太田尚樹『赤い諜報員』



 『「日中和平工作を妨害せよ」太田尚樹『赤い諜報員』の「コミンテルン陰謀説」』記事にて、大田氏の以下の文章の大半を引用して論じました。念の為、この章の全体をここに紹介しますので、ご参照ください。


太田尚樹『赤い諜報員』より

第九章 日中和平工作を妨害せよ−コミンテルンの陰謀−

(一)

 その頃東京では、ゾルゲと尾崎の間で深刻な話が交わされていた。この日、築地の料亭「錦水」で落ち合ったふたりは、二階の小部屋ですき焼きを肴に飲み始めたが、話を切り出しだのはゾルゲの方だった。

 「コミンテルンから難題を言ってきたよ。日中和平工作を潰せと言ってきているんだ。これはモスクワから、近衛の側にいる君への直接の指示と考えてもらいたい」

 「近衛総理は、アメリカが仲介を申し出てきているので、これに乗ろうとしているんだ。駐華ドイツ大使トラウトマンの仲裁より、アメリカの話の方が筋がいいと見ているんだよ」

 「それは拙いな。君から近衛に働きかけて、トラウトマンの和平工作一本に絞らせて欲しい。これなら潰し易いからな」

 「それはやってみる。だが問題は、どうやってトラウトマン工作を潰すかだね」

 「国共合作が成った今は、双方に影響力を持つ宋慶齢に働きかけるのがいい。義弟の蒋介石とは不仲だが、互いに一目おいている。オザキの上海ルートを使ってやってみてくれないか」(P262-P263)

 「近衛公が将介石と共産党に対して持ち出したい条件は、満州国の承認だ。最近将介石は、日本軍が中国本土から撤退するなら、承認してもいいと言い出している。だが共産党はそうはいかないから、 宋慶齢を通じて『日本の甘い手に乗るな。撤退を引き延ばしながら、満州国が承認されてしまったら、撤退どころか増派してくるのは目に見えている』と吹き込むのがいいと思う」

 「宋慶齢に吹き込む役は、本当はスメドレーに頼みたいところだが、生憎、あのふたりは、慶齢が始めた雑誌の件で衝突して、今は不仲なんだ。それに彼女はいま上海にいないからね」

 そのときスメドレーは上海から遥か遠い、西安の北二百五十キロにある山中の、延安にいた。西安事件が解決して、周恩来や毛沢東、朱徳ら共産党幹部だちと共に、共産党の聖地といわれた、この山岳ペースに戻っていたのである。

 そこはスメドレーが幼い頃過ごしたアメリカ南西部の荒れ果てた風景そっくりで、「故郷のメサ(孤立した岩台)を思い出させてくれたわ」と彼女が言っているように、周囲には赤茶けた深いすり鉢のように切り立った、高い岩の壁が連なっていた。

 その中腹にはスズメバチの巣のような砦が築かれ、スメドレーにも小さな洞窟が与えられていた。そこからは広大な中国の大地が遥か彼方まで見渡せたし、月の夜には白い月面のように早変わりした。人は山に入ると、 下界のできごとがしきりに脳裏に浮かぶものだが、このときスメドレーは、海を隔てた東京に思いを馳せていた。(P263)

 ―ジョンソン(ゾルゲ)とオザキは、コミンテルンのために危険を冒しているのはいいけど、目の前の中日戦争をどう見ているのかしら・・・。私はあらゆる帝国主義の暴威から、この国を解放しなくては。それには、まずあの日本をやっつけて、 それから蒋介石を追い落とすんだわ。それにはもう少し、朱徳や周恩来と話を詰めないと。でもあの毛沢東は粗野で、権力志向が強過ぎるのが気がかりだけど−


 そこで先ほどのゾルゲと尾崎の話の場面に戻るが、ゾルゲは真剣な面持ちでこう言った。

 「こんなことをあのスメドレー女史に言ったら眼をむいて怒るけど、日中が戦いつづけているのが、ソ連にとっていちばん安全なんだよ。中国を使って日本軍をソ満国境から遠ざけられるからね。 反対にもっとも危険なのは、日本と蒋介石が手を握り、そこヘドイツも加わって一つになるときだな」

 「イタリアを加えて四国同盟なんかができちゃうとね」

 たしかにコミンテルンの教義では、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」となっていた。さらに将来、日独と米英の問で「帝国主義戦争」が始まればソ遠は安泰であり、 敗戦国の混乱に乗じて共産主義革命を進めることができる、というのがコミンテルンの国際戦略であった。

 そこでゾルゲは、尾崎にもう一つ注文を付けた。

 「君から近衛には、日本側の条件を吊り上げるように進言してくれないか。中国に突き付ける第一条件の、『日ソ中立条約に矛盾しない形での反共協力』では手ぬるいよ。 『支那は容共日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力する』とさらにもう一つ、『支那は帝国に対し、所要の賠償を速やかに為すこと』」(P264-P65)

 「いくらなんでも、それは厳し過ぎないか」

 「和平工作を潰すには、それくらいの条件を突き付けた方がいいのさ」

 実際、近衛内閣の外相広田弘毅は、参謀本部の和平案を速かに強硬な条件にして先方に突き付けたのだから、歴史とは面白いというよりも、馬鹿げた話ではある。

 だが、ここで思いがけない出来事が起きる。この年昭和十二年(一九三七年)十二月十三日、日本軍が南京を陥落させ、そのときの大量虐殺のニュースが新聞各社を通じて尾崎の耳に入ってきた。世にいう「南京事件」である。 早速、ゾルゲを呼び出した尾崎は、いつもの物静かな微笑さえ浮かべて、こう言った。

 「これで日中和平交渉は遠のいたよ。もともと陸相の杉山元はロボットに過ぎないが、次の陸相に予定されている板垣征四郎は、『これで支那側に戦意はなくなった。 このまま押せば漢口陥落と同時に、国民政府は無条件で手を挙げる。日本側から停戦声明を出したり、撤兵を持ち出す必要はまったくなくなった』と言っているらしい。

 だが、どっこい、そうはいかない。この南京事件で、中国軍の団結は強くなるはずだよ」

 聞いてゾルゲはニンマリした。

 「もともと国共合作はモスクワの政治的発想だ。これで"抗日戦線"は強化されるね」(P265)

 ところで、同盟通信の上海支局長松本重治に繋がる国民政府の外交部司長に、高宗武という男がいた。和平工作を潰した人物と一部から指摘されてきた人物である。 これは噂の類とはいえ、高宗武の口から日本側に「国民政府はもうすぐ無条件降伏する」と伝え、一方蒋介石には、「中国があくまで抗戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という偽りの電報を打っていた。 こうした謀略によって、和平工作は頓挫したのだという。

 だが日本近現代史のある研究者は、こう反論する。

 「それは違いますね。第一、当時は国民党側の暗号電文は総て日本側に即時解読されていましたから、子供騙しみたいな工作は通じません。あれをやったのは尾崎ですよ。高宗武が言ったとされる台詞は、 尾崎から上海の共産党系ルートで流したのです。板垣はその偽情報に引っかかって、『支那側に戦意はない』と思い込んでしまった。

 実際、国民政府は長期抗戦の用意ができていたし、国内的にも南京事件で、 いよいよ『内戦は後回しにして、先ず中国本土を死守する』となってしまったのです。それに中国人は宣伝が上手いから、外国のメディアなどを味方に付けたのも大きかったですね。

 さらにいえば、日華事変のきっかけを作ったのはたしかに日本軍ですが、あそこまで拡大させたのは、ソ達が安泰であるために仕掛けたコミンテルンの謀略です」(P266)



(二)

それから年が明けた正月初め、朝粥をすすりながら「朝飯会」の席上で、尾崎はいつになく熱っぽく、語り出した。(P266-P267)

 「もう蒋介石を相手に交渉を考えていても、無為に時が過ぎていくだけだ。これからは新しい南京政府の樹立を支援して、そこから和平工作の糸口を手繰り寄せるしかないね」

 実際その後、高宗武、松本重治、尾崎らによる汪兆銘政権樹立の動きとなっていく。だが学生時代から尾崎を知る牛場は、このときの尾崎を見て心なしか心配になり、

 「これは以前の尾崎とちょっと違う。何かに操られているのではないかと思った」

 と、のちに語っている。

 それから一週間後の一月十一日、御前会議は「中国国民政府が和平交渉に応じない場合は、これと断絶し、新政府の樹立を肋ける」とする「支那事変処理根本方針」が決定され、五日後の十六日には遂に、「蒋介石の国民政府を相手にせず」の発表となった。

 ゾルゲの意を受けた尾崎は、国内世論を誘導するだけでなく国策まで変更させ、和平交渉を打ち切らせることに成功したのである。

 コミンテルンの野望を、自らの使命に置き換えたゾルゲと尾崎。それは「理想」という甘美な幻想に踊らされた人間たちの悲劇であったのだが、厳格な意昧での祖国を持たないゾルゲと違って、尾崎にとっては、 祖国日本と国民を欺いたという、客観的事実が残された。

 時期から言えばそれから一年以上あとになるが、尾崎は『中央公論』昭和十四年五月号に掲載された「事変処理と欧州大戦」という座談会の中で、次のように言っている。

 「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(南京から重慶へ移動した蒋介石政権)に対抗し得る政権を作り上げること、さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地に作り上げて、 日本自身がそれによって消耗する面を少なくしていく、さういふ条件の中から新しい、それこそ僕等の考へている東亜共同体、本当の意昧での新秩序を、その中から纏めていくといふこと以外にないのぢやないか」(P267-P268)

 この発言からは、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとした、かたくななまでの尾崎の姿勢が見えてこないだろうか。

 つまり、合作によって中国共産党はまず蒋介石を抱き込み、その後日本が敗北すると、今度は蒋介石も台湾に追いやられた。結局は尾崎の画策で、日本と国民党政権を共倒れさせることができたことになる。

 のちに近衛は、「あの頃は見えない力に操られていたような気がする」と述懐しているが、近衛内閣は尾崎によって、コミンテルンの描いた筋書きに完全に乗せられていたのである。

 コミンテルンの指導の下に、日中両国で共産革命を実現しようとしていた尾崎。そこで彼に与えられた評価は、「売国奴」「国民を人柱に立てて欺いた卑劣な男」である。

 だが、そうだろうか。尾崎がゾルゲに協力する形で、世界共産主義革命の実現に奔走したのは紛れもない事実だが、彼はその先を考えていた。

 「『忠君愛国』『神州不滅』『天皇の赤子』の呪縛から、祖国と日本人を解き放たなければならない。このままでは世界から袋叩きに遭うのは目に見えている。それを救うのは、日本が戦争に敗れたあとの革命しかないのだ」と。(P268)
 
 

 (2009.12.26記)


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