石川達三『経験的小説論』



石川達三『経験的小説論』 1970年5月25日第一刷、文藝春秋


石川達三『経験的小説論』


 「日蔭の村」が「新潮」に発表されたのが十二年の八月上旬で、中旬には上海で戦争がはじまり、日本中に動員令が発せられた。このときから二十年八月までのまる八年間が、戦争の期間であった。

 同時にその八年間は、日本に於ける文学の危機でもあった。戦争とともに左翼運動に対する圧迫は強化され、特高警察は勢いを得て活発となり、その上に憲兵隊までが思想警察の役割りを受持つようになった。

 後には情報局、陸海軍報道部も事前検閲をやるようになり、印刷用紙の統制とともに言論出版の自由はほとんど圧殺された。

 この間に在って、醜態を晒したのは新聞社の在り方であった。大資本企業の形態をもった日本の大新聞は、正確な報道の義務も正当な批判の責任も、また言論自由の原則をも、すべてかなぐり捨てて政府軍部の求めるがままに、醜い走狗となり果てた。(P31-P32)

 人民に対して新聞の使命を守ることよりも、新聞社自体が何とかして生き残るために、娼婦のように無貞操な姿を見せたものであった。軍部のスポークスマンは新聞社を両手の中に握り、軍部の思うがままの宣伝記事を新聞に掲載せしめた。

 その虚飾にみちた報道記事を拒否する記者があれば、たちまち彼は配置転換を要求せられ、最も甚だしきに至っては召集令を発して彼を外地部隊に配属させた。大新聞社の幹部たちはこうした軍部の横暴に心ならずも追随し、まことに軽薄な軍部の自己宣伝的な戦争情報を掲載しつづけたものであった。

 私の憤りは先ずここから来たものだった。「皇軍は至るところで神の如く」 「占領地の住民は手製の日章旗を振って日本軍を迎え・・・云々」という記事が、どの新聞にも一様に掲載されていた。私はその虚偽の報道に耐えがたいいら立たしさを感じていた

 中央公論社の記者にむかって、私の方から、特派記者となって従軍したいという希望をもち出したのは、新聞記事とはまるで違った本当の戦争の姿を見、それを正確に日本の民衆に伝えたいという気持からであった。そして戦争に取材した小説を書くことを雑誌社と約束した。

 作家の態度として、その事自体にも問題は有ったに違いない。作家というものは、たまたま自分が体験したことに感動して、これを小説に苦くというのが本筋であって、意識して感動を外にもとめ、その為にわざと体験するために出かけて行くというのは、あまりに職業的であり、不純である……という見方もあるに違いない。(P32-P33)

 私はその不純を敢てした。非難はあるかも知れない。しかし作家の体験は坐して偶然の到来を待つようなものばかりであっていいとは思わない。みずから積極的に体験を求めて行動する、ということも行なわれていいと思う。

 ただ私の場合には、新聞の虚偽の報道に腹を立てて、戦争のむき出しのなまの姿を日本の民衆に伝えたいという意慾をもっていた。これは作家的行動であるよりも報道記者的な行為であったと言い得るであろう。そこまでは私は記者的であった。それから先、つまり作品を書く段階に於ていかに私が小説家であり得るか。……そこに一つの賭けがあった。(P33)



石川達三『経験的小説論』


 従軍は全くの単独であった。陸軍報道部によって指定された十二月の某日、私は神戸から軍用貨物船に乗った。そこで三重県の部隊から来た五人の将校に会った。(短篇「五人の補充将校」は彼等との接触によって書いたものであった。)

 彼等に会ったことが私にとっては幸いであった。披等の行先は占領直後の南京であった。彼等はそこで戦死した小隊長中隊長の後任者となるはずであった。

 上海から蘇州、常熟、無錫と、彼等と行を共にして、結局は南京市政府に駐屯中の三重県出身の部隊に行き、そこに仮の宿りの場所を与えられた。正月の四日か五日頃であった

 途中、汽車の窓から、人馬の屍体が霜に掩われている姿を到るところに見、人気なき戦場の荒廃の姿に心打たれた。

 首都南京は難民区をのぞいては、無人の都市であった。

 私は二十日ばかりの滞在のあいだに、部隊長に挨拶したのは二度くらいで、あとはただ下士官と兵との間に寝泊りし、彼等と共に街をさまよい、酒を飲み、戦いのあとを見て歩き、上海以来の彼等の戦歴を聞くことに終始した。(P33-P34)

 それは最初からの私の計画であった。将校が語る戦争のはなしには修飾があり、自己弁護があり、理屈があるに違いない。私が知りたいのは嘘もかくしも無い、不道徳と残虐と凶暴さと恐怖とに満ちた戦争の裸の姿である。それを探り出すためには下級の下士官兵と接触しなくてはならないと思っていた。

 私はひとりの快活な下士官と満洲出身の通訳の胃年との部屋に同居し、朝から夜まで、文字通り寝食を共にした。

 私の取材の方法がそういう具合であったから、従って私の作品には下士官兵という最も行動的な、当然もっとも凶暴な登場人物が出てくることになった。軍の上層部から見た戦争ではなくて、最下層の人間から見た戦争の姿になった。そして是こそはそれまで内地の新聞にはほとんど一行も書かれていない戦争の真実であると私は思った(P34)。



石川達三『経験的小説論』


 私が一番知りたかったのは戦略、戦術などということではなくて、戦場に於ける個人の姿だった。戦争という極限状態のなかで、人間というものがどうなっているか。平時に於ける人間の道徳や智慧や正義感、エゴイズムや愛や恐怖心が、戦場ではどんな姿になって生きているか。……それを知らなくては戦争も戦場も解るわけはない。

 殺人という極限の非行が公然と行なわれ、それが奨励される世界とはどのようなものであるか。その中で個人はどんな姿をして、どんな心になってそれに耐えているか。これを書くことはやはり作家の仕事だった。作家以外の者にできる事ではない。

 私の従軍という行動は新聞記者的であったかも知れないが、私の書くものは新聞記者とは別のものになるはずだった。私の書こうとするものは個々の人間であって、戦争は彼等の背景であり、舞台であるに過ぎなかった。(P34-P35)

 人間・・・私が狙っているものは人間以外のものではなかった。そして言うまでもなく、小説とは人間の物語である。

 カロッサの「ルーマニヤ日記」やトルストイの「セバストーポリ」があれほど美しいのは、彼等がただ戦場を遠景に置いて人間を書いているからであり、アナトオル・フランスの「神々が渇く」があれほど美しいのは、彼が革命を背景に置いて人間を書いているからに他ならない。

 人間はその置かれた場所によって変貌する。どのように変貌するか。その変り方はその人の個性による。変貌する姿にその人の個性がもっともよく現われて来る。紳士が凶悪漢にかわり、卑怯者が勇者になる。

 紙の上にあらわれてくるあぶり出しの文字を見るように、私は息を詰めて彼等の変貌を見つめる。それこそ作家にとって何物にも替えがたいほどの魅力をもったもの、人間のドラマである。(P35)


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 一月末に帰国。約束の雑誌のしめ切りは迫っていた。二月一日から執筆にとりかかって、二月十一日、紀元節の正午ごろまで、ちょうど十一日間に三百三十数枚の作品を書き上げた。一日平均三十枚。これは私にとっては人力の限りを尽したようなものだった。眼のさめているあいだは机を離れなかった。

 題名は「生きてゐる兵隊」とした。この小説も前作「日蔭の村」とありじように、戦闘の経過、その期日、部隊の大きさ、地理的条件等々、作者が勝手に変更することのできない固定的な杭がいたるところにあった。したがって記銀的要素もかなりはいっていた

 しかし私は「日蔭の村」の執筆の途中で感じたような迷い、単なる記録を書いているに過ぎないのではないかという疑惑は、一度も感じなかった。(P35-P36)

 その相違の原因は登場人物にあった。「日蔭の村」の場合には生起した事件が主役になっていた。登場人物についての研究が不足していた。村長とは二時間ほど対座しただけであり、その他の人物には会ったこともなかった。私は事件の重要さに曳きずられていて、人物の在り方についての考慮が足りなかった。その欠陥が執筆の途中になって出て来たのだった。

 しかし「生きてゐる兵隊」の場合には、若い将校たちのモデルとは軍用船の中で一週間も朝夕に顔を合わせ、彼等の人となりも戦争観もみな知っていた。兵や下士官のモデルとは南京市政府滞在の二十日間、毎日の寝食を共にして充分に知り尽していた。

 したがって戦争という巨大な背景がありながら、登場人物の動きを見失うようなことはなかった。つまり彼等の人物を作品の中に(創造)することができた。

 フローベル流の言い方をすれば、「生きてゐる兵隊」の中に出て来る若い将校や兵士は、(私)だった。私の作った人物であり、月評家流の言葉で言えば、(臍の緒)がつながっていた。そしてこれらの人物を私のものにしてしまうことが、一番辛い、一番たのしい作業だった。

 私は作品を書きすすめて行きながら、これらの人物に愛着を感じた。実在のモデルよりも登場人物の方により深い愛情をもっていたようであった。つまり彼等は私の中で生きていた。

 この作品は発表と同時に発売禁止の処分をうけ、次いで刑事罰が科せられた。しかしそんな事は小さな派生的な事件にすぎなかった。要するにその後の七年間は出版が許されなかったというだけのことで、敗戦と同時に私の権利はすべて回復された。

 国家権力は強大であるが、その権力が行使される期間にはおのずから限度がある。その時の国家権力よりも私の作品の方がずっと長い命をもっていた。(P36-P37)



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 私は小説を書く前に、何を目的に書くかということを考えずにいられない。何のために書くのか。何が言いたいのか。書くことの社会的な意義がはっきりしなくては、作品に着手できない。これは私の癖である。作家としては邪道であるかも知れない。目的がはっきりし、書くことの意義を強く感じたときに、私の意慾は燃えあがる。

 その意義なるものは、勝手気ままで、終始一貫している訳ではない。戦争中には自由のために書こうとしたり、戦後になってからはあまりに野放図になった自由への反省を求めるために書こうとしたりした。

 時代の流れが私を刺戟し、刺戟に反応して私は創作意慾をおこす。したがって私の書こうとする事はしばしば、時代の風潮にさからって行こうとするようなことになる。抵抗の文学と言えば立派にきこえるが、要するにいささか臍曲りである。

 「生きてゐる兵隊」で筆禍を受けたのはむしろ私の宿命的なつまずきであった。しかし私は後悔はしなかった。処罰を受けても、やはり私にとっては書かなくてはならない作品であったし、書いたことに満足感があった

 エミール・ゾラにとってドレフュス事件は、書かなくてはならない宿命的な作品であっただろうし、その為に英国に亡命するようなことになっても、後悔はなかっただろうと思う。私はゾラという作家にいろいろと共鳴するものを感じていた。

 「蒼氓」は、その作品を書くために南米まで行ったのではなかった。若気の至りとでもいうような、あやふやな気持で移民集団のなかに加わり、その結果として是非ともこの体験を書きたいと思った。(P37-P38)

 「生きてゐる兵隊」ははじめから作品を書くのが目的であり、その為の取材としての従軍であった。順序は逆であるが、結果的には同じようなものになった。

 神戸から軍用船に乗ったその時から私は第三者ではなくて、戦争と軍隊組織のなかに曳きずり込まれていた。それから後の体験は、取材であると同時に生活の一部でもあった。(書くために体験する)という行為は、純粋な意味では作家としての邪道であるかも知れないが、内地に居て資料だけを集めて戦争小説を書くようなやり方に比べれば、数等誠実な方法であるとも考えられる。

 ともあれ、私自身が戦場をじかに自分の眼で見て来たということは、(従軍はその後二回もつづいたが……)戦後の作品、たとえば「風にそよぐ葦」などを書く場合の、知識や感覚の一つの基盤になっていただろうと思う。(P38)



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 敗戦後、東京裁判がひらかれたとき、米国側の検事団は「生きてゐる兵隊」を南京虐殺事件の証拠資料に使おうとした。ジープが迎えに来て私を裁判所の検事調べ室へつれて行った。私は不愉快だった。彼等は「協力しなければ逮捕する」と言った。

 南京虐殺事件の現場を見てはいない。しかし大体のことは知っていた。事件そのものを否定することはできなかったが、私は当時の日本軍の立場を弁護した。つまり虐殺事件にも或る必然性があり、その半分の責任は支那軍にもあるという説明をした。焦土抗戦主義もその一つ。敗残兵が庶民のなかにまぎれ込んだこともその一つ。捕虜を養うだけの物資が無かったこともその一つ。(P38)

・・・・・結局検事側は私から有力な証言は何ひとつ取ることができなかった。しかし裁判の結果、たしか中支派遣軍司令官は絞首刑になったようであった。私はやはり不愉快であった。敵側が裁くことに公正な裁判などは有り得ないと思っていた。(P39)



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(2014.1.4)


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