マギーフィルムの解説書



 マギーが撮影した、いわゆる「マギーフィルム」の解説書です。『ドイツ外交官の見た南京事件』より紹介します。

資料51

添付書類
一九三八年二月十日付南京分館報告(文書番号二七二二/一一一三/三八)に添付


内容−マギー牧師の解説書


 

 ここに示される映像は、一九三七年一二月一三日の日本軍による南京陥落に引き続いて起こった、言語に絶する出来事を断片的に垣間見せるものにすぎない。私にもっと多くのフィルムと時間があったなら、はるかに多くの光景を撮ることができたであろう。

 他の人と同様、私も朝から晩までさまざまな形で市民を保護し救助するのに忙殺された。撮影の時間はたまにしかなかった。そのうえ、カメラを壊されたり押収されたりしないよう、人目を避けるのに多大な注意を払わなければならなかった。

 こうした理由で、私は、人が殺される光景や、町のあちこちに横たわるおびただしい死体を撮影することができなかった。もし私が伝道団慈善診療所〔鼓楼病院〕にとどまることができて、 治療のために運ばれてきた人々が受けた暴行と傷害のすべてを撮影できたら、フィルムはずっと長くなっていただろう。 (P166-P167)

 とくに思い出すのは、肩を撃ち抜かれ、背中を銃弾が突き抜けた七〇歳の老婦である。幸運にも急所をはずしていたため、傷はすぐに癒えた。

 忘れてはならぬことだが、何千人の負傷者のうち、病院に運ばれたり、連絡がついたものは、ほんの数パーセントにすぎない。地方の田舎町や小都市では、何千、何万の人々が暴行され殺されたが、 そこには外国人の目が届いていない。もっとも、真実を語るかれらの言葉がときおり寄せられてはいるのだが。

 日本軍将兵の態度は、中国人は敵なので何をしても構わないといわんばかりだった。日本軍当局は強姦を軽く見ていた。強姦が不都合なことと映ったのは、もっぱら国際世論に及ばす印象と、上からの圧力のためだった。

 公正のために一言いえば、多くの日本人は一部の日本兵のひどいふるまいを認めていた。二人の新聞記者もそれを私に認めた。その一人は、このようなことが起こったのは「避けがたかった」と言った。軍紀の弛緩を認めたある総領事も同じ言葉を述べた。 日本軍にたいする何という論評だろうか。

 戦争はどの国にあっても人間の最悪の部分を引き出す。もちろんどんな国にも犯罪者やサディストがおり、戦争で邪悪な本能を発揮する。おそらく日本兵の残虐さとかれらが実際におこなった血に飢えた行為は、切腹のような身の毛のよだつ風習を認め、 血なまぐさい物語を子どもの読み物にするような国では、必然の結果であったのだろう。

 この記録映像は、日本人への復讐心を掻き立てる意図で撮ったのではない。むしろ、日本人を含むすべての人がこの戦争がいかに恐ろしいかを理解し、 日本軍が仕掛けた紛争を停止するあらゆる合法的手段の行使に踏み切ってほしいとの思いから撮影したのである。(P167)

 私は何度も日本を訪れたことがあり、この国がどんなに美しく、また品性を備えた人が大勢いることを知っている。もし日本人が、戦争がどのように引き起こされ、遂行されてきたかについての真実を知れば、かれらの多くは恐ろしさに震えることだろう。

目     次

フィルム1
 
フィルム2

(一)
(二)
(三)
(四)
(五)
(六)
(七)
(八)
(九)
フィルム3

(一)
(二)
(三)
(四)
(五)
(六)
(七)
(八)
(九)
(十)
(十一)
(十二)
フィルム4

(一)

(二)(三)

(四)

(五)
(六)
(七)
(八)
(九)

 
フィルム一

 この映像の大部分が、一九三七年九月と一〇月の間におこなわれた日本軍の南京空襲で構成されている。このフィルムの巻末か、フィルム二冒頭のいずれかは、中国人のキリスト教徒を映している。 かれらは避難所の一つに設けられた野外施設にいるところである。日付は、一九三七年一二月一九日である。(P168)


 
フィルム二

(一)日本軍による南京陥落の数日後、南京上空に飛来する日本軍爆撃機。


(二)一九三七年一二月一六日。南京、上海路の中国人女性たち。息子や夫たちが元兵士の疑いで手当たりしだいに集められたため、脆いて日本軍にかれらの命乞いをしている。 何千人もの一般市民がこのように縄で縛られ、下関の川岸や、池のへり、空き地に連れて行かれ、機関銃、銃剣、歩兵銃、さらには手榴弾で殺害された。


(三)劉光偉と名乗るこの男性は、下関の模範村蘇宿鎮における中国監督派教会の調査官で、日本軍による南京陥落の前に、仲間のキリスト教徒と難民区に入った。

 一二月一六日、日本軍はかれをキリスト教徒一三名といっしょに連れ去った。かれらは、(劉の推定では)一千人を数えたもうひとつの集団に加えられ、下関の川岸に連行され、日本軍の船着き場付近に整列させられたあげく、 機関銃で殺された。(P168-P169)

 薄暗がりだったが、川が背後を塞ぎ、機関銃が三方を囲んでいたため逃亡の可能性はなかった。

 この男性は列の最後方にいて、水際が迫っていた。人が倒れ、列が崩れ始めたとき、かれは無傷ではあったがいっしょに落ちた。浅瀬に落ちたかれは、周りの死体で身を覆った。

 そこに三時間ほどじっとしていたが、這い出すとひどく冷えてはとんど歩けなかった。それでもなんとか人気のない小屋にたどり着き、そこで寝具を見つけた。濡れた衣服を脱いで毛布にくるまり、食うや食わずで三日問を小屋で過ごした。

 極度の空腹感に襲われたかれは、まだ湿っばい服を着て、食糧を探しに小屋を出た。以前雇われていた英国コンツェルンの中国材木輸出入会社に向かったが、そこには誰もいなかった。

 ちょうどそのとき、かれは日本兵三名に出くわした。日本兵はかれをこぶしで殴り、下関、宝善街へ連行し、そこでかれに自分たちのために料理を作らせた。数日後かれは解放されて、日本兵二名による捺印済みのメモが与えられた。 これによって、かれは城門を通過し、難民区の自分の家族の許に帰ることができた。


(四)一九歳のこの女性は、難民区のアメリカンスクールにいた避難民だった。彼女は妊娠六か月半で最初の子を身ごもっていた。強姦に抵抗しため、日本兵に何度も刺された。 彼女は顔面に一九か所、足に八か所、腹部には深さ二インチの傷を一か所員っている。大学病院に入った翌日、これが原因で流産した。彼女はこれらの傷から回復した。

*「ゆう」注
 この事例は、「李秀英事件」として知られています。


(五)この若い女性の家族は、下関の彼女の家に日本兵が押し入ったさいに、幸いその場にいなかった彼女の夫を除く全員を殺害された。 彼女は英国包装工場の国際輸出会社に雇われていた。彼女は銃剣によってこのひどい傷を受け、それが脊柱に影響して、髄膜炎による死の原因となった。日本兵たちにたいして何の抵抗もなされなかったにもかかわらず、である。


(六)この一一歳ぐらいの少女は、日本兵が侵入してきたとき、難民区内の待避壕のそばで両親といっしょにいた。日本兵は父親を銃剣で刺し殺し、母親を歩兵銃で射殺し、少女の肘には銃剣でこのひどい切り傷を負わせた。彼女は回復するであろうが、腕は不自由になろう。(P169-P170)


(七)これは、大学病院(伝道団施設)〔鼓楼病院〕に入院して三日後に亡くなった七歳ぐらいの少年の死体である。かれは腹部に銃剣で五か所の傷を負い、 そのうちのひとつが胃を貫通した。


(八)この男性は中国人が経営するあるホテルに雇われていた。かれは、自宅から難民区へ、さらに難民区から西方の丘に連行されたあげく、歩兵銃で射殺された八〇名のグループの、 かれが知るかぎりで、唯一の生存者である。この人は、首、頬、腕に負傷したが、回復するであろう。かれは死んだふりをすることで難を逃れ、やっとのことで鼓楼病院へ向かったのである。


(九)この男性は、日本兵が何をしたいか理解できなかったため、胸を撃ち抜かれた。かれは農民である。この種の事例は鼓楼病院では非常に多い。(P170)

 


 
フィルム三

(一)これは、他の七〇名ほどといっしょに金陵大学の養蚕棟から連行された男性の死体である。 かれらは全員銃火を浴びせられ、何人かは銃剣で刺された。その後、すべての死体にガソリンをかけられ、火が放たれた。この男性は銃剣で二か所の傷を負っていた。 顔や頭にひどい火傷を負ったが、鼓楼病院へ行くことができた。だが、その二〇時間後に亡くなった。


(二)これは、あるほうろう製品店の店員の映像である。 ある日本兵が店員に煙草を求めたが、店員が差し出せなかったため、日本兵はかれの頭部を銃剣で強打し、耳のうしろの頭蓋骨に大きな穴をあけた。この映像はかれが鼓楼病院に入って六日後に撮られたものである。脳の 脈動をはっきりと見ることができ、相当量の脳がすでになくなっていて、そのため右半身が完全に麻痺していたが、意識を失ってはいなかった。かれは入院して約一〇日間生きた。(P170-P171)


(三) この担架の運搬人は、かれ自身の推定で約四千名とともに川岸へ連行され、そこで機関銃で撃たれた。かれは、約二〇名とともに死を逃れることができた。かれは肩に一か所傷を負っただけだった。


(四)この男性は、長江に一艘の小型の平底舟を所有していた。かれは日本兵に顎を撃ち抜かれた後、ガソリンに浸され、火を放たれた。胴体は上郡も下部もひどく焼け、かなり黒く焦げていた。 鼓楼病院に二日問入院した後、亡くなった。


(五)この男性は中国軍兵士だったが、日本軍に捕らえられたとき、武器をすべて取り上げられた。かれは頭部に二か所、気管部に一か所銃剣による傷を負っていた。かれは死ぬべく放置されたが、鼓楼病院での治療の後、回復した。


(六)この少年は、日本軍が常州を通過したとき、かれが呉淞からきた難民であったにもかかわらず、日本軍によって連行された。 かれは一三、四歳で、およそ三週間、日本軍の下でかれらのために働いた。

 一二月二六日、二日問まったく食べ物を与えられなかったので、仕えていた兵士に家に帰りたいと言った。すると、かれらは少年を鉄の棒で叩き、頭を銃剣で刺した。 この映像は、かれが血まみれで診療所に運ばれてきた直後に撮られたものである。かれは回復した。


(七)この男性の家は南門の内側にあった。日本兵が一二月一三日にやってきたとき、かれらはこの男性の二人の兄弟を殺害し、かれの胸を銃剣で刺した。 かれは一二月二七日になってようやく病院に運ばれた。この映像は診療所で撮影されたものである。かれは胸をゴロゴロ鳴らしていたが、おそらくもう亡くなっているであろう。(P171)


(八)この女性は光華門の内側に、夫と年老いた父親、そして幼い五歳の子どもといっしょに住んでいた。 日本兵が城内に入ったとき、かれらはこの家に押し入り、食べ物を要求した。かれらはこの女性と夫に出てくるように怒鳴った。夫がそうすると、かれらは夫を銃剣で刺した。 彼女が怖がって出ないでいると、一人の兵士が部屋に入り、彼女の腕を撃ち抜き、その銃弾が偶然にも幼子の命を奪った。


(九)呉夫人は家族六人と南京の城隍廟の裏側に住んでいた。一二月一八日、日本兵四名が彼女の家にやってきて、六〇歳を過ぎた父親と、一一、二歳の、兄の子どもを銃剣で殺した。 かれらは、夫も首に銃剣で重傷を負わせて殺害した後、この女性を強姦しようとした。彼女が自分は病気だと言ったので、かれらは彼女を放した。兵士たちは毎日やってきたが、ある日、金を要求して隣人の顔に傷を負わせた。


(一〇)余海棠は下関の電話会社の従業員であったが、金陵大学内に身を寄せる四千人の難民の一人となった。

 一二月二六日、日本軍将校が南京市の中国人成人全員を登録するためにやってきた。 将校は難民にたいして、自分が元兵士であることを認める者は命を助け、仕事も与えるが、もしそれを認めず、後になってこれが発覚したら、その者の命はないぞと言った。かれらには二〇分間の考える時間が与えられた。

 その後、約二百人が前に出た。かれらは行進を命じられた。通りでは、日本兵に兵士の烙印をおされたさらに大勢の者が連行されていた。余は通りで連行された一人だった。

 余が言うには、日本兵は自分を含む数百人を金陵大学付近の丘に連れて行き、そこで自分たちを標的に銃剣術演習を始めた。胸を二か所、腹部を二か所、足を二か所、合計六か所を銃剣で刺された後、余は気を失った。 意識を取り戻したとき、日本兵はすでに立ち去っていた。

 誰かがかれを助けて鼓楼病院へ連れていった。この映像は、ウィルソン医師が手術をしている間に撮影されたものである。このとき回復の見込みははとんどないように思えたが、かれは回復した。(P172)


(一一)この男性は南京の家主である。日本兵がかれに女を調達せよと強く迫った。女はいないと言うと、日本兵はかれの首を二度銃剣で刺し、長く深い傷を二か所員わせた。だが、この男性は回復するであろう。
 

(一二)これは難民区からきた警官である。ある日本兵が、中国人女性に同行を強要しているのを公衆に知られたくなかったため、この警官に女性の同行を強要した 。かれらが国府路に看いたころ、すでにあたりは暗くなっていたので、警官はこっそり脇道に姿をくらました。だが、すぐに別の兵士に出くわし、手首を縄で縛られた後、銃剣で背後から刺され、そのまま死ぬべく置き去りにされた。

 かれらが去った後、警官は転がりながらその場を離れ、ついに両手の縄を解きほぐすのに成功した。ある家にたどり着いて、そこで寝床を見つけて夜を過ごした。

 翌朝とても衰弱していたが、通りで会った中国人の助けで病院にくることができた。かれには銃剣による傷が二二か所あるが、驚くことに回復の見込みがある。(P173)

 

 
フィルム四

(一)この女性は、日本軍将校の衣服を洗うために、他の五名とともに難民センターから連行された。彼女は、軍の病院として使用されているらしい建物の二階へ連れて行かれた。 彼女たちは日中、衣服を洗濯し、夜は日本兵を楽しませた。

 彼女の話によると、年かさの不器量な女性は一晩で一〇回から二〇回強姦されたが、若くて綺麗な方は一晩で四〇回も強姦された。フィルムの女性は、あまり美人ではない方の一人だった。

 一月二日、二人の兵士が、同行するよう彼女に誘いをかけた。彼女はかれらについて空き家に行った。そこでかれらは彼女の首を切ろうとしたが失敗した。彼女は血の海のなかで発見され、鼓楼病院へ運ばれ、いまは回復している。(P173-P174)

 彼女の首のうしろには深い裂傷が四か所あり、脊柱の筋肉が切断されていた。また手首に一か所、胴体に四か所の深い傷がある。この女性は、なぜかれらが自分を殺そうとしたのかまったくわからず、他の女性がどうなったかもわからない。


(二と三)仏教徒の尼僧と幼い修行尼僧(八、九歳)の事件

 この少女は事件後、数週間熱を出していたにもかかわらず、背中を銃剣で刺された。おとなの尼僧は、銃弾の傷が原因で腰の左側を複雑骨折し、傷は拡大性の感染症に発展した。回復は疑わしい。 もし回復しても、歩けるようになるにはきわめて特殊な手術が必要となろう。

 彼女と他の何人かの尼僧は、城内南部のある寺院の裏の建物に住んでいた。日本軍は城内に侵入して、この付近の住民を大量に殺した。 彼女を病院へ運んだ仕立屋の推定によると、およそ二五名の死者が出た。そのなかには六五歳になるこの尼僧院の「マザー院長」と六、七歳の幼い修行尼僧の姿もあった。 日本兵は、このフィルムが映し出すように、尼僧と幼い修行尼僧に傷を負わせた。

 彼女たちは待避壕のなかに避難し、五、六日問、飲まず食わずで過ごした。待避壕には多数の死体があり、六八歳の老尼僧が死体の重さで圧死、あるいは窒息死した。

 五日後、この負傷した尼僧は、ある〔日本の〕兵士が中国語で「何とかわいそうに」と言う声を聞いた。彼女は即座に目を開けて、その男に助命を請うた。 かれは彼女を待避壕から引きずり出し、何人かの中国人に、彼女を軍の仮手当所へ運ばせ、そこで軍医が手当てをおこなった。最柊的に彼女は近所の人の手で鼓楼病院へ運ばれた。


(四)一月一一日、この十三、四歳の少年は、日本兵三名に、城内南部へ野菜を運ぶことを強要された。 日本兵は少年の有り金全部を奪い、背中を二度、腹部を一度銃剣で刺した。暴行を受けた二日後に少年が鼓楼病院に着いたとき、大腸が一フィートほど突き出ていた。

 かれは入院して五日後に亡くなった。この映像が撮られていたとき、少年はあまりにも重篤だったので、医師は傷を見せるために包帯をはずすことをあえてしなかった。(P174-P175)


(五)この男性は自分の母親が殺されたと聞いて、真偽を確かめるために、国際委員会が設置した難民区を出た。かれは第二地区に向かった。 そこは日本側から安全な場所に指定された区域で、市民がそこに戻るよう日本軍が促しているところである。

 かれは母の遺体を見つけることができなかったが、二人の日本兵に遭遇した。日本兵は、この男性とその友人からズボン以外のすべての衣服を奪った。(一九三八年一月一二日ごろ、凍てつくような寒い日のことだった。)  一斉登録後に日本軍将校から受け取った登録カードを、日本兵は引き裂いた。兵士たちは二人を銃剣で刺し、退避壕のなかに投げ込んだ。

 約一時問後、この男性は意識を取り戻したが、友人がいなくなったことに気づいた。かれは難民区に戻り、ついには鼓楼病院に行くことができた。かれは、銃剣による六か所の傷を負い、その一つは胸膜を貫通し、それが全身に皮下気腫を引さ起こした。 だが、かれは回復するであろう。


(六)この男性は、南京陥落後、日本当局に登録されたとき、自分が軍隊にいたことを認めれば死を免除すると日本当局が約束したので、四千人の集団から出頭した二百人の集団の一人であった。

 他の多くの者は兵士でなかったにもかかわらず、集団が三百人から五百人になると、日本軍によってまとめて連行された。かれらは五合山の近くの家へ行進し、そこで十人ごとのグループに分けられ、手首を針金で後ろ手に縛られ、処刑のために連行された。

 かれは、自分たちは水西門へ連れ出されると聞いた。連れて行かれる番がくる前に、この男性は、建物内で他の三名といっしょに、高く積み上げられたマットの下に身を隠したが、一人が咳をしたため発見された。 かれらは外へ引きずり出され、約二〇人のグループといっしょに立たされ、銃剣で刺された。

 最初に数回刺された後、かれは気を失ったが、後に意識を回復した。アメリカンスクールの建物まで転がりながら這って行き、そこで、中国人がかれの両手を針金から解放した。かれはそこの排水溝に避難し、やがてついに鼓楼病院にたどり着いた。(P175-P176)

  かれには針金による手首の切り傷と、銃剣による九か所の傷があることがわかった。かれは回復するであろう。


(七)一月一〇日、この初老の男性は難民区から、太古山のバターフィールド&スウァイアー邸付近の自宅に向かった。日本兵三名が自宅の庭にいた。 その一人が、はっきりとした理由もないのに、気まぐれに男性の両足を撃ち抜いた。傷の一つはとても荒れていたが、かれはおそらく回復するであろう。


(八)一月二四日、日本兵はこの男性に、大学病院からほど近い双竜巷の川合ホテルに放火させようとした。かれが拒否すると、かれらはこの男性の頭を銃剣で刺した。 裂傷が三か所あったが、どれも重傷ではなかった。撮影時、この男性ははとんど回復していた。


(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した 。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。 馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。

 夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。

 何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。 兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。 年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。(P176-P177)

 さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。

 傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。

 撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

 このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。 彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。

 彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。 夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。(P177)

*「ゆう」注 この事例は、「夏琴淑さん事件」、あるいは「新街口事件」として知られています。
 


(『ドイツ外交官の見た南京事件』P166〜P177)



 

(2005.4.17記)


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