新聞と戦争
ー「事実」はいかに歪められたかー


 Wikipediaに、「漢奸」という項目があります。一部を引用します。 (2015年6月14日現在の版)


漢奸

(略)

 国民政府は徴発に反抗する者、軍への労働奉仕に徴集されることを恐れて逃走する者、日本に長期間移住した者などは、スパイ、漢奸と見なし白昼の>公開処刑の場において銃殺したが、その被害者は日中の全面戦争となってから二週間で数千名に達し、 国民政府が対民衆に用いたテロの効果を意図した新聞紙上における漢奸の処刑記事はかえって中国民衆に極度の不安をもたらしていた。

 また、中国軍兵士の掠奪に異議を唱えた嘉定県長郭某が中国兵の略奪に不満の意を漏らした廉で売国奴の名を冠せられて火焙りの刑に処せられた、との報道があった。

  1937年9月の広東空襲に対しては誰かが赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、そのスパイを執拗に追求するという理解に苦しむことも行われ、一週間で百人以上のスパイが処刑された。

 上海南市にある老西門の広場では第二次上海事変勃発後、毎日数十人が漢奸として処刑され、その総数は 4,000 名に達し、中には政府の官吏も 300名以上含まれていた。

 処刑された者の首は格子のついた箱に入れられ電柱にぶらさげて晒しものにされた。上海南陶では 1 人の目撃者によって確認されただけでも 100 名以上が斬首刑によって処刑された。罪状は井戸、茶壷や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持していたというものである。 その首は警察官によって裏切り者に対する警告のための晒しものとされた。戒厳令下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された。

(略)

 戦争が始まると漢奸の名目で銃殺される者は南京では連日 80 人にも及び、その後は数が減ったものの1937年(昭和12年)11月までに約 2,000 名に達し、多くは日本留学生であった (当時南京にいた外国人からも日本留学生だった歯科医が漢奸の疑いで殺された具体例が報告されている)

(以下略)


 「脚注」を見ると、上の情報のソースは、すべて当時の日本の新聞記事です。中国側資料に基づくものは一件もありません。

 私自身、国会図書館でソースとなった記事を可能な限り確認してみたのですが、大半は出所不明の伝聞情報でした。

 例えば、「南京」で「連日80人」が「銃殺」されている、という記事の原文はこのようなものです。


『東京朝日新聞』昭和十二年十月二十九日

断末魔の南京決死潜入

 政府・民衆地下に呻吟

滞在十日 一支那人の報告

【上海にて 守山、中村両特派員二十八日発】

(略)

 日本軍の連日の空襲で抗日感情は日々に激化してゐるといふ話だ、戦争が始まった当時は漢奸の名目で銃殺されるものは連日八十人にも及びこの頃でも毎日数名が銃殺されてゐるさうだ

 行政院秘書黄月秋が最初に銃殺されついで汪兆銘の子分で前の鉄道部次長曾仲鳴の一家が全部やられたといふ

(以下略)


 この記事は、「張レイ石君」という人物の、南京潜入時の見聞をベースとしたものです。

 Wikipedia記事ではあたかも「事実」のように語られている部分が、「銃殺されてゐるそうだ」という感じの、単なる不確かな伝聞であることがわかります。

 また「殺された」とされる曾仲鳴は、その後汪兆銘と行動をともにし、1939年、ハノイにて汪の身代わりとして射殺されたことで知られています。少なくとも1937年(昭和12年)当時に「やられて」などいません。「噂」がいかにいい加減かを示す一例でしょう。

 しかしネットで検索すると、こんな怪しげな情報が「事実」として独り歩きしているようで、この記事をベースにしたとおぼしき、「南京大虐殺は実は中国側の「漢奸狩り」だった?」なる妄想記事までヒットする始末です(ライターの名をみると、果たして、あのy1982aさんでした(^^;)




 「新聞」には「事実」が書いてある。少なくとも新聞記者は「事実」を書こうと努力している―これが、今日の「新聞」に対する、一般的なイメージでしょう。

 古くは「伊藤律インタビューでっち上げ事件」、あるいはかつての「サンゴへの自作自演落書き事件」など、新聞の名誉を傷つける事件がいくつも発生しています。しかし「事実でないこと」の報道がこれだけ叩かれるということは、逆に言えば、「大多数の記事は正しいはず」とのイメージを持たれていることの裏返しとも言えます。

 しかし戦前の記事には、こんな常識は通用しません。「大本営発表」をそのまま報道するぐらいでしたらまだ言い訳のしようもあるかもしれませんが、記者が自分で取材しているはずの「署名記事」についてさえ、「戦意高揚」目的、あるいは単に記事を面白くするための、「事実」の創作、捏造が平然と行われていました

 上の「漢奸」記事など、戦後の新聞イメージを戦前の新聞にそのまま適用した悪しき例、と言えるでしょう。(さらに怪しげな伝聞まで「事実」であるかのように書くのは、ちょっと悪質です)

 本稿では、戦前の新聞記事につき、トンデモ事例をいくつか取り上げます。




創作された「残虐行為」

 『潮』1971年10月号に掲載された「執筆者100人の記録と告白」より、2つの例を紹介します。

 1943年1月、激戦が続くソロモンからのレポートです。昭和十八年一月三十日付『毎日新聞』(東京日日改題)の一面トップに、大々的に掲載されました。

 この中に、「米英兵は人ではない」との小見出しの下、連合軍の「残虐行為」が書かれた部分を見ることができます。記事はこの「残虐行為」を材料に、思い切りパッショナブルに、米英への「敵愾心」を煽ります。


『毎日新聞』昭和十八年一月三十日 一面トップ

 想 へ ソ ロ モ ン の 戦 線

 "米鬼"の正体・弗の化物

 断然地上から抹殺

 頭下る我が将兵の勇戦


【〇〇基地にて高原特派員(海軍報道班員)発】

 〇〇基地では今日も朝早くから哨戒機が南太平洋の空へ飛立っていった、

 昨年八月敵が〇〇に上陸して以来六ケ月想像も及ばぬ凄絶な戦闘がこの南太平洋一帯に展開されてゐるのである、戦闘を勝利に終らせるといふ目的の前にこの戦線では一切を捧げつくしてゐるのだ、

 戦争第二年を迎へたからといつて『去年の今ごろは』などと緒戦の戦果を回想する気分にはなれない、ただ黙々と勝ち抜くために歯を食ひしばり敵撃滅への険しい難路をひたむきに登り続けてゐる、

(中略)


米英兵は人ではない

 敵米英兵の残虐さは言語に絶するものがある、記者はこの話を聞いただけで全身の血が逆流するやうな憤激にかられた

 ある戦線でわが軍の重傷者が敵に発見された、敵はこの瀕死の兵をどう扱ったか、鬼畜の如き敵兵はこの重傷者を飛行場用のローラーで轢きつぶしたのだ、

 また他のある戦線では熱病のため身動きの出来ない友軍の病兵を針金で縛りあげ河に水漬けにした


 ああこの行為を何と形容したらよいか、記者はその言葉を持たない、

 残虐! 非人道! そんな言葉では許されない行為ではないか、

 この話をした兵も泣いて語った、聞いたわれわれも泣いた、記者はいまこの記事を書きながら拳のふるへるのを禁じ得ないのだ、

 この仇は必ず撃つ、撃たねばならないのだ、地球上生存を許すことの出来ないこれ等敵兵を一兵も残さず撃ちつぶすまでは一歩たりとも後退は出来ない、

 前線の将兵の憤激は既に爆発してゐるのだ、銃後の敵愾心ももっともっと昂揚してよいのではないか、銃後に米英崇拝の残滓がいささかでもあるとしたら鬼畜にも劣る敵米英兵と血みどろな死闘を続けてゐる前線の将兵に何といって申訳をするのか、ローラーで轢殺され針金で縛られた同朋の英霊に対してどうしてお詫びが出来るのか、

 これらの兵はおそらくは笑って死んでいったらう、祖国のためにそして銃後国民のために何の不平もいはなかっただらう、この点を銃後の人達はしっかりと考へて貰ひたいのだ、そして『今でも前線の勇士達は闘ってゐるといふことを銘記すべきである。

(以下略)

 上の文章を読んだ方は、まさかこれが全くの「創作」であるとは夢にも思わないでしょう。「これこそ連合軍の残虐行為の動かぬ証拠」と言い切ってしまう、あわて者も出てきてもおかしくありません。

 ところが、署名入り記事の当の本人、高原記者が、実はこれはデスクの「創作」であったことを語っています。

高原四郎『書きもしない記事』


 言論弾圧といえるかどうかはさておくが、海軍報道班員としてラバウルに従軍したおり、書きもしない記事を、私の名で捏造された苦い経験がある。

 昭和十七年貢、米軍のガダルカナル作戦が開始された。戦局が日々不利になりつつあることは、誰の目にも明らかだったが、むろん日本軍の被害など書けはしない。大本営発表は、あいかわらず景気のいい情報ばかり。このままでは敗戦必死とみた私は、なんとかこの情況を内地に伝えたいと、記事を送った

 数日後、送られてきた新開をみた私は唖然とした。おぼえのない部分が書き加えられ、「鬼畜米英」という敵愾心高揚記事に見事にすりかえられていたのだ。右の記事中、後段の部分がそれである。

 内地の軍報道部の手になることは明白だったが、抗議することすら許されない立ち場に私も置かれていた ― それが戦争の現実だった。(P173)

(『潮』1971年10月号 「執筆者100人の記録と告白」より)

 今日の新聞でしたら、考えられないレベルの「捏造」でしょう。しかし当時は、「戦意高揚」の名目の下、このような「捏造」が平然と行われていたようです。

※余談ですが、原文記事を読むと、高原記者がいかに苦心して「戦局不利の状況」を伝えようとしたかがわかり、興味深いものがあります。こちらに全文を掲載しました。


 もう一例、同じ「執筆者100人の記録と告白」から、鈴木二郎記者の体験談を紹介します。



鈴木二郎(朝日新聞記者)「煙は天を掩い焼ける音が響く」


〔昭和十五年六月七日付朝日新聞・伝家場にて 信太、鈴木両特派員発〕

 五日払暁漢水西岸に見事無血上陸したわが坪島、益田、高木、鎌浦、藤崎、大谷、村上、山崎の各部隊は抵抗を続ける敵を叩きつげながら西へ西へと一時間六キロ以上という猛スピードで進撃をはじめたが!

(中略)

 この日皇軍が西へ進撃を開始するとともに恐るべき焦土戦術をもって彼らは皇軍の進撃を阻止するに努めて来た、

 皇軍が近づくあの町、この村は勿論のこと、一部落一家屋に至るまで敵の逃げかけの置土産の放火がおほっぴらで行われているのだ

 五月一日だけにわれわれの見たものだけでも百数十件に達し、煙は天を掩ひ焼ける音が銃声のように響いていた、

 しかしわが将兵はこの敵の放火の跡始末、消火や焼け出された老婦女子の救護に努めてをり、感激的の場面を各所で描いている。



 「漢水を渡ったら、部落は全部、一戸残らず焼き払ってしまう。何度討伐しでも、家が残っているかぎり、ここを拠点にしてゲリラが出てくる。こんどの作戦は、敵掃蕩の目的を果たしたら、反転して引揚げるので、ぜんぶ焼いてしまうわけだ。ついては貴公らは、わがほうが焼いていくんだが、これを敵の焦土戦術として報道してくれ。焦土戦術の説明は、どんなに書いてもよい。貴公らに任す」

 のちに宜昌作戦と呼ばれる漢水渡河の前日N参謀が各社特派員を集めて説明した。

 「住民がいるときは、家財を兵隊に持ち出させて避難させるようにする」と付け加えたのを記憶している。

 正直にいって、この説明を聞いたときは、「これで記事のヤマができた」と思った。その場ででも予定稿が書けそうだった。細面に躍る大きな見出しの活字まで想像できた。

 未明に漢水を渡った。前進した。暗い間は火の手は上がらなかったが、夜の明けるとともに、はるか前方に何か所も何か所も黒煙が上がっていた。気づいてみると、見渡すかぎり漠々たる平野の右も左も、部落は燃え上がっていた。遠いのもあれば、近いのもある。

 道ばたの家の火勢の激しさに、前進が阻まれるときさえあった。老女、子供が、燃える庭先で泣きさわいでいたりした。「かわいそうにしとつぶやく兵隊もいたが、黙々として目をそらす兵隊も多かった。しかし、燃えてない家を見つけると、パラパラと駆けだすのもいた。それは獲ものを見つけた犬のように、うれしそうにさえ見えた。そして、すぐ火の手が上がった。

 部隊本部の曹長がいった。「命令されてるもの以外は火をつけるな、といってあるんだが困ったことだ。オレたち、今晩は屋根の下に寝られやせん」

 主計中尉が「閣下が怒っとるよ。部隊の先頭が、どこまで進んでいるか、軍がどこまで展開しているか。一目瞭然、敵にわかる」とあきれた調子で話しかけてきた。(P140-P141)

 そのうちに「いっさい火をつけることはまかりならぬ」と命令が出た。「作戦が終わって引揚げるとき、宿営に困るから家を焼かぬように」というわけだった。

 夜、信太澄夫特派員が一面の記事を書き、私は社会面用を書いた。たしかに私は「これば舞文曲筆の類だ」と思いながら書いた。この思いは、のちのちまて私の心にひっかかった。

 しかし軍刀が、鉄砲がこわくて書いたのではない。戦前に育でられた国民意識が、この記事を抵抗なく書かせたのだと思う。

 いまなら・・・? 人間としての意識に立って、見たまま、感じをままを書くことであろう。明治四十二年制定の「新聞紙法」も陸軍省告示の「陸軍従軍新聞記者心得」も、その他厄介なもののない戦後に育った新聞記者がうらやましいと思う。(P141)

(『潮』1971年10月号 「執筆者100人の記録と告白」より)

※「ゆう」注 放火の火によって「部隊の先頭が、どこまで進んでいるか、軍がどこまで展開しているか。一目瞭然、敵にわかる」との記述は、小俣行男『侵略』「日本軍がどこまで進撃したかを知るには煙をみればわかるともいわれた。部落、部落に火を放って前進するので、進路にはつぎつぎに煙が上ってゆくからだった」と共通します。、


 日本軍は、自軍が行った「放火」を、中国軍の「焦土戦術」として宣伝していたわけです。

 中国軍による「焦土戦術」が存在したことは、今日では広く知られている事実です。しかし個別の事例については、どこまでが「事実」でどこからが「宣伝」なのか、慎重に見極める必要があるでしょう。




1937年南京、外人記者との出会い

 1937年12月の南京陥落当時、「ニューヨーク・タイムズ」のF・ティルマン・ダーディン、「シカゴ・デイリー・ニュース」のA・T・スティールなど、5人の外人記者が南京に残留していました。彼らは、精力的な取材活動を続けた後、南京陥落3日目の12月15日に、オアフ号で南京を去りました。


 さて当時の日本の新聞記事を捜すと、日本人記者が彼ら外人記者と会見した、という記事を発見することができます。私が知る限り、以下の3本です。

 \海記者 「東京日日新聞」1937.12.16付
 ∈0羌者 「東京朝日新聞」1938.1.27付
 C翅宍者 「東京朝日新聞」1938.12.16付




 当時の新聞にとって、「外人記者との会見記事」は、読者の興味を引く、面白い材料だったのでしょう。

 しかし、まずこのうち,寮海記事は、明らかな創作です。

「東京日日新聞」 1937.12.16付

外人記者連、口々に 日本軍隊を礼賛 「第一チツプを取らない」


【南京にて十五日 浅海特派員発

十四日早くも米国の新聞記者三名が外人記者として南京一番乗りをした、 この日午過ぎ米国国旗を翻して二台の自動車でシカゴデーリーニュース記者ステイール、AP通信のマツク=ダニエル、ロイテル通信のスミスの三君が来た、 以下記者(浅海特派員)との問答である

「君達が東日、大毎の記者だつて? 余り服装が物々しいので軍人かと思つた」

「何時やつて来たのだ」

たつた今来たばかりだ、 僕等は三四年前から南京特派員としてここに住んでゐたんだが五週間前に上海に避難したんだ 日本軍が入城するといふので矢も盾もたまらず飛ばして来たんだ」

「何故避難したんだ」

「南京も最初は秩序整然としてゐたんで安心してゐたが、日本軍が南京追撃の形をとつてから急激に物騒になつたんだ、それに第一僕等のニュースソースたる支那人がさつぱり姿を見せぬといふわけだから上海落ちしたんだ 、こゝにゐたつて仕事にならんからね」

「日本軍の南京入城をどう思ふか」

「勿論僕等は大歓迎だ、これで秩序が保持されるからね

敗北の支那軍がゐた頃は実際不安至極だつたよ、日本軍のスピードは世界一だ、僕等は八ヶ月はかゝると見たが追撃戦に移つてからたつた一ヶ月、実に感服したよ、上海から陸路自動車で三ヶ月かゝつたよ」

「さうすると日本軍の真ッ只中を通つて来たわけだね、恐ろしくなかつたかね」

「日本軍の規律を信じてゐるよ、兵士諸君はみな星条旗に好意を持つてくれるからね、途中途が悪くて車が動かぬと多数で押してくれたよ、チツプを出しても絶対に取らんね、支那兵と雲泥の差だ、 三人とも今ぢやすつかり日本贔屓さ、戦場で受ける好意くらゐ嬉しいものはないよ」

「南京に来てどう思ふ」

「まだほんの入口だけで、よく見ないが案外壊れてゐないね、中山路なんか一発も弾を食つてゐないところ感心だ、サムラヒのイデオロギーの発露だな、城壁の爆撃と砲撃は物すごい、 抵抗線だけは徹底的にやるといふ式なんだね」

「これからどうするんだ」

「早速ニュースを送るだけだ、うんと日本軍の正義を宣伝するつもりだ、期待してくれたまへ」


 以前から南京にいたはずの、マック・ダニエル、スティール、スミスの3人が、たつた今(南京に)来たばかりだ、ということになってしまっています。本当に会話を交わしたのであれば、間違えようのないレベルの誤りです。

 記事の他の部分も、ほとんど情報量ゼロ。しまいには外人記者に「うんと日本軍の正義を宣伝するつもりだ、期待してくれたまへ」なんてありえない発言をさせてしまっています。

 浅海記者は、「外人記者が南京にいる」ことを伝え聞き(あるいはたまたま他の記者の会見の現場に同席し)、新聞社名と記者の名前だけを聞いて、勝手な「記事」を書いてしまったのではないか、と憶測されます。

※浅海記者は、「百人斬り競争」の報道を行ったことで知られています。念のためですが、「百人斬り報道」は、野田・向井が話した内容をそのまま記事にしたことが明らかになっており、この事例は、「百人斬り報道」の事実性に影響するものではありません。



 次に、今井記事。今井記者は、スティールとともに行動した体験談を書きますが・・・。


「東京朝日新聞」1938.1.27

戦線から帰つて

−E−

この生活力 今井正剛


(略)

 南京には寂とした死の沈黙が、うつろにひろがつてゐるばかりだつた。すべての屋根、すべての壁は暗い泥色にぬりつぶされ、そして破壊されてゐた。

 崩れ落ちた中華門の前で、私はライカを首からぶらさげた外国人と立話してゐた。その数日間、日本の兵隊さんと、戦死した支那兵の顔ばかり見つづけて来た私にとつて、彼は久しぶりに会ふ世間の人だつた。シカゴデーリーニュースの特派員ステイール君だつた。

 「南京はもう空つぽなんだらうか?」

 二週間前に北京から陥落直前の南京にもぐり込んで来たといふステイール君に、私は先づそう訊ねた。

 大体において空つぽだね、残つてゐるのは戦争なんかどうでもいい連中ばかりだ。

 どれ位?

 三十万

 三十万 ― 私は立止つてステイール君の顔を見つめた。



 一刻の後、私とステイール君とは、鼓楼の裏通りを金陵女子大学の方へ向つて歩いてゐた。なるほど―

 すべての横町から、丁度、押へつけたスポンヂから水がにじみ出て来るやうに、支那人が、南京市民が現れて来るのだ。しかも、にこにこ笑つてる連中さへもあるのだ。

 私は、自分の着てゐるカーキ色の制服をかへり見て、少なからず狼狽した。十二月十四日、兵火はなほ街の方方に残り、私のまはりには「いざ」の場合を護つてくれるべき一兵もない―。

 だのに、出会ふ南京市民諸君は私の顔を見ると、一寸立止つてはにこりと笑つて、さつと右手を挙げる。日本の、軍隊式敬礼である。

 いつ覚えたか。この驚くべき訓練の見事さ。支那人のあざやかすぎるこの転身ぶり―。

 ステイール君は私をかへりみて、にやりとした。そして

 光輝ある日本軍のために!

 彼はかう云ひながら、ぴん、と直立して挙手の礼をして見せた。にこにこと。

 まはりに群つた支那人達が、彼にならつて、もう一ぺん手を挙げたのだ。さつ、と一斉に―。

(三面左、六段囲み記事)

※「ゆう」注 最初の「E」は、「戦線から帰って」シリーズの5回目、という意味です。


 どこまで「事実」と見ていいのか、かなり微妙です。

 最初の会見地点の「中華門」と、「一刻の後」に一緒に歩いていた「鼓楼の裏通り」とは、4、5キロ程度の距離があります。移動に「一刻」かかっているようですので「徒歩」で移動したと思われますが、よほど親しい仲でもない限り、外人記者と日本人記者が連れだってこんな長距離を一緒に歩くことはまず考えらえません。(また、仮にそんな長時間一緒だったとしたら、会話がこんなに簡単であるわけがありません)

 スティールが「車」を使っていた、という可能性も考えられないではありませんが、初対面の日本人記者にそこまでの便宜を図るのも考えにくいところです。

 念のためですが、スティールの側は、当時書いた長文記事、また戦後のインタビューでも、「日本人記者」との同行には一切触れていません。もし仮にそこまで「濃い」関係を築いたのであれば、どこかに記録が残っていてもおかしくないのですが。

 そして後半のエピソードも、いかにも不自然です。日本軍の暴行を告発したスティールが、「光輝ある日本軍のために!」などと言うはずがありません。この部分は、今井記者の創作である可能性がある、と考えられます。



 さて今井記者は、戦後「南京城内の大量殺人」という手記を残しています。

 「手記」によれば、今井記者の「14日」の行動は次のようなものです。

…から城内東部を回りながら、大方巷(中山北路から西に入る通り。なお、安全区の五角形の北東(右上)の斜めのラインが中山北路)の朝日新聞旧支局に入った。

旧支局で昼寝をしていると、血相を変えたアマに叩き起された。中村正吾記者とともに飛び出していくと、「支局近くの夕陽の丘」に中国人四、五百人が集められ、日本軍に殺されようとしている。今井記者らは、「洋服屋のオヤジとセガレ」の救出に成功する。しかし救えたのはこの二人だけだった。

※手記では「15日」となっていますが、日付は今井の記憶違いであると思われます。後で紹介する中村記事でもわかる通り、朝日新聞記者たちが市内入りしたのは実際には「14日」でした。また「15日」には今井記者は中村記者とともに揚子江対岸の浦口に行っており(17日付『大阪朝日新聞』のレポートによる)、上の動きと整合しません。
 「手記」では、朝から「夕陽」の時刻まで、市内北部で行動したことになっています。この内容を素直に信じるのであれば、今井記者がこの日、4、5キロ以上南の「中華門」を訪れ、さらにそれから「一刻の後」に鼓楼まで戻ってくることはかなり困難です

 念のためですが、「手記」には、「スティール」の文字は全く登場しません。

 断定は避けますが、「スティールとの中華門での会見」は、今井の創作である可能性を否定しきれないように思います。

※なお阿羅健一氏は、逆に新聞記事を、手記「南京城内の大量殺人」の記述が怪しいことを示す材料として使っています( 『「南京」の嘘を上塗りした朝日新聞社史』(『正論』2015年2月号)、『城壘』(連載第23回)(月刊『丸』1990年2月号)) 。「15日」には今井は浦口に行っているから「手記」の行動はありえない、仮にこれが「14日」のことだったとしてもこの日には「中華門」に行っているからやはりそのような行動はありえない、というわけです。

 細かい議論になってきますのでここでは詳述は避けますが、「手記」にある「朝日新聞記者による民間人救出」のエピソードは他の資料でも見ることができ、比較的信頼性の高いものであると考えられます。当時の新聞記事のアバウトさを考えると、むしろ「記事」の方の信憑性を疑うべきではないか、というのが私の考えです。



 以上、2件の「怪しげな記事」を紹介してきました。

 結局3記事の中で、「事実」と見られるのは、次の中村記事だけ、ということになります。

「東京朝日新聞」 1937.12.16付


死都を襲つた無気味な静寂

一番恐かつた大砲! この目で見た南京最後の日


タイムズ記者ら語る


【南京にて中村特派員十五日】死んだ首都南京は十四日朝来中山路方面からいぶきを回復して来た、丁度瀕死の病人の顔色が刻一刻と紅潮して行くやうな鮮やかな活気の活動だ、 中山路の本社臨時支局にゐても、 もう銃声も砲声も聞えない、十四日午前表道路を走る自動車の警笛、 車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るやうな錯覚を起す、住民は一人も居ないと聞いた南京市内には数十万の避難民が残留する、 こゝにも南京が息を吹返して居る、兵隊さん達が朗かに話し合つて往き過ぎる

南京目抜きの大通中山路と中正角新街口で北から真直ぐに走つて来たアメリカの国旗を掲げた自動車が記者の姿を見付けてばつたり停まつた 、中からアメリカ人二名が走つて来た 『日本の新聞記者君だらう、僕はニユーヨーク・タイムスの特派員、この男はパラマウントのカメラマンだ』

早急に紹介しながら記者の手をぐつと握つた 『アサヒ』といふと『おゝ、アサヒか』と喜ぶ、 大きい方がカメラマンでパラマウントのアーサー・メンケン君、 背の低い方がニユーヨーク・タイムスのテールマン・ダーリン君

『南京最後の日はどうだ』と聞く 『いやどうも恐ろしかつたね』と両君は次のやうに語る

南京市内の水道が切れたのは九日だ、電気が切れたのは十日だ この頃から南京城外の砲声と銃声は紫金山に谺して物凄く激しくなり同時に市内の中央軍の兵士の往来が神経的になつて来た、

城内の市民は九日には続々新しく造られた国際救済会の避難区に避難して行くのだ

僕等は南京陥落が愈近くなつた事を直感した、蒋介石はいつ南京から逃げて行つたかははつきり判らないが五六日頃まで軍官学校に頑張つて居たんぢやないかと思ふ、日本軍の爆撃と砲撃に危なくて外へ出られないくらい、 十一日から支那軍はドンドン退却を始めた、市中を通らずに城壁を伝はつて下関に向つて行く全く悲壮な退却行軍だつたよ

多分下関から船を利用して揚子江の対岸に落ちのびて行つたのだらう、この支那兵の退却は十二日になると少くなつた、主な部隊は十一日頃迄に逃げたのだらう

十二日には城外の激戦の音が稍衰へて日本軍の砲声が激しく紫金山天文台や富貴山にドンドン落下し一時は凄い唸りを立てゝ僕等の頭上をかすめ南京の北方にどかんどかんと落ちて行つた

一番怖いのは何といつても大砲だわ、支那軍は日本の大砲に随分悩まされてゐたやうですよ、十二日は市中の警備に当る少数部隊の支那兵を残すのみで街はそれこそ本当に死の街となつて無気味な静寂さだつた、 僕等もその時には南京ももう駄目だと思つた、世界の悲劇を見るやうな気持で何ともいへない悲愴な感じだつた


と感慨に耽る、

記者等の姿を認めて又自動車が止まる、現れて来るのは何れも南京の最後を見届けやうと一月も二月も頑張つてゐたA.・Pやシカゴ・トリビューンの特派員達だ、 APのマクダニエル君が四辻を見回し「やあ之は歴史的な新聞記者室だ」と朗かに語つた

(十一面トップ 五段見出し)



 「安全区」東端にある「新街口」で外人記者たちと出会った、という内容です。中村記者は今井記者と「組」になって取材活動を行っていましたが、この会見地点は、「今井手記」に示されている行動ルートとも概ね整合します。ダーリン(ダーディン)記者の話の内容も、今日知られている「史実」と照らし合わせて、特段の違和感はありません。

 さすがに最後の「外人記者勢ぞろい」はどうか、という気もしないではありませんが、概ねのところでは事実である可能性が高い記事、ということができるでしょう。
※余談ですが、笠原氏のインタビューによれば、ダーディンはこの会見を記憶していません。

 以上、「南京での外人記者との会見」をテーマにした3記事を見てきました。

 このうち、おそらく事実であろうと思われる記事は、たったの1つです。当時の「新聞記事」の信頼性の低さは、明らかでしょう。


(2015.6.20記)


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