レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

―『文藝春秋』2006年3月号「三人の卓子」―


笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』への抗議


「三人の卓子 読者と筆者と編集者」

<編集部より>

 二〇〇五年十二月号掲載、笹幸恵氏「『バターン死の行進』女一人で踏破」について、日本軍の捕虜として六十四年前、「バターン死の行進」を体験したレスター・テニー氏より、抗議の手紙が編集部に届きました。

 「バターン死の行進」で日本軍の捕虜虐待行為によって多くの犠牲者がでたことは、歴史的事実です。笹氏の記事はこうした蛮行の否定を意図したものではありませんし、編集部にもそうした意図がないことは言うまでもありません。

 同記事では元捕虜の人々の証言を紹介することができませんでした。捕虜として悲惨な体験をされたテニー氏の肉声は貴重です。(P488)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』


 あの忌まわしい「バターン死の行進」の行程を自ら巡った画期的な行脚に基づいて、ジャーナリストの笹幸恵氏が執筆した記事について意見を述べさせていただきたい。

 アメリカでは、「バターン死の行進」の歴史についてこれまでに多くの著書が書かれているが、笹氏は日本側の観点は遺憾ながらこれまで不在だったと述べている。このような記述が冒頭に見られたため、「死の行進」がわれわれ生存者に及ぼした影響を検証するために氏が時間と労力を費やしたことを、私は喜ばしく思った。

 だが、当該記事をつぶさに検討した結果、私は笹氏が「バターン死の行進」の行程を行脚したのは、実は「死の行進」は犠牲者たちが主張してきたほど過酷なものではなかったことと、生存者が語る体験は虚偽であり、信頼するに値しないことを証明することが目的だった、と結論せざるを得ない。これは、われわれ犠牲者にとって極めて侮辱的な結論である。(P488)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

 まず、多くの元戦争捕虜の実体験に関する氏の記述のいくつかを検証してみよう。

 笹氏は冒頭の記述で、われわれ戦争捕虜は武器を携帯しておらず(この記述は正しい。なぜなら、われわれは囚われの身になったばかりだったし、武器の携帯を許される捕虜など、しょせんあり得ないからだ)、所持品は水筒だけだった、と書いている。

 では、実態はどうだったのだろうか。(P488-P489)

 行進中のわれわれの所持品と言えば、米比軍駐屯地域に日本兵が侵攻し、捕虜になったときにわれわれが身に着けていたものだけだった。運よく水筒−それと帽子- を持っていた者もいたが、われわれの多くは狠紊凌斑紊里泙沺蹐両態だった

 日本兵はわが軍の陣地に一九四二年四月一〇日午前六時になだれ込み、数分間わめきたてたりタバコを物色したりした後、われわれ全員を集め、バターン半島を貫く主要な道路に向かって歩かせた。

 だからわれわれは、投降したときに身に着けていたもの以外は手ぶらで、多くの者は実は水筒も帽子も持っていなかったのである。そのような装備で、われわれは最初の四日間、食料も水もなしに行進した。

 さて、当該記事に関する第二の問題点だが、自分は下痢をしていて栄養失調の状態だったから当時の捕虜たちと同じような体調だった、どいう笹氏の記述について、考察してみたい。

 いったい彼女は、栄養失調がどういうものなのか理解しているのだろうか。下痢が一日、二日続くことは、栄善失調であることを意味するものではない

 われわれ捕虜は行進に先立つこと六〇日もの間、一日わずか五〇〇カロリーの食事の摂取を余儀なくされていた。米軍がわれわれに与えた食事には、蛋白質もビタミンもほとんど入っていなかったが、われわれ兵士たちは生き延びるために不可避だった過酷な激戦に日々身を投じていた。

 兵士たちの多くはマラリアに罹っており、バターン半島の動物たちが直射日光や蚊やハエを避けるために体を沈める、地べたの窪地に溜まった汚染水を行進中に飲んだせいで、赤痢に罹った。

 さらに氏は、自身が「死の行進」のルートを歩いた際に「周囲が緑に囲まれ、木陰が多かったことだ」と記している。だが、氏がフィリピンを訪れたのは、実際の「死の行進」から六〇年もたってからのことなのである。それだけの歳月が流れれば、緑の木々は豊かに繋殖し、木陰もふんだんにできることは確かである。

 次に笹氏は、「もし日本軍が捕虜に対して残虐行為を行う計画があったのなら、行進などさせずに(彼らが囚われた)この場所にとどめ置いたはずだ」と書いている。

 だが、氏が記事の後半で指摘しているとおり、もちろんそれは不可能なことだった。日本軍の主目的はコレヒドールを攻略することであり、この日的を達成するためにほ大規模な砲撃が必要だったからである。

 しかし、七万人もの米比軍捕虜をバターンに留めておいては、この目的の達成は不可能とは言えないまでも難しくなる。だから、捕虜の扱い方について思案することではなく、捕虜たちを可及的速やかに現場から移動させることが日本軍司令部にとっての最重要事項だったのである。(P489)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

 ここで、過去の事実との相違点をさらにいくつか取り上げてみたい。(P489-P490)

 笹氏は、午前八時三〇分からほぼ午後四時三〇分まで歩き、昼食のために休憩している。その後、氏はちゃんとした夕食を摂り、ホテルのベッドで眠りに就いたようだ。たぶん、着替えもしたのではなかろうか。そしてぐっすり休んだ後、リフレッシュして翌日の行動を開始したに違いない。

 このことと、「バターン死の行進」の途上にあった戦争捕虜の一日に、いったいどのような類似点があるというのだろうか。

 われわれは夜明けから日没まで歩いた。昼食のための休憩も夕食もなかったし、夜の寝場所は、優に五〇〇人は収容できるほど巨大な倉庫だったが、そこに一二〇〇人もの捕虜が詰め込まれ、ほとんど横になる隙間もないような混雑状態だった。そして用便が必要になると、自分が寝ている床の上ですることを余儀なくされた。

 こうした体験のどこに、笹氏の行進中の体験との接点があるというのか。

 また氏は、バターンの捕虜たちは「早朝と夕刻に行進し、昼間は休息した」と書いているが、いったいどこでこのような情報を収集したのか。これほど馬鹿げた話はない

 貴誌のように栄光ある一流誌が、かくも明らかに偏った記事とその結論を掲載することが、いったいどうして可能になったのか、ご教示願いたいものである。

 笹氏は、六〇年前に実際に起こった出来事と無関係の意見を述べている。事実、氏はあの一〇〇キロメートルに及ぶ長丁場を踏破こそしたものの、ほとんど何も学んでいないのだ。

 われわれ捕虜は、日本兵に怒鳴りまくられながら行進し、要求どおりのペースで歩かないと、近くを歩いていた日本兵に小銃の台尻、軍刀、杖、竹の棒など、手にしているあらゆるもので殴られたことを、記憶に留めておいていただきたい。

 笹氏の周囲には、早く歩かなかったり、何かを食べるために立ち止まったりしたときに大声で怒鳴ったり、殴ると脅かしたりする者が誰かいたのだろうか。行脚中に用便の必要に迫られたとき、氏に何か不都合が起こったのだろうか。

 もし当時、われわれがこの基本的な生理的欲求を満たすために立ち止まったとしたら、そのときその場にいた日本兵の気分ひとつで、しこたま殴られるか、殺されるかしていたに違いないのである。(P490)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

 ではここで、行進中の捕虜たちの生存のための必需品だった水について考察してみよう。

 氏は、次のように述べている ― 「田園があり、水路があり、ため池があれば、水分の補給には苦労しなかったはずだ……」。

 読者はここでも再び、二〇〇五年の状況は一九四二年と同じ状況だったと信じ込まされてしまう。これは、なんと愚かしい想定であることか。

 バターン半島で繰り広げられた戦闘中、日米両軍が発射した高性能の爆発力を持つ砲弾が多くの交戦で使われ、半島の陸地を破壊している。現在狹脹爐筺⊃縅や、ため池"がある地域は、六〇年前には今のような環境的条件では存在していなかったのである

 なぜ、今日の条件を持ち出して、過去の条件と同一視しようとするのか。(P490)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

 当該記事の検証をここで止めずに、水に関する論議をもう少し続けてみたい。コップ一杯分の水を飲むために水がこんこんと湧き出る掘り抜き井戸で立ち止まったという理由で、捕虜の一人が日本兵の銃剣で刺し殺されるのを、私は自分の目で目撃している。たった一口の水のために殺されたのである

 では、フィリピンの奥地のすべての道の随所にうがたれた、動物たちが日中たむろする窪地の溜まり水の場合は、どうだったのだろうか。(P490-P491)

 これらの窪地の溜まり水は非衛生この上なく、さまぎまなものが混入していたが、その最たるものは動物の糞だった。

 しかし、喉が渇いていても水分を摂取せずに行進することを連日強いられていた捕虜たちは、水欲しさで物事を正しく判断する感覚が狂い、行進中の仲間の捕虜たちの列から飛び出して窪地の水面に浮かぷごみを掻き分け、名前ばかりの狄紂蹐鬚覆蠅佞蟾修錣紺んでしまうのだ
。その結果、赤痢に罹り、死の影が背後にひたひたと迫ってくる。

 笹氏は自身の「行進」中、どこで水を手に入れたのだろうか。そして、一日にどれだけの量の水を飲んだのだろうか。(P491)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

 最後にもう一点、付け加えておきたい。

 当該記事には、フィリピンに派遣された日本軍報道部付きの記者が日本軍の兵士に、自分たちは食料もタバコも水も何もかも全部捕虜たちにやってしまい、「すつからかんになる」と聞かされた、というくだりがある。

 だが、このような記述を誰が信ずるだろうか。このような引用を記事に組み込むことによって、記者はいったい何を証明しようというのか。

 笹氏はこのような引用を行なったばかりでなく、元捕虜たちが日本兵による虐待に関する証言を行ない、食料や水を与えられなかった状態について語ったことに関して、彼らの証言がいかに信頼するに値しないものかという点を手早く立証しようと努めている。

 氏は、捕虜たちの証言に関する話を自らのアジェンダに合わせるために歪曲させ、そうすることによって自らの論点が正しいことを証明しようとしているように見えてならない。

 笹氏にお願いしたい。「バターン死の行進」は実際にはなかったことだ、などと日本の人々に信じ込ませようと長年努めてきた連中に耳を貸すことは、どうか止めていただきたいのである。

 貴台が執筆した記事は、世界が第二次世界大戦中の日本兵の美点だけに思いを馳せることを望んでいる連中の主張に信憑性を与えた。私は、ジャーナリストとしての貫台には、バターン半島における土地利用や環境の昨今の差異、さらには過去との比較における今日の全体的状況の相違点などを十分に考慮し、「死の行進」当時の実態を可能な限り正確に描く貫任がある、と考えるものである。

 さらにもう一つ、戦争勃発以来、アメリカ兵と日本兵は互いに相手を殺すために戦っていたのであり、だからバターンにおける戦闘でアメリカ軍に勝ったとき、日本兵は勝利に歓喜したことを忘れないでほしい。そしていつの時代にも、勝者は勝利を祝福するものだということを覚えておいてほしいのである。

 笹氏よ、一九四二年から二〇〇五年までの歳月の経過の中で、実に多くの変化が生じていることを、どうか忘れないでいただきたい。(P491)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』


 さて、一九四二年四月九日にわれわれが日本軍に降伏したとき、バターン半島のアメリカ兵の五〇パーセントは戦傷やマラリアのために、医師の手当てを要する体調だった。

 したがって、短距離を歩くことさえ不可能ではないとしても極めて困難だったが、歩行を強制されたこと、あるいは命令に逆らった場合は殺されるしか選択の余地がないという極限の状態に置かれたことで、捕虜たちの多くは不可能と思しきことを可能にし、「死の行進」を生き延びた捕虜たちにとって最初の捕虜収容所となった元米軍野営地、キャンプ・オドネルまでの行進を辛うじて生き延びた。

 しかし、そのときでさえ、最初の収容所に生きてたどり着いた後、さらに多くの捕虜がマラリアや、窪地に溜まった汚れた水を飲んだことが原因で罹った赤痢や、日本軍の番兵たちに負わされた傷が原因で命を落としている。(P491-P492)

 氏の報告は私が異論を唱える以上のような記述を経て終わっているが、次の一文で締めくくられている − 「事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる」。

 そこで、笹氏に尋ねたい。「バターン死の行進」に対する責任は日米双方にあると主張されるなら、行進の途中で起こったあの数々の悲劇的な出来事のいったいどの部分が、私の多くの友人たち、あるいは私自身の責任だと言われるのか。

 われわれは降伏し、銃器と弾薬を日本軍に引き渡し、日本軍のあらゆる命令に服従した。口答えは一切慎み、日本兵の誰一人たりとも手を出そうとしなかった。

 私の場合、鼻を骨折し、歯を二本へし折られ、頭に深手を、肩に刀傷を負った状態で行進を続けた。これらはすべて、行進中に日本兵から受けた傷だった

 だから訊きたい。「バターン死の行進」中に起こったあの悲劇的な出来事の中の「悪」に対して責任があると言われなければならないとしたら、この私はいったい何をしたと申されるのか。

 貴台が執筆した記事を今回のような形で発表することは、一個人としての私の知性に対する侮辱であるばかりでなく、あの忌まわしい「バターン死の行進」を生き延びたわれわれ元日本軍捕虜すべてに対する侮辱なのである。(P492)



レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

 『「バターン死の行進」−事実かフィクションか』と題する私の考察を締めくくるに当たって、「死の行進」の真実に関する無数の誤った報告にまだ反駁することができる健在な仲間は数えるほどしかいなくなってしまったことを、私は悲しむ。

 もしかしたら、笹氏による今回の記事企画は、氏の検証の結果に論駁できる人間がそう多くはなくなったこの期に及んで、敢えて実施されたのかもしれない。

 あのとき起こった悲劇的な出来事は語り継がれなければならないが、それは特にそれを現場で自ら体験した人々によって語られるべきである。なぜなら、われわれ生存者は、あの戦闘に関しておおかたの研究者やジャーナリストが今後知り得るすべてのことよりもはるかに多くのことを知っているからだ。

 私は今、正しいコミュニケーションが重要であることと、誤ったコミュニケーションが由々しき結果を生むことを、改めて肝に銘じている。このことを念頭に置いて、私は敢えてこの場を借りて自らの深甚な信念を述べさせていただきたい。

 それはつまり、日本の人々は第二次世界大戦中に起こったもろもろの出来事について、さらに多くを知らされるべきであり、栄光ある自分たちの偉大な国家の歴史について正しい知識を得る機会を奪われてはならない、ということである。

 戦争が終結してすでに六十余年。あらゆる人間にとって、過去と直面し、逞しく積極的な姿勢でより大きく前進するために十分な歳月が流れたはずである。過ちを正当化する術を探し続けることは止めようではないか − いかに多くの人間たちが逆のことを言っても。


レスター・テニー(経済学博士)

(元日本軍捕虜、「バターン死の行進」生存者 米カリフォルニア州カールズバッド在住)

(訳・編集部)




 

(2014.2.22)


HOME 『「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄廖戮北瓩