フィルム四
(一)この女性は、日本軍将校の衣服を洗うために、他の五名とともに難民センターから連行された。彼女は、軍の病院として使用されているらしい建物の二階へ連れて行かれた。
彼女たちは日中、衣服を洗濯し、夜は日本兵を楽しませた。
彼女の話によると、年かさの不器量な女性は一晩で一〇回から二〇回強姦されたが、若くて綺麗な方は一晩で四〇回も強姦された。フィルムの女性は、あまり美人ではない方の一人だった。
一月二日、二人の兵士が、同行するよう彼女に誘いをかけた。彼女はかれらについて空き家に行った。そこでかれらは彼女の首を切ろうとしたが失敗した。彼女は血の海のなかで発見され、鼓楼病院へ運ばれ、いまは回復している。(P173-P174)
彼女の首のうしろには深い裂傷が四か所あり、脊柱の筋肉が切断されていた。また手首に一か所、胴体に四か所の深い傷がある。この女性は、なぜかれらが自分を殺そうとしたのかまったくわからず、他の女性がどうなったかもわからない。
(二と三)仏教徒の尼僧と幼い修行尼僧(八、九歳)の事件
この少女は事件後、数週間熱を出していたにもかかわらず、背中を銃剣で刺された。おとなの尼僧は、銃弾の傷が原因で腰の左側を複雑骨折し、傷は拡大性の感染症に発展した。回復は疑わしい。
もし回復しても、歩けるようになるにはきわめて特殊な手術が必要となろう。
彼女と他の何人かの尼僧は、城内南部のある寺院の裏の建物に住んでいた。日本軍は城内に侵入して、この付近の住民を大量に殺した。
彼女を病院へ運んだ仕立屋の推定によると、およそ二五名の死者が出た。そのなかには六五歳になるこの尼僧院の「マザー院長」と六、七歳の幼い修行尼僧の姿もあった。
日本兵は、このフィルムが映し出すように、尼僧と幼い修行尼僧に傷を負わせた。
彼女たちは待避壕のなかに避難し、五、六日問、飲まず食わずで過ごした。待避壕には多数の死体があり、六八歳の老尼僧が死体の重さで圧死、あるいは窒息死した。
五日後、この負傷した尼僧は、ある〔日本の〕兵士が中国語で「何とかわいそうに」と言う声を聞いた。彼女は即座に目を開けて、その男に助命を請うた。 かれは彼女を待避壕から引きずり出し、何人かの中国人に、彼女を軍の仮手当所へ運ばせ、そこで軍医が手当てをおこなった。最柊的に彼女は近所の人の手で鼓楼病院へ運ばれた。
(四)一月一一日、この十三、四歳の少年は、日本兵三名に、城内南部へ野菜を運ぶことを強要された。
日本兵は少年の有り金全部を奪い、背中を二度、腹部を一度銃剣で刺した。暴行を受けた二日後に少年が鼓楼病院に着いたとき、大腸が一フィートほど突き出ていた。
かれは入院して五日後に亡くなった。この映像が撮られていたとき、少年はあまりにも重篤だったので、医師は傷を見せるために包帯をはずすことをあえてしなかった。(P174-P175)
(五)この男性は自分の母親が殺されたと聞いて、真偽を確かめるために、国際委員会が設置した難民区を出た。かれは第二地区に向かった。
そこは日本側から安全な場所に指定された区域で、市民がそこに戻るよう日本軍が促しているところである。
かれは母の遺体を見つけることができなかったが、二人の日本兵に遭遇した。日本兵は、この男性とその友人からズボン以外のすべての衣服を奪った。(一九三八年一月一二日ごろ、凍てつくような寒い日のことだった。)
一斉登録後に日本軍将校から受け取った登録カードを、日本兵は引き裂いた。兵士たちは二人を銃剣で刺し、退避壕のなかに投げ込んだ。
約一時問後、この男性は意識を取り戻したが、友人がいなくなったことに気づいた。かれは難民区に戻り、ついには鼓楼病院に行くことができた。かれは、銃剣による六か所の傷を負い、その一つは胸膜を貫通し、それが全身に皮下気腫を引さ起こした。
だが、かれは回復するであろう。
(六)この男性は、南京陥落後、日本当局に登録されたとき、自分が軍隊にいたことを認めれば死を免除すると日本当局が約束したので、四千人の集団から出頭した二百人の集団の一人であった。
他の多くの者は兵士でなかったにもかかわらず、集団が三百人から五百人になると、日本軍によってまとめて連行された。かれらは五合山の近くの家へ行進し、そこで十人ごとのグループに分けられ、手首を針金で後ろ手に縛られ、処刑のために連行された。
かれは、自分たちは水西門へ連れ出されると聞いた。連れて行かれる番がくる前に、この男性は、建物内で他の三名といっしょに、高く積み上げられたマットの下に身を隠したが、一人が咳をしたため発見された。
かれらは外へ引きずり出され、約二〇人のグループといっしょに立たされ、銃剣で刺された。
最初に数回刺された後、かれは気を失ったが、後に意識を回復した。アメリカンスクールの建物まで転がりながら這って行き、そこで、中国人がかれの両手を針金から解放した。かれはそこの排水溝に避難し、やがてついに鼓楼病院にたどり着いた。(P175-P176)
かれには針金による手首の切り傷と、銃剣による九か所の傷があることがわかった。かれは回復するであろう。
(七)一月一〇日、この初老の男性は難民区から、太古山のバターフィールド&スウァイアー邸付近の自宅に向かった。日本兵三名が自宅の庭にいた。
その一人が、はっきりとした理由もないのに、気まぐれに男性の両足を撃ち抜いた。傷の一つはとても荒れていたが、かれはおそらく回復するであろう。
(八)一月二四日、日本兵はこの男性に、大学病院からほど近い双竜巷の川合ホテルに放火させようとした。かれが拒否すると、かれらはこの男性の頭を銃剣で刺した。
裂傷が三か所あったが、どれも重傷ではなかった。撮影時、この男性ははとんど回復していた。
(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した
。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。
馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。
夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。
何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。
兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。
年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。(P176-P177)
さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。
傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。
撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。
このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。
彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。
彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。 夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。(P177)
*「ゆう」注 この事例は、「夏琴淑さん事件」、あるいは「新街口事件」として知られています。
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