南京地区における戦争被害(2)

一九三七年十二月 ― 一九三八年三月

都市および農村調査
 

ルイス・S・C・スミス博士(金陵大学社会学教授)と助手による

南京国際救済委員会を代表して一九三八年作成


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 二 農業調査


 農業調査では、南京周辺に集合して一つの自然的・伝統的単位をなしている六つの県を網羅しようとした。二つの県すなわち江浦県と六合県は揚子江の北側にあり、その南側には江寧県(南京はその中に位置している)・句容県・溧水県・高淳県がある。

 附録で調査の組織とその方法にかんして説明しておいた事情のために、三月中に高淳県と六合県の半分は調査することができなかった。

 この調査に含まれている四・五県にはそのとき、最高、一〇八万人の農民がいたが、戦前にはおそらく一二〇万から一三五万はいたであろう。このなかには市場町もいくつか入っているが、その以前の人口はおよそ二七万五〇〇〇人であった。(1)

 以前には南京市は一〇〇万の人口を擁していたが、三月にはおよそ二五万にまで減少していた。このように四・五県の全人口は三月現在ほぼ一五〇万であった(しかし、市場町の住民はこの調査の範囲外である)。

 四・五県の土地面積は二四三八平方マイル(2)で、デラウェア州の面積、あるいは英国のかなりの大きさの郡二つをあわせたものにほぼ相当する。この面積のうち、ちょうど三分の一にあたる八一九平方マイルが耕作されている。(3)

 江寧県の面積を農業調査で注目することは重要である。それは四・五県の耕地面積の四一パーセントを占め、農民人口もほぼ同じ割合である。


(1) バックの『中国における土地利用』統計四一七頁の数字から推定。

(2)(3) バックの前掲書、二四頁の示すところでは、正確な政府側の数字は六三一五平方キロと二一二二平方キロであって、それからこの平方マイルの数字が計算された。

*「ゆう」注 4.5県の人口は、「南京市25万」+「農民最高108万」+「市場町27.5万」=約150万と考えられていたようです。すなわち、この「南京市」は、行政区分としての「南京市」ではなく、行政区分「南京市」のうち「農村部(郷区)」を除く部分、と考えるのが妥当でしょう。



1 農地の被害

被害の程度と大きさ

 
農村の損害について報告された五つの型のもの(建物・役畜・主要農具・貯蔵穀物・作物の被害)の総計は、四・五県でおよそ四一〇〇万ドルにのぼったが、これは一家族当り二二〇ドルの損害となる。

 注目すべき重要な事実は、華中東部の一農家当りのおよその年間収入が、平均的農家で一年に消費する物資をすべて換算したバックの数字によれば、二八九ドルになっているということである。(1)

 貯金の利潤と農業資本を蓄積しうる率があまりに低いので、年間収入の四分の三を失うことは、農家にとって、生産力からいっても生活水準の上からいっても、恐ろしい打撃である。(2)

 現在の災害のなかで一家族当り二二〇ドルの損害は、一九三一年の洪水の被害の四五七ドル(3)および一九三二年の戦争による被害の一四七ドル(4)と比較される。一九三一年と三二年の調査においては、今年の調査では回答のなかったような多くの小項目を含んでいた。それに、一九三二年に使用した単位価格は現在使われている低いものをかなり上まわっている。

 一家族当りの損害は、深水県が最大で三〇二ドルにのぼり、広大で人口稠密な江寧県は二五一ドル、六合県はわずか一一一ドル、句容県は一四七ドル、江浦県は平均の二ニ〇ドルにもっとも近い二三九ドルである。

(1)バックの『中国農村経済』三八七頁。金額の数字はすべて中国貨幣による。

(2)一五年前の数字(わずか三つの地区にかんするもので、しかも最近、バックが挙げたものよりも価格が低い)については、バックの報告によれば江蘇省の農業資本は平均して四七八ドルである。この数字には建物・家畜類・物資備蓄・農業設備などが含まれているが、土地と樹木は含まれない。土地を含めた全資本について彼は一七七五ドルという数字を挙げているが、もちろん、これらは賃貸借および質入れの対象となる。前掲『中国農村経済』五七頁。

 寧属地域でかなりの大きな要素を占める江寧県については、最近、七四三ドルという評価が平均的な農家の建物・農具・家畜・家具に対して与えられている。 R ・ T ・ツイ「江寧県の土地分類」 『エコノミック・ファッツ』にまもなく発表の予定。

(3)『中国における一九三一年の水害』一三頁。

(4)別の計算では一家族につき一三五ドル。
 
建物

 建物だけでも、報告された損害の全体の五九パーセントを占め、一家族につき一二九ドルであった。これは一家族につき建物の一・七間(1)、あるいはこの地域の農家建物全体の三分のこが破壊されたということであって、大半は焼失による。

 建物の損害が特にひどかったのは深水県で一家族当り二・八間であった。江浦県では二間、江寧県では一・九間の損害であった。破壊をうけた建物は間数にして三〇万八〇〇〇間で、その価額は二四 〇〇万ドルになる。

(1)間(chien)はたる木とたる木の間の間隔をいい、平均しておよそ11’×16’である。農家はしばしば四間、その他の農業用建物は二間である。第十七表〔訳注−第十八表の誤り〕の注一を見よ。


役畜

 損害の分類中では役畜の損害の大きさは第二位を占め、全体の16パーセント、一家族当り0.66頭にあたる。このあとの方の数字は大きく思われるが、とくに水牛にかんしては大きな割合を占めている。

 一九三一年の水害では役畜の被害の全体平均は一家族当り0.44頭であって、その調査では三種の動物が調査対象となっていた(1)。パックの報告によれば、揚子江の米麦作地帯では通常その数字はわずか0.71頭であるが、重要な江寧県では1.20頭で、その調査で記録しえた唯一の県であった。(2)

 戦争による家畜の被害率は江寧県ではかなり高く(0.84頭)、江浦県と六合県でも高い。その地域全体としての損害は一二万三〇〇〇頭(水牛・牛・ロバ)で六七〇万ドル、すなわち一家族当り三六ドルにあたる。(3)

(1)『中国における一九三一年の水害』一七頁。

(2)バック「統計」一二二〜一二三頁。

(3)バックが何年も前に示したところでは、江蘇省の通常の役畜資産は五三ドルになっていた。『中国農村経済』五七頁。


農具

 報告された損害全体のなかで、農具の損害は13パーセントに当り、一家族につき3.5個であった。こうした損害の大半は、農具の木製部分が建物の焼失とともに焼け失せたものか、燃料として奪いさられたものかのようである。水田灌漑用の高価なたくさん翼のついたポンプ(訳注)では木製部分が大きな割合を占めている(一家族当り0.6台 ) 。

 現在、主要農具の損害は一九三一年の水害の時よりも一倍半大きいように見える。(1) バックは現在の調査で記載されている農具のうち平均6.5種目の農具をあげている(揚子江米麦作地帯、中規模農家の場合)。(2)

 江寧県と深水県では農具の損害がもっとも大きく、江浦県では中程度である。全域にわたって農具の損害は六万一〇〇〇個で五二四万ドル、あるいは一家族につき二八ドルに相当する。(3)

(訳注 ) 竜骨車のことであろう。第二十八表注参照。

(1)
『中国における一九三一年の水害』一八頁。


(2)
「統計」三九六頁。


(3)
バックは早く江蘇省の通常の農具保有を六四ドル相当のものと報告していた。『中国農村経済』五七頁。



貯蔵穀物

 貯蔵穀物の被害は全損害の10パーセントに当っているが、量的には一一〇万「十担」、あるいは一家族当り6.1「十担」となる。そのうち半分は米、六分の一は小麦、六分の一は大豆である。

 一家族当りの被害は、句容県では7.5「十担」、深水県では7.2、江寧県では6.1で、これらのところの被害が最大であった。六合県はきわめて軽く2.7である。

 一九三二年当時の平均的家族の被害は二「十担」余であった。一九三一年の水害当時の平均損害は4.2ピクル(5.1「十担」)であった。(1) 現在の穀物の損害は四二〇万ドルにものぼっており、一家族当り二二ドルである。(2)

(1)
『中国における一九三一年の水害』一二頁。


(2)
バックは一五年前の価格で江蘇省の穀物の通常のストックを二九ドルと評価している。『中国農村経済』五七頁。



作物の被害

 作物の被害は幸いに少なく、全体のわずか二パーセントに過ぎない。冬作小麦については、若い女をかくしたのと同じように、最悪の時期には一部を地下にかくしてあったからである。

 しかし、この頃の被害は相対的に少なかったとはいえ、農家には現実的な重荷となっている。小麦を作付した面積の八パーセント以上は、主として兵隊が動物に食わせたために台なしにされた。

 江寧県と句容県では集約的に野菜を栽培しているが、農民は野菜畑の作物の40〜50パーセントの損害をうけている。句容県では冬作作物の作付面積の破壊は最高で、一家族当り1.4畝(ムー) にのぼるが、江寧県では最低0.62ムーである。

 破壊された面積は総計一三万七二〇〇ムー、あるいは一家族当り0.85ムーであった。損害総価額は七八万五〇〇〇ドル、あるいは家族当り四ドルである。

 最近の戦争による損害は一九三一年の水害とは天と地ほども違う。損害価額からいっても現在の戦災で破壊された建物は作物の被害の31倍にものぼる(一家族当129ドル対4ドル ) 。

 一九三一年当時には作物の被害は建物の被害の2倍であった(一家族当り215ドル対108ドル(1))。一九三二年の上海附近の交戦地域(農村部)はここ数ヵ月の寧属地域の状態と似かよっており、建物の被害は作物の被害の28倍である(97ドル対3ドル50セント)。

(1)『中国における一九三一年の水害』一三頁。

 農作物の被害にかんする数字を第十八・十九・二十・二十六・二十七・二十八・二十九・三十一表にあげた。最初の三つの表は一般的データである。


(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横械魁腺丕横械)


2 冬作作物と春蒔き

当地域における食糧生産の重要性

 当地域における食糧生産の重要性とその救済の必要との関係は二つの事実から強調されている。

 第一に、この調査を行なった四・五県はきわめて大きな市と町の住民をかかえている。南京はその人口が激減した状況にあっても、すくなくとも六万七〇〇〇家族を擁していて、これは一年前の人口のおよそ四分の一に当る。市場町には通常、五万三四〇〇家族の住民がおり、このうちはっきりしない数のものが戦争による難民として除かれることになる。

 当初の農家は一万八六〇〇家族であったが、そのうち30パーセントほどは三月現在において家族としては居住せず、そのうえ、11パーセントが個人としても居住していない。(1)

 もし、われわれが割引を考慮することなく、以上の三つの数字を集計して、地域の総数を算出するならば、農家の比重を誇大視することになる。しかし、これにもとづいてさえ、農家は全体の61パーセントを占めるに過ぎず、これにたいして、南京市内では22パーセント、市場町では17パーセントある。

 揚子江米麦作地帯全域の比率を比較してみれば、農村部83パーセント、市部5パーセント、市場町12パーセントである。(2)

 第二に、戦争状態にあっては、遠くから食糧を輸送してくることは、事実上不可能であったし、状況は見たところほとんど好転していない。南京市に今春搬入された米の多くは深水県と高淳県から来たものである。

(1)第二十一表注 (****) 参照。附録 B をも見よ。

(2)バック『中国における土地利用』三六五頁。


(以下略)

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横械)


 
3 戦争と農民

農地からの移動

 調査員の報告によれば、三月現在の農家人口一三万三〇〇〇人(これらの農家の旧住民と推定されるものの11パーセント)が、家を離れたままもどってきていない。

 全家族ではおそらくこの三倍以上の者がいまだに家を離れていることを念頭におくべきである。しかし、情報が不十分なためにわれわれはこうした人びとの数を正確に考察することができない。

 一三万三〇〇〇人の移住者のうち、それぞれ一一万一〇〇〇人が江寧県、一万一〇〇〇人が深水県、八〇〇〇人が六合県の出身者である。

 江寧県を離れた者は旧住民全体の20パーセントと推定された。おそらくこの県の場合に離村者が特に多かったのは、南京にちかいこと、南京との交渉が多かったこと、個々人の政府や私企業との直接・間接のつながりなどの原因で、非常に多くのものが、一九三七年十二月以前に転出してしまっていたからであろう。(1)

(1)この県内、あるいはこの県グループ内の移住者は、抽出調査が満足すべきものであるかぎり、この調査をおこなった地域内に家族を残している。もっとも、丘陵に逃げこんだ者も若干はいるであろうが。

 一九三一年の水害では、農家および各個人の移住者の総計はこの同じ県にとどまっていた移住者の70パーセント以上となっていた。そして、明らかに20パーセント余は隣りあわせ、あるいは離れたところの他の県へ移動したのである。『中国における一九三一年の水害』二七・三三頁。



労働力の不足

 家族のうちの働き手のもともとの数、現在いる働き手の数、まもなく帰ってくると思われる働き手の数について、それぞれの調査がなされた。

 その結果の示すところでは、働き手の不足は江寧県では深刻であって19パーセントにのぼる。しかし、家を離れている働き手の多数はまもなく帰宅する予定であって、予知された労働力の不足は一万八〇〇〇人、すなわち当初の働き手の数の7パーセントとなっている。

 四・五県としては、事実上の不足数は15パーセントであった。予想された不足は8パーセント、すなわち四万八八〇〇人である。不足予想数は、深水県では最高で12パーセント、六合県では11パーセントであった。(なおまた、全家族が離村したために起りうる不足数については、附録 B を見よ。)(1)

(1)当初の平均6.5人の家族で働き手が2.8人いたという報告は注目される。これは、農民自身の「働き手」という言葉の説明によれば、働き手と考えらるべきものが、家族につき約43パーセントは存在していたことを示している。

 移動および労働力の供給についての数字は、第二十三表に記録されている。


暴行事件による死亡

 調査で回答のあったこの一〇〇日中の死亡者総数は三万一〇〇〇人、すなわち住民一〇〇〇人につき二九人で、年間にすれば一〇六人の割合となる。中国における死亡者の年間平均数二七人と比較されたい。(1)

 死亡者の87パーセントは暴行事件による死亡で、大半は兵士の故意の行為によるものである。

 七家族に一人は殺されており、アメリカ合衆国の農家に同じ死亡率をあてはめてみれば、総計およそ一七〇万人が殺されたことになる。また全中国の農家数にあてはめてみれば八〇〇万人が殺されたことになる。おそらく日本本土についてあてはめてみても正確にいって八〇万人ということになろう。

 この地方の状況と調査の方法からみて、警察や警備員として働いていた二、三の地元民を含むことはあるにしても、実際上いかなる種類の兵士もこの調査からは除外されていた。

 殺人の割合は江浦県で最も高く、一〇〇日間に一〇〇〇人当り四五人であった。句容県では三七人、江寧県では二一人、その他では一五人および一二人、四・五県全体では二五人である。

(1)『中国における土地利用』三三八頁。


 殺された人のうち男子の比率はきわめて高く、とくに四十五歳までのものが多く、全年齢層の殺害者数の84パーセントにのぼっていた。殺された男子二万二四九〇人のうち十五歳から六十歳までのものは80パーセントにおよび、これは生産人口の枯渇を意味する。

 殺された女子四三八〇人のうち83パーセントが四十五歳以上のものである。若い婦人の多くは、安全をもとめて避難したか、危険が明白な場合には安全なところへ移されていた。

 若い婦人や身体強健な男子よりは危害を加えられることが少ないと思われたために、老婦人が留守番役以上の目にあったのである。


病気による死亡

 病死者の数は回答のなかできわめて少なく、全部で四〇八〇人、すなわち百日間で一〇〇〇人当り3.8人になる。

 これは報告数がきわめて少ないように見える。たとえば、五歳以下のものについては一人も病死者として回答されていない。同様な傾向が平時においても認められ、しかも、以前には冬になれば必ず多数の変死者が出ることが目立っていた。

 また、当初の質問では病死と殺害されたものの二者択一であったけれども、病死者のうち若干のものが殺されたものと混同されたこともありうる。そして、この混同による限界は、平時の死亡率と比較して検べてみれば、殺害されたものとして回答のあった数にいちじるしく影響するほど大きくはありえない。

 この一〇〇日間は二年続きの豊作に続く例になく温和で天候のよい季節であった。疫病や変った病気が全然なかったことは明らかである。

 一九三一年の大水害では、ほぽ同じ時期に一〇〇〇人当り二二人の死亡者が出たという報告があり、死亡者については、病死者と限定されたものは70パーセント、24パーセントが溺死者であった。(1)

 現在の調査の示すところでは、わずか12パーセントが病死者であるが、完全な報告では多くてもこの二倍であろう。このことは殺された者の多いことを示すのに役立つだけである。

(1)『中国における一九三一年の水害』九七頁。

死亡者にかんする数字は第二十四表と第二十五表にあげた。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横械検腺丕横苅)



 
4 戦争の影響=市部と農村の比較

 戦前には、調査した四・五県の農業人口は南京の人口よりも大して多くはなかったけれども、三月の調査期間には四倍以上も多くなっていた。

 残留した農家の場合、移動によりおよそ11パーセントだけ人口を減じており、30パーセントほどのものは一家ぐるみ離村して遠くに行っていた。

 市部では移動によって残留家族の人口の14パーセントが減じ、当初の全居住家族のおよそ75パーセントであった。

 調査によれば、南京の人口は二二万一〇〇〇人で、農村では一〇七万八〇〇〇人であった。

 農家では七家族に一人が殺された。市部では五家族に一人が殺害・傷害・連行の憂き目にあっている。これによってほぼ同程度の社会悪と苦難がもたらされている。

 農村の損害は総計四一〇〇万ドルで、これには報告された家庭用財産は含まれない。南京に残留していた家族の損害総額は四〇〇〇万ドルである。建物および収蔵財産の被害総額は全市で二億四六 〇〇万ドルであった。

 家族当りの農家の損害(家庭用財産を含まない)は二二〇ドルで、そのうち建物の被害は一二九ドルである。市部に残留していた住民の一家族当りの損害総額は八三八ドルで、その内訳は建物が二七一ドル、販売用在庫が一八七ドル、家庭用動産が二七六ドルであった。

 市部の損害総額を当初の住民数で割ると一二六二ドルとなり、その内訳は建物が五二七ドル、在庫が三七七ドル、家庭用動産が一五二ドルである。

 農村および市部の損害をそれぞれの全財産価格の比率にして計算することは不可能である。しかしながら、農民の損害はその主要財産である土地からみれば、市部住民の全財産のうちに占める損害ほどに、大きいものではないように思われる。

 いずれにしても、農民の基本的生産資本は破壊されることはなかった。それにたいして、多くの市部住民は主要な物質的生産手段をいっさい失ったのである。

 この評言は、多数の農民の困苦を軽視しようとするものではなく、この困難な年に当って、平均的農民は南京の平均的住民よりも、何とか苦闘してやってゆけるもの、苦闘するに足るものを多くもっていることを示唆するに過ぎない。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横苅)



三 調査の結果、その救済物資および救済計画との関係


 農家の建物全体の四〇パーセントが失われたことは、農民の資本・生活水準・生産力にとって決定的な打撃である。

 住居がないために土地に戻ってくるのが遅れている家族や家族の一部がある。そのことは、労働力不足・生産の減少、さらには農民のいない間に省みられなかったり盗難に会ったりして事態をいっそう悪化したことさえ意味する。

 その上、家畜・農具・収穫物貯蔵の維持と世話が、建物がないために影響をうけている。最近の豪雨により、農民のなかには脱穀する前に刈入れた小麦をみすみす台無しにしてしまったものもおり、急造の屋内脱穀の場所さえ設けることができなかった。

 労働者・家畜・農具の不足によって労働能力も影響をうけている。労働者不足は以下の原因によるものである。すなわち、

(一)とり返しのつかない死亡および傷害による損失と、数ヵ月では回復することのできない戦時避難による移動、

(二)さらに大きくは、とくに婦人の場合に、身体に危険があること。

 政治の目的とその質に、このような事態の好転はかかっているが、救済事業に従事するものはこの分野に立ち入ることはできない。

 家畜も農具も不足しているが、農民たちは現在もっているものを互いに融通しあい助け合ってきりぬけてきた。家畜や道具や農具の刃と柄に必要とされる材木の搬入にたいする直接の援助が望ましい。

 繁殖用の家畜と家畜の子の購入と維持を助ける信用貸しが広汎に必要とされている。原則として、また通常、実際上からいっても、合作社を通じた信用貸しがもっとも有効であり、また、もっとも安全にこれを普及させることができる。

 今後、種子のことも切り離された問題とは思われない。しかし、穀物は主食であり、深刻な食糧不足のために、農民のうちには種子用に穀物をとっておくことが困難なものもあろう。

 現在の小麦の収穫は著しく平年作を下まわるので、農家の収入に打撃を与え、食糧問題全体の一要素となっている。しかしながら、わずかな購買力をもち、あるいは信用貸しをうけるものはすべて、雑穀を補給して秋の米の収穫までもちこたえることが十分できそうに思われる。

 さらに重要なことは今後の米作の問題で、田植のおわったあとの七月に調査を重ねてみなければ、正確な答えを出すことはできない。農民や様々な地方へ行った旅行者に質問したところでは、大いに異なった姿がでている。多くの地点では田植は順調とのことであるが、きわめて不十分なところもある。
 
 農民たちにとって、資本と生産力の損失を回復することはほとんど不可能であるが、これらの必需品の不足のまま、いまだに部分的な戦争状態および軍事占領状態のもとで仕事をしている。

 たとえば、南京周辺では、春の収穫がおこなわれるとすぐに、多くの農民たちは水牛を飼っておく危険を冒すよりは、これを売払って屠殺してしまった。

 洪水や旱魃にたいしては、なおさらのこと予備があるわけではない。二年続きの豊作の後では、気まぐれな自然は次の二年も豊作にすることはない。

 事実、この寧属区域は、長江の両岸にわたって拡がっているので、六月の雨で水びたしとなり、また揚子江中上流の水位が異常に高まり、さらに黄河と准河の水が一つに合流して大運河からあふれることになれば (揚子江下流の河口部に増水すれば)、この地域に洪水が起こるのではなかろうかと、すでに大いに懸念されている。

 一九三一年の水害当時と比べて今年の救済問題を考えてみると、当時はこの問題に全体として取組み、大量の資材を救済にまわした政府のあったところに、はっきりした違いがある。

 現状においては、当局側は四分五裂という状態で(いくつかの地区ではそれもない)、その中で主要なものは軍事・政治作戦にあまりに緊密にかかわりあっていて、地元から定期的な収入をえることはほとんどないので、救済については相対的にみてあまり力を注いでこなかった。

 現存する当局者がどのような構成をもっていようとも、たしかに現実そのものは、農民たちに建設的な援助を与えるのに全力を尽すことを、彼らに訴えている。

 このような援助は人道上必要であるばかりでなく、共同社会と政府自体の経済的基盤を強化することになるし、大衆の善意と協力をうるには宣伝以上に限りなく大きな価値をもつものとなろう。

 さらに、物資の必要はきわめて大きいので、公的なものであれ個人によるものであれ、可能な限りの援助をあわせても、なお不十分なのである。

 中国国際飢餓救済委員会の経験と救済手段、あるいはその他のいかなる私的・非政治的救済団体のものであっても、政府当局がおこなうべき大規模な救済を有効に支えるものとして歓迎されるべきである。
 
 水路・鉄道・道路の自由な交通はどのような重要な復旧にも欠くことができない。実際上、このような交通の自由は、政策にもよるが、現実の安全にかかっている。

 交通の改善は、食糧およびあらゆる種類の家庭必需品の生産者・消費者の両者にとって、大いに必要となっている。燃料と原料は、それらがもっとも必要とされている所で、その入手が不可能となっている。

 平時においては信用貸の必要は大きかったが、その利子が高かった。現在では信用貸の正常な給付は概してないが、信用貸しの必要は倍加している。農村も市部も、あらゆる種類の銀行業務および現金と信用貸送金手段を必要としている。
 
 安全の必要は強調してもしすぎることはない。多くの場所では、一ヵ月以上にわたって、正常な労働と家庭生活が暴力によってたえず妨害されてきた。農家でも商店でも同様に、治安状態の悪いことから、交通や信用貸しが跛行的となり、労働意欲の刺激がそがれてきた。

 農民と都市労働者は逆境にあってもお互いに助けあって健気にやってきたが、これ以上の進展は、交通が十分に安全であること、兵士・盗賊その他あらゆる種類の泥棒から人身と私有財産を保護すること、ことに銀行や日用品の倉庫などの安全な施設にかかっている。

 もし政治・軍事状況のために、これ以上の安全が確保できないならば、悲惨な状況がひき続き、かつ増大するであろう。治安を欠く悲惨な状態が現在の不安の大部分をつくり出してきた。なんにしても、統一した強力で見識のある政府がなければ、この悪循環を断ち切ることは難しいであろう。

 戦争の影響を市部と農村について比べてみると、南京地区では手工業者・商店主・行商人などよりも、むしろ耕作者の方が一般に計画的な援助なしにでもやってゆけそうである。

 しかし、市部においてさえも、十二月から三月にいたる交戦期のクライマックスの体験に耐えることができた住民に敬意を表すべきである。これらの住民のうち35パーセントが、いまだに無料食堂あるいは現金買いのどちらかをつうじ、救済をうけて食糧の一部を入手しているのである。

 三月以来、好転してはいるが予備食糧は減少している。その上、物資は、農産物をのぞき、補充の機会をえないままに消費され続けている。物資の質的低下によって、毎日その悪影響が出はじめている。これ以上の経済的混乱が起ればはなはだしく困った状態になるだろう。

 しかし、アメりカ合衆国あるいはその他の諸国の公共福祉関係者は、中国一般人民の忍耐と自力更生に驚嘆するであろう。さりながら、健康と生命維持をはかる機会にはらわれた犠牲はひじように大きかった。それでもうこれ以上その犠牲をはらわせるべきではない。

 南京における救済の主要な方法としては、もはや難民収容所は必要でないことが明らかになった。現在の減少した人口を収容するには、略奪されたり損傷をうけた家が十分にある。

 救済をもっともよく推進できるのは家庭と個人サービスを通じてであって、それは能力・熱意・方策のおよぶ範囲で食糧の配給・医療・雇用・信用貸や、離散した家族を再会させる助けなどをおこなうことである。

 しかし、公衆にとって燃料が手に入らなければ、共同炊事が必要となろう。都市のサービス機関、すなわち警察・保健・電気・水道・公共事業の回復と発展をできるだけ奨励すべきである。もし何らかのやり方でゴミ処理が行なわれるようになれば、健康状態は改善されるであろう。

 何らかの権威をもつ警察力があれば、物や人にたいする夜間の略奪行為を速やかに阻止することができよう。

 最後に、損害と必要物資の報告がその総額および平均額の形で必要となる。多くの人や家族や、農村あるいは市街が、統計や一般化した数字が示す以上に、はるかに深刻な被害をうけたことをけっして忘れてはならない。

 地域社会全体を考えて補償することは、平均以上に恵まれた側は、相応する品目があれば得をすることになるが、そのことは一層条件の悪い人たちに機械的に補償をすることにならない。

 救済の努力はそれをきわめて必要としている現実の個々の人たちに対して払わるべきであって、数字的報告だけによってはならないのである。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横苅院腺丕横苅)




四 付録


附録A  調査の機構と方法にかんする覚書再記

1 実地調査の手順 
 J ・ L ・パック教授がその調査のなかで行なっているように、「平均的な村」を設定する代りに、任意抽出のやり方に従って調査が進められた。現状のもとでの諸困難によって、調査員が現地に二度行くことが不可能となっていたからである。

 その上、一九三二年の上海周辺の農村地区で戦時調査をおこなった時のように、訓練された観察者の大集団を実地調査に向けることもできなかった。

 こうした機会もなく、一九三二年の戦争の被害がいかに部分的なものであったかを知っていたために、一定の間隔をおいて選ばれた任意抽出の方が、「平均的な村」をあわてて選定するよりも、誤りが少なくなると考えられた。

 さらに、このように一定の間隔ごとに間をおいて任意抽出を行なうことは、「代表的な事例」を選ぼうとするよりも、原則としては通常、より客観的なものであるといわるべき点がある。

 この方法でうまくゆかなかったように思われる一例は、江浦県の耕地調査の場合で、農家平均耕地面積と、それによる耕地面積の総計が多すぎるという結果になった。 ( 第十七表を見よ)

 この手続きは当初の予想以上に成功をおさめた。しかしながら、六合県では調査員が県の北部を掌握している中国人当局に身元を疑われ、委員会が手紙を出すまでスパイとして留置された。同じ困難が現地調査のはじまったときに高淳県でも起った。

 それでこの県は結果から落さなければならないことになった。六合県の方は南半部だけが報告に含まれている。

 溧水県では、中国側管理当局者は調査員に護衛をつけた。護衛は調査員に、彼らがえらんだ村へ、また村長がえらんだ村の家族のところへ行くように強制した。結果として、彼らのサンプルは悪い地域から出る傾向があった。

 江寧県の西部では、調査員は一〇家族に一家族をえらぶうえで、地元の御都合主義の干渉にまかせた。サンプルとなった村を一つ一つ注意ぶかく点検すると、両方の誤りが明らかとなった。

 それにまた、それらがあまりでたらめなので、比較考量して誤りを正そうとしても、それを少なくするよりはむしろ増大させることになりそうである。それで、訂正はこころみられなかった。

 句容・江浦・六合の人々は抽出のさいの注意に非常に整然と従った。

 市部調査における建物調査をはじめるにあたっては、ただメイン・ストリートだけを網羅するつもりであった。

 しかし、それでは家族調査と建物調査をつき合わせることが難しいということがわかった。それは、市内に残留していた家族が当初の人口の四分の一にすぎず、しかも貧困層の人々だからである。その結果、損害の全体を推定するために建物調査は市内の各建物におよんだ。

 もしこれが最初から予想されたならば、建物一〇ごとに一をえらぶよりもより少ないサンプルによって損害価格の推定が行なわれ、したがって、結果を出すには手っとり早かったであろうが、これでは正確さは失われたと思う。


2 集計上の手続き

 二〇六家族につき一家族という農業調査の抽出サンプルは、一九三一年の水害調査の三五九家族当り一家族の抽出と、上海事変(一九三二年)の影響をうけた周辺農村の調査の七九家族に一家族という抽出の中間になる。

 しかし、江寧県では抽出度はもっと低く(三九八対一)、溧水県では相対的に高い(一四〇対一)。(第十七表を見よ)


3 正確度の点検

(1)
「既往の調査」は、『中国における一九三二年の水害』と、「上海事変(一九三二年)の影響をうけた農村地域の調査」 、およびパックの『中国における土地利用』といった形での調査を利用することができた。

 たとえば、一九三二年の水害調査で回答のあった種籾需要の県平均(第十七表)を現在の調査の四・五県にあてはめてみれば、二一万一〇〇〇「十担」という数字が出てくる。ここでえられた結果(第二十二表)はわずか一二万五二〇〇「十担」である。

 一家族当り平均損害二二〇ドルは、この地域の破壊がもっと長く続いたことを考慮に入れるならば、一九三二年の上海事変当時の一家族当り平均損害一四七ドルと比べて、大して多いともいえない。比較はその都度、損害項目に応じておこなわれている。

 『中国における土地利用』は平時における実際の農家財産目録と報告された損害とを比較するのに役立った。


(2)「独自の数字」をできるところではどこでも手に入れた。関係ある全耕地面積の独自の推定は調査した農村作付面積を点検するのに使われた。(第十七表を見よ)

 現在の南京市の人口に関しては、十二月・一月に日本軍によって登録された人数と、五月三十一日現在で新市政府が発表した登録者総計とがある。

 南京における建物にかんする独自の計算あるいは評価額の資料は入手できなかった。都市の家族の損害と救済調査員に報告された損害を全項目にわたって比較するのは不可能であった。

 というのは、その報告ははるかに大ざっぱであり、建物については大部分の場合、損害価格をあげることができなかったからである。

 しかし、寝具・衣服・現金などの項目については、三月中に救済をうけた家族(九二五六家族)の一家族当りの平均損害は162.83ドルという記録であった。

 われわれの調査における項目についての一家族当り平均損害が124.96ドルであるのは、前者が「救済家族」(といっても市内の家族総数の20パーセントがそうなのであるが)であった事実をみとめるにしても、ひかえ目な数字である。

 いろいろな地域や階層を代表する南京の住民の平時における状態を、残留した人たちの生活と比較するには、一九三二年のスミスによる二〇二七家族の調査が利用できる唯一の労作である。しかし、それは「平時」からの偏差を若干推定することを可能にした。

 さらに市部調査における独自の点検は、調査をおこなうグループがその状況を体験し、かつどの点でも、調査の結果が既知の状況にそれぞれに符合するかどうかをきびしく検証することができるということであった。(しかし、調査の結果に変更を加えたところは一つもなかった。)

 もっとも驚くべき符合は軍事行動によってひきおこされた損害の程度の低さであって、この事実は容易に多くの人々によって十二月十四日に観察されたことである。逆に放火と略奪の規模と方法は目撃者によってしか理解されなかった。調査は実際の損害価格の額をもっと正確に計算している。


(3)農業調査・市部調査の双方における「内部的密度と適度」は、一般的結論と細部における多くの点を支えている。このような内部的点検は記録の過程をつうじてずっとおこなわれてきたので、ここでは二、三の例をあげておけばよい。

 農業調査において各県の調査結果の変動の度合は、既知の地方の状態をもっともらしく予想した範囲を越えるものではない。収穫物にたいする破壊(全体中では小さな要素)を除いて、各県の損害の順位は各項目中の相関関係をかなりはっきりと示している。

 市部調査において、各家族当りの平均損害は、家族調査の示すところによれば、貧民層が残留したという事実(けっして極貧層のみに限らないが)を考慮に入れれば、建物調査の結果ときわめてよく符合する。(第三表と第一二十七表を比較せよ)

  殺害された者・拉致された者の性別・年齢別分布は、一九三二年現在の住民の数字と比較して、青年男子の比率の低下と符合する。

 家族構成の分析の示すところでは、破壊された家族の比率は、移動者・殺された者・連行された者の数から考えて予想されるものと同様である。(第二表・第三表・第五表を比較せよ)

 調査の数字が適度であった例としては、農家の損害を推定するさいに用いられた価格が時価であって、それは平均を下まわっていた。

 貯蔵穀物の被害は五・九「十担」で、これは、一九三一年の水害と一九三二年の上海事変のさいのものとほぼ同じであるが、季節の点と、この地域における軍隊の移動と軍事行動が二年続きの豊作のあとにつづいたことを考えれば、むしろ少ないといえる。さらに、今年の米の収穫は問題の期間の前に移動させる機会をほとんどもたなかったのである。

 市部の損害調査の数字も適度である。建物の損害二七一ドルでは、きわめてささやかな家を一軒建てることができるにすぎない(しかし、残留している家族のうち大きな比率をしめるものが自分の家を持っている)。

 営業用動産の損害二九一ドルは、残留している人びとの小さな商業グループの範囲に属するものである。家庭用動産の損害二七六ドルについても同様である。一家族当りの全財産損害八三八ドルは戦前の二年分の収入にひとしい額にすぎない。

 兵士による略奪がおこなわれたことを考えると、誇張が起りうるとされた項目は金銭である。しかし、これは一家族当り九・五三ドルの被害にすぎず、救済をうけていない家族が各自に一ヵ月の生活を支える米代として支出するものよりも少ないのである。(第九表を見よ)

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横苅魁腺丕横苅)
 



附録B 家族ぐるみの移動、その居住者人口・移動・損害・労働力補給・死亡の報告にたいする影響の可能性

 調査員は、農家調査の補足として、調査の道順における村のうち二つおきの村で少なくとも三人の指導者に、農家調査に含まれるのと同じ点にかんし村人についての推定数を注意深く質問するようにと求められた。(1)

 この方法は、一九三一年の洪水当時にも採用されたもので、パック博士の指導のもとにすすめられた「土地利用調査」ではもっと広く用いられた。三月にはこのような方法で二二四ヵ村、つまり平均一県につき五 〇ヵ村(四・五県)についての報告がおこなわれた。

 この数字の主体は、農村調査の全体像を確認するものであったが、調査のなかでも個別的な結果では不規則に変化していた。これらの数字は部落に代って推定したもののみからなりたっていたので、現場でえられた各農家のより正確な 個別報告ほどの価値をもたない。それゆえにわれわれは一般的な表と報告には村のデータを使用しなかった。

(1)寧属地区では、全農民が村に住んでいる。であるから、農家と村落家族は同意語である。

 しかし、この農村のデータはある一点ではこれ以外の方法では手に入らないような事実を解明してくれる。それらによって、移動したまま帰って来なかった全家族の推定数を知ることができる。

 ところが、農村調査では現在、農村に住んでいる全家族あるいは家族の一部にのみふれうるにすぎなかった。こうして、このような数字は、われわれの調査のなかでえられた人口・移動・損害・労働力補給・死亡率などの推定数を、補足したり訂正したりすることができることを示す。

 農村調査の推定数の細部については公表する価値があるとわれわれは考えないが、そこから出しうる最上の結論は、当初の住民のわずか70パーセントしか三月現在で居住していないということである。

 家族のメンバーのうち11パーセントが家を離れているという農民個別調査の記録とこれとを比べてみると、戦時下の移動が通常、家族ぐるみおこなわれたことを示唆している。この結果は市部調査でも確認されており、一九 三一年の水害の記録とも事実上一致するという点(1)で驚くべきものがある。

(1) 「全住民の40パーセントが家を離れなければならなかった。 31パーセントは家族ぐるみ、9パーセントは個人として。」『中国における一九一三年の水害』二七頁。

 移住したといわれている30パーセントの家族のうちのあるものは、調査した県のうちでも調査員の手が十分にとどかない遠くの山地に今でもとどまっているということはありうる。それでも入手した抽出例はか なりよく全体をカバーしている。

 調査地域の損害推定額に家族移動を考慮して修正を加える必要はない、と考えるのも正当なこととされるであろう。というのは、推定額は、調査をおこなった家族一戸当りの平均損害に当初の家族数をかけあわせて算出したものだからである。

 市部でも農村でも共通して見られたことは、概して家を離れた家族は現地に残って家を守っていた家族よりも大きな損害を蒙ったということである。この移動した家族が時として家畜や持運びのできるわずかの家財を何とか移動させることができた場合に、両者のみぞが一部うめられたにす ぎなかった。そして、その上に、ここに記録された損害の大半は、実際には簡単に動かすことのできない所有物の損害だったのである。

 もし30パーセントという数字を信頼してよいならば、第二十三表にある家を去って戻らなかった人の数は、総計四九万六五九 〇人に増加することになろうし(当初の住民の人口推定数一二一万一二〇〇人の41パーセント)、働き手の現実の不足もはなはだしく増加することになろう (三月現在として表に示されている働き手の総数四四万七四〇〇人から一七万三六〇〇人(ママ)をさし引き、一家族につき平均 2.8人の働き手の比率で計算すると、六万二〇〇〇家族(ママ)になる)。

 しかし、それは戻ってくる意志があるかどうか報告されていないので、はっきりはしないが、これよりも数は減じるにしても、予想された働き手不足は増加するであろう。
 死亡者の数(第二十五表)は全部、調査家族についての割合で表わしてある。それで、これは、推定されている 30パーセントの家族が、居住民の多数よりもその死亡件数が多いか少ないか、いずれかであったと考えられるのでなければ、変更をうけることはない。

 おそらく、初期に移動した家族、またかなり遠くへ行ったか、あるいは南京市内でも比較的安全な地区にいた家族のうちには、他のものよりうまく暮らしてゆけたものもあろう。他方、ある家族が移動したまま帰ってこなかったのは、単に家族自体あるいは一緒に行った隣人たちが兵士による殺害・傷害・放火をすでに体験したからであった。

(「南京大残虐事件資料集供廖。丕横苅供腺丕横苅)  

 

(2005.4.19)

 
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