石川達三氏は、窓の外をじっとみつめた。軽井沢の山荘は、緑の木立に囲まれて、平和だった。カケズが一羽、近くの枝にとまって鳴いた。それを合図のように、にわかに空がかげり、稲妻が光った。暗転した林を、すさまじい雨がたたく。その暗い雨が、三十余年前の記憶をたぐり寄せたのか、石川・元報道班員は、静かに口を切った。
「戦争というものはね、一朝一夕に起こるものではありません。三十年、四十年の、長い準備期間が、あるものなのです。日華事変がぼっ発したあのころ、日本のふんいきを考えてみますと、国民全体の間に、戦争反対という批判的な意見は、少なかった。その証拠といってもいいと思うんだが、新聞報道を見ても、当時は戦争を批判する記事は、あまりなかった。これがいまと非常に違うところですねえ。そんな情勢のなかで、私は中国へ渡りました」
《昭和十二年(一九三七年)七月、日華事変始まる。十二月下旬、中央公論社の特派員として、中支戦線に従軍。翌年一月にかけて、南京に滞在した》
石川氏は昭和十年、作品『蒼氓』で第一回芥川賞を受賞。特派員として中国へ渡ったのは三十二歳、新進気鋭の流行作家だった。
当時軍部の戦況発表では、連日、勝った勝ったで、国民も素直にこれを信じていた。日本の皇軍は、行く先々で、中国の民衆から、慕われていたという。そんなことがあるだろうか、と石川氏は疑問を抱いた。実際に戦場で、日本の軍隊と兵隊を見たい、それが中央公論社の特派員を引き受けた、第一の動機だった。
こうして南京で、石川特派員は、何を見、何を体験したか。
「戦争は、第一にハプニングの連続です。たしかに上層部では、一貫した作戦計画というものが、あったでしょう。しかし作戦は、いつも計画どおりには運ばない。思いがけないハプニングが、また新しく予想外のハプニングを生み、つぎつぎに連鎖反応を起こしていく。戦争がこわいのも、ここなのです。南京の大虐殺も、考えてみるとやはり、このハプニングの一つだった」
南京を日本軍が占領したのは、昭和十二年十二月十三日である。占領後の南京は、一ヵ月あまりというもの、全くの無政府状態に陥った。何万人という中国捕虜と非戦闘員が、日本軍によって虐殺された。戦後の東京裁判でも、大問題になった事件である。(P26)
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