資料:ヴォートリン日記に見る「連行事例」


  南京入城後、日本軍は「国際安全区」内で「敗残兵狩り」を行いました。その「敗残兵」の選別方法はあまりに杜撰なもので、日本軍に連行され殺された「敗残兵」の中には多数の一般市民が混在していたことは、否定しようのない事実です。

 ヴォートリンは、残された家族から大量の訴えを受け、そのことを記録しています。事件の実情を知る上で、貴重な資料であると言えるでしょう。


 ヴォートリンへの訴えは、2月ころまでは、日本軍占領直後の連行(大半が「敗残兵狩り」の巻き添えであると思われます)が中心です。 その後、農村部からの訴えも目につくようになりますが、こちらは「荷物運び」等の「強制連行」によるものも含まれるかもしれません。

 いずれにしても、ほとんどの者については、連行後数ヶ月が経過しても家族の下に戻ってこなかったのですから、一部の例外を除き、日本軍によって殺害された可能性が極めて高い、と見ていいでしょう。


 以下、ヴォートリン日記から、関連する記述を紹介します。




一月三日 月曜日

 午後、若い女性二人がわたしの執務室にきて、夫を捜し出すのに力を貸してほしい、と訴えた。 三人兄弟のうち二人が十二月十四日に連行されたという。その一家は、南門の近くで鴨肉屋を経営していた。

(「南京事件の日々」 P96)


一月五日 水曜日

 これも午後のことだった。わたしが執務室にいると、新婚一八日目の若い花嫁が、夫を捜す手伝いをしてもらえないか、と言ってきた。 彼は何の罪もない洋服の仕立屋で、一二月一五日、家から連れ去られたまま戻ってこない、というのだ。


 さらに別の新婚二ヵ月の若い花嫁がやってきて、一二月一六日に夫が連れ去られたと話し、わたしに援助を求めた。

 いずれの場合も夫は兵士ではなかったが、戻ってくる見込みはほとんどないのではないかと思う。当初のあの狂乱の時期には多くの若者が銃殺されたからだ。 前者は一〇人家族を、後者は八人家族を扶養する一家の柱であった。このような悲話がたえず耳に入ってくる。

(「南京事件の日々」 P99)



一月一一日 火曜日

 四時から五時まで執務室にいると、大勢の女性が入ってきて、夫の捜索に力を貸してほしいと懇願した。数週間前から、つまり、一二月十四日以来いなくなってそれきり、という事例もいくつかあった。

 ご主人は戻ってこないだろう、とはあまりに酷なことで、そんなことは言えない。 しかし、連れ去られた若者については、多くの場合それは当たっている。若者たちは、当初のあの恐ろしい時期に銃殺されたのだ。

(「南京事件の日々」 P111)


一月一五日 土曜日 

 午後、夫や息子が連行されたまま戻ってこないという二六人の女性の事例を日本大使館に報告した。 いずれの事例でも、夫がかつて兵士であったことはなく、多くの場合が大勢の家族を養うただ一人の稼ぎ手だった。

 大量虐殺がおこなわれた当初のあの残虐非道の時期に、このような人たちがどれほどたくさん殺害されたことだろう。当時は銃声が聞こえるたびに、だれかが―おそらく何の罪もない者が―殺されたのだろうと思ったものだ。

(「南京事件の日々」 P117)


一月二〇日 木曜日 

  王さんと孫さんはひきつづき、夫や息子が戻ってこない女性のデータを書き留めている。 ある女性が、一二月一六日、三八歳の夫と一七歳の息子が連れ去られ、彼女と幼い娘だけがあとに残されてしまった、と話してくれたところだ。 かりに彼女が自宅にとどまっていたとしても、夫と息子を危機から救うことができたかどうか―あの恐怖の時期に―誰が答えられようか。

(「南京事件の日々」 P125)


一月二一日 金曜日  

  ここ数日間、悲しみで狂乱状態の女性たちが報告してきたところでは、一二月一三日以来、夫や息子が行方不明になっている件数は五六八件(?)にものぼる。 彼女たちは、夫は日本軍のための労務要員として連行されたのだと、いまもそう信じている。 しかし、わたしたちの多くは、彼らは黒焦げになった死体に混じって、古林寺からそう遠くない池に放り込まれているか、埋葬されることなく定准門外に堆く積まれた半焦げ死体に紛れ込んでいるのではないかと思っている。

 一二月十六日の一日だけで四二二人が連行されたが、この数は、主としてここのキャンパスにいる女性の報告によるものだ。 一六歳か一七歳の若者多数が連行された。また、一二歳の少年が行方不明であるとの報告もあった。ほとんどの場合、連行された者は一家の唯一の稼ぎ手であった。

(「南京事件の日々」 P128)


二月二日 水曜日 

  上海からついさっき帰ってきた福田氏と会うため、一一時一五分、日本大使館へ行った。 彼は、わたしが提供した、六五八人の行方不明者―わたしたちの収容所にいる避難民女性の夫や息子―の資料を受け取った。 大多数の者は一二月一六日に連行された。福田氏は、できるだけのことはするつもりだ、と言ってくれたが、わたしは、それは誠実なことばだったと思う。

(「南京事件の日々」 P150)


二月七日 月曜日 

 これまでのところ、避難民の報告で行方不明とされている男性のおおまかな分類は以下のとおりだ。 商人三九〇人、庭師・農民・日雇い労働者一二三人、工芸職人・仕立て職人・大工・石工・料理人・機織り職人など一九三人、警察官七人、消防士一人、少年(一四歳―二〇歳)九人、 合計七二三人だった。これらの人びとの大多数は一二月一六日に拉致され、いまだに帰宅していない。

(「南京事件の日々」 P158)


二月二四日 木曜日

 けさもまた女性の難民が、一二月一三日に拉致された彼女の夫の解放に力を貸してもらえないかと、金陵大学からやってきた。 彼女は農村出身の貧しい女性で、扶養しなければならない子ども三人を抱えていた。彼女の兄も同じ日に刺し殺されたのだと思う。彼女は、夫は下関にいると思っている。

(「南京事件の日々」 P183)


三月一八日 金曜日

 午後もひきつづき女性たちがやってきた。彼女たちのほとんどが悲痛な物語をもっていた。私は、横に座って彼女たちを慰める以外は何もしたくなかった。 四人の息子を連れ去られたという一人の女性がやってきた。また、大勢の女性が、自分と三人ないし四人の子どもを扶養していた大黒柱が連れ去られた、と訴えた。

(「南京事件の日々」 P214)


 
三月一九日 土曜日

 午前九時から午後五時まで王さんと彼の息子、それにわたしが二人の使用人に手伝ってもらって、三通の嘆願書の署名をしに引っきりなしにやってくる女性たちをさばいた。 悲嘆に暮れた哀れな女性たちだ。悲しみと絶望に沈み、心配にやつれた彼女たちの顔、仕事で荒れて硬くなった彼女たちの手を忘れることはできない。

 次のようなことばが耳について離れない。「あの子はわたしの一人息子なんです。」「あの連中はたしの息子三人をみな連れ去ったけれど、怖くて彼らに哀願する気にはなれません。」 「家族のうち男四人が連れ去られたまま、いまだに帰ってきません。」「わたしには三人の子どもと姑が残されているだけで、暮らしを立てる手段がありません。 施しを請うことしかできないのです。」「家族にとっての唯一の支えである二人の孫が連れ去られてしまいました。」

 ほとんどの女性はわたしよりも大きな期待を懸けているだけに、息子や夫がいまでも生存していると思っている。わたしは、城門の外や人里離れた谷間の池の付近にあまりにもたくさんの死体の山があることを知っているので、楽観的にはなれないのだ。期待するのは、模範刑務所に入っている人たちの釈放が嘆願書によって実現されること。安全区の外にいた多数の一般市民はその場で殺害され、安全区内にいた何千何万の人びとは安全区の外に連れ出されたうえで殺害されたようだ。

 この二日間に六〇五人の女性が嘆願書に署名した。

(「南京事件の日々」 P214〜P215)


三月二二日 火曜日 
 
午後四時まで嘆願書の署名がおこなわれた。合計一一〇五人が署名した。
 

(「南京事件の日々」P220)


三月二三日 水曜日 

 わたしが一時間の中国語学習を終えたあと、一二時に王さんといっしょに文科棟に行ったところ、嘆願書に署名したいという女性が大勢いたので、二時から署名してもらう手はずをつけた。 これらの女性は大部分が、南京の北および東の農村地域の出身だった。

 彼女たちが言うには、夫や息子が拉致されるさいに彼らのために慈悲を請うた結果は無益どころか、もっと具合の悪いことになった。何の役にも立たず、彼女たち自身を危険に陥れたのだ。

 とても考えられないことだが、きょうきた女性たちは、これまでにきた女性たちにもましてかわいそうだった。 ある女性は、彼女と彼女の夫は農業を営んでいたのだが、夫は拉致され、家は焼かれてしまった、と言った。 彼女には三人の幼い子どもが残されたが、かつて自分の家があった場所には怖くて戻る気になれない、というのだ。 
 
(「南京事件の日々」P222)



一九三八年四月  (翻訳者によるダイジェスト)

 国立中央大学の付近にある模範刑務所に元兵士の嫌疑を受けて多くの民間人が入獄しているという情報をもとに、ヴォートリンの救出活動は粘り強く続けられた。 南京市政府公署の顧問をつとめる許伝音博士から、収容されている民間人の釈放を求めるには新たな形式の嘆願書と名簿の提出が必要であるといわれたヴォートリンは、四日間をかけて新しい書類を作成させる。

(中略)

 夫や息子を拉致された女性たちが、同刑務所からの釈放嘆願書に名前を書けば、行方不明のままの夫や息子が戻されるのではないかという一抹の望みを託して、 新たな形式で開始された嘆願の署名に、一日に数百人の割合で女性が金陵女子文理学院を訪ねてくる。

(中略)

 六日の日までに、九三五名の釈放嘆願署名が集まったが、そのうち模範刑務所に収容されているのを確認できているのは一〇人にすぎなかった。 嘆願者の受付時にスタッフが調査した結果では、上記の嘆願者総数のうち、二四一名の女性が、一家の働き手の男性を失って収入もなく、何人かの子どもと老人を抱えたままで絶望的な生活状況にあることが判明した。

 その日の午後、たいへん美しい若い婦人が三人の子どもをつれて嘆願署名に訪れ、夫が拉致されて不明のまま、助けてくれる人もいないと悲しそうに話していった。 この日で署名数は一〇三五名になった。その数字の一つ一つに夫や息子を失った女性の悲劇がこめられていた。

 数日後には、三ヵ月前に三人の息子を拉致されたという初老の母親が、ヴォートリンたちに会えば、なんとかして息子たちを返してもらえる方法を知っているのでないだろうかと訪ねてきた。
 
(「南京事件の日々」P237〜P239)



一九三八年五月〜六月初旬  (翻訳者によるダイジェスト)

 そんなヴォートリンにとっての朗報は、模範刑務所に捕らわれていた民間人のなかで、元兵士でないことが証明された者の釈放がようやく可能となり、 六月二日、嘆願署名を作成した婦人のうち、刑務所に夫がいることが確認された者は面会にくるようにとの連絡が入ったことである。

 そして翌日、三〇名の男性市民が模範刑務所から釈放され妻子、家族のもとへ帰って行った。 ヴォートリンは、一月から始めた釈放嘆願署名の成功を喜ぶとともに、結局は夫や息子が戻らなかった圧倒的多数の釈放嘆願署名者の女性の失望を考えると、気持ちは複雑だった。
 

(「南京事件の日々」P243〜P244)





 なお、「敗残兵狩り」に伴なう「市民の誤認殺害」について、東中野氏はこんな記述を行っています。

東中野修道氏「南京虐殺の徹底検証」より

 歩兵第七連隊は六六七〇名の正規軍兵士を刺殺もしくは射殺した。

(中略)

 もし家族の一員が兵士と誤認されて射殺されたとすれば、犠牲者の具体的氏名を挙げて、それを非難する声があがっていたことであろう。しかし、そのような国際委員会の抗議はなかった。

(P186〜P187)



 「誤認殺害」の事実までを否定してしまうというのは、「否定派」の中でも、特異な見解です。これがいかに無茶な見解であるかは、ヴォートリン日記の記述を追っていくだけでも、十分にわかると思います。


 

(2003.5.17記)



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