「揚子江が哭いている」より
「揚子江が哭いている」より


 「創価学会青年部反戦出版委員会」は、「戦争を知らない世代へ」という一連のシリーズ本を発行しています。そのうち第53巻が、「揚子江が哭いている 熊本第六師団出兵の記録」です。

 「南京」関連の証言も若干あり、ネットでもときどき紹介されます。ここでは、そのうち2つの証言を紹介することにします。証言内容すべてがそのまま事実と言えるかどうか、微妙な部分もありますが、議論の参考とすべく、そのまま紹介します。
 
銃剣は相手を選ばず(1)

 高城守一

*「ゆう」注 氏は、1937年7月に応召され、「第六師団輜重第六連隊」の小隊長に配属された、とのことです。

 南京までの途中、通過する部落は、そのほとんどの家々が破壊され、焼き払われ、道路には敵兵の死体だけでなく、民間人の死体も数えきれないほどころがっていた。

 おそらく華中地方の風習であろう、道路には病気、老衰等で死んだ人も、木箱に入れて並べてあった。

 第一線部隊は、それら木箱の死体に対して、ひっくり返したり、焼いたり、死体を坐らせて日の丸の旗を持たせたり、タバコを口にくわえさせたりもした。

 途中にころがる無数の死体の中でも、とくに婦女子の死体には、下腹部に丸太棒をつき刺してあり、目をそむけたくなるような光景であった。

 日本軍の急進撃のため、路傍に取り残されて泣いている赤ん坊がいた。母親が殺されたのか置いて逃げたのかわからないが、一人ぽつんと残されていた。その子を歩兵の一人が、いきなり銃剣でブスリと、串刺しにしたのである。

 赤子は、声を出す間もなく、即死した。

 突き刺した兵は、さらに、刺したまま頭上に掲げた。それも誇らしげに・・・。「やめろ」という間もない、アッという間の出来事であった。

 つねに、最前線をゆく兵士としてみれば、戦友の戦死等により、毎日が、生と死の間に身を置く状態である。自然と気も荒くなり、また、敵愾心も増すのであろう。死骸に対して、あるいは無抵抗の民間人に対して、さらには赤ん坊にまで目をそむけたくなるような仕打ちをしていく。

 だが、注意しても聞くような兵たちではなかったし、そのような状況ではなかったのだと思う。このように、行軍中あらゆる場所で、悲惨な状況が繰り広げられていた。

(「揚子江は哭いている」P93〜P94)



 「下腹部」に丸太棒等の異物をつき刺した「婦女子の死体」という記述は、いくつかの資料に登場します。 「日本にはそんな風習がない」という、情緒的でいいかげんな根拠だけから、これを「日本兵の仕業ではない」と断定する意見をたまに見かけますので、一応、資料を並べておきましょう。

色川大吉氏 「ある昭和史 自分史の試み」

十五年戦争を生きる 

・・・それにもかかわらず、若干の秘密は直接体験者の言葉を通してひろがるものだ。それから(「ゆう」注 「南京事件」から)二、三年後のことであるが、その一端は田舎の一中学生であった私のような者の耳にまで、はっきりと届いている。

 Tという元陸軍伍長のトラック運転手がいた。私の家に仕事のことで出入りしていたが、ある日、私にこんなことを話した。その姑娘(クーニャン)(中国娘)をみんなで手ごめにしたあと、気絶していた娘の膣に、そばに転がっていた一升びんを突っこみ、どこまで入るか銃底で叩きこんでみた。そしたら血を噴いて骨盤が割れて死んでしまった、と。

 それを一片の悔悟の気持もあらわさず、むしろ毒々しい笑いを頬に浮かべて、自慢そうに話したときの態度を、私は一生忘れることができない。Tは日本に帰れば善良な労働者であり、平凡な家庭の父であり、礼儀正しい常識人であった。その人の表面の平静さの奥にかくされた恐ろしい人格の崩壊ぶりは、帝国主義戦争の結果だといってすますにはあまりにも無惨すぎる。 こういう種類の日本人がこんどの戦争で何十万人も生れ、そして、今なお生き残っていることを私たちは片時も忘れてはならない。それが自分自身であるかもしれないからである。

(中公文庫「ある昭和史」P73〜P74)


秦郁彦氏「南京事件」より 小原立一日記

十二月十四日

最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた

(中公新書「南京事件」 P121)

*「ゆう」注 本書の解説によれば、小原立一氏は、「第十六師団経理部」の「予備主計少尉」だった、とのことです。


小俣行男氏「侵掠」より

 それにしても、敵側の惨虐は報道し得ても、「皇軍」の残虐は報道できない―。

 町はずれの路傍で姑娘が、地べたに腰をおろしていた。近づいてみると、上衣はつけていたが、下着も下穿きも脱がされていた。二十歳前後だろうか。その頃流行の断髪姿、顔立ちも整った美人だったが、兵隊に犯されて立つ気力を失ってしまったのだろう、手だけはわずかに動いて、眼は大きく開いていたが、どこをみているのか、うつろな瞳だった。

 通りがかって兵隊がやったものだろう。裸の股の間に棒キレがさしこまれていた。 女はそれを抜いて捨てる気力もないようにみえた。兵隊たちが立ちどまって覗きこんでいた。
そのとき、小隊長らしい将校がやってきて、兵隊に向って「かたづけろ!」とどなった。

 いったいどこへ片付けろというのだろう。病院もなければ、住民もいない。手当するようなところもない。数人の兵が姑娘をかついで行った。

 夕暮どき、私は兵隊たちにきいた。
 「あの女、どこへかたづけた!」
 「焼いちゃいました。あんな恰好でころがっていたのでは、死んでも浮かばれないでしょうから、マキを積んで、その上にのせて、焼いちゃいました」。


 彼女は虫の息だったが、たしかに生きていた。すると、彼女は生きたまま焼かれたのである。

(P53〜P54)

*「ゆう」注 筆者の小俣氏は読売新聞の記者で、一九三八年一月から一九四二年八月にかけて、中国戦線、そしてビルマ戦線で従軍取材を行いました。これは、一九三八年六月頃、朦朧城という町での出来事だったようです。

  あるいはこれは、一部の「異常者」の仕業だったのかもしれません。しかしいずれにしても、これらの資料を見る限り、「日本にはそのような風習がなかったから日本兵の仕業ではない」という幼稚な論理は通用しそうにありません。



さて、高城氏の記述に戻ります。

銃剣は相手を選ばず(2) 

 高城守一

 こうして、われわれの不眠不休の厳しい追従行軍は、約二週間続き、昭和十二年十二月十三日に、南京の郊外に到着した。途中、市街戦の跡が生々しく、完全な家々は一軒もなく、破壊されつくし、中国兵の死体が各所に散乱していた。

 われわれは、南京城陥落の直後、南京中華門に到着した。壊れ果てた家々のガレキがたちはだかる市街を通過するので、輸送はなかなか困難であった。

 南京城中華門を目前にした時、約十五メートルほどの堅塁である城門を、よくもやったなと、誰もが言っていた。いったん中華門より入城したが、再び城外に出て露営した。

 翌十四日昼前頃、武器、糧秣補給の命が下り、糧秣補給のため、揚子江を登ってきた輸送船が着く下関の兵站まで、物資を取りに出発した。

 昨日までの砲声は絶え、揚子江には、数隻の輸送船が停泊し、護衛艦がゆるやかに、上下に航行していたが、この時、下関で目撃した惨状は、筆舌につくし難い。それは私の理解をはるかに越えたものであった。

 揚子江の流れの中に、川面に、民間人と思われる累々たる死体が浮かび、川の流れとともにゆっくりと流れていたのだ。

 そればかりか、波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。

 南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は、銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか。焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状態であった。 焼死体の中には、子供に間違いないと思われる死体も、おびただしくあり、ほとんどが民間人に間違いないと思われた。

 私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまにあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。

 われわれが下関の兵站倉庫に行った時、そこではおびただしい糧秣が揚陸されていたが、南京城攻略戦の時捕虜にした敵兵を、苦役(クーリー)として使っていた。私が見ただけでも、二、三百人はいたと思う。

 彼らは極度に疲労しているようすであり、重い荷物を持つと、足元がふらついていた。そして、極限に達し、倒れる者が続出した。倒れたまま起き上がれない者は、容赦なくその場で射殺され、揚子江に投げ込まれているのだった。そうした死体はやがて濁流に呑まれて、見えなくなった。

 私は下関にいたのは短時間であったが、その間に十名前後のクーリーが射殺されるのを目撃した。

(「揚子江は哭いている」P94〜P96)

 「揚子江に浮かぶ大量の死体」「岸辺の大量の死体」の存在は、いろいろな資料でも語られているところです。「人数」については、「目分量」である以上、目撃者によって差が出るのはやむえないところですが、「死体目撃」の事実自体の記述は概ね正確なものと思われます。

 注目されるのは、「子供に間違いないと思われる死体」も「おびただしく」あった、との部分です。 状況から推して、下関方面の犠牲者には多数の民間人が混じっていた可能性もあると考えられますが、この証言が正しいとすると、これはひとつの裏付け証言とも言えるかもしれません。



 「揚子江に浮かぶ大量の死体」については、この本の他の証言にも言及が見られます。

揚子江を埋めた屍

赤星義雄

*「ゆう」注 赤星氏は、1937年7月30日応召を受け、第六師団歩兵第十三連隊の二等兵として配属されました。

 明けて十二月十四日、私たちは城内を通り、揚子江岸に向かって進んだ。ちょうど、中華門の反対側になるが、重砲陣地のある獅子山へ行った。

 山の岩盤をくり抜き、車一台が通れるような道路をつくり、約五十メートルごとに巨大な砲が据えつけてあった。日本海軍を阻止するために作るために作られたと聞いていた。もちろん、敵の姿はなかった。

 その砲台から眼下を流れる揚子江を見ると、おびただしい数の木の棒のようなものが、流れているのが遠望された。

 私たちは獅子山から降りて、揚子江岸へと向かって行った。途中、中国人兵士の死体が転がり、頭がないものや、上半身だけしかないものなど、攻撃のすさまじさを物語っていた。

 揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、そのに立って揚子江の流れを見た時、何と、信じられないような光景が広がっていた。

 二千メートル、いやもっと広かったであろうか、その広い川幅いっぱいに、数えきれないほどの死体が浮遊していたのだ。見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”のように、ゆっくりと流れている。上流に目を移しても、死体の”山”はつづいていた。それは果てしなくつづいているように思えた。

 少なくみても五万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、まさに、揚子江は”屍の河”と化していたのだ。

 このことについて私が聞いたのは、次のようなことであった。

 前日、南京城を撤退した何万人にのぼる中国軍と難民が、八キロほど先の揚子江流域の下関という港から、五十人乗りほどの渡し船にひしめきあい、向う岸へ逃げようとしていた。

 南京城攻略戦の真っ只中で、海軍は、大砲、機関銃を搭載して揚子江をさかのぼり、撤退する軍、難民の船を待ち伏せ、彼らの渡し船が、対岸に着く前に、砲門、銃口を全開し、いっせいに、射撃を開始した。轟音とともに、砲弾と銃弾を、雨あられと撃ちまくった。直撃弾をうけ、船もろともこっぱ微塵に破壊され、ことごとく撃沈された、と。

 私は、この話を聞いた時、心の中で、「なぜ関係のない人までも・・・」と思い、後でこれが”南京大虐殺”といわれるものの実態ではなかろうかと思った。

(「揚子江が哭いている」P29〜P30)

 「五万人以上」という「目分量」は、多すぎるかもしれません。また、「ほとんどが民間人の死体」という認識も、微妙なところです。しかし、「大量の浮遊死体」を目撃したという事実自体は、まず間違いないものと思われます。



2013.4.7追記

 「揚子江を埋め尽くす死体」につき、満鉄社員・長沢武夫氏も目撃証言を残しています。

『長江の流れと共に 上海満鉄回想録』より

 調査室第四係 長沢武夫

 昭和十二年十二月南京陥落後、南京の図書収集の仕事を命ぜられ、十三年一月下旬、物資輸送の軍用列車にゆられて南京へ行った。

(略)

 その頃の南京は、獅子山の砲台の下あたりに、まだ中国兵の死体が放置されているのをよく見かけたし、南京下関と浦口の間の揚子江上には、南京を逃げ出す時の軍民の死体や、南京大虐殺の後始末の死体などで、あの広い揚子江がびっしり埋めつくされていた

 これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたりしており、その光景を見たやり切れない気持を、スウェン・ヘデンの探険記に没入することによって、僅かに癒すとともに、ヘデンの渇死寸前の不撓不屈の精神に鼓舞されながら読み進んだものである。

(P152)

(2003.7.13)


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