中国の報道(2)
中国の報道(2)

(南京事件資料集 中国関係資料編)


「南京事件資料集 2中国関係資料編」より


<『大公報』より>

南京の食糧恐慌

民国二十七年二月十六日

 ◇難民区いきおい食を断たれん
 ◇敵、手をつくして運送を阻止
 ◇国際委員会は救済に努力


 【中央社通信】南京の食糧欠乏問題は、日ましにきびしくなっている。けだし敵側が食物の南京への搬入を許さないからであろう。南京難民区の国際救済委員会が貯蔵している食糧はわずか数日分しかない。

 現在、難民区内の難民は少なくともなお一五万人はおり、毎日必要な米は一千包である。国際委員会はいろいろと手をつくして、上海その他各地から南京への食物を買付けようとしているけれども、みな敵に阻止されて、いまだ成功できないでいる。

 それだけでなく、敵側は難民区内で米を売ること、あるいは運送することを禁止している。敵側のこの行動は、明らかに国際委員会の仕事の効用を失わせ、しかる後、南京に傀儡組織を成立させようと欲しているのである。(P41)

 一月二十八日、敵側は二五か所の収容所内の六万の難民に対して二月四日前に難民区を退出するよう強制し、さもなければ武力を用いて駆逐すると布告した。(P41-P42)

 国際委員会は、期限を延期して家がなく寄る辺のない難民が身のふり方をつけられるよう敵側と交渉しているけれども、この計画は明らかに成功する希望がない。しかし国際委員会はなお行動を進め、敵側に態度を変えて人道の立場で該会と協力するよう希望すると告げている。

 現在、国際委員会はすでに第二歩の仕事を開始した。すなわち難民区内の一五万人の難民を救済するだけでなく、南京に残留しているすべての貧困で助けのない平民を救助しようというのである。

 現在、食糧問題以外に、ひとたび気候が暖かくなれば、伝染病の予防が重要な仕事となる。これは大量の医薬品を必要とするので、該会は全世界の人々が熱烈に援助することを希望している。
 
 この他、目撃した人士が語る南京の敵軍の恐るべき行動は、さらに聞く人を驚かすものである。敵軍によって惨殺された平民は一万人を下らないといわれるが、これはなお最低の見積りである。略奪事件は約二万件にのぼり、婦女および児童があった痛苦と蹂躙にいたっては、想像もできないほどである。ある婦人は白昼、敵兵一七人の輪姦にあった。

 敵側当局は敵兵の常軌にはずれた行動を禁止しているけれども、敵側の将校もまた同様に強姦・掠奪の行動に従事しており、おのずと統禦できないでいる。敵軍当局が兵士を取締る力があるかどうかは、きわめて注意すべき問題であるといわれる。



国際的寄付金に敵 また介入を図る

 【中央社香港十四日電】南京国際救済委員会は、該所の難民に栄養不足のため脚気にかかっているものが多いので、上海で大豆一〇〇トンを買い、事前に日本第三艦隊司令長谷川から保護証明書を発給されて、水路によって南京に運搬した。

 下関に到着すると、日本軍当局は日本軍が支配している自治委員会に引き渡して配らせるよう要求した。国際救済委員会はみずから配ることを欲し、争いがおこって数日が過ぎたが、なお双方行き詰り状態にある。

 今朝、日本大使館のスポークスマンが外国紙の記者と接見したとき、記者たちは多く質問し、午後にいたるまで記者たちははげしく論争した。

 このスポークスマンは、国際委員会の態度がかたくなであるところに困難の原因があり、今後は頑張りつづけないよう望むと言明した。また、このスポークスマンは、戦区の難民を救済するための各国の募金、とくにアメリカのルーズヴェルト大統領の要請で募集した一〇〇万ドルは、みな慈善機関と日本当局が協力して適当に分配すべきであると述べた。(P42)



陥落後の南京の惨状

民国二十七年二月二十日、二十一日

 ◇日本軍は人間性を失い、凶悪残忍なること比較を絶す
 ◇虐殺された市民は八万、婦女の半数が汚辱さる


 【中央社通信】最近、数人が今月五日に南京から脱出し、種々の困難をへて、やっと無事に武漢に到着した。記者は訪問して、敵軍の南京における暴行と南京の現状を問うた。ここに敵軍の虐殺、放火、強姦、掠奪、食糧の途絶、傀儡組織の醜態、敵軍の政治・軍事の配置、および市内の情況を連載で報告する。


  凶悪残忍な虐殺

 昨年十二月十二日深夜、火焔が天をつき、突撃の声が地をふるわせた。わが軍は砲声がとどろくもとで悲憤の撤退をおこない、全市はすでに極度の恐慌の状態におちいった。市にとどまった市民は、さいわい早く安全に難民区内にうつっていたが、適時に撤退できなかった一部の兵士は、前進はすでにむずかしく、退路も断たれていた。

 軍人の国を愛し、敵を倒そうとする心は切なるものである。そこで十三日の朝のうち、城内各処で銃声がしきりにおこり、敵と我の市街戦が開始され、突撃や格闘がおこなわれたが、孤立したわが軍はみな防衛の士として壮烈な犠牲をとげた。

 同日午後、銃声はようやく稀になり、敵の大部隊が入城して各機関を占拠し、防衛の配置についた。同時に多数の軍隊を各処に分けて派遣し、戸毎に厳重に捜索し、わが武装部隊は抵抗するか否かを問わず、一律に銃殺された。この日から、殺人の恐怖が全市に蔓延した。

 ついで敵側は、難民区に武装した軍隊が隠れていると言いはり、国際信義をかえりみず、国際委員会との約束に公然と違反して、難民区内に押し入り、一戸ごとに捜査して容貌が軍人に似ているものはすべて縛って連れ去った。一〇日余の間、毎日十数台のトラックが非武装の人民を満載して城外に向かい、総計万を下らない人が残酷にも虐殺された。

 以後、町を歩いていたり、屋内で発見された市民のなかで、様子があやしいと敵にみなされたものは、ただちに新街口の広場に追いたてられ、すべて機関銃で撃ち殺された。もし市民を捕えたところが河や池に近ければ、敵兵はかならず河に突きおとして溺れさせた。

 あるときは、数人が河の中で浮かんだり沈んだりしてもがいていると、敵はかれらが逃げようとしているとみなして一人一人、逐一統で撃ち殺し、その後、銃剣で人の頭を突き刺して笑いあった。たまたま野犬がいると、悪ふざけして食べるように誘い、もしその犬が勇猛に追いかけてくると銃剣で刺し殺した。敵兵のこのような極悪非道さは、実に人を激怒させるものである。(P43)

 一月半ば近くになって、敵兵の虐殺暴行はますますはびこり、種々の陰険な脆計を用いて、一般のなんの罪もない民衆を謀殺した。(P43-P44)

 はじめ良民の登記をおこない、もし違反するものは難民区内に住むことを許さないと市民に布告した。そこで毎日、万余の市民が分かれて全陵大学の体育館、新街口広場と山西路広場に集まり、争って登記を求め、たいへんな混雑になった。

 敵はこのとき、善意をよそおって民衆に向かって演説し、およそ以前兵士だったものは列の両側に出てほしい、そうすれば仕事を与え、市民との雑居をしないようにしよう、もし違反するものは銃殺すると述べた。

 このため四、五千人のなかの少なくとも四、五百人が民衆の群から退出を迫られた。私たちもまた一度、登記に参加しにでむいたが、敵の自然な顔付きを目のあたりにして悪だくみには思えず、一般の民衆もまた恐怖を感じることなく登記の場所を離れた。

 約二十数分後、にわかに機関銃の音が連続して聞こえた。あわれにも千、万の罪のない市民が残酷な毒牙にかかったのである。敵のまったく理性を失った残虐さがこれで分かるだろう。

*「ゆう」注 ベイツの記述に一致。

 敵兵のこの種の横暴で気違いじみた殺人は、国際救済委員会がくりかえし交渉して以後、はじめてやや滅少しか。しかし敵兵はなお故意に殺戮しており、一軒ごとに若い婦女を探しだせないときは、逆上して、一家全部を虐殺するので、悲しみ泣き叫ぶ声がたえない。

 この二か月にわが市民で虐殺されたものは、およそ八万人にものぼっており、今日にいたるまで、そのむごたらしく破壊的な暴行はやむところなく、南京にとどまっている市民の前途は、実に想像するにたえない。(P44)


放火による大火 

 首都が陥落すると、敵軍は十三日に入城し、 いたるところで狂ったように火を放ち、一か月の久しきにわたって猛烈な炎と煙が日夜、全市をおおつた。この空前の大火は、全市の住民を驚きと恐怖のなかに置いた。その延焼区域は中華門・夫子廟・中華路・朱雀路・太平路・中正路・国府路・珠江路および陵園新村などの地帯である。

 すべての大建築と商店の家屋は炎に包まれ、垣根はこわれ、壁は崩れおち、焦土ははてしなく、凄惨な情況は見るにしのびない。十数年来の政府の辛苦の施政と困難な建設を回想すれば、今、不幸にしてこの大きな災害にあって、その損失はまことに計りがたい。とくに陵園新村の焼失は本当に痛ましいものであった。

 近ごろになって、時にかれらは室内に集まり、火にあたって暖をとり、不注意から小さな火が燃え広がって、きわめて大きな範囲に拡大することがある。

 要するにこのたびの南京の大火は、実に洪楊の役〔太平天国の戦役〕以来最大の火災であり、その損失はひどく、わが国の歴史上空前の痛心の記録である。敵はわれわれをこのようにむごたらしい目にあわせ蹂躙したが、わが中華民族はこの血のつぐないとふかい恨みに対して、かならず命にかけて報いなければならない。(P44)


婦女を強姦

 難民区が成立して後、移住して難を避ける婦女がきわめて多く、国際救済委員会は金陵女子大学を婦女収容所とした。当時すでに七千余人が住み、内部の生活の状況は難民区に比べればやや安全だった。

 敵軍は入城後、戸毎に婦女を捜索し、連れ去っては強姦した。以後、暴行は拡大し、毎日、婦女収容所にきては大型トラックに多くの婦女を乗せていき、泣き声が天をふるわせて、残酷なこと聞くに忍びがたかった。時には深夜に一部が送り帰されたが、すでに身体中傷跡があった。このようにして数日がたち、強姦された婦女は約半数を占めた。

 以後、国際救済委員会が極力交渉した結果、おおっぴらな獣行はやや減少した。しかしその人間性のかけらもない残虐さには変わりはなく、昼夜を分たずしきりに塀をよじ登って収容所に入り、婦女をみつけるとところかまわず強姦をおこなった。このため救いを求める声と笑い声がつねに院外にまで聞こえた。思うに収容所内は抵抗して拒むのに無力であり、ただ禽獣に虐げられるに任せるしかないのである。

 同時になお一部の敵兵は、収容所の外のいたるところで婦女を探して強姦しており、その卑劣な手段と悪虐な行為はわれわれの想像できるところではない。そこで国際委員会はまた金陵大学に婦女収容所を設け、争って避難にくる婦女できわめて混雑した。しかし暴虐な敵の醜行はますます凶暴さを増した。強姦の対象は一二歳の少女から七〇歳の老婦人にいたり、もし少しでも抵抗すれば即座に銃殺した。

 あるとき山西路のとある中庭のなかで、一人の婦女が敵によって強姦されようとしたとき、その夫が進みでて放してくれるよう哀願したところ、敵兵は激怒して銃剣でかれを刺し殺してしまった。

 この他、敵兵が死体をはずかしめる凶悪な行為がしばしばみられる。ある日、強姦された裸婦の死体が雪のなかに横だわっていたが、一人の日本兵がこれを見て、わが市民にこれと性交するよう強迫した。その市民は拒絶したため非業の死をとげ、その死体もまた数回刺されたのである。

 もしもこのようなこの世でもっとも悲惨な恥辱的事件が日ごとにふえていたとしたならば、私が南京を離れるまでに、すでに約一万の婦女が敵兵により汚されたであろう。(P45)


徹底した略奪

 暴虐な敵は、虐殺・放火・強姦をするだけでなく、兵が盗み、思うままに略奪するのを放任している。難民は難民区に避難したときには戸口を閉鎖した。後に目撃者の話によれば、大通りと横道の門はすでに開けられ、室内には何も残っていなかったという。明らかに敵軍が掠奪したのである。(P45)

 敵軍が入城してから一か月の間、毎日、多くのトラックが什器を満載して下関に向かって走り、汽船で運送していった。また聞くところでは、マホガニー製家具もみな運びつくされ、比較的貴重な物品はすっかりなくなってしまった。(P45-P46)

 難民区外の財物がすべて略奪されつくすと、敵兵はまた検査に名を借りて難民区内に押し入り、衣類箱をひっくりかえして調べた。当時、区内の難民の恐怖は異常なものであり、一般の徒手空拳の難民は、この暴挙に対して制止する術がなかった。

 敵兵は検査のとき、貴重な物品があれば強引に奪い去り、ついでさらに一歩進んで衣服を検査した。このため各人が所有していた紙幣と財物はみな奪われてなくなった。

 無抵抗の難民がこの略奪にあっただけでなく、外国人の財産もまた難を免れなかった。当時、金陵大学の外国人牧師らが共同して敵軍と交渉し、結局、兵士を派遣して調査することになった。しかし検査のとき、敵兵はすべての財物に対してよだれを流さんばかりであったが、面子にさまたげられて、公然と略奪できなかった。

 聞くところでは、一人の外国人の室内を検査したとき、突然、一人の敵兵が小さな鉛のボタンをふところに隠した。その外人はこれを贈り、苦労の報酬だよとあてこすったが、敵兵は厚かましくもこれを受けとったという。

 最近にいたって、難民区内の難民の煙草・パイプ・腕時計・革製の銭入れ・懐中電燈・日記・ペン等の小型の物品も、またことごとく敵兵に奪い去られた。

 街頭で少しでも整った服装をしているものがあれば、身をほろぽす災禍にあうを免れない。したがって南京の最近の略奪の風潮ははなはだひどく、いわゆる「皇軍」の軍紀は国際的強盗と異ならないのである。(P46)


食糧恐慌 

 各難民は、はじめ難民区に入ったときは、大多数が食糧品を携行できたので、最初の数週間は、食糧は少しも問題にならなかった。比較的貧困なものは、毎日かゆの配給所にいって飢えをしのいだ。たまたま八千担〔約四百トン〕 の米が搬入され、一斗九角、一担〔約五十キログラム〕九元で売られた。一人につきまず一斗を買えたが、すでに米を持っているものは、しばらく購入を停止することが規定された。したがって食糧供給の状況は十分余裕があったのである。

 近頃になって、食糧の購入先〔の確保〕が困難になり、供給に問題が発生したので、敵と交渉したが、敵は食物の南京への搬入を許さなかった。難民区内の難民は少なくともなお一五万人おり、毎日の糧米は一千包だったので、南京難民国際救済委員会が貯蔵する食糧はわずか数日分になった。国際委員会はいろいろ手をつくして、南京に向けて上海とその他の各地から食物を買い付けようとしているが、敵に妨げられてまだ成功していない。

 それだけでなく、敵は難民区内における米の販売と運送を禁止した。敵側のこの行動は、あきらかに国際委員会の仕事の効用を失わせることを欲しているのである。(P46)

 現在、敵は難民が区外に米を買いに行くことを許しているが、米を売る場所はたいへん遠く、往復はきわめて困難である。すなわちやや資産があるものは米を買いにいくが、大半は途中で敵兵に強奪されてしまうのである。敵はこのように凶暴に食糧の補給を拒絶しているので、わが南京の難民はいきおい坐して死をまつだけである。(P46-P47)


傀儡委員会の醜態

 敵兵は首都を占拠して後、ただちに傀儡組織の組織化を進め、種々の卑劣な手段を用いて自治委員会を作りあげ、陶錫三を会長とした。

 陶は南京の人で、湯山の陶廬浴場の支配人であり、かなりの資産をもっている。反逆者の陶と斉■元〔日本が華北につくった傀儡政権臨時政府の治安部総長〕は友人であり、そのためこのたび、敵のつよい信頼をえて、傀儡組織の会長となったのである。副会長の孫淑栄も南京の人で、少しばかり日本語に通じているので敵から重用された。

 会は現在、総務・交際・交通・財政・調査・人事の六科に分かれ、所在地は首都の警察庁内におかれている。

 傀儡組織の唯一の仕事は、敵の奴隷となって、労働者の徴集・運輸・購入および婦女の調達などの醜悪な仕事に服務することである。ときにいたらないところがあれば、敵兵のきびしい叱責にあうが、反逆者陶・孫は恥知らずにも甘んじてこれに従った。さらに寵愛をえるため卑劣な行為でもって媚びへつらっており、いささかも良心がないというべきである。

 この他、傀儡組織は、秩序を維持し社会を安定させる仕事を進めようとしているが、その管轄する区域は一片の焦土にすぎず、人煙もなく、実際にはいうほどの仕事はないのである。

 秩序の問題にいたっては、敵兵の凶暴さを制止できる力はまったくない。したがって傀儡組織は実になきに等しいのである。近頃、敵の歓心を買おうとして、本年一月一日に五色旗をかかげたが、われわれの恥辱と憤慨を増大させたほか、なんの影響もなかった。(P47)


敵軍の配置

 敵兵の南京におけるすべての暴行は、だいたい上述したとおりである。

 しかし一月二十六日になって、大部分の敵軍は南京を離れ、残りは南京で各種の工事の手はずを整えた。

 同時に政治面では、強制的に難民をもとの住所に帰させようとしている。一月二十八日には、二五個の収容所の六万の難民にすべて難民区を退出するよう命令し、さもなければ武力を用いて駆逐するとの布告をはった。国際委員会は交渉したけれども、成果はなかった。

 そこで難民は集まって相談し、まず老人に頼んでためしに出て行ってもらい、その後の様子をみることにした。しかし敵兵は壮年もいっしょに退出するようきびしく命令したため、多数が迫られて退出した。しかし夜になって、多くの婦女が泣いて帰ってきたので、一般の人はいっそう恐れおののき、かるがるしく動かなくなった。(P47)

 ここ数日、状況はやや好転したが、すでに安全だとはとてもいえない。また敵はわが軍が近いうちにはげしく攻撃することを考慮して、最近、多くの壮丁を強制し、城内外で土木建築工事をおこなっている。同時に国民政府・海軍部・外交部・鉄道部・軍事委員会および大きな建物は敵兵が守備し、この地域はすべて一般人が近よることは許されない。(P47-P48)


市内の状況

 敵軍入城後の一か月は、南京全体が暗黒時代におちいり、難民区外は火焔が広がって一片の焦土となり、略奪が横行して、はるかに人煙もなかった。難民区内では、虐殺、強姦、ほしいままの虐待がおこなわれ、内外に殺気がたちこめ、いささかも都会の雰囲気が感じられなかった。

 一月中旬になって、水道と電気は国際委員会の努力でやや回復したが、電話・電報・郵便はまったく手だてがない。

 各種の商店にいたっては、すでにまったく破壊されている。現在、敵は難民区の上海路一帯に多くの露店を新設しているが、売っている品物は大部分が難民区外から略奪してきたものであり、買入れてきたものはきわめて少ない。上海の『新申報』は南京の商業が繁栄に転じたと伝えているが、実状を知っている者にとっては一笑にも値しない。

 この他、難民区内には荷をになうもの、髪をそるものがたいへん多く、一見、活気があるように見えるが、これはけっしていわゆる商業ではないのである。

 南京・上海間の汽車が開通したということも、きわめてこっけいである。表面的には、敵当局は布告して民を安んじさせようとし、南京・上海問は一月十三日に開通すると通知したが、実際には、中外人士で乗車しにいったものはみな目的をはたせなかったのである。いわゆる開通とは、敵軍の侵略の道具にすぎない。

 南京にいる数十万の難民は、精神的にも肉体的にも悲惨な不測の恥辱にあっているが、前方の戦争に対してきわめて関心をもっている。はじめはやむをえず『新申報』に頼っていたが、事実はわずかで多くは荒唐無稽なので、現在は方法を講じて、外人の家でこっそり中央放送を聴いている。ときに抗戦勝利のニュースがあれば、非常な苦難のなかではあるが、欣喜雀躍しない者はない。(P48)



敵の獣行続出

民国二十七年二月二十三日

◇五〇〇人の武装解除の兵士
◇南京で残虐に蹂躙・殺害さる
◇生埋め、溺死、墜落死、焼死


【中央社通信」暴逆な日本の南京での獣行については、新聞で報道されたもののほか、昨日またすでに武装解除されたわが国の兵士五百余人を虐殺した残虐な事件を聞いた。(P48-P49)

 去年十二月十三日、敵軍は南京入城後、まだ退出していなかったわが軍を武装解除した後、重労働に使役してから銃殺したが、なおまだ殺害されないものが五百余人いた。

 敵は掃射・斬殺・生埋め・溺死でも足りず、奇想天外なことを思いつき、この五百余人を司法院に追いたて、機関銃のねらいを定めて、強制的に司法院の四階の丸屋根の頂上によじ登らせ、従わないものは機関銃で掃射した。

 各兵士は銃口の下で強制的によじ登らされたが、高い壁は固く平らで滑らかなので、大半は途中で墜落死し、敵はこれを楽しんだ。残りは屋根の頂上によじ登ったが、敵は放火して該院のすべての室を焼き払った。この五百余の兵士はみなわが身を犠牲にしたのである。

 敵の残虐な暴行と人間性の欠如については、南京の各国の大使館員・領事館員でこれを目撃したものがみな野蛮な獣であると非難している。関くところでは、数十人の兵士が死を免れがたいことを知って、同じ死ぬのならというので、必死に身をていして武器を奪い、あるいは敵の耳や足にかみついて、蹴り殺され、あるいは刺し殺された。

 しかし敵侵略者のなかにも、これによって数人が流弾にあたり、あるいはかみ切られた耳からの流血で死んだといわれる。(P49)

*「ゆう」注 この「司法院事件」は、他の資料で確認することはできない。


 
南京内の様子は凄惨を極める

民国二十七年三月五日

 ◇敵なお毎日一〇〇人以上をほしいままに殺戮

 【中央社九江四日電】南京から九江に逃れてきた人の語るところによれば、南京の状況は凄惨で筆舌につくしがたい。敵はこのところ近郷の難民に帰城を許しているが、捜査はきわめてきびしく、黒白を問わずに即時連行されて、惨殺される者は日に一〇〇人を超えるという。

*「ゆう」注 この時期の100人単位の殺害は確認できない。

 太平街・新街口ー帯の商店はなお多くが門を閉ざしており、敵方の商人がその機に乗じて南京にきて営業すること、あたかも潮のようである。

 最近、太平街一帯の商業地域に開設された敵側商店は一四〇軒の多きに達している。その多くは旅館・食堂・喫茶店・飲み屋・芸者屋などで、日用品や化粧品店なども少なくない。しかし顧客はみな敵方の軍人である。これらの商人は以前は漢口・長沙・宜昌で商売を営んでいたものであるといわれる。

 【中央社香港四日電】上海筋によれば、敵は南京・杭州各地から写真や文献を持ち出すことを禁じており、とくにアメリカ・フランスの牧師の往来には気をつけている。(P49)

*「ゆう」注 「フランスの牧師」はいなかったはず。
 


南京陥落後 暴逆な敵の獣行見聞録

民国二十七年三月九日

 ◇焼殺、掠奪、極悪非道
 ◇全市の婦女の大半が犯さる
 ◇敵の士気大いに衰えすでに闘志を失なう


 【中央社通信】最近、ある難民が南京より二月十九日に秘密に出した手紙が上海から香港に転送されて、漢ロのかれの友人に届いた。

その手紙は、わが首都の陥落後、日本侵略者が南京でほしいままにおこなった焼殺・強姦・略奪の獣行、極悪非道、この世で最大の悲惨さを詳しく記している。南京にとどまっている国際人士はみな歯ぎしりして憤慨し、わが政府があくまで抗戦することを望んでいる。日本侵略者は見かけ倒しで落目になっていて、必然的に疲れはて、崩壊するという。以下に手紙の原文を掲載する。




 (前略)私は十二月十三日、南京が陥落したときに離れる術がなく、ついに敵の包囲下に陥り、おちぶれて難民になりました。二月(ママ)以来、見聞しますところはまことに驚くべきものでありまして、ここにとくに要点をかいつまんで御通知申し上げます。敵侵略者の凶悪さとその内部の矛盾は、必然的に凶暴さを久しくほしいままにすることを困難にしております。


◇敵軍の獣行

 十三日朝、敵の大部分が入城し、全市は悲惨暗黒、にわかに恐怖状態に陥りました。はじめは気ままに焼き、殺し、ついでいたるところで強姦し、掠奪しました。ここに項を分けて述べます。


虐殺 

 下関方面で退却できなかったわが軍で、その場で殺されたものは約一万を数え、道路は赤くそまり、死体は長江の流れをさえぎりました。麒麟門一帯で捕虜になった四千余人は、飲むものも食べるものもなく、毎日倒れて死ぬものはつねに四、五百人でした。現在、三サ河一帯に沈められた忠魂の死体は数えきれません。

 城内には約四千余の保安隊かおり、また捜索により捕えられた壮年の民衆で戦士とみなされたものは毎日かならず数千ありましたが、みな下関に護送され、たがいに縛られて機関銃で掃射されました。死なないものには手榴弾を投げつけ、あるいは銃剣で穴ぐらに押しこみ、あるいは積み重ねて山とし、集めて焼きました。(P50)

 難にあったものはのたうちまわり、悲しみ叫び、その残酷さは形容しがたいものでしたが、獣のような敵は、傍らで手をたたいてそれを楽しみました。城内の池や空屋には、かならず後ろ手に縛られて殺された数十数百の死体があります。一〇日間を総計すれば、死者は六、七万の多数にのぽります。まさに明末の揚州十日と嘉定の虐殺もおよばないものであります。(P50-P51)


焼却

 敵軍が入城した日から放火による火災が日にかならず七、八か所ありました。初めは〔日本軍が〕占拠した以外のすべての大きな建物のほとんどが焼けおち、焼きこわせないものは破壊されました。ついで普通の民家もまた免れることは困難でした。

 私はみずから城南を視察したことがありますが、新街ロから中華門までの家屋は、百に一つも残っていませんでした。建築が簡単で粗末なものの延焼がもっともはなはだしかったそうです。

 したがって現在、ドイツ・アメリカの人士の保護を受けて難民区に密集している二〇万の難民は、大半はすでに帰るべき家がなく、とりわけあわれむべきであります。


強姦

 わが民族がもっとも恥辱と考え、心を痛めるものは強姦です。敵は一切をかえりみず、焼き殺し掠奪するほか、ほしいままに強姦をおこなっています。少しでも顔かたちの整っているもので幸いに免れたものはほとんどありません。はなはだしい場合は、丸裸にして白昼に猥せつなことをし、しばしば外国の人士に目撃され、その場で禽獣であるととがめられて、こっそりと逃げ去りますが、平然として恥を知りません。

 そこで一般の難民の女性は、みな金陵大学と金陵女子大学の収容所に避難し、保護を求めました。この後、昼間はやや安全でしたが、夜になると穴から入りこみ、塀を越えてくるので〔難を〕免れません。あるものは強姦されたのち拉致され、あるものは連れ去られたまま帰らず、あるものは病気になっていて起きることができません。それ故、綸死するもの、井戸に飛び込むものが毎日あると間きます。

 最近、ある五十余歳の老婦人に敵が非礼なふるまいを強行しようとしたので、二人の子が抵抗したところ、全家族が殺されました。このたぐいの事実はどれほどあるか分からず、まことに痛ましく、筆では述べられません。国際委員会の友邦の人士によれば、調べることのできる事例は、すでに千余あるそうです。


掠奪

 敵は入城後、三人五人と群をなして各戸を捜査しました。難民区内はさらにはなはだしく、各大使館の外国人の住宅も同様にねらわれました。門を開けるのが少しでも遅れると、銃殺され銃剣で刺されます。はじめはもっぱら金や財物を略奪し、身体を捜索しましたが、ついで箱をひっくりかえし戸棚を倒し、便器や穴ぐらさえも調べ、日夜を分たず、戸毎にかならず七、八回は捜査しました。(P51)

 かくのごとくに狂ったような掠奪は二週間の久しきに達し、現在はややおさまりましたが、なおときに聞くことがあります。すべての官庁と私宅の大きな家具は、すでに運ばれて空になりました。(P51-P52)

 総じていえば、敵軍入城後の殺人・放火・強姦・掠奪は、文字でも言葉でも十分に表せませんが、わが難民が非常な苦難のなかで保護を求め、いささかの慰めをうることができるのは、ただ国際委員会に頼れることです。

 在京のドイツ・アメリカの友邦の人士は、みな恐れを知らぬ精神をいだき、困難と危険を避けず、力をつくして従事しています。金陵大学と金陵女子大学の収容所内に服務している外国人は、昼夜をわかたず、交代で守っており、金陵女子大にいるアメリカ人の華女士は、難民の女性を連れ去り強姦しにくる敵に対して、つねに駆けつけて泣いて許しを求めます。

 糾察隊の責任者であるドイツ人教師佩林先生は、巡回して警護し、敵の暴行にであうと、全力をつくして応酬します。このほか南京居住の外国人で、わが民衆の救護に努力しないものはいません。敵と争い、そのために侮辱を受け、傷ついたものもときにあるそうです。わが二〇万の難民は救助と保護をえていますが、そうでなければ恐らく生き残ったものはないでしょう。

 最近、傀儡の自治組織が成立して後、難にあった民衆で、以前どおり国際委員会に敵の暴行を泣いて訴えるものは、日にかならず四、五十はありますが、みなくわしく記録して全世界に伝えるそうです。

 敵側もまた対処に手をやき、国際委員会を目の上のたんこぶとみなして、手をかえ品をかえて、困らせ妨害し、難民区を解散させようとしています。しかし外国人はけっして動ぜず、さらに努力しています。これらの精神はまことに尊敬すべきもので、すべてのわが難民にとって生仏であります。〔以下略〕(P52)

 


暴敵の獣行、世界に知れわたる

民国二十七年三月二十八日

 ◇英紙、敵兵の凶悪な姿を暴露
 ◇南京の敵、大使館前でついに公然とわが婦女を辱める


 イギリスのロンドンで販路がもっとも広いディリー・テレグラフは、敵の南京・抗州一帯における残虐行為に関する同紙中国駐在記者の詳細な報告を発表し、南京の外国人の南京日本大使館に対する報告・抗議の文件を引用している。ここにとくに記載する。

恩源付記
(P52)


 南京金陵大学の教授とアメリカの布教師は、日本軍隊の南京と杭州両地における種々の暴行に対して、つねに教会本部に報告を提出し、かつ日本大使館に手紙を出して一切を申し述べた。(P52-P53)

 各報告と手紙によって、記者は現在、はじめて南京・杭州一帯の日本軍の暴行を暴露できる。すべての報告は、ひとしく大量の惨殺・強姦および略奪行為を描写している。

 ある布教師の見積りによれば、南京で殺された中国人は約二万人に達し、なお無数の婦人と幼女が残酷にも日本軍に蹂躙されたといわれる。各種の報告を提出し、手紙を出した人々は、みなその姓名を発表することを望んでいないが、しかしすべての文件は、みな記者がこの目で実際にみたものである。その完全な真実性はいささかも疑わしいところがない。

 日本当局がその軍人に対していささかも取締りを約束しないことに対しては、各方面がみな非難を加えている。日本大使館の職員の前で、日本軍人は公然と種々の口に出せないような暴行をおこなっているとのことである。


 ◇幼童の身体に七つの刀傷

 ある布教師は、正月十一日に南京より手紙を出して〔次のように】述べている。

 ある日、日本の南京駐在総領事と同行したが、市街に死体が乱雑に放置されているのをみた。これは去年十二月十三日に南京が陥落してから四週間後のことである。

 この手紙は続けて述べている。

「ある幼童は腹部に七か所の銃剣の刺し傷を受けたため、今朝、病院で死んだ。私が昨日、病院でみた一婦人は、二〇回強姦され、日本兵は輪姦の後、銃剣でその婦人の頭部を刺したが、幸いにものどに重傷を負ったにとどまった。

 ある尼僧が前に私に話してくれたところによると、某日、数人の日本兵が尼寺に乱入し、尼寺の尼師とその八歳の見習尼僧を殺し、かつ別の一二歳の見習尼僧を銃剣で傷つけた。その尼僧も腰を銃剣で刺されたが、地面に横たわって死んだようにみせかけ、他の死体のかげに隠れて、五日後にやっと幸いにも逃げ出したという。

 私の知るところでは、さらに一二歳の幼女が日本兵から許すべからざる汚辱を受けた。金陵大学の某院長もまた、あるわずか一三歳の幼女が日本兵に輪姦されたと私に語った。」


 ◇宣教師が威嚇さる

 その他の人士の報告もまた同様の性質の暴行を描写しており、その範囲が比較的広範であるにすぎない。男性がその妻を守ったために刺し殺され、あるいは銃殺された例は、よくみられることで珍らしくない。宣教師は、かれらが干渉しようと思ったとき、いかに日本兵のピストルの威嚇と恫喝にあうかをつねに申し述べている。(P53)

 あるアメリカ人の宣教師は十二月十九日に手紙を寄こして、大群の中国人が日本兵によって護送され銃殺されており、その状況は牛羊を屠殺するのと異ならず、ついで中国人約三百名が池に追いたてられ、凍った冷水のなかに立たされ、日本兵のために銃殺された、と述べている。(P53-P54)

 この手紙は続けて害いている。

「別に多数の中国人が一つのわらぶき小屋のなかに追いこまれ、日本兵は機関銃で掃射し、続いて放火し燃やした。小屋のなかの中国人は、銃弾で死ななかったものも、火中に身を葬った。日本兵はまた思う存分掠奪している。一切の財産は、中国人のものか外国人のものかにかかわらず、全部なくなって残っていない。」

 別の一宣教師の報告は述べている。

「昨夜、二人の尼僧が余門前(ママ)をすぎ市街を通りぬけて、食物を購入しようとしたところ、日本兵によって汚辱されたのをみた。」

 別の一宣教師は、多数の中国人が日本兵によって拘留され、日本兵は二〇分の時間内にもし武器を携帯しているものがみずから武器を引き渡せば、そのものの生命にけっして危害を加えないことを保障すると述べたが、結果は二〇〇人が出頭したところ全部銃殺されてしまった、と報告している。


 ◇大使館への訴え

 金陵大学緊急救済委員会のアメリカ人主席は、十二月二十四日に日本の南京大使館に手紙を送り、日本兵が日本大使館付近の金陵大学農場前のアメリカ国旗とアメリカ大使館の布告をひきさき、かつ校門内に押し入って校内の教員から掠奪した事件について質問を提出した。

*「ゆう」注 この手紙は、「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」P135以下で確認可能。なお日付は「十六日」が正しい。

 翌日、掠奪を実行した日本兵はまた金陵大学の農場に来て財物を略奪し、かつ婦女多数を連れ去った。金陵大学図書館には、もと難民一五〇〇人が住んでいたが、そのうち婦女四人が日本兵によって強姦された。別に六人が日本兵によって連れ去られ、三人だけが帰ってきた。

 この手紙を出した人は、かつて受け取った報告では、その晩に城内のその他の場所で同様の事件が一〇〇件以上おきたといわれると述べている。手紙は続けて〔次のように〕述べている。

「城中の市民の恐怖は、すでに極点に連しており、食物を買いに外出するにも、また警戒心が必要である。日本兵はしばしば民家に押し入り、財物を略奪する。私たちは、日本陸軍と日本帝国の名誉のために、諸君自身の妻女姉妹の幸福のために、ふたたび市民をして日本軍隊の蹂躙を受けさせてはならないと、とくに諸君に対して訴えるものである。」

 しかしこの種の訴えが提出されたのちも、日本兵の暴行は引きつづきやまず、日本当局はまだ少しも制止していない。(P54)



◇日本兵の常軌を逸脱した淫行・掠奪

 十二月十五日、金陵大学緊急救済委員会主席はまた手紙を寄せ、多くの日本兵がくりかえし金陵大学の農場にやってきて、婦女三〇人が強姦されたと報告した。(P54-P55)

 彼は日本大使館に書面を送って〔次のように〕述べた。

「私はこの仕事に対して詳細な調査をおこない、すでにこの言葉に誤りのないことを確認した。南京城内の本区の状況はまことに凄惨である。」

 十二月十七日に、この主席は再度、日本大使館に手紙を出した。

「貴大使館がはっきりと展望できる区域およびわが校の付近の地域では、すべての恐怖と野蛮な行動がなお継続中である。

 日本兵は昨晩、くりかえしわが校の図書館にきた。図書館には現在、たいへん多くの難民が住んでいるが、日本兵は銃剣で恫喝し、女性・金銭などを要求する。

 わが校の同僚の一人は、ついに銃剣で刺された。図書館のなかでは、多数の婦女が日本兵によって犯された。日本兵はまた夜番を撃って傷つけたが、おそらく彼らが日本兵のために婦女を準備しなかったからであろう。

 わが校のアメリカ人の同僚は、日本軍の将校によって袋だたきにされた。私自身はある酒に酔った日本兵によってベッドから引きずりだされた。わが校は貴大使館にたいへん近い。それ故、私にはここがなぜ今にいたるまで秩序を回復できないのか了解できない。」

 十二月十八日、彼はふたたび日本大使館に手紙を出した。

「日本軍の暴行が横行しているので、各地ではなお引きつづき苦痛と恐怖を感じている。わが校は、現在すでに難民一万七千人を収容しているが、各地の状況がますます悪化しているので、難民が大勢おしよせてきている。

 然して金陵中学の校舎では、昨晩、引付けをおこした幼児が日本兵のために刺し殺された。別の一人の幼児もまた重傷を負い、生命はきわめて危険である。婦女八人が強姦された。兵隊は日夜を分たず校舎を乗りこえてきて不法行為をはたらく。わが校の何人かの同僚は阻止したいとの気持があるので、日本兵によって袋だたきにされないものはない。

 難民はみな神経性の恐怖病にかかっている。貴大使館の側は、兵を派してわが校の校門を守ることを承認したが、まだ実行されていない。」


 ◇帰るべき家のない難民

 「日本軍隊はすでに市民の衣類・ふとんおよび食物の類を略奪しつくし、多くの市民は飢えと寒さがこもごも迫ってきて、苦しみのため病気になっている。大通りでも路地でも、憂慮し悲しみ泣く男女がたがいに私語しているのをみることができる。およそ日本兵が至るところは、誰であれどの家であれ、みな平安はないといわれる。

 私のこのたびの手紙は、日本兵の検査のためにはばまれてしまった。日本兵のいわゆる検査とは、婦女を選ぶことにすぎないのであるが。」(P55)

 この主席は、十二月二十一日、日本大使館職員福田に手紙を出して述べた。(P55-P56)

「今日午後、一人の婦人が貴大使館の門衛所で強姦された。今日の午後、私が閣下を訪問したとき、拙宅は四度目の略奪を受けた。わが校のその他の七か所の建物は、今日ひとしく略奪にあった。

 各地の大火は、すでに無数の難民をして帰るべき家のない流浪者としている。わが校の病院の各門はすでに突き破られた。現在、方法を講じて日本兵がわが校の病院の救護車を略奪することを阻止している。私自身、日本兵が食物を略奪し、中国人を脅迫して略奪した賊品を運送させているのを目撃した。

 日本軍隊はまた紅十字会内の負傷者治療所を略奪した。当時、私は助けを呼ぶ声を聞き、ただちに調査におもむいた。昨晩、その場所で三人が日本兵に強姦された。」

 十二月二十二日、この主席は〔次のように〕報告した。

「昨晩、婦女聖経学校で婦女七人が日本兵により強姦された。男子は連れていかれたが、おそらくすでに銃殺されたであろう。日本兵は今朝、また金陵大学の養蚕室を略奪し、かつ貯えてあった酒をもっていった。日本兵は彼らが略奪した難民に向かって三度発射した。」


 ◇聡ずべき秩序の乱れ

 クリスマスの日、この主席はふたたび報告した。「金陵大学農場の養蚕室一か所で日本兵に強姦されたものは平均毎日一〇人以上である。略奪行為は引きつづきやまず、日本当局はいささかも制止していない。」

 十二月二十七日の報告は述べている。

「貴大使館の側は、種々の承諾の言葉を提供したけれども、恥ずべき秩序の乱れはなお継続している。昨晩、日本兵はわが校の花園に押し入り、女子三人に暴行を加えたが、三人のうち一人はわずか一一歳だった。聖経学校では、婦女七人が日中にはずかしめを受けたが、そのうちの一人はわずか一ー歳であった。

 当日の晩、また婦女二〇名が同様の運命にあった。その場所の食物・衣服・金銭等はすべて奪われた。これで秩序を正したと言えるだろうか。恐怖の時期の二週間後になおこのような状況があるのは、実に恥ずべきことと感じる。現在必要なのは、すでに日本側の承諾の言葉ではないのである。」

 ロバート・フェイス博士は、以前、親しく記者に対し、日本軍隊は杭州で計画的に軒並みの略奪を実行していると述べた。そこでもまた多数の婦女が日本兵の強姦・蹂躙にあっているといわれる。(P56)





<参考 アジア歴史資料センター資料>

各種情報資料・支那事変に関する各国新聞論調概要

レファレンスコード A03024004100

C 英国紙

△英仏蘇外相と顧維鈞との秘密協議

英仏蘇三国外相は二十八日「アヴノール」氏の書斎に集合し特に顧維鈞を招致して内密協議した結果、顧維鈞は今次理事会に於ける極東問題審議の為、臨時総会開催の要求を見合せ、其の代り月曜日の理事会て日本問責の強硬な決議を行ふこととなつた模様てある


△南京に於ける日本軍の暴行詳報

(一月)二十八日各紙は一斉に在支日本軍の暴行振を詳報したか、殊に「デイリー・テレグラフ」紙香港通信は、在南京大学諸教授、亜米利加宣教師等か日本大使館及布教国本部に宛てた書翰に基いた完全に信頼できる最初の詳報であるとて、昨年日本軍か南京占領後数週間に亘る戦慄すへき狂暴振を特報し、総ゆる財産は外支人の見境なく一律に掠奪破壊せられ、僧院は侵入され尼僧は■はれ、図書館、病院等は破壊焼打の厄に遭ひ、二万の支那人は虐殺せられ、数千の避難民は住むに家なく、飢餓と困却の裡に累々たる死体の間を彷徨する有様にて、婦女子に対する襲撃は白昼日本大使館の真前ても公然行はれた。

一外人教授か日本軍人の名誉の為斯様な蛮行を中止する様切に勧告したにも拘らす、狼藉は止む所を知らす、婦女子を庇はんとすれは拳銃で強制せらるる始末てある。

杭州ても同様に日本軍は組織的暴行を行つた。尚各紙共南京に於ける日本兵の「アリソン」書記官に対する暴行事件に関し、米国政府か強硬抗議をしたと報道し、■記事共頗る「センセイシヨナル」に取扱つている。




<大公報>

敵の南京における暴行の確証

民国二十七年六月十三日

 ◇国際青年会指導者が論文を発表

 【中央社サンフランシスコ十一日合衆国電】 国際青年会の指導者フェイス博士は、最近、サンフランシスコの記事報に「日本軍の南京における強姦」という題の文章を発表した。

 概略すると、彼が南京にいるとき二本の映画フィルムを撮影し、数種はすでに焼き付けてアメリカの雑誌に掲載した。ただ軍が極東青年会の財産を没収することを彼の同僚は恐れているので、それぞれの写真には彼の姓名を記していない。

 彼は撮影した映画フィルムを一部の人士にみてもらった。このフィルムはみな南京城内の病院とその他各処の秘密の場所で撮影したものである。

 私たちはこれをみた後、歴史上の大虐殺と日本軍が野獣性を発揮した状況を知ることができた。映画のスナップには、日本軍の銃剣による中国人妊婦刺殺、幼児惨殺、および強姦後の婦女殺害などの惨状がある。

 日本軍事当局はついに中日戦争発生四か月後にいたって軍紀を軽視し、その放蕩の軍隊に好き勝手なことをさせた。各界はしばしば日本軍閥に対して制止を申請したが、効果がない。(P57)




<『新華日報』より>

南京同胞、敵の蹂躙に遭う

一九三八年五月三十日
 
 ◇負傷官兵ことごとく虐殺
 ◇老幼婦女もほとんど被害


 【中央社】南京から危険を犯して脱出、回り道をして武漢にたどりついた某君の語るところによれば、倭敵の首都侵入以来、わが軍民に対する種々の惨殺淫乱行為は凶悪なること人語に絶するものである。ここに南京において同君が自ら見聞したところを分けて述べる。(P59)


(1)傷兵虐殺

 敵は昨年十二月十二日南京に攻め入って以来、毎日獣兵を市内各地に派遣してわが軍官士兵を捜索させた。布告を出して小隊長を捕らえたものには一名につき五〇元、中隊長は二〇〇元、大隊長は五〇〇元、連隊長以上はより高額の賞金を与えることとした。およそ陸軍のような頭髪・服装をした青年はすべて、毎日百数十名ずつ連行され、免れた者はほとんどいなかった。(P59-P60)

 捕らえられた者はみな軍政部内の敵軍司令部に連行された。敵軍は部内の広い草原に百数十体の十字架を作って、逮捕して来たわが軍兵士の衣服をことごとく剥ぎ取った後、くくり付けた。敵兵は相当の距離から鉄砲を三発発射し、それで死なないときは刀で無茶苦茶に突き刺したり、斬り割いて殺した。

 外交部と軍政部内には負傷兵二千余名がいたが、すべて殺された。下関にも負傷兵数千名がいたが、敵の機銃掃射で殺され、助かった者はほとんどいなかった。このような残虐なやり口は前代未聞である。(P60)


(2)難民虐殺

 倭敵は南京入城後、いたるところで壮丁を捕まえ、一〇人ひとまとめにして縄で縛り、空き地に連れていった。まず、衣服を剥ぎ取ったのち、鞭で肉が飛び出し、四面に血が飛び敵るまで叩いた。その後で刀を突き刺しては楽しんだ。

 水西門外の河原では、難民数千名が縄で縛られて、石油をかけられ焼き殺され黒焦げにされた。

 市内の負傷兵壮丁を殺しつくすと今度は難民区内の壮丁を殺しはしめた。難民区内の壮丁は縄で縛られて数珠繋ぎにされ、玄武湖や莫愁湖などに連行され、湖の中に強制的に入らされ、湖心に行ったところで機銃掃射された。難を逃れた者はいなかった。

 十二月二十二日、敵軍は大型トラック数十輛を使って、難民数千名を郊外に連れて行き、壕を掘らせ、掘り終るや縄で縛って、壕内に入らせ、刀で無茶突きして半死状態にした後、土をかぶせて生き埋めにした。

 昨年十二月十二日から今年三月末南京を離れるまでに、惨殺された南京の同胞は一〇万を下らない。(P60)


(3)婦女強姦

 倭寇は入城後、軍装を解かぬうちから民家や商家に乱入して婦女子を捕まえた。凡そ九歳以上、四五歳以下の婦女はみな強姦された。水西門外の寡婦は、一八歳、一三歳、九歳の三人の娘共々輪姦された。末の娘はその場で亡くなり、長女と次女も人事不省に陥った。

 また、ある獣兵は民家に押し入って一人の少女を見つけると、衣服を脱ぐように命じ、次いでその父母に片足ずつ持たせ、代わる代わる強姦した。さらに父親に衣服を脱いで娘を犯すよう強制した。父親がこれに従わないとみるや、獣兵は銃剣で父親の臀部を猛突、父娘ともに相果てた。

 一般の少女は身体の発育が不十分で、倭敵の獣欲を満足させることができなかった。そこで彼らはまず手で陰部を引き裂き、それから輪姦した。成人婦女は輪姦後、刀で陰部を突き刺されて死んだ。またある妊婦は妊娠数か月で獣兵に輪姦され、出血が止まらず、命を落とした。(P60)

 獣兵たちは各所の広場でところかまわず強姦した。ある日某国領事は敵兵三人が一人の婦女子を輪姦するのを見かけた。進み出て穏やかに諭すと、獣兵たちは彼の頬にピンタをくらわせ、銃で脅した。領事は止むなく恥を忍んで立ち去った。(P60-P61)

 獣兵たちはさらに某医院の看護婦を強姦しようとした。外国人の医師が交渉にのり出したところ、剌されて首に負傷を負った。一般市部の婦女子を強姦しつくすと、彼らは難民区に捜しに出かけた。南京の婦女のうち、年若く美貌の女性は敵官兵の所有物としてほしいままに強姦され、あるいは強制されて敵の従軍慰安婦にされている。種々の惨状はとても書きつくせない。


(4)焚焼掠奪 

 南京建都以後十余年、苦心して築いてきた建築物は、敵兵、傀儡自治会、漢奸等に占拠されたもの以外はみな焼き払われた。商店民家も過半数が焼かれた。市内の公私物品はことごとく持ち去られ、鉄製器物はみな日本に回送された。

 南京はもともと米穀地帯であるが、敵軍入城後はことごとく奪い取られて、津浦線沿線の軍糧とされてしまい、国際慈善委員会が難民救済のために米を運び込むことも許さない。このため、難民は虐殺を逃れても、また餓死の憂き目に遭っている。


(5)偽装隠蔽

 倭寇は南京における種々の残虐行為が洩れ伝わって、世界各国の世論が騒然となると、人々の耳目を誤魔化そうと図った。彼らは取り残された難民や老弱百人余りを一か所に並ばせて、医者や看護婦を派遣して両脇に立たせて写真を撮り、各国に送って宣伝した。そのやり口の卑劣さ、狡猾さはとりわけ怒りに堪えない。(P61)

*「ゆう」注 全体として誇張のきらいあり。




<『救国時報』より>

日寇の南京における獣行

一九三八年一月五日

 ◇いたるところで焼殺・強姦・掠奪
 ◇まさに人間性のかけらもなし!


 このたび日寇は大軍を投じて我国を侵略したが、いたるところでわが軍民一体の断固たる抵抗を受けて、連戦速決の幻想的計画は実現不可能になっている。このため日寇はますます猛り狂って、野蛮残虐にはしり、いたるところで平和なわが都市と住民を爆撃・虐殺している。

 とりわけ占領地域では逮捕・掠奪・強姦・殺人・放火などあらゆる悪事を働いており、禽獣と異なるところがない。野蛮極まりないこと、人間性のかけらさえもない。

 日寇が南京に侵入しておこなった残虐行為はその顕著な例である。多くの外国新聞の記者は自分の目で日寇の暴行を目のあたりにして、みな「南京は恐怖の街に変わった」と述べている。

 南京城内の日寇の士官は兵士を帯同して野獣のごとく、手当たり次第に住居を占拠し、いたるところで大掠奪をおこなっており、その卑劣で下品な行状について多くの外国記者が憤慨に満ちた記述をおこなっている。

 十八日ニューヨーク・タイムズ記者は上海からの打電で「掠奪は完全に破壊的性質を帯びており、日本兵はほとんどがあらゆる家屋内に踏み込んでおり、しばしば士官の姿も見受けられる。彼らは自分の必要な一切の物を運び去り、中国人は日本兵に動員されて掠奪物を運搬させられている。とくに恥じ知らずなのは、難民を取り調べて掠奪していることである。

 イギリスのディリー・テレグラフ(毎日電聞晨郵報)およびタイムズ等はニューヨーク・タイムズ特派員ダーディンの通信を掲載して、日本人の難民掠奪の状況はとくに恥ずべきで、彼らは難民地区で大規模な捜索をおこなって、銀貨・銅貨、貴重品を奪っている。アメリカの病院も襲撃を免れなかった。日本兵は米国大使館にまで侵入し・・・懐中電灯一個を奪い去った。」

 同時に彼らは気違いじみた大虐殺をおこなっている。一部の退去していない軍人が皆殺しにされただけでなく、平和な住民・婦女子も大量に殺された。(P62)

 南京からきた外国人は「初めの四日間で、日本人は数万人を殺した。難民の集中している地区では、大量の青年を調べもせずに銃殺し、これらの青年はみな兵士だと強弁している。街の街路上には殺された平和な住民の死体が充満している」と語った。(P62-P63)

 ダーディンの通信は「南京は恐怖の街と化した。一切の街路には死体が山積されており、殺された者の中には老人・女・子どもが多い。きわめて多くの犠牲者が銃剣で刺し殺されている。夜間になると日本兵は人影を見るなり発砲する」と伝えている。

中央病院のすべての人々は病人ともども日本人に銃殺された。南京の街には死体が積み上げられているが、はなはだしい場合は四尺にも及んでいる!

 もっとも下劣野蛮なことは、これらの野獣たちが家の中まで入り込んで娘や婦人をいたるところで強姦していることで、ダーディンおよび多くの外国新聞記者がこの憤慨極まりない事実を怒りを込めて語っている。

 日本軍閥はこれらの獣のごとき悪事を隠蔽しようとしている。外国人の伝える消息に拠れば、日本人は自らの血腥い虐殺を隠蔽するために、すべての新聞記者を含む外国人に南京を退出するよう迫っている。

ダーディンともう一人のアメリカ人が米国大使館にいたとき、日本人が入ってきて「彼らが出ていくことを要求する」と言った。

 我々は一人一人にこれらの事実を知らせねばならない。これらの事実を前に、我々はただ心を痛め、憤慨するだけでなく、いっそう断固として抵抗せねばならない。さらに抗戦参加と援助を堅持しなければならない。自分と子女たちの生存のために、民族と同胞の仇を打つために、敵軍殲滅を誓わねばならない。

同時に、国際的宣伝を強め、広めて、世界の正義の人士の前に日寇の獣行を暴露・告発し、世界の人士に、人道・正義・公理と平和を保持するために、ともに起ち上がって日寇に制裁を加え、我国の抗戦を援助するように呼びかけ、連絡せねばならない。日寇の獣行は必ずや懲罰を受けるであろう。(拓夫)

(P63)


(2009.6.13) 


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