等を引きずらんとしつつあるものに御座侯。
抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。
満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座侯。支那事変当時も、「事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる」と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座侯。
これら軍部内一部の者の革新論の狙いは、必ずしも、共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、
意識的に共産革命にまで引ずらんとする意図を包蔵しおり、無智単純なる軍人、これに躍らされたりと見て大過なしと存侯。
この事は過去五十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到違したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思い当る節々頗る多きを、感ずる次第に御座侯。
不肖は、この間に二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんがため、できるだけこれら革新論者の主張を容れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、
何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座侯。
昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に勢を加えつつありと存侯。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後よりこれを煽動しつつあるは、これによりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目釣を達せんとする共産分子なりと睨み居候。
一方に於て徹底的米英撃滅を唱う反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつつある様に御座侯。(P149-P150)
軍部の一部には、いかなる犠牲を払いても、ソ遅と手を握るべしとさえ論ずる者もあり、又延安との提携を考え居る者もありとのごとに御座侯。以上の如く、国の内外を通じ共産革命に進むべき、凡ゆる好条件が日一日と成長しつつあり、
今後戦局益々不利ともならばこの形勢は急速に進展致すべくと存侯。
戦局への前途につき、何らか一縷でも打開の望みありというならば、格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存侯。随って国体護持の立場よりすれば、
一日も速に戦争終結の方途を、講ずべきものなりと確信仕侯。
戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし、軍部内のかの一味の存在なりと存候。彼等は已に戦争遂行の自信を失いおるも、今までの面目上、飽くまで抵抗可致者と存ぜられ侯。
もしこの一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志、この一味と饗応して国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成し難き恐れ有之侯。従て戦争を終結せんとすれば、先ずその前提として、此の一味の一掃が肝要に御座侯。
此の一味さえ一掃せらるれば、便乗の官僚並びに右翼左翼の民間分子も影を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに他ならざるが故に、その本を絶てば、枝葉は自ら枯るるものとなりと存侯。
尚これは少々希望的観測かは知れず侯えども、もしこれら一味が一掃せらるる時は、軍部の相貌は一変し、米英及び重慶の空気は緩和するに非ざるか。元来米英及び重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、
その政策が改らぱ、彼等としても戦争の継続につき、考慮する様になりはせずやと思われ侯。
それはとも角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行することは、共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の勇断をこそ望ましく奉存侯。
(『論争』1962年8月号)
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堀田善衛 『破滅型 近衛上奏文について』
太平洋戦争についての、特に政治経済軍事外交などの責任にあつた人々の記録や回想録をだいぶ読んだ。二十冊ほども読んだろうか。みなそれぞれに興味深かつた。そして大体それらの全部を貫いて、一つ二つの共通するものがあることに気付いた。
その一つは、国民というものの無視、或は敵視である。アランは「兵士は敵と戦うことばかり考え、将校は兵士と戦うことばかり考えている」と云つているが、これらの指導者たちが国民のことを考えるときの、
その考え方は、殆ど全部次のような型をとるようである。
すなわち、国民は戦争を、或は自分たちを、何と考えているか、という疑いを通じてしか考えていない、そういう考え方である。
これを最も露骨にあらわしているものは、近衛文麿の書いた天皇に対する上奏文である。就中、国内情勢に関する部分。(二十年二月十四日拝謁)これは恐らく歴史に残る文書であろうが、とにかく当時の上層部が何を考えていたか、
まざまざと見る思いをさせられるものであり、一種の傑作であるとさえ僕は思う。
これによると、小壮軍人の多数も、右翼も左翼も、官僚も、みな共産主義者であり、「抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは」、軍部革新派であり、「是等軍部内一部の者の革新論の狙ひは、
必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり。)は、意識的に共産革命に迄引ずらんとする意図を包蔵し居り、」というわけだ。
資本家と貴族を除いたほかは、活発な人々は誰もかれもがぜんぶ共産主義者だということになる。ウソだと思う人は、原文を読んでみられよ。次のような丁寧な説明までついている。
「職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産主義主張を受け入れ易き境遇にあり。」と。(P111-P112)
職業軍人の大部分は、プロシャ陸軍のように、貴族出身者でなければならん、とでもいうわけだろうか。召集による素人軍人たちはなお頼りにならん、というわけか。
こんなことを云われて天皇がそのココウの臣たちについてどんな感想を抱いたか聞いてみたい気がする。
またこのくらい当時の「帝国軍人」をバカにした文句もなかろう。「中以下の家庭出身者」であることが、どこが悪いというのか、国民の九十九パーセントは、中以下の家庭しかもてないのである。
近衛氏は既に亡き人である。私は氏を嘲笑したり悪しざまに云つたりする気持ちはまつたくもつていない。ただ、驚くのである。こんなにまで真面目で非常識な、真剣で滑稽な文書を私は見たことがない。
「一億玉砕を叫ぶ声」さえが、「遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候」となるに及んでは、疑心暗鬼、悲惨というのほかない。マッカーシー氏の天眼鏡の上をゆくものだ。
しかも、「此の事は、過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到違したる結論」だという。満洲事変、支那事変、大東亜戦争などについて責任があるのは、 また、「国民政府を相手にせず」などと云つたのは誰だつたのだろう。その非常識滑稽は、社会から斥けられた法外者(アウトロウ)、犯罪者の抱く歪んだ社会観に近い。
近衛氏は、共産革命を防止し、国体と称するものを守るためにのみ、戦争終結を急いだのだ。そしてこの国体と称するものも、要するに自分たちと天皇ということにほかならぬと思われる。
これは原田日記などにも明らかに見られる考え方である。国体、国体とお題目のようにかつぎまわる右翼も、近衛氏によれば「国体の衣を着けた共産主義」である。
この上奏文全体を何度読んでみても、九十九パーセントの国民の苦難など、痛快なほどに無視されている。
要するに、「敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存候。」というわけで、国民の苦悩、 「生活の窮乏、労働者発言権の増大」などは、「共産革命達成」の道具としてしか、この意義に於てのみ憂うべきものだのである。その道具にさえならなければ、さまで憂うる要なしと存候である。
近衛氏から見れば、戦争継続を主張するものは共産主義であり、憲兵から見れば平和を主張するものは赤である。
二つあわせれば―そして後世の歴史家は―戦時日本はマッカッカだつたというかもしれない。
近衛氏等が共産主義だという「産業奉還」運動は、憲兵司令官に云わせれば「これ等(企業国営論者)は戦局の前途を悲観し、危険を国家に負担せしめようと企図するもの」ということになる。(種村佐孝「大本営機密日誌」)
ところが、この同じ近衛氏が、如上の上奏をしてから四ヵ月たつた六月十二日、モスコウ行の勅諚を拝し、これを引受けるにいたつては、また彼の先生の西田幾多郎博士がソヴエトを論じ、「将来の世界はどうしても米国的な資本主義的なものではなく、
やはりソヴエト的なものになるだろう。日本本来の姿もやはり資本主義よりはああいつた形だと思ふ」などという、細川護貞氏に告げたと「同様の論」及びソヴエト体制の弱点等について近衛氏に話す、
これに対して辞去してから近衛氏が「実にかざり気のない人だ」と評する(二月十六日、上奏の日より二日後)にいたつては、近衛氏という人をどう表象したらいいのか、フランクな人だ、とでも云えばいいのか、つかみどころがない。(P112-P113)
哲学者西田幾多郎の意見が「かざり気のない」ところを表明したものと認めるのならば、二日前の上奏文はどうしたことなのだろうか。被害妄想性ヒステリーか。それとも、徳田球一以下の本物の共産主義者たちは、
牢獄の壁を破つて軍部、官僚、右翼及び左翼などの一大勢力を操縦するほどの、神通力をでももつていたのだろうか。(西田博士の談話は「細川日記」による)
杉山元という小磯内閣の陸軍大臣は「外交による転換」(降伏)の場合、軍は動揺するだろう、といわれ、それだからこそ元帥という肩書でどうにかなると思つているのである。(同「細川日記」による) ここまでくると、
もう常識でも判断できない。死者に対して礼を欠くかもしれないが、キチガイである。
ジャン・ジュネは熱烈にキリスト教的な書物「泥棒日記」のなかで王宮と監獄の等質性を力説しているが、あの戦争中、日本の軍政のピラミッドの、雲の上に近いところにいた人々は、
社会から完全に離脱して、そして社会の側から云えば、社会から斥けられて、実に驚嘆すべきことを考えていたものである。グロテスクと云つていい。
いまはどうだろうか? 破滅型とは、文学者だけ適用さるべき技術語ではなさそうだ。近衛氏は「私の破滅は個人主義が巨大すぎたからではない、小さすぎた」と云つているが、何のことか?
(雑誌『新潮』 1953年10月号) |
伊藤隆 『昭和期の政治』
そこで近衛上奏文をもう一度この日記と関連させながら読み直してみよう。
なおこの上奏文の論理は殖田の前述の回想によると、殖田に負うところが大きいらしい。日記にも殖田が一七年頃からこの論理を説いてまわっていることが記されている。近衛は一八年三月一八日小林躋造と会見しているが、
この際これとほぼ同じ論理で話していることが小林の記録に示されており、この日記中の前述の一九年七月一五日の近衛の高松宮への説得もほぼ同様であり、少なくとも一八年以後このグループのほぼ共通の論理となったものと考えられる。
近衛上奏文はソ連の周辺諸国を共産化していく方針とその具体的進展(ここには野坂らの延安での動きも注目されている)を述べたあと、「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、
日々具備せられ行く観有之侯。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する所謂新官僚の運動、
及びこれを背後から操りつつある左翼分子の暗躍等に御座候」と述べている。
この時点で背後から操りつつある「左翼分子」が存在しなかったであろうことは今日ほぼ認められているところである。
しかし軍の革新派や革新官僚が昭和一〇年代の政治を推進し、
戦時体制の下で経済統制を中心に国民生活のあらゆる側面に新しい秩序−それは新体制という言葉で表現された−を創り上げようとしていたことは事実である。
このような「革新」派が「赤」ではないかという議論が反「革新」派からの攻撃でしばしば用いられたところであった。
近衛がこのように断定的に述べているのは、あるいは共産主義者でありソ連のスパイであり、かつ同時に「革新」派の理論家の一人でもあった尾崎秀実−彼は近衛の周辺にいた−及びモのグループのことが念頭にあったのかも知れない。(P198-P199)
近衛上奏文はつづいて「抑々満洲事変、支那事変を起し、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存侯。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは、
有名なる事実に御座侯。支那事変当時も、『事変永引くがよろしく、事変解決せば国内革新はできなくなる』と公言せしは、此の一味の中心的人物に御座候」と述べている。
大東亜戦争までひきづって来たのは、軍官のつまり統制派を中心とした革新派であり、彼らのねらいが国内の革新にあり、それは結局共産化につながるものだというのが上奏文の昭和史解釈である。
しかしそうだとすると満州事変は別として、多くの期間陸軍中枢部から排除されていた皇道派はいいとして、近衛自身はたしかにこの時期皇道派と個人的には親しかったとはいえ昭和一〇年以前から革新派のホープであり、
三次にわたる近衛内閣は昭和一〇年代の主要な革新政策を実現するために大きな役割を果してきたのだから矛盾を生じることになる。
この点について近衛上奏文は「不肖は、この間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相克摩擦を避けんがため、できるだけこれら革新論者の主張を容れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、
彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候」と自己批判をしているのである。
もっとも近衛の日米交渉前後までの言動は「革新」派そのものであり、開戦後一種の転向が行われたと見るのが妥当と思われる。(P199)
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