資料:ヴォートリン日記に見る「殺害事例」


  外国人による「殺害事例」の記録は、「国際安全委員会文書」ばかりではありません。各人が個人的に記した日記や手記にも、さまざまな「事件」が記されています。

  ここでは、金陵女子大学の教師として同大学キャンパスに避難した女性たちを守った、ミニー・ヴォートリンの日記から、 彼女が避難民などから聞いた「殺害事例」の記録を紹介します。


 ヴォートリン日記の記述はほぼ自分の見聞の範囲に限られており、その淡々とした記述は、資料価値が高いものと言えるでしょう。

  以下の事例はヴォートリン自身が直接目撃した話ではありませんが、被害者の近親者・知人など、「殺害事例」を正確に知ることのできた人物からの聴取がほとんどであり、その証言には一定の信頼性があると考えられます。
*余談になりますが、「南京事件」論議では、「伝聞」であることを材料に証言・記録の信頼性を否定しようとする議論をよく見かけます。 その信頼性は、証言の状況、証言者の資質、証言内容などで総合的に判断されるべきものであり、「伝聞」であることのみを理由に「信頼できない」かのように扱う議論は、あまりに一方的なものでしょう。



一二月二〇日 月曜日

 午後四時、ビッグ王といっしょにアメリカ大使館に行き、そこから日本大使館に連れて行ってもらった。 ふたたび実情を伝え、使用人二人の送還と、日中の憲兵派遣を要請した。アチソン氏の料理人の話では、 彼の父親が射殺されたが、死骸を埋葬するために家へ戻る勇気のある者がいない、というのである。

(「南京事件の日々」 P70)



一二月二一日 月曜日

 一時三〇分、アチソン氏の料理人といっしょにキャンパスの西の方角に向かった。 料理人は、七五歳の父親が殺されたと聞いていたので、ぜひ確認したかったのだ。わたしたちは、道路の中央に老人が倒れているのを見つけた。 老人の死骸を竹薮に引き入れ、上にむしろをかけた。老人は、危害をこうむることは絶対にないと言い張って、大使館で保護してもらうことを拒んでいた。

(「南京事件の日々」 P71)


一二月二一日 月曜日

 日本大使館を出てから、今度はアメリカ大使館の使用人といっしょに三牌楼にあるジェンキンズ氏宅へ行った。 彼の家は、アメリカ国旗を掲揚し、日本文の布告や東京あて特電の文を掲示することによって護られていたにもかかわらず、徹底的な略奪をこうむった。 ジェンキンズ氏が信頼していた使用人は車庫で射殺されていた。彼は雇い主の家を出て大使館に避難することを拒んでいた。

(「南京事件の日々」 P72)



一月五日 水曜日

 夜、男性がキャンパスに避難している娘に食べ物を差し入れたい、と言ってきた。ここには男性を入れることはできないというと、わたしにはいまは娘しか残っていない。 三日前の夜、安全区内で妻が抵抗して大声を出したら、銃剣で胸を突き刺され、そのうえ、幼い子どもは窓から放り出されてしまった」と訴えた。

(「南京事件の日々」 P99)


一月二四日 月曜日

 大使館に行くつもりで校門を出ようとしたら、一人の少女が近づいてきて、いましがた三人の兵士が彼女の家に押し入り、少女たちを連れて行こうとしている、と訴えた。

 彼女といっしょに駆けつけたところ、兵士たちはすでに立ち去ったあとで、彼らが連れて行こうとした少女たちは敏速機敏に行動して、首尾よく裏木戸から逃げ出し、金陵女子学院に駆け込んだのだった。

  少女といっしょに学院に歩いて戻る道すがら、彼女は、日本兵が城内にはじめて侵入してきたさい、彼女の六七歳の父親と九歳の妹が銃剣で刺し殺されたことを話してくれた。

(「南京事件の日々」 P134)


二月二四日 木曜日 

  父親、母親、母方の祖母、それに乳呑み児の妹をみな日本兵に殺されたという少年が午後わたしに会いにきた。少年は彼等全員が殺されるところを目撃したそうだ。 彼と盲目の女性は、金陵難民収容所のことを聞いてここへやってきたのだ。父親は人力車夫だった。

(「南京事件の日々」 P183)


三月四日 金曜日 

 正午過ぎまもなく一七歳の避難民の少女がSuhu(蕪湖)からやってきた。そのかわいそうな女の子の話は、彼女の顔の表情に劣らず悲しい。

 日本軍が蕪湖に進入してきたとき、兵士たちが彼女の父親の店―父親は何か商いをしていた―に行ったというのだ。

  彼女の兄が兵士と同じように髪を短く刈り込んでいたため、父親、母親、兄、義理の妹、それに姉すべてが銃剣で刺し殺された。

  彼女は他の女の子八人ほどいっしょに二人の兵士に拉致され拘束された。彼女の生活は地獄だった。

 二週間ほど前に兵士は少女を南京の南門に連れてきた。 他の兵士たちよりは親切な一人の将校が少女に、このキャンパスにくるように言ったのだ。わたしたちは少女に、寝具、洗面器、ご飯茶碗、箸を与えた。思うに、これが多くの家族の運命なのだ。

(「南京事件の日々」 P193)



三月十七日 木曜日 

  きょうは三人の女性が農村地域からとぼとぼと歩いてやってきた。彼女たちの夫をみつけてくれないかと、わたしあての陳情書を持ってきたのだ。 いちばん年下の女性が言うには、彼女の舅は殺され、夫は一二月二六日、登録したさいに連れ去られたまま、戻ってこず、おそらく戻ってくることはあるまい、というのだ。


(「南京事件の日々」 P212)


三月二八日 月曜日 

 午後五時、女子学院の西の虎踞関路へ歩いて出かけた。 マーガレット・トムソンのかつての料理人の母親がいまでも自分の小さな家の番をしているが、彼女は、怖くてそこには住む気になれない。 彼女はわたしに、破壊の状況を見にその家へ行ってもらいたがっていた。

 扉の閂をはずし錠を開けるのに一〇分ぐらいかかった。内部は見るも哀れな光景だった。何もかもが乱雑になっていた。 たくさんの家具が薪に使われていた。一二月の半ばごろのことだったが、長年彼女が連れ添ってきた夫が、お金はもっていないと言ったところ、家から引きずり出されて射殺されてしまった。

(「南京事件の日々」 P230)


三月三〇日 水曜日 

 「寡婦の家」は門方(中国語で「門のそば」の意味)に、つまり南門の東にある。 わたしたちは二股の小路に入ったあとまもなく、かつて避難民として二〇日間ほど金陵女子学院にいた胡老人と彼の妻に出会った。彼はわたしたちに、お茶を飲みに彼の家に寄って行くようしきりに勧めた。

(中略)

 彼らはわたしたちに、ある庭師一家のことを話してくれた。彼らの家から遠くないところに住んでいて、一八人の家族のうち一六人を失ったという庭師だ。 これ以外にも、ここで繰り返すにはあまりにも残酷な話もいくつかしてくれた。彼らが侵略者どもは畜生だと思うのも不思議ではない。

(「南京事件の日々」 P234)


一九三八年五月  (翻訳者によるダイジェスト)

 五月になると、南京の中国人にも比較的離れた地方との往来が可能になり、それにともなって、南京周辺地域で発生していた悲惨な被害の様相がヴォートリンにも伝えられるようになった。

(中略)

 杜という使用人は、徐洲の北西四五キロにある実家を破壊され、義母は日本兵に首を斬り落とされて殺害され妻と子どもはどこかに逃げているはずだ、 と何度も泣きながら悲劇を語った。
 
 また、このころになると、日本軍の南京占領以前に家族のうち婦女子だけで近郊農村に避難して行った人たちが大勢南京に戻ってくるようになった。これらの家族には新たな悲劇が待ち受けていた。

  常婆さんは、娘とともにヴォートリンを訪れ、こう語った。彼女の五三歳の息子は何年も結核を患っていて、妻も子どももいる。 常婆さんのもう一人の三三歳の息子が精米所で働き、月五〇元の賃金を得ていた。彼にも妻と四人の子どもがいる。九人の常家族がこの三三歳の息子一人の稼ぎに頼って生活していた。

  この息子だけが仕事のために南京に残り、他の八人は長江北へ避難して数カ月を過ごした。持参したものをすべてつかい尽くして南京に戻ってきたら、 この息子が日本兵に殺害されていたのである。一家の生活を支えていた息子が殺されてしまい、常家族の八人は、あすの糊口をしのぐのにも窮しているというのである。

(「南京事件の日々」P241〜P242)


一九三八年五月九日  (翻訳者によるダイジェスト)

 九日の夜一〇時ごろ、三牌楼に住んでいた劉おばさん(五〇歳)の家に二人の兵士がやってきて、家の中に二人の嫁がいるのを見つけて、なかに入れろと激しくドアをたたいた。 劉おばさんが拒絶し、憲兵を呼びに行こうと外に出たところを、兵士たちは彼女の顔を銃剣で斬りつけ、さらに胸部を刺して逃亡した。重傷を負った劉おばさんはまもなくして死亡した。

(「南京事件の日々」P243)

*厳密には、以上の事例の中には「徐洲」「蕪湖」という「南京」以外での事例もありますが、参考のため、あわせて紹介しました。

(2003.5.11)


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