いままた戦争の足音が聞こえてくる?

かつての従軍記者 石川達三氏は憂える


『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号 「秘録 "あの大東亜戦争"」所収


 石川達三氏は、窓の外をじっとみつめた。軽井沢の山荘は、緑の木立に囲まれて、平和だった。カケズが一羽、近くの枝にとまって鳴いた。それを合図のように、にわかに空がかげり、稲妻が光った。暗転した林を、すさまじい雨がたたく。その暗い雨が、三十余年前の記憶をたぐり寄せたのか、石川・元報道班員は、静かに口を切った。

「戦争というものはね、一朝一夕に起こるものではありません。三十年、四十年の、長い準備期間が、あるものなのです。日華事変がぼっ発したあのころ、日本のふんいきを考えてみますと、国民全体の間に、戦争反対という批判的な意見は、少なかった。その証拠といってもいいと思うんだが、新聞報道を見ても、当時は戦争を批判する記事は、あまりなかった。これがいまと非常に違うところですねえ。そんな情勢のなかで、私は中国へ渡りました」

《昭和十二年(一九三七年)七月、日華事変始まる。十二月下旬、中央公論社の特派員として、中支戦線に従軍。翌年一月にかけて、南京に滞在した》

 石川氏は昭和十年、作品『蒼氓』で第一回芥川賞を受賞。特派員として中国へ渡ったのは三十二歳、新進気鋭の流行作家だった。

 当時軍部の戦況発表では、連日、勝った勝ったで、国民も素直にこれを信じていた。日本の皇軍は、行く先々で、中国の民衆から、慕われていたという。そんなことがあるだろうか、と石川氏は疑問を抱いた。実際に戦場で、日本の軍隊と兵隊を見たい、それが中央公論社の特派員を引き受けた、第一の動機だった。

 こうして南京で、石川特派員は、何を見、何を体験したか。

「戦争は、第一にハプニングの連続です。たしかに上層部では、一貫した作戦計画というものが、あったでしょう。しかし作戦は、いつも計画どおりには運ばない。思いがけないハプニングが、また新しく予想外のハプニングを生み、つぎつぎに連鎖反応を起こしていく。戦争がこわいのも、ここなのです。南京の大虐殺も、考えてみるとやはり、このハプニングの一つだった」

 南京を日本軍が占領したのは、昭和十二年十二月十三日である。占領後の南京は、一ヵ月あまりというもの、全くの無政府状態に陥った。何万人という中国捕虜と非戦闘員が、日本軍によって虐殺された。戦後の東京裁判でも、大問題になった事件である。(P26)



偶発性にいいしれぬ恐怖!

 石川特派員は、この南京で、異様な光景を目撃した。南京の街のまわりには、高い城壁がめぐらされていた。揚子江沿いに、ゆう江門という門があった。その門に近い城壁に、兵隊のゲートルを二、三本つないだものが、幾条もたれ下がっていたのである。

 いったい何のためだろう? 石川特派員は不審に思った。わけを聞き、始めて合点がいったが、同時に戦争というものにひそむ偶発性に、いもしれぬ恐怖を覚えた。その幾条ものゲートルは、南京城内に閉じ込められた中国兵が、城外へ逃げるために伝って降りた命綱だったのである。

 そのゲートルについて、石川特派員の取材した話というのは、こうだ。

 日本軍が南京へ迫ったとき、中国軍のなかに、城外へ逃亡を企てる部隊が続出した。そこで中国軍は、一番逃げやすい揚子江沿いのゆう江門を、がっちり押えて締めきった。ゲートルの命綱で逃げた兵隊もいたが、ほとんどの将兵は城内に閉じ込められた。日本軍が入城したのは、そんななかへだった。城内には、中国の敗残兵と非戦闘員が満ちあふれていた。(P26-P27)

「これも、日本軍としては、予想もしなかったことのようでした。中国軍の司令官は、いち早く姿をくらませている。軍の施設は徹底的に破壊され尽くしている。むろん食糧も全くない。城内の何万人という中国人を、いったいどう扱えばいいのか。日本軍はホトホト困り果てた。こういう予想もしなかった事態が、あの大虐殺という残忍な行為と、結びついていったのです。

アメリカが落とした原爆だって、向こうは開戦時から使うつもりではなかったろうし、いざ使う段になってからでも、広島にするか長崎にするか、あるいはもっと他の都市にするか、結局、最後はその朝の日本の天候などで、落としやすい所へ落としている。戦争というものは、そういう偶発事故の連続なのです。どこへころがっていくかわからない。これは恐ろしいことじゃありませんか」


《昭和十三年(一九三八)一月、中支から帰り、十日間ほどで中編小説『生きてゐる兵隊』を書き、中央公論三月号に発表。新聞紙法違反に問われ発禁、検事控訴で二審までいき、禁固四月、執行猶予三年の判決》

 石川氏は、この『生きている兵隊』の裁判で、まことに奇妙な体験をする。この小説は、連隊本部にあてられた民家に放火した中国青年を、笠原伍長が日本刀で切り殺すシーンから始まっている。


― 「あっちを向け! ・・・と言っても解らねえか。不便な奴ぢゃ」

 彼は已むなく自分で青年の後にまはり、ずるずると日本刀を鞘から引き抜いた。それを見るとこの痩せた鳥のやうな青年はがくりと泥の中に膝を突き何か早口に大きな声で叫び出し、彼に向かって手を合はせて拝みはじめた。しかし拝まれることには笠原は馴れてゐた。馴れてはゐてもやはり良い気持ではなかった。

「えい!」

 一瞬にして青年の叫びは止み、野づらはしんとした静かな夕景色に返った。 ―


 小説は、この典型的な兵隊笠原伍長をはじめ、シャベルで中国兵の頭をたたき割る従軍僧、戦争の残虐に耐えられぬインテリ兵などを描いている。当時としては、発禁になるのは当然だった。勝った勝ったの戦争が、実態はこういう人間によって押し進められていることを、銃後の一般国民が知ってはまずいことになる。もちろん軍部は烈火のごとく怒って大弾圧・・・となりそうなところだが、実はそうではなかった。(P27)


裁判所までが軍部の鼻息を

 陸軍報道部では、何もこごとをいわなかった。裁判所だけが、ひどくあわてていた。その証拠に、石川氏が再び中国戦線に行きたいと、願い出たとき、軍は「ああ、いいよ」とふたつ返事で、上海報道部や南京報道部長あてに、親切な紹介状を書いてくれた。

しかし裁判所のほうは、検事控訴中は、絶対まかりならんと、きついお達しだった。そこで、軍のほうは行ってもいいといっていますが、というと、裁判所は驚き顔で「そうか、軍がいいというのですか。それなら・・・」と、にわかに態度が変わった。司法権の独立は、すでになかった。

「裁判所までが、軍部の鼻息をうかがい、オベッカを使わねばならない時代だったのです。軍は何もこわいものはなく、なかには私の小説は戦争の本当の姿だといってくれた将校もいましたな

《昭和十三年九月、再び中央公論社の特派員として、武漢作戦に従軍、十一月帰国、翌年一月「武漢作戦」を同公論に発表。昭和十六(一九四一)年十二月、日米開戦。翌年一月、海軍報道班員として、サイゴンへ。二月、艦隊旗艦に乗り、陥落直後のシンガポールにはいる。さらにスマトラ上陸作戦の援護艦隊に乗り、アンダマン、ニコバルを経て、ペナン上陸。ハノイ方面視察後、六月帰国》(P27-P28)

(以下略)


  

(2011.10.1)


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