石川達三『経験的小説論』
「日蔭の村」が「新潮」に発表されたのが十二年の八月上旬で、中旬には上海で戦争がはじまり、日本中に動員令が発せられた。このときから二十年八月までのまる八年間が、戦争の期間であった。
同時にその八年間は、日本に於ける文学の危機でもあった。戦争とともに左翼運動に対する圧迫は強化され、特高警察は勢いを得て活発となり、その上に憲兵隊までが思想警察の役割りを受持つようになった。
後には情報局、陸海軍報道部も事前検閲をやるようになり、印刷用紙の統制とともに言論出版の自由はほとんど圧殺された。
この間に在って、醜態を晒したのは新聞社の在り方であった。大資本企業の形態をもった日本の大新聞は、正確な報道の義務も正当な批判の責任も、また言論自由の原則をも、すべてかなぐり捨てて政府軍部の求めるがままに、醜い走狗となり果てた。(P31-P32)
人民に対して新聞の使命を守ることよりも、新聞社自体が何とかして生き残るために、娼婦のように無貞操な姿を見せたものであった。軍部のスポークスマンは新聞社を両手の中に握り、軍部の思うがままの宣伝記事を新聞に掲載せしめた。
その虚飾にみちた報道記事を拒否する記者があれば、たちまち彼は配置転換を要求せられ、最も甚だしきに至っては召集令を発して彼を外地部隊に配属させた。大新聞社の幹部たちはこうした軍部の横暴に心ならずも追随し、まことに軽薄な軍部の自己宣伝的な戦争情報を掲載しつづけたものであった。
私の憤りは先ずここから来たものだった。「皇軍は至るところで神の如く」 「占領地の住民は手製の日章旗を振って日本軍を迎え・・・云々」という記事が、どの新聞にも一様に掲載されていた。私はその虚偽の報道に耐えがたいいら立たしさを感じていた。
中央公論社の記者にむかって、私の方から、特派記者となって従軍したいという希望をもち出したのは、新聞記事とはまるで違った本当の戦争の姿を見、それを正確に日本の民衆に伝えたいという気持からであった。そして戦争に取材した小説を書くことを雑誌社と約束した。
作家の態度として、その事自体にも問題は有ったに違いない。作家というものは、たまたま自分が体験したことに感動して、これを小説に苦くというのが本筋であって、意識して感動を外にもとめ、その為にわざと体験するために出かけて行くというのは、あまりに職業的であり、不純である……という見方もあるに違いない。(P32-P33)
私はその不純を敢てした。非難はあるかも知れない。しかし作家の体験は坐して偶然の到来を待つようなものばかりであっていいとは思わない。みずから積極的に体験を求めて行動する、ということも行なわれていいと思う。
ただ私の場合には、新聞の虚偽の報道に腹を立てて、戦争のむき出しのなまの姿を日本の民衆に伝えたいという意慾をもっていた。これは作家的行動であるよりも報道記者的な行為であったと言い得るであろう。そこまでは私は記者的であった。それから先、つまり作品を書く段階に於ていかに私が小説家であり得るか。……そこに一つの賭けがあった。(P33)
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