南京地区における戦争被害(1)

一九三七年十二月 ― 一九三八年三月

都市および農村調査


※「南京地区における戦争被害」(いわゆる「スマイス報告」)の、図表を除くほぼ全文(「農村調査」の一部を除く)を掲載します。スペースの関係で図表は省略しましたが、本レポートではむしろこちらが肝心です。本レポートに基づく議論をされる方は、直接この本を調べるなどして、図表を確認しておいた方がいいと考えます。



ルイス・S・C・スミス博士(金陵大学社会学教授)と助手による

南京国際救済委員会を代表して一九三八年作成



「南京地区における戦争被害(2)」に進む

 ま え が き


 南京国際救済委員会は南京地区の難民の援助に努めてきたが、その間、難民の経済状態の真相を相当正確に知る必要があると早くから感じていた。

 難民の被害の程度と性質はどんなものであったか? 生計をたてる機会と能力はどの程度そこなわれたのであろうか? 当地域の農家からどのような食糧の供給を予想できるであろうか? 農村および都市部において経済の正常化を阻む主要な欠陥あるいは障害はどんなものか?

 こうした疑問は救済対策や方法をおよそ徹底的に考慮する場合に基本となるものであった。これらの疑問に答えるよい方法はただ一つ、現場に行って事実を調べることであった。

 南京国際救済委員会はここに調査の結果を公表するのであるが、これは第一に当地区その他で救援事業にたずさわっている関係者への情報提供を目的としている。

 なお、これはどの国のことであれ戦争が住民にもたらす惨害に関心を寄せており、また寄せるであろう一般大衆のためのものである。われわれ自身の立場は戦争の犠牲者にたいする国境をこえた人道主義の立場である。この報告のなかでわれわれはほとんど「中国人」とか「日本人」などの言葉を使うことなく、ただ農民・主婦・子供を念頭においている。

 しかし、国際委員会の知るところでは、中国側は声明を発表し、そのなかで南京地区住民の被害について日本側に対してのみ大げさな非難をあびせている。また日本側も声明を発表して、中国側が放火・略奪を行ったのを日本側が善意から阻止したといっている。

 以下の報告が両者に悪用されるのを防ぐために、調査で記録された被害の原因について簡単に事実を述べておくことが必要と思われる。

 南京の城壁に直接に接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置として行ったものである。それが適切なものであったかなかったかはわれわれの決定しうることではない。

  市の東南の道路にそっておこなわれた軍事行動と四日間にわたった南京市に対する控えめではあるが容赦のない攻撃による住民の生命および財産の損害は、きわめて少なかった。

 事実上、城内の焼払いのすべてと近郊農村の焼払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである(南京においては入城から一週間すぎて十二月十九日から二月初めまで)。調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民にたいする暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた。

 そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、われわれの判定を下すところではない。

 一月初旬以来、中国人市民による略奪と強盗がはじまり徐々にひろがった。その後、とくに三月以降は燃料争奪戦のために空家になっていた建物の骨組みに大きな被害が出た。また、後には農村部において深刻な強盗行為が増加し、今では日本軍の強盗と暴行に匹敵し、時にはこれをしのぐほどになっている。

 この報告の一部にはこうした原因の諸要素も見られるのである。

 われわれは人道主義の立場から敢えて指摘するのであるが、実際の戦闘行為から生じた生命および財産の損失は、この調査では全体の一、二パーセントだということである。その他については、もし双方が、憲兵と警察による適当な保護をも含めて、一般市民の福祉を十分考慮することを望んだならば阻止できたものである。

 以下の調査を実施した国際委員会のメンバーのなかには、社会学の専門家である金陵大学社会学部教授ルイス・S・C・スミス博士が入っているが、博士は調査の方法について全般的な経験をもつばかりでなく、この地域の惨害についてこれ以前にも二次にわたる調査に責任者として参加したのである。

 それは金陵大学農学部農業経済学科が全国水害救援委員会のためにおこなった経済調査(その報告は『中国における一九三一年の水害』という表題で委員長のJ・ロッシング・バック教授によって発表された)と上海事変(一九三二)による農村部の被害調査で、財務部の依頼をうけて同じく農業経済学科がおこなったもの(未公刊)である。

 これら二つの調査は、地元官吏のはっきりしない、何らかの意図をもった報告にたいして、現実に何が必要とされているかをあきらかにすることを目的としていた。

 以下に発表する調査の完成については、スミス博士が国際委員会の会計係と書記を兼任していて十分に時間を割くことができなかったとしても、博士の比類ない手腕と精力に負うところが大きい。

 上にあげた二つの調査については全面的に感謝するものである。方法上の諸点、および結果の点検と比較について、これらの調査の助けをかりるところが多かったからである。

 またバック教授の指導のもとに最近完成して、『中国における土地利用』という著書(地図および統計表付)に報告されている広汎な調査にも感謝したい。

(M.S.ベイツ)

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横隠押腺丕横隠)
 

 

 序言 調査の実施と方法



* この序言は、調査がどのように実施されたかを一般読者に知らせるために書かれている。技術上のことに興味をもつ人は、附録 A の「調査の機構と方法にかんする覚書再記」を参照。



 国際委員会の調査は、たがいに複合してはいるが、実際には二部に分かれる。

 市部調査は主として南京市住民の家族を対象とする調査であって、それに入居中ならびに空家の全建物の調査を加え、さらにまた市内三、四ヵ所の地区に散在する市場向け野菜栽培者に食糧生産者として特に注意を払っている。

 農業調査は主として固有農家を対象とする調査であり、それに附録Bに記されている農村調査と、市場町における主要物価の作表を加えたものである。



1.実地調査の手続き

 南京の市部調査においては、家族調査員は入居中の家屋五〇戸に一戸の全家族を家族調査表に記入するように指示をうけた。「家屋」は、若干の場合には一番号に数軒のアパートや建物があったけれども、「家屋番号」に従うものと定められた。

 三月には多くの出入口が封鎖され、どの家に人が住んでいるのか知るのは少しばかり困難であった。その結果、若干の家を見過してしまったかも知れない。

 脱落した地域を点検するのに対照地図が役に立った。各人は地図上で特定の地区を割当てられ、各自五〇戸ずつ人の住んでいる家を抽出して、住宅番号を数えてはそれに記入してうめてゆく。

 調査員は委員会の評判が良かったために親切に迎えられたが、調査員は、ただ事実を質問するために来たこと、委員会の通常業務の仕事を目的とする家族救済調査員として来たのではないことを注意深く説明した。

 これら両者の活動に参加した人びとのきわめてはっきりした考えでは、家庭調査の方が救済調査の場合よりもはるかに損失報告の誇張が少ないということだった。


 市部調査における建物調査員には二つの仕事があった。

 すなわち
(一)市内の各建物を数えて、軍事行動・放火・略奪による被害をうけているかどうかを記述する。
(二)一〇棟に一棟の割合で損害の見積りをおこなう。

 この目的のために一家屋番号が一棟と見なされたが、それは若干の場合には一つ以上の建物を含んでいた。熟練した建築技師が並型の建物にそれぞれ単位コストを割出したので、正確な見積りをおこなうのが非常に容易となった。さらに、二人一組になった調査員のうち一人は土木の方を受けもった。

 現在居住者のない建物の家財の損害見積りは、その建物の性質および近所の人々にたいする質問にもとづいておこなわれるべきであるとされた。

 対照地図によって見落した地域が位置づけられ、そこは入念に再調査された。

 家族調査・建物調査の双方とも城内全域をカバーし、城門のすぐ外側にある若干の地域をも含めた。しかし、浦口その他の周辺小都市を含む旧南京地区全体を調査したわけではない。日本軍人および一般日本人の住む特定の小地域と点在する個人住宅のみが調査の対象外とされた。

 農業調査においては、三つの団体の通行証をもった二人の調査員が、六つの県へそれぞれ派遣された。調査員は主要道路にそって進み、それから8の字を描きながらその道路をジグザグに横断して戻り、道路の後背地にある地域をカバーするように指示された。

 この一巡のさいに道筋にある村三つから一つをえらんで村落調査表を作製し、それらの村で帰村している農家のうち一〇家族に一家族を選んで農家調査表に記入することにした。市場町の物価表については、通過する市場町すべてで質問の回答を記入することになった。



2.調査期間

 農業調査の実地の作業は三月八日から二十三日までおこなわれた。都市調査については、家族調査は三月九日から四月二日にわたっておこなわれ、四月十九日から二十三日まで補足作業がおこなわれた。建物調査は三月十五日から六月十五日までおこなわれた。

 建物調査は長期にわたるものであるが、その問、損失の内容にはほとんど変化はなかった。しかし、若干の場合には建材の一部が盗まれることもあった。この期間中の再建は事実上、皆無であった。



3.調査の集計

 調査員の訓練と図表作製作業の監督の点では、幸いなことに農業経済に通じた経験者を監督者として迎えることができた。その上、バック教授の図表作製部で以前働いていた数人の人もきて作業を手伝った。

 報告の作製と調査結果の分析について、指揮者は金陵大学の M ・ S・ ベイツ博士の貴重な協力をえた。博士の経済史および中国の現状についての該博な知識は、調査統計の成果をいっそうあきらかにするものであった。

 農業調査・家族調査は、双方とも、全体の計算をおこなうことはせず、抽出サンプルにもとづくものであった。したがって、総計と総平均は調査した事例から知りえた結果にもとづく推定数である。しかし、当該箇所で説明するように、六合県の場合の籾を除いては、図表のよりどころとなっている推定数のデータは調査員の報告のままにしてある。

 バック教授が著書『中国における土地利用』でおこなっているように、農業調査においては、農家一戸当り平均を県単位で算出し、それを各県の農家の総数に乗じてある。総数は県総数の集計によってえられ、総平均はこうした総計から計算したもので、各県における農家数の比率に応じて算定されている。

 村落調査簿が全体の状況を広くつかむために使用されてはいたが、計算はすべて農家調査表にもとづくものである(附録 B を見よ)。

 市部調査のなかでも家族調査における総計は、入居中の家五〇戸につき一戸の割合で調査してえられた各戸平均の結果を五〇倍して算定した。また建物調査における損害計算は一〇棟に一棟の割合で調査したものの総計を一〇倍して算定した。

 印刷した図表のなかで、小数点以下の端数は、読者の使をはかって、できるだけ切り捨ててある。総計は一〇〇単位であげである。



4.度量衡と貨幣の単位

 穀物と野菜の計量単位は「十担」(シータン)で、100「十斤」(シータン)すなわち半キンタールに当る。これは50キログラム、あるいは110.28ポンドに当り、イギリスの重さの単位112ポンドにきわめて近く、0.83ピッグルに当る。

 面積の単位として用いられる畝(ムー)は、農民の報告のなかにある、地元で使われている単位である。しかし、計算の上では江寧のムーが使用されており、調査した耕地の五分の二がこれによって表記されている。これは0.06067ヘクタールに当る。

 時折つかわれる「十畝」(シームー)は、少し大きく、0.06667ヘクタールまたは六分の一エーカーに当る。

 報告のなかの貨幣価値はすべて中国貨幣によるものである。調査の期間中、1中国ドルは実際上、米ドルでは3ドル・40セント、あるいは英ポンドにすれば17ポンドのレートを維持していた。

ルイス・S・C・スミス

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横隠掘腺丕横隠)




一 市部調査

 
1 人口

 南京市の戦前の人口はちょうど一〇〇万であったが、爆撃がくり返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(十二月一二日〜一三日)の人口は二〇万から二五万であった。

 われわれが三月におこなった抽出調査で報告された人員を五〇倍すれば、すぐさま市部調査で表示されている二二万一一五〇人という人口数がえられる。この数は当時の住民総数のおそらく八〇ないし九〇パーセントを表わしたものであろうし、住民のなかには調査員の手のとどかぬところに暮していたものもあった。(人口についてさらにつっこんで問題にするには、第一表の注を見よ。)

*「ゆう」注 文脈から考えて、これは、「南京市」の人口ではなく、「市部調査」の対象区域の人口でしょう。なお、この計算では「全滅家族」、あるいは「南京を離れて未帰還の家族」はカウント外となります。


 二万七五〇〇名は国際委員会の維持していた難民収容所に住んでいたもので、調査人員の一二パーセントに当る(1)。収容所には入らなかったが安全区内に住んでいたものは六万八〇〇〇人で、全体の三一パーセントを占めている。

 調査の記述によれば建物総数のわずか四パーセントがあるだけであり、また城内総面積のおよそ八分の一にすぎなかった地域に、市の陥落以後、一四週もたった後でも、住民の四三パーセントが住んでいたのである。

 こうした事実は、ある種の群集心理と、多少でも安全性があれば喜んで代償を払うという気持を示している。

 安全区内では事実上焼失が一軒もなかったことはさらに有利なことで、安全区は、日本軍当局によって公認されなかったとしても、外部の破壊と暴行に比べれば、全体として優遇処置がとられていたことを示している(2)
(1) 十二月後半と一月中の最盛期における収容人員は七万人であった。減少の理由はきまってはいないが、次のようなものであった。

 すなわち、一般的には、外部の危険と困難を考えて収容所の方をえらんだものの、収容所が混雑して居心地が悪かったこと、住居や財産の残りの管理ができるほど安全な時には、いつでもこうした管理にあたる必要があったこと、できる場合にはいつでも市の他の地区へ帰宅することを国際委員会側がすすめたこと、二月四日に収容所から強制追立てをするといっておどしたこと(幸いにしてこれは実行されなかったが、多くの不要な苦痛と遺憾な事件をもたらした)などである。

(2) われわれはここで調査の目的で使われた市内の区分をあとづけてみなければならない。

安全区は、南側を漢中路、東側と東北側を新街口から鼓楼を通って山西路にいたる中山北路、北側を山西路で限られ、山西路につながる西康路が西側の境界となる。

安全区内には収容所があって、その各個につき報告がある。

安全区の南には城西があって昇州路にまでわたっており、その東側は中正路と中華路で限られていた。残りの市の西南の角は門西とよばれていた。北は白下路、東は通済門にわたる東南角は門東とされていた。中正路から東、城壁までの地区は城東と呼ばれていた。

残りの北西部・北部・北東部(南は中山東路まで)は城北とされていた。建物調査のためには、城北東を城北からきりはなしてある。この北市の東部地区は中山北路から城壁にいたり、北側は鼓楼と北極閣で限られている。

城外の地区の名を簡単にあげることができる。水西門地区は漢中門の外を北方にひろがる。(南京の市部調査地図を見よ。)家族調査によれば、通済門外の地区は無人地帯となっていた。したがって、この地区は家族調査には含まれず、建物調査には含まれている。

城南のふつうは密集地区となっていた地区(城西・門西・門東) は、危機の時期には実際に完全に無人地帯となったものの、かなりの回復を見せた最初の地区であった。全体で、これらの地区には八万一〇〇〇人の住民がいたが、これは全体の三七パーセントに当る。(市政府の登録記録によれば、六月までに住民数は二倍となっていた。)

以上にのベた地区は実際に市全体の八〇パーセントを占めるものであった。域外の調査地域にはわずか八五五〇人の住民がいるにすぎず、中国軍による焼払いと〔日本軍の〕暴行によってひどい苦痛をなめており、三月になっても全体としてはまだ城内よりも危険な状況にあった。

 家族員数平均は全地区をつうじて四・七人であった。城外では、平均四・〇人で、このことは家族をもたない男たちあるいは破壊された家族の多いことを示すものであろう。

 南京の同一地区における一九三二年の二〇二七家族という数字と比較されたい。このなかから現在の住民の多くはでできているのである。一九三二年の数字によれば、家族員数平均は四・三四人であった(1)。おそらく平時には雇用上の理由でもっと多くの人が家族から離れるであろう。

第一表は人口総計を示す。
(1) スミス「中国家族の構成」


性別・年齢別人口分布

 南京市の三月現在の人口はあきらかに戦時人口の特徴を示していた。この調査の報告によれば、全年齢にわたる市内各地域の性別の人口比率は男子103.4人 ( 女子100人にたいし ) であった(1)

 一九三二年の調査では全年齢にわたって男子114.5人の割合であった。戦前の全人口のうち、男子の人口比率はきわめて高く、ある時には150人の割合であった。

 一九三二年以来、性別人口比率が九ポイント下ったことは、一部には南京で以前働いていたが南京出身のものでなかった男子の疎開によるものであり、一部には危機の時期における男子の死亡によるものである。

 もっとも重大なことは十五歳ないし四十九歳の年齢層中の男子比率の激減であるが、これは大まかにいって、人口中生殖をおこないうる人びとを代表している。この層では124人が111人に、すなわち11パーセント減少している。この変化によって多数の婦女子が家庭を支える男子を失ったという事実がわかる。

 年齢層の中を狭めて比較をおこなうと、各々の数字が少数の事例にもとづくものであるのでばらつきが見られる。しかし、青年のうち成熟者である二十五歳のものを調査してみた結果では、驚くほどの一貫性を見せている。

 一九三二年の数字を( )の内に示すと、十五歳ないし十九歳では108(123)、二十歳ないし二十四歳では106(124)、二十五歳ないし二十九歳では100(128)、三十歳ないし三十四歳では89(123)、三十五歳ないし三十九歳では105(123)であった。

 生殖可能の男子の減少はまた別の方法でも示すことができる。一九三二年の男子全体のうち、十五歳ないし四十歳のものは57パーセントを占めていた。現在の調査によれば、それは49パーセントで、14パーセント(ママ)の減少を示しているが、これは深刻な経済・社会問題となっている。

 これに応じて、男子全体のうち、五十歳以上のものは一九三二年には13パーセントであったのに、現在では18パーセントとなり、30パーセント(ママ)も上昇している。
(1) 市政府の五月三十一日の登録数は、婦人についてはあきらかに不完全なものであるが、109.4という数字を示している。

 性別人口比率の地区別分類もかなり重要である。全地域の比率は103であるのに、収容所内についていえばわずか80である。収容所は安全をもとめる婦人で超満員となっているからである。

 他方、安全度の低い各地区では、男子の数は相対的に多い。例えば城北の121、城内農村部の150、城外の144などである。

 もし安全をもっとも必要とする年齢すなわち十五歳ないし三十九歳を考慮するとすれば、収容所内の性別比率はきわめて低くなり、五歳ずつの各年齢層に区分して、40から67となる。安全地区ではおよそ90である。城西では150以上、城外では200余となる。

 このように男子がまっさきに危険地区へ戻り、それに続いて老女・子供が帰宅する。しかし、若い婦人の多くは比較的安全な場所にとどまっていた。

 第二表に性別および年齢別人口分布を示す。



家族構成

 南京市内にとどまっている家族は「正常」のもの、すなわち夫婦、あるいは夫婦と子供が一緒に暮らしているものと、「破壊された家族」、すなわち夫か妻か一方が子供と暮らしているものと、「家族をなさないもの」、すなわち男か女の一人暮らしの三種に大別される。

 それからこれらの三つのうちそれぞれについて、「親類と暮らしているもの」という形で細分される。

 一九三二年の安定期に南京市民のあいだでおこなった調査に比べると、「正常な」家族の割合はかなり少なかった。

 夫婦のそろった家族は、当時の9.5パーセントに比べると、現在はわずか4.4パーセントである。夫婦・子供のそろった家族は33.1パーセントから現在ではわずか26.2パーセントになっている。このことはこの型の家族が四分の一減少したことを示す。

 一九三二年に比べると、「親類と暮らしている正常な家族」は29.8パーセントから32.3パーセントとわずかに増加を示している。

 いいかえれば、全家族の9.5パーセントにあたる正常な家族が実際に失われたことになる。これは正常な家族のうち七分の一が減少したということである。

 正常な家族の減少は主として破壊された家族の増加によるものであり、この型は一九三二年にはわずか12.9パーセントであったものが21.4パーセントにふえている。これは四種類の破壊された家族が8.5パーセント増加したことを示す。

 この増加分のうち6.9パーセントは生計を支える男手を持たない家族、すなわち婦人と子供のみで構成される家族についてのものである。このことは破壊された家族の数がほとんど倍増しているということである。

 南京に残留している家族の構成員のうち14.3パーセントが他所へ移っているのに、妻のうちわずか2.2パーセントがこの移動によって夫を失ったにすぎないことを考えれば、破壊された家族の増加をいっそうよく知ることができる。

 これに加えて四四〇〇人の妻、つまり妻全体の8.9パーセントは、夫が殺されたか、負傷を負ったか、あるいは拉致されたものである。これらの夫のうち三分の二、すなわち6.5パーセント(*)が殺されたか拉致されたものである。

 またさらに痛ましいことに、三二五〇人の子供(子供全体の5パーセント)は、彼らの父が殺されたり、負傷をうけたり、拉致されたりしたものである。

 これらの破壊された家族のうちごくわずかのものが市内に住むものとして分類されている。そのような報告は3パーセントしかなかったのである。

 移動、殺害あるいは拉致されたもの、別かれ別かれになった家族といった三つの要因によって、五五〇〇家族、つまり南京に残留している家族の11.7パーセントが破壊された。
*(訳注)この6.5パーセントという数字は、夫を殺されたか、あるいは拉致されたかした妻が、妻全体の六・五パーセントにあたることを示すものであろう。もっとも、これだと、そのバーセンテイジは五・九となる(8.9%×2/3=5.9%)。


 城内では各収容所は破壊された家族にかんして高い数字を示しており、とくに子持の婦人については、市内全地域で6.6パーセント、また一九三二年の平時で3.4パーセントに比べて、13.2パーセントである。

 収容所の家族の14パーセントは婦人と子供と親類のもの(後者はふつう扶養家族)である。あわせて収容所内の家族の27.2パーセントは子持の婦人であり、若干の場合は被扶養者を伴う。収容所にいる家族の35パーセントは婦人が戸主になっているが、その他の住民についてはわずかに17パーセントが婦人を戸主とするにすぎない。

 男子一人か女子一人のみの家族は城外居住者の場合、一九三二年現在の全地域につき7.4パーセントに比ベ、14パーセントを占めている。

 なお、城外に住む家族の16.3パーセントは、男子一人が親類の者と暮らしている。

 家族構成の分析については第三表を見よ。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横隠后腺丕横横)



 
2 戦争行為による死傷


死傷者数および原因

 ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどないといってよい。

 調査によってえた報告によれば、死者三二五〇人は、情況のあきらかな軍事行為によって死亡したものである。これらの死者のうち二四〇〇人(74パーセント)は軍事行動(1)とは別に〔日本軍〕兵士の暴行によって殺されたものである。

 占領軍の報復を恐れて日本軍による死傷の報告が実際より少ないと考えられる理由がある。実際に、報告された数が少ないことは、暴行による幼児の死亡の例が少なからずあったことが知られているのに、それが一例も記録されていないことによっても強調される。
(1) ここで「軍事行動」による死者というのは、戦闘中、砲弾・爆弾あるいは銃弾をうけて死亡したものをいう。

 負傷を受けた状況がはっきりしている三一〇〇人のうち、三〇五〇人(98パーセント)は、戦争以外に日本兵の暴行によって負傷したものである。負傷しても何らかの形で回復したもの(1)は、負傷を無視するという傾向がはっきりと見られる。
(1) 当復興委頁会に救済をもとめてやってきた一万三五三 〇家族が委員会に報告した負傷者のうち、三月中の調査によれば、強姦による傷害は十六歳から五十歳に到る婦人の8パーセントを占めていた。

 
この数はきわめて実際を下まわるものである。というのは、大ていの婦人はこのような扱いをうけても、進んで通報しようとはせず、男子の親近者も通報したがらないからである。

 十二月・一月のように強姦がありふれたことになっていた間は、住民はその他の状況からも、かなりそうした事実を遠慮なく認めたのである。しかし、三月になると、家族たちは家族の中の婦人が強姦されても、その事実をもみ消そうとしていた。

ここでこのことに触れたのは、市の社会・経済生活がどれほどはげしく不安定なものであったかを説明するためである。

 日本兵の暴行による死者の89パーセントおよび負傷者の90パーセントが十二月十三日以後、すなわち市の占領の完了後におきている。

 以上に報告された死傷者に加えて、四二〇〇人が日本軍に拉致された。(「ゆう」注 原文miltary arrest。 「日本軍」の文字はない。以下同様)臨時の荷役あるいはその他の日本軍の労役のために徴発されたものについては、ほとんどその事実を報告していない。

 六月にいたるまでこのようにして拉致されたものについては、消息のあったものはほとんどない。これらの人びとの運命については、大半がこの時期の初期に殺されたものと考えられる理由がある。(1)
(1) 「拉致」がいかに深刻なものであるかということは、拉致された者としてリストされた全員が、男子だったということからもはっきりしている。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦・洗濯婦・売春婦として連行された。しかし、彼女らのうちだれ一人としてリストされてはいない。

 拉致された者の数字が不完全なものであることは疑いない。実際に、最初の調査表には、これらの人びとは死傷者のうちの一項目「事情により」というところに書きこまれており、調査の計画過程では必要とされもせず、予想もされなかったのである。

 こうして、これらの人びとは並なみならぬ重要性をもつものとなり、単にその数字が示す以上に重要なものとなっている。こうして、拉致された四二〇〇人は、日本兵によって殺された者の数をかなり増加させるに違いないのである。
(1)市内および城壁附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、一万二〇〇〇人の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は含まれていない。

 三月中に国際委員会の復興委員会によって調査をうけた一万三五三〇家族のうち、拉致された男子は、十六歳から五十歳にいたる男子全部の二〇パーセントにも達するものであった。これは全市人口からすれば一万八六〇人となる。

 救済をもとめてやってきた家族の言によるのであるから、誇張されているところもあろう。しかし、この数字と当調査で報告された四二〇〇人という数字の差の大部分は、おそらく男子が拉致されても、拘留あるいは強制労働をさせられて、生存した場合を含むことによるものであろう。


 多くの些細な事件を無視すれば、軍事行動による死傷者、日本兵の暴行による死傷者、および拉致された者は、二三人につき一人、つまり五家族につき一人である。

 このような死亡の重大な社会的・経済的結果は、われわれの調査記録から直接計算しても、その一部を示すことができる。夫が殺害・負傷、または拉致された婦人の数は四四〇〇人である(1)。父親が殺害・負傷、あるいは拉致された子供の数は三二五〇人である。
(1) 救済を希望した一万三五〇〇家族を当復興委員会が三月中に調査した結果によれば、十六歳以上の婦人全体の14パーセントが未亡人であった。

 暴行によって死傷した六七五〇人のうち、わずか九〇〇人(すなわち13パーセント)が直接、軍事行動で不幸に見舞われたものである。

死傷者数にかんする数字を第四表にあげである。



性別・年齢別による分布

 暴行と拉致にあった者の性別と年齢を分析すれば、死傷者のうち男子の割合は、全年齢を通じて64パーセントで、三十歳ないし四十四歳の者では76パーセントという高い数字に達した。

 身体強健な男子は元兵士という疑いをかけられた。多くのものが手のひらにタコがあったのを銃をかついでいた証拠だとして殺された。

 女性の傷害のうち、65パーセントが十五歳から二十九歳の者であった。しかし、この傷害についての調査の質問には、強姦そのものによる傷害は除外してある。

 悲劇の現状をまざまざと示すものは、六十歳以上の人のかなり多くが日本兵に殺されたということである。こうして六十歳以上の男子の28パーセントと女子の39パーセントが殺されている。

 年輩の人びとは、家が危険にさらされても、しばしば家を去るのをもっとも渋ったのであって、前には、こうした人びとは残忍な攻撃から安全であると考えられていたのである。

 拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた。さもなければ、彼らは荷役と労務に使われた。そういうわけで、拉致された者のうち55パーセントが十五歳から二十九歳の者であったことを知っても驚くに当らない。その他の36パーセントは三十歳から四十四歳の者であった。

 性別および年齢別死傷者の数字を第五表にあげた。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横横押腺丕横横)


スマイス報告 「第4表」より 日付別による死傷者数及死傷原因
日付 死亡原因 拉致されたもの
軍事行動 兵士の暴行 不明
12月12日以前 600 - - -
12月12、13日 50 250 - 200
12月14日〜1月13日 - 2,000 150 3700
1月14日〜3月15日 - - - 250
日付不明のもの 200 150 - 50
合計 850 2,400 150 4,200


3 雇用と収入


調査された住民の以前の生活状態

 調査による人口の二二万一〇〇〇人中、五万八〇〇〇人以上が以前は雇用されていた(男子五万三〇〇〇人、女子五〇〇〇人 ) 。これは十五歳以上の者の38パーセントにあたる。

 婦人(以前雇用されていた人びと全体の9パーセント)は主に商業と雑務、二次産業と家事雑役に従事していた。

 以前雇用されていた者全体のうち34パーセント(二万人)が商業に従事し、18パーセント ( 一万五〇〇人 ) が製造業および機械業、12パーセント(六五〇〇人)が家事および個人サービス、10パーセント(五五〇〇人)が農業、7パーセント(四〇〇〇人)が雑務、6パーセント(三五〇〇人)が運輸、5パーセント(三〇〇〇人)が「製造販売店」 (つまり品物を作って売る店で、製造業にも商業にも分類できない店である)、それぞれ3パーセント(二〇〇〇人)がほかに分類されない公共サービスと自由業、2パーセント(一〇〇〇人)が聖職に従事していた。

 被雇用者の収入の一日平均は全体につき1.01ドルであった。報告によれば、商業に従事するものについては平均1.20ドルであり、製造業および機械工業は1.08ドル、家庭内の仕事および個人サービスは0.96ドル、農業は0.73ドル、労務は0.34ドルであった。

 家族の収入平均は一日につき1.23ドルであった。

 以前の雇用にかんする数字を第六表にあげた。



現在の雇用と収入

 三月現在の雇用と収入を同じ人びとの以前の状態の報告と比べてみると、悲惨なありさまである。

 被雇用者総数は二万五〇〇人で、そのうち九五〇人(5パーセント以下)が婦人である。この二万五〇〇人は、全人口の9パーセントにおよび、十歳以上の者の12パーセント、十五歳以上の者の14パーセントにあたる。

 被雇用者全体のうち、67パーセント(一万三五〇〇人)が商業に(1)、12パーセント(二五〇〇人)が農業に、それぞれ5パーセント(一〇〇〇人)が製造業・機械工業と家内工業・個人サービスに、4パーセント(一〇〇〇人)が運輸業に、それぞれ3パーセント(五〇〇人)が製造販売店と雑務に、それぞれ1パーセント以下がほかに分類されない公共サービスと自由業に従事していた。

 一人あたり一日につき平均収入は、全体については0.32ドルであった。商業に従事する者については0.31ドル、農業では0.20ドル、製造業および機械工業では0.45ドル、運輸では0.42ドル、製造販売店では0.22ドル、雑務では0.25ドルであった。
(1)大部分は日用品の行商人と、自分や他人の残りの所持品を売る露天商人である。

 難民収容所と市の東部各区では被雇用率は最低であった。

 雇用率のもっとも高かったのは庭師で、全年齢層にわたっては17パーセント、十五歳以上の者についていえば26パーセントであった。

 商人は安全地区と最初に開放された城西・門西両地区に集中しているのが目立った。上記の三地区には商人が比較的多く、それぞれ全商人の約40、20、20パーセントを占めていた。

 城外の兼業地区は全雇用者の5パーセント以下を占めるにすぎず、城東は4パーセント以下であった。

 現在の雇用についての数字を第七表にあげた。

 無収入と回答した家族の数は三万七〇五〇戸で、市内の家族全体の七八パーセントにあたる。収入 が生計を支えるのに足りないと回答した家族の数は四万四六五〇戸で全家族の九四パーセントにあたる。(1)

 われわれの観察はこうした現状と一致している。隠匿物資その他の貯蔵品に頼って生活を続けているのである。こうしたものが血縁関係・友人関係・貸借関係のつてを通じて流通している。

 それに加えて組織的救済と、かなり少数の労務者にたいする報酬といった形を主としてとっている日本軍倉庫の不定期の放出物資で、埋め合わせをしている。
(1) 辛うじて生存を続けてゆく最低線はひかえめに計算して一日に一家族あたり0.26ドルである。

ギャンブルの『北京における中国人家族の生活』の三二六ページを見ると、調査対象とした家族集団の上層部から下層部にいたるまで穀物の一ヵ月あたり消費量は1.39「十担」(シ−タン)となっている。三月下旬の米の価格は212.25ポンド入り一袋につき10.63ドルであった。

以上のデータからすれば、燃料費・住居費・衣料費および主食である穀物以外の食糧を除外しても、一日あたり0.26ドルという数字がでてくる。


現在の収入の以前の収入との比較

 三月現在の雇用は、調査に回答した住民の以前の雇用の35パーセントであった。被雇用者の収入は以前の収入の32パーセントであった。

 これらの二つの要因かちすれば、住民の総所得は以前の所得の11パーセントとなる。この悲惨な数字は現状をよく知っている者の観察に符合するものである。

 三月現在の家族の収入は一日につき平均0.14ドルである(以前は1.23ドル)。物価は安いが、現状の助けとなるほど低くはない。
 
 被雇用者の各グループを比べてみると、商業に従事する者は以前の数の三分の二となっていたが、収入は以前に比べわずか26パーセントであった。

 農業では雇用数が半減し収入も以前の27パーセント、家庭内の仕事と個人サービスでは六分の一以下の雇用で収入は以前の47パーセント、製造業および機械工業では一〇分の一以下の雇用で収入は以前の35パーセント、雑務では八分の一以下の雇用で賃銀は以前の73パーセントであった。

 公共サービスの雇用は事実上なくなっているし、自由業についても同様である。一方、聖職者は文字通り見られなかった。



食糧供給源

 中国においてはいつでも住民大衆の食物は基本的には穀物である。三月現在の経済状態では、食物は「僥幸」というものであった。というのは貧乏人は実際に野菜や油にさえも事かくほどであったから、まして肉や果実などなおさらのことであった。小麦粉を確保していた一握りの家族の他は、全部が通常はこの地域の主要穀物である米に頼っていた。

 市の全地区を考察すれば、住民の17パーセントは無料食堂(1)(無料あるいは名目的の支払)から米を入手しており、64パーセントが小売商から、14パーセントが自治委員会の監督する店から、5パーセントが「その他」から入手していた。「その他」は、友人や親類の手を通じるもので、もとの供給者ははっきりしなかった。
(1)住民の17パーセントはおよそ三万八〇〇〇人であった。この無料食堂の利用についての回答は去る三月に国際委員会が約三万五〇〇〇人を対象におこなった給食状態の点検の記録にきわめて近いものであるが、これ以外の食糧配給法とその他の組織を考慮すべきであるから、両者ともに少しばかり修正を必要とする。

 城外では無料食堂から食物を入手できた住民は一人もいなかったが、その反対に難民収容所内の住民、端的にいえば、平均して市内の極貧層の82パーセントが無料食堂に頼っていた。安全区内では17パーセントが無料食堂に頼り、城西ではそれは12パーセントであった。この両地区とも開店中の無料食堂に隣接していた。

 食糧供給源にかんする数字を第八表にあげた。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横横粥腺丕横横)


 
4 南京に残留している家族の損害


一家族当りおよび全体についての主要な損害の項目別一覧

 戦争期間中、南京に残留していた家族は概して貧困者であったが、なかには小店主・家主なども多数含まれていた。彼らの損害を概観すれば南京住民の経済状態がきわめてはっきりと見てとれるが、市が蒙った経済的打撃の全体を量的にも質的にも示すにはきわめて不十分である。

 一家族あたり損害の平均は838ドルで、そのうち271ドルは建物であり、567ドルは動産である。後者を営業用動産すなわち販売用の在庫品・店内設備・製造原料・機械・道具の類と、家庭用動産すなわち衣服・寝具・家具什器・現金・宝石・手持の食糧品の類に分ければ、両者はほぼ同額である。(1)

 販売用在庫品はもっとも額が大きく、一家族あたり187ドルをしめる。店舗設備は65ドルである。住民中残留者にとって機械および製造原料の損失は比較的すくなかった。衣服と寝具の損害は大きく115ドルであり、家具および什器は110ドルである。

 食糧と貯蔵品の損害の記録はわずか8ドル、現金と宝石は10ドルであって、これは回答がひかえ目であること、また多くの家族が貧困であることを物語っている。
(1) 金額はすべて中国貨幣単位である。


 一部の市の比較的貧困者が調査対象となったにすぎなかったが、家族調査で回答のあった損害全体はかなり大きい。実際には主として以下の各項につき回答のあった損害は四〇〇〇万ドルである。すなわち建物一三〇〇万ドル、販売用在庫品九〇〇万ドル、店内設備三〇〇万ドル、衣服・寝具五 〇〇万ドル、さらに家具・什器五〇〇万ドルとなっている。

 南京に残留している家族の損害全体を原因別に分析すれば次の通りとなる。

 すなわち軍事行動によるもの2パーセント、放火によるもの52パーセント、軍隊による略奪33パーセント、その他の略奪9パーセント、不明四パーセントである。建物の損害のほとんど全部が放火によるものであるが、動産の損害は31パーセントにすぎない。

 実に動産の損失の半分近くが兵隊に奪いとられたものであり、その他による損失は七分の一である。軍隊による強奪は、営業用動産六〇〇万ドル以上、家庭用動産約七〇〇万ドルに及び、それぞれそれなりに南京住民の日常生活には悲惨な打撃であった。

家族の損害の項目別内訳とその原因による内訳を第九表にあげた。



損害の地区別・原因別分布

 三月中に南京に残留していた家族の損害総額四〇〇〇万ドルを、これらの家族の旧住所の地区別に割りふってみると(旧住所で損害の大半が生じた)、その結果は以下の通りである。

 城東一二〇〇万ドル、門東七〇〇万ドル、城西六〇〇万ドル、門西および城北:東はそれぞれ五〇〇万ドル、その他は少額である。

 損害総額を営業用財産と住居用財産の二つに大別すれば、それぞれ一九〇〇万ドルと二〇〇〇万ドルである。

 主要地区では門東の放火による損害がもっとも大きく、損害全体の66パーセシトを占めている。城東では62パーセントであり、放火による被害の少ない城西・門西では損害総額のそれぞれ34パーセントと38パーセントにあたる。

 営業用財産と住居用財産の損失の原因についてははっきりした差異が出ていない。予想されるように、この住民は主要商工地区の大火災による損害を大してうけてはいなかった。

 こうして、営業用財産の火災による損害は損害全体および財産全体の21パーセントであった。しかし、住居用財産の損失はさらに大きく、30パーセントにのぼった。

 市内各地区別の家族の損害を第十表にあげた。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横横供腺丕横横)

(2005.4.10)



 
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