想へ ソロモンの戦線
想へ ソロモンの戦線

1943.1.30『毎日新聞』記事


 1943年1月、激戦が繰り広げられるソロモンからの記事を紹介します。

 高原記者は、「戦局が日々不利になりつつあることは、誰の目にも明らか」「このままでは敗戦必至とみた私は、なんとかこの情況を内地に伝えたい」という思いを込めて、この記事を執筆したそうです。

 検閲厳しい中、もちろん、そんなことをストレートに書くことはできません。高原記者は、「戦意高揚」のレトリック文の隙間に、現地の苦戦ぶりを伝えるリアルな記述を巧みに折り込むというテクニックで、内地に実状を伝えようと試みました。記事は、一面トップに、大々的に掲載されました。

 特に「少佐」が食糧不足のため「トカゲの肉を食べた」というエピソードは、最前線の状況を知らない読者にショックを与えたかもしれません。このような記事が当時の新聞の一面トップに載ることは、異例だったでしょう。


 しかし本社デスクは、このままでは「検閲」に引っかかると考えたのでしょうか、「連合軍の残虐行為」の記述をまるまるでっち上げて文中に挟み込む、というとんでもない「編集」を行いました。さすがに高原記者も「唖然とした」そうです。確かに、記事を通して読むと、デスクの創作である「米英兵は人ではない」の章が、不自然に浮いていることに気づきます。


『毎日新聞』昭和十八年一月三十日 一面トップ

 想 へ ソ ロ モ ン の 戦 線

 "米鬼"の正体・弗の化物

 断然地上から抹殺

 頭下る我が将兵の勇戦


【〇〇基地にて高原特派員(海軍報道班員)発】

 〇〇基地では今日も朝早くから哨戒機が南太平洋の空へ飛立っていった、

 昨年八月敵が〇〇に上陸して以来六ケ月想像も及ばぬ凄絶な戦闘がこの南太平洋一帯に展開されてゐるのである、戦闘を勝利に終らせるといふ目的の前にこの戦線では一切を捧げつくしてゐるのだ、

 戦争第二年を迎へたあらといつて『去年の今ごろは』などと緒戦の戦果を回想する気分にはなれない、ただ黙々と勝ち抜くために歯を食ひしばり敵撃滅への険しい難路をひたむきに登り続けてゐる

 ある時ひとりの兵が記者に向って

こんな激しい戦争をしてゐるのを内地では知ってゐるのだらうか

といったことがある。

 そして内地では『南方』といへばジャワ、マライ、比島などの明るい建設面ばかりに気をとられてゐて、この激しい戦争面を閑却してゐるのではなからうかと語った、

 これはその兵の杞憂かも知れない、

 だがこの方面の激しさを銃後はもっと切実に知って、より一層の馬力をかけなければならないのではなからうか、

 この基地にあって、激戦半歳の間に見聞した二、三の話を綴るのはこれによって大東亜戦争二年目を迎へた銃後の人達の関心を幾分でも鼓舞できたらばと思ってのことである


戦争様式は一変した

 ソロモン方面は悪疫猖獗の地で大部分は未開の密林と山地である、いまここに彼我両軍が一歩も譲らじと対峙し睨み合ってゐるのだ、

 敵はここに建設した飛行場を中心にして至るところにトーチカを設け、わが軍の猛攻を阻まうとしてゐる、

 確に敵のソロモン方面来攻を転機として大東亜戦争の様相は一変したといってよい、

 前進につぐ前進の緒戦の段階を終って
がっちりと四つに組んで敵味方が全力を傾倒し血みどろになって相手をねぢ伏せようとする本格的な戦争と形態に移ったのである、

 また漸くわが軍の実力を認識した敵は今度は相当の用意をしてかかってきてをり、その闘志もまたなかなか侮り難いものがある、

 わが上陸部隊はこの敵を前にしてじり押しに攻め寄せてゐるのであるが、その労苦は筆舌に尽くせぬものがある、

 島上に飛行場をもってゐる敵は一時間と休むひまなく友軍の上を低空で襲ひ間断なく銃爆撃を加へてくる

 これに耐へてゐることは余程不屈の精神を持ってゐなければならぬ、

 それも、もう幾月かの長きに渡ってゐるのだ、これこそ敵殲滅まではどんなことがあっても頑張り抜かうといふ皇軍戦士でなければ出来ない業である、

 然もそこでは悪疫のマラリヤも猖獗してゐる、四十度以上の高熱を冒して奮戦してゐる兵も決して少くない

 敵制空権下で食糧の補給も思ふやうにならないのは当然である、木の芽を食ひ草の根をしゃぶって進撃するのは歌の文句ではないのだ

 最近〇〇からこの基地に帰ってきた〇〇少佐の顔は〇月の戦中生活のうちに見違へるほど変ってゐた、

そして

『あそこの生活をやってきたら、もう今後衣食住について兎や角いふことを一切やめようといふ気持になった』

と語り

お蔭で僕もとかげの肉を食べたよ、焼くとちょっと変った味のするものだ、だが体の大きい割合に肉が少くてね

とほろ苦い笑ひを洩らした、

 内地でもし衣食住に不平をいふものがあったら『南太平洋の戦線を思へ!』と一喝してもよささうである


米英兵は人ではない

 敵米英兵の残虐さは言語に絶するものがある、記者はこの話を聞いただけで全身の血が逆流するやうな憤激にかられた

 ある戦線でわが軍の重傷者が敵に発見された、敵はこの瀕死の兵をどう扱ったか、鬼畜の如き敵兵はこの重傷者を飛行場用のローラーで轢きつぶしたのだ、

 また他のある戦線では熱病のため身動きの出来ない友軍の病兵を針金で縛りあげ河に水漬けにした


 ああこの行為を何と形容したらよいか、記者はその言葉を持たない、

 残虐! 非人道! そんな言葉では許されない行為ではないか、

 この話をした兵も泣いて語った、聞いたわれわれも泣いた、記者はいまこの記事を書きながら拳のふるへるのを禁じ得ないのだ、

 この仇は必ず撃つ、撃たねばならないのだ、地球上生存を許すことの出来ないこれ等敵兵を一兵も残さず撃ちつぶすまでは一歩たりとも後退は出来ない、

 前線の将兵の憤激は既に爆発してゐるのだ、銃後の敵愾心ももっともっと昂揚してよいのではないか、銃後に米英崇拝の残滓がいささかでもあるとしたら鬼畜にも劣る敵米英兵と血みどろな死闘を続けてゐる前線の将兵に何といって申訳をするのか、ローラーで轢殺され針金で縛られた同朋の英霊に対してどうしてお詫びが出来るのか、

 これらの兵はおそらくは笑って死んでいったらう、祖国のためにそして銃後国民のために何の不平もいはなかっただらう、

 この点を銃後の人達はしっかりと考へて貰ひたいのだ、そして『今でも前線の勇士達は闘ってゐるといふことを銘記すべきである。


敵の補給力は侮れぬ

 敵飛行場に対するわが海軍の攻撃は悪天候と戦ひつつ長途をものともせずいささかも手をゆるめることなく続けられてゐる、

 必中の爆撃に、果敢な攻撃に、凄惨な空中戦に、南太平洋一帯の空を翔けまはってゐるが、敵も死物狂ひで総ての力を傾注してその防戦に狂奔してゐる、

 巨弾で大穴をあけられた滑走路の修理も迅速だし燃料、爆弾の補給も活発である、

 敵グラマンやP39などの戦闘機を束にして撃墜し二十機、三十機と大量の戦果をあげて所在の敵機を殆ど大部分やっつけたことも一再ならずあるが敵は直ちにその補充をやる、

 それは実際よく続くものだと呆れるほどであるが、ここに侮り難い生産力の一端を■ふことが出来る、

 その尽きるを知らないやうな敵航空兵力に日夜挑戦してゐるわが航空部隊の苦心は実に並大抵ではない、


 慰安もなければ休養もない、あるのはただ作戦ばかりといふ状態で百数十日にわたる戦闘が継続されてゐる、


我船員も戦ってゐる

 ソロモン海域を往来するわが輸送船の労苦も忘れてはならない、敵はわが輸送路を遮断しようとして沢山の潜水艦をこの海域に動員してゐる、敵地に近づけば敵機の爆撃を受けるのも当然である、

 記者は僅か一週間ぐらゐであったが輸送船に同乗してその労苦を体験した、わが船員たちは泰然として、しかも注意深く死の海に臨んでいった

輸送船で今まで敵の潜水艦か或は爆撃に遭はなかった船はないでせう

船長は私たちに笑ひながらさういった、

 不敵といはうか、潮風に鍛へられたその船長の顔には微塵の不安もみえなかった、

 船長の中には老齢の人も多い、長年の海上生活がお役に立って祖国第一線の護りについてゐるのだ、そのやうな老船長が爆撃下の甲板に毅然として立って全員を指揮してゐる姿をみたことがある、

 また襲ひかかる幾条かの航跡を睨みながら眉一つ動かさず巧みに船を操ったことも知ってゐる、

 船員魂の権化ともいふべきその尊い姿をみた時、ただ頭が下る思ひがしたのであるが、ふと内地の同年齢の健康な楽隠居の人たちの生活を思ひ出さずにはゐられなかった


忍苦は内地のために

 内地から赤道を越えてはるばる届いた新聞に年末年始の昼酒、朝風呂許可の記事が出た、われわれは一斉に『内地はいいなあ』といった、

 『内地はいいなあ』といふ言葉は前戦の兵隊達の間によく交されるのだが、それは前線の生活と比べて羨望の意味でいふのでは決してない、

 その言葉の中には内地は美しい、わが祖国は安泰であるといふ誇りをいっぱいに含んでゐるのである、

 記者も時々前線から敵地に向って『俺達の国は立派だぞ、誰にも汚されない美しい国なんだ!』と大声で叫びたい衝動に駆られる、

 『内地はいいなあ』 その言葉に自らを慰めつつ大きな誇りを感じて前線の将兵はあらゆる労苦を耐へ忍んで敢闘してゐる、

 銃後も前線のこの心に応へて美しい祖国をいつまでも護るやうに努力せねばなるまい



高原四郎『書きもしない記事』


 言論弾圧といえるかどうかはさておくが、海軍報道班員としてラバウルに従軍したおり、書きもしない記事を、私の名で捏造された苦い経験がある。

 昭和十七年夏、米軍のガダルカナル作戦が開始された。戦局が日々不利になりつつあることは、誰の目にも明らかだったが、むろん日本軍の被害など書けはしない。大本営発表は、あいかわらず景気のいい情報ばかり。このままでは敗戦必死(ママ)とみた私は、なんとかこの情況を内地に伝えたいと、記事を送った

 数日後、送られてきた新聞をみた私は唖然とした。おぼえのない部分が書き加えられ、「鬼畜米英」という敵愾心高揚記事に見事にすりかえられていたのだ。右の記事中、後段の部分がそれである。

 内地の軍報道部の手になることは明白だったが、抗議することすら許されない立ち場に私も置かれていた ― それが戦争の現実だった。(P173)

(『潮』1971年10月号 「執筆者100人の記録と告白」より)



(2015.6.20)


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