"バターン死の行進"(察 「否定」する側の視点
右派論壇での「否定論」


「バターン死の行進」

1.マリベレスからバランガまで ―食糧なき行進―
2.バランガからサンフェルナンドまで ―徒歩行進は続く―
3.サンフェルナンドからオドンネルまで
4.オドンネル収容所にて
5.パンティンガン川の虐殺
6.「否定」する側の視点 仝従豐愀玄圓両攜
7.「否定」する側の視点◆ ̄η貧醒鼎任痢嵌歡袁澄・・・本稿





 さすがに現代の論壇では、「事件」の存在を正面から否定する議論は存在しません。右派論壇で盛んなのは、「日本軍は精一杯のことをやった。日本軍側に責任はない」とする議論です。

 「日本軍擁護論」の主なパターンは、次の2つです。

1.「捕虜の取り扱い」が部隊によりまちまちだったことを悪用して、「捕虜を厚遇した事例」ばかりをやたらと強調する。

2.「被害証言」については、無視するか、あるいは細かい突っ込みどころを「揚げ足取り」することにより「全否定」を試みる。


 そのまま「南京」論議にも通じてしまいそうです(笑)。



 1については、前に紹介した、


ローレンス・テイラー『将軍の裁判』 

 後年のアメリカ兵とフィリピン兵の証言が例外なく示しているように、場所によって捕虜の受ける扱いは劇的ともいえるほど正反対だった

 ある者は安楽にトラックに乗せられ無事何事もなくオドンネル収容所に送られたかと思うと、ある者は土埃の道に倒れ、焼きつけるジャングルの太陽の下で渇きながら死んでいった。

 ある者が医療を受け、相応に食べ、笑顔の日本兵から煙草を与えられている一方、その五〇〇メートル後ろでは、他の者が乱暴に叩きのめされて土の上に倒され、銃剣で突き殺された
。(P97)


という事実を想い出せば十分でしょう。

 厚遇された捕虜も存在したし、虐待された捕虜も存在した。一部部隊の「捕虜厚遇」の事実は、今までに見てきた「被害者側証言」と、何の矛盾もなく並立可能です。到底、「被害者側証言」をトータルに否定する材料とはなりえません。



 2については、「証言」に細部に至るまでの「正確性」を求めても仕方がない、ということになるでしょう。

 人間である以上、「記憶違い」は常に起り得ます。また「自分に都合の悪い部分は省略し、都合のいい部分ばかりを強調する」というのも、ありがちなことです。別に法廷で証言しているわけではありませんので、証言者によっては、「話を面白くするために尾鰭をつける」方もいるかもしれません。

 しかし、明らかな虚偽証言でない限り、「歴史学者」は、「証言」の一部に間違いがあるからといって、それを全否定することはありません。「証言」から「正しい部分」と「間違った部分」を振り分け、そこから「事実」を再構成していくのが、歴史学者の普通の方法です

座談会「「南京大虐殺」の核心」より 

 (略)できるだけ沢山の真偽とりまぜの資料を集めて、これを一々、充分に史料批判して、これは本当らしい、いやこれは違う、と選りわけた上で、それを総合して、真実に近いものを描き上げていくのが、歴史家のやり方なんです

(『諸君!』1985年4月号 P81)

※余談ですが、例えば「南京事件」の中国側証言については信頼性の低いものも多数混入していることは事実です。拙サイトでも、「事実判定」が難しいため、中国側証言はほとんど採用していません。しかし「バターン」に関しては、比較的信頼できる証言が多いように思われます。少なくとも、「一見明らかに虚偽」とまで決めつけることが可能な証言には、ほとんど出会いません。

 以上を前提に、いくつかの「否定論」のサンプルを見ていきます。




 「ティータイム」まであった?


 まず、ネットに転載されることが多い、溝口郁夫氏の「バターン論」を見て行きましょう。

 溝口氏の「バターン」関連論稿・対談は、私の知る限り、以下の3つです。

○『絵具と戦争』(図書刊行社、2011年3月)
○溝口郁夫・本郷美則『「死の行進」なのになぜかティータイム!』(『歴史通』2011年9月号 )
○『ティータイムまであった「死の行進」』(『歴史通』2012年1月号)



 溝口氏は、著書『絵具と戦争』の中で、37ページに渡って、向井潤吉『比島従軍記 南十字星下』を取り上げています。

 この本は氏にとって「バターン」を論ずる上での「目玉商品」であるようで、氏によれば、


溝口郁夫・本郷美則『「死の行進」なのになぜかティータイム!』より

本郷 溝口さんは、焚書本の『比島従軍記 南十字星下』(向井潤吉著、昭和十七年)を、地方の図書館で探し当てたそうですね。

溝口 この本を見つけたときが、今回の執筆における一番のハイライト場面ですね(笑)。

(『歴史通』2011年9月号 P167-P168)

だそうです。
※余談ですが、私はこの文を見つけたその日に、ネットでこの本を注文できました。国会図書館にも置いてあり、なぜ「地方の図書館」まで行かなければならないのか、よくわかりません。とてもそこまでの稀少本とは思われないのですが・・・。氏としては、自分の「発見」を、少しでも価値あるものにしたかったのでしょう。

 本の内容については、氏はこの対談の中でこのように要約しています。


溝口郁夫・本郷美則『「死の行進」なのになぜかティータイム!』より

溝口 『比島従軍記南十字星下』には、「投降の敵将校に紅茶の接待」という、アメリカ軍将校に紅茶をふるまっている場面を撮影した写真が載っています。

 その写真を見ると、米兵はまるでピクニック姿ですよ(笑)。軽そうなリュックを背負っている。同じ行程を護送のため歩いた日本兵は、背嚢を背負って、銃を担いで歩いているんです。

 また、同じ本には「診療を待つ捕虜の列」という、野戦病院で診療を待つ捕虜の列を撮影した写真もあります。捕虜の体を気遣っているのがよく分かります。

 これらは米軍の一部の部隊に向けた対応かも知れませんが、日本軍は米兵を丁重に扱っていたんです。この事実はもっと知られるべきです。

(『歴史通』2011年9月号 P167-P168)


 戦前発行された日本側の本に、日本軍にとって不利なデータが載ることはほとんどありません。むしろ「宣伝目的」であってみれば、それに沿った形で、「美談」ばかりを強調してみせるのが普通です。この向井本も、その例に漏れないでしょう。

 つまり溝口氏の議論は、「捕虜の取り扱い」が部隊によりまちまちだったことを逆用して、「捕虜を厚遇した事例」ばかりをやたらと強調する、典型的な「パターン1」です。「これらは米軍の一部の部隊に向けた対応かも知れませんが」という一節を見ると、溝口氏自身もある程度はそのような認識があるのかもしれません。






 さらに、「被害証言の揚げ足取り」です。

 捕虜側の証言は、のちの「回想」です。何度も書いている通り、当然、記憶違いや誤りが混入していることは避けられません。そのような証言であってみれば、「間違った部分」の指摘はいくらでも可能でしょう。

 しかし溝口氏の次の例は、ちょっとひどい、と言わざるをえません。


溝口郁夫『ティータイムまであった「死の行進」』


 ところで、本年六月発行された米国人のミカエル・ノーマンほか著『バターン死の行進』(河出書房新社)にたいする書評が、「残虐と悲劇克明に」と題し掲載されている(『読売新聞』平成二十三年六月二十七日)。

 「……一九四二年一月に本間雅晴中将の率いる第十四軍は、マッカーサーの米軍をパターン半島へ追い込み、四月に降伏した七万六〇〇〇人の敵兵を炎天下一〇〇キロも歩かせて相当数を死なせたのだ。(中略)ほとんど厳しい軍事訓練を受けなかった米軍部隊や指揮官、 マッカーサーの無能ぶりに厳しくメスを入れる一方、行進の途中無断で休んだといっては小銃で米兵を殴りつけ頭蓋骨を打ち砕く日本兵の姿などを克明に描いた本である。……」。

(略)

 米兵は頭蓋骨を「飾り付け」にするかもしれないが、米兵の頭蓋骨を打ち砕く行為は日本兵にとっては何の役にも立たない。大柄な米兵を小銃で簡単になぐり殺すことなどはほぽ不可能であり、書評の一部を読んだだけでも、『パターン死の行進』の内容がいい加減なものであると知れる。(P175)

(『歴史通』2012年1月号)


 どうやら氏は、「書評の一部を読んだだけ」で、ノーマン『バターン死の行進』の現物は確認していないようです。この本は2011年4月に日本語版が発行されていますので、入手する時間は十分にあったはずなのですが・・・。

 念のためですが、誰かの文を批判する場合は、直接その「原典」に当るのが鉄則です。例えばネットの世界では、ネットの怪情報を鵜呑みにして、肝心の「ラーベ日記」すら読まずにもっともらしく「ラーベ批判」を行う方を見かけますが、これは他人の文章を批判する上でやってはいけない「禁じ手」である、と言えるでしょう。

 余談はともかく、もとの文章に当ってみましょう。


 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 衛生兵のシドニー・スチュアートは、マリベレスで整列して検査の順番を待っているとき、こちらへ近づいてぎていた監視兵がひとりの兵士を殴るのを見た。びくびくしていたその若い兵士が痛みに悲鳴を上げると、それが抗議のしるしと見なされた。そんなときにはいっそう痛めつけられることになった。

 監視兵は小銃の台尻を振り上げて兵士の頭に思いきり叩きつけた。膝をつき、呻いている若い兵士をもう一発殴ろうと、監視兵はまたもや小銃を振り上げ、今度は頭蓋骨を砕いた。地面に倒れこんだ兵士の体は、痙撃し、震えていたが、数分もすると動かなくなった

 それを見ていたシドニー・スチュアートは、心に「どす黒い憎悪」が「わき起こる」のを感じた。小さい町(オクラホマ州ワトンガ)で生まれ育ったキリスト教徒である彼は、信心深い人間であることを自認していた。(P235-P236)

 スチュアート衛生兵の証言は、非常にリアルです。この文を読んで、「小銃で頭蓋骨を砕くことなどできないから、この証言は全部ウソだ」という議論をする方はまずいないでしょう

 「頭蓋骨を砕いた」というのはあるいは誇張表現かもしれませんが、「小銃で複数回頭を殴りつけて殺した(かどうか、明確ではありませんが)」ということであれば、必ずしも無理のある証言だと断定することはできません。

 ましてや、「膝をつき、呻いている」兵士を小銃で殴ったわけです。「大柄な米兵を小銃で簡単に殴り殺すことなどほぼ不可能」という溝口氏の表現が、いかに的外れであるかがわかります。




 以下は余談となりますが、溝口氏の論稿のタイトルで目立つのが、「ティータイム」のフレーズです。

 実際の写真のキャプションは、「アメリカ軍将校に紅茶をふるまっている場面」というものですが、溝口氏はなぜか、これを「ティータイム」という楽しげな表現に「翻訳」してしまっています。

 『「死の行進」なのになぜかティータイム!』(『歴史通』2011年9月号 )、『ティータイムまであった「死の行進」』(『歴史通』2012年1月号)と、いずれにもタイトルに「ティータイム」の語句を入れていることからも、氏の力の入れ方がわかります。



 「お茶の提供を受けた」という証言は、被害者側にも多数存在しますので、これ自体は事実と考えていいでしょう。

 
マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』


 ミズーリ州コマース出身のビル・シモンズ伍長は、バランガ市内の待機所でうとうとし、食事をする夢を見ていた(食卓には山盛りの料理の皿と冷水のコップが載っていた)。そのとき誰かが叫んだ。「おい、米を炊く匂いがするぞ」

 捕虜たちは鍋に「飢えた獣のように」殺到したが、誰かが「規律を乱すな」と叫んだので、彼らのうちふたりが配膳係を務めることになった。

 携帯用食器のない者は手近なものを代用にした。古い空き缶、ヤシやバナナの葉、ヘルメット、素手(リチャード・ゴードンは、鉄鍋から飯を配っている監視兵に、手のひらをくぼめて突き出した。監視兵はやけどするほど熱い飯をゴードンの素手に勢いよく入れ、声を立てて笑った)。(P263-P264)

 捕虜はひとりにつき飯一杯、塩一つまみ、お茶半リットルを配られた。味のない、量の乏しいこの食事では満腹感を得られなかったが、シモンズたち飢えた捕虜にしてみれば、味が悪くとも、量がわずかでも、「感謝祭のディナーのよう」だった。(P264)



レスター・I・テニー『バターン遠い道のりの先に』

 倉庫の中庭で一団の日本軍の見張りがグルグル回っているのが見えた。数分ち経ないうちに私たちはそちらの方へ集められた。びっくりしたことには、動き回っている連中の真中には3つの大鍋がありそれぞれ米が入っていた。食器セットを持っていない連中は直径3インチ(約8センチ)ほどのおむすびをもらった。食器セットを持っている連中はおにぎりと同じくらいの量のご飯をぐっと一杯すくってもらった。(P100)

 畑のずっと端のほうでは別の一団の見張りが熱いお茶を支給していた。容器を持っていない者は、この有難い水分の配給を手に入れるのにちょうどよい水筒とかコップとかを友だちから借りていた。(P100-P101)

 


 どうして「茶」を提供したのかよくわかりませんが、日本軍が捕虜のためにわざわざ「茶」を調達するとは考えにくいので、米軍からの押収品の中に大量の紅茶のストックがあった可能性が高いものと思われます。

 まあ確かに、これは降伏した米軍捕虜への「好意」であったのかもしれません。しかしこれを「ティータイム」と表現するのは、あまり適切なこととは言えないでしょう。

 「ティータイム」と聞くと、普通は、「テーブルを囲んで和やかに談笑している光景」を思い浮かべます。しかし写真を見ると、米兵たちは立ったままで「紅茶」の供給を受けており、「ティータイム」の雰囲気ではありません。

 いずれにしても、向井本や上の証言を見ると、要するに「お茶」が水分補給のための「飲料」の一部として提供された、という程度のことであったようです。






 実際に歩いてみた


 さて次に、笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』を取上げます。

2014.2.22  Apemanさんから、バターンの捕虜の一人、レスター・テニー氏が、笹氏のこの論稿に対して「抗議の手紙」を文藝春秋社に送り、『文藝春秋』誌2006年3月号にその全文が掲載されている、とのご指摘をいただきました。 この論稿を入手しましたので、以下、適宜「手紙」の内容の紹介を挟む追記を行いました。 テニー氏のコメントの全文はこちらに掲載しました。

 笹氏は、「バターン死の行進」のコースを、当時となるべく条件を揃えて、実際に歩いてみせます。その時、当時の捕虜と同じように、「栄養失調状態」にあったそうです。


笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』


 まずは、行進のスタート地点である。実は、「パターン死の行進」はマリベレスーサンフェルナンド間のほかに半島西岸中央のバガックからも始まっている。しかし、軍主力の目的はマリベレス攻略にあったと考えられ、また、バガックからより長距離であることなどから、マリベレスを出発地点とした。

 次に日程である。捕虜の証言記録によると、三日間で歩いたケースもあれば、二週間以上かかったケースもある。しかし先に述べたように六十キロの距離を四〜五日かけて徒歩で行進したという記述が最も一般的であるため、これに準じて四日プラス予備一日を加え、五日間の日程を組んだ。

 三つ目は服装や持ち物についてである。これも諸説あるが、共通しているのは投降した捕虜たちは武器を持たず、水筒一つぶら下げているのみだったことから、行進時はほとんど荷物を持たず軽装で行うこととした。

 四つ目は、体調についてである。捕虜たちは投降した当初、一様に憔悴しきっていた。多くは栄養失調で、マラリアや赤痢にかかっている者も少なくなかった。これを忠実に再現するのは難しい。

 が、実をいうと、私は出発の四日前まで、ソロモン諸島のプーゲンビル島における十二日間の慰霊巡拝団に同行し、帰国後すぐにフィリピンを訪れた。幸か不幸か、ブーゲンビルの水にあたって下痢を繰り返し、食べ物をほとんど受け付けなくなっていた。

 マリベレスに到着したときは、準備運動をしただけで息切れがするほどの有様だ。はからずも、栄養失調状態だったのである。(P202)

(『文藝春秋』2005年12月号)



 しかし冷静に考えると、当時の捕虜と完全に同一の環境を再現することは極めて困難でしょう。(繰り返しますが、どのような経験をしたかは「部隊によりまちまち」でしたので、比較対象はあくまで「最悪の経験をした捕虜」です)

 例えば「水」の問題があります。ここまでのところで、水分補給すら日本軍兵士に妨害されてままならなかった、という証言を多数紹介しました。40度近い炎天下の行進でしたので、当然「熱中症」の問題が生じると思われます。しかし笹氏は、「水」を我慢した形跡はありません

 この点につき、元捕虜のレスター・テニー氏はこのようにコメントしています。


レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』

 ではここで、行進中の捕虜たちの生存のための必需品だった水について考察してみよう。

 氏は、次のように述べている ― 「田園があり、水路があり、ため池があれば、水分の補給には苦労しなかったはずだ……」。

※「ゆう」注 正確には、笹氏の記述は、「パターン半島には、いくつもの川が流れており、当時は沼地も点在していた。水分補給とまではいかなくても、熱中症対策ぐらいはできたのではないかと思われる」というものです。
 読者はここでも再び、二〇〇五年の状況は一九四二年と同じ状況だったと信じ込まされてしまう。これは、なんと愚かしい想定であることか。

 バターン半島で繰り広げられた戦闘中、日米両軍が発射した高性能の爆発力を持つ砲弾が多くの交戦で使われ、半島の陸地を破壊している。現在狹脹爐筺⊃縅や、ため池"がある地域は、六〇年前には今のような環境的条件では存在していなかったのである

 なぜ、今日の条件を持ち出して、過去の条件と同一視しようとするのか。(P490)

 当該記事の検証をここで止めずに、水に関する論議をもう少し続けてみたい。コップ一杯分の水を飲むために水がこんこんと湧き出る掘り抜き井戸で立ち止まったという理由で、捕虜の一人が日本兵の銃剣で刺し殺されるのを、私は自分の目で目撃している。たった一口の水のために殺されたのである

 では、フィリピンの奥地のすべての道の随所にうがたれた、動物たちが日中たむろする窪地の溜まり水の場合は、どうだったのだろうか。(P490-P491)

 これらの窪地の溜まり水は非衛生この上なく、さまぎまなものが混入していたが、その最たるものは動物の糞だった。

 しかし、喉が渇いていても水分を摂取せずに行進することを連日強いられていた捕虜たちは、水欲しさで物事を正しく判断する感覚が狂い、行進中の仲間の捕虜たちの列から飛び出して窪地の水面に浮かぷごみを掻き分け、名前ばかりの狄紂蹐鬚覆蠅佞蟾修錣紺んでしまうのだ。その結果、赤痢に罹り、死の影が背後にひたひたと迫ってくる。

 笹氏は自身の「行進」中、どこで水を手に入れたのだろうか。そして、一日にどれだけの量の水を飲んだのだろうか。(P491)




 さらに捕虜たちに提供された食糧は、必ずしも十分なものではなかったと伝えられます。最初の約40キロを食糧なしで歩かされ、ようやく到着したバランガでも「おにぎり1個」の提供しか受けなかった、というのでは、「栄養失調状態」の解消のしようがなかったでしょう。その後も断続的に食糧が供給されたようですが、とても「栄養失調」から脱出できる量とは思われません。

 しかし笹氏は、「(一日目)昼食ののち、午後三時には当初の目的地だったカプカーベンに到着」(P204)、「(二日目)昼食後、四十一キロ地点の道標に到着、ピラーヘたどり着いた」(P204)とある通り、少なくとも「昼食」はしっかりとっていたようです。

 その後の夕食を抜いた、という記述もありませんので、おそらくはそれなりの「食事」をしていたものと思われます

 同じく、テニー氏のコメントを紹介します。


レスター・テニー『「バターン死の行進」 ― 事実かフィクションか』


 さて、当該記事に関する第二の問題点だが、自分は下痢をしていて栄養失調の状態だったから当時の捕虜たちと同じような体調だった、どいう笹氏の記述について、考察してみたい。

 いったい彼女は、栄養失調がどういうものなのか理解しているのだろうか。下痢が一日、二日続くことは、栄養失調であることを意味するものではない

 われわれ捕虜は行進に先立つこと六〇日もの間、一日わずか五〇〇カロリーの食事の摂取を余儀なくされていた。米軍がわれわれに与えた食事には、蛋白質もビタミンもほとんど入っていなかったが、われわれ兵士たちは生き延びるために不可避だった過酷な激戦に日々身を投じていた。(P489)

※「ゆう」注 実際には、笹氏の記述では、「下痢が続いた期間」は不明です。テニー氏の批判は、慢性的・継続的な「栄養失調」と病気による一時的な「栄養失調状態」を同一視することはできない、と読むところでしょう。


 笹氏は、午前八時三〇分からほぼ午後四時三〇分まで歩き、昼食のために休憩している。その後、氏はちゃんとした夕食を摂り、ホテルのベッドで眠りに就いたようだ。たぶん、着替えもしたのではなかろうか。そしてぐっすり休んだ後、リフレッシュして翌日の行動を開始したに違いない。(P491)



 もちろん、糞便の臭いに悩まされるという不衛生な宿舎も、行進から脱落すれば日本軍兵士に暴行を加えられるという恐怖も、笹氏は経験しません。



 そして三日目になると、笹氏にはもう「退屈」などと言い出す余裕ができていたようです。

笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

百二キロを踏破

十月十五日(三日目)。天候晴れ。

 暑さにも足の疲労にも慣れたが、今度は退屈が我慢ならなくなってきた
。六十三キロ、六十四キロ、六十五キロ……。たいして代わり映えのしない田園風景がずっと続いている。いや、考えてみれば、田園があり、水路があり、ため池があれば、水分の補給には苦労しなかったはずだ……いや、当時は水田だったかどうかもわからない、いろいろな想いにふけりながらひたすら歩く。

 人によっては、のんびりしたウォーキングを連想されるかもしれない。だが、フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない。狭い道を車やバスが猛スピードで走りぬけ、大量の排気ガスをもろに受けながら、太陽の照りつける中を歩いているのである。散歩気分にもなれなければ、孤独を楽しむ心の余裕もない。思考回路も完全にストップしてくる。

 午後二時、気温は三十九・一度を記録した。ただひたすら、足を前に出すだけの作業を続ける。あまりの退屈さにイライラする。歌でも歌おう。口をついて出てきたのは、"丘をこえ行こうよ"で始まる「ピクニック」だった。次に口ずさんだのは慰霊巡拝の旅で、老人たちに教わった「歩兵の本領」である。不思議なもので、歌いながら歩けば、足取りも軽やかになる。たしかに軍歌の効用はあるのかな、と思う。

(P205)

(『文藝春秋』2005年12月号)

 「徒歩行進」を終えた笹氏は、こう結論します。

笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』


 さて、実際に歩いてみてわかったことがある。それは、第一に「この距離を歩いただけでは人は死なない」ということである。今回、私は、準備はおろか栄養失調状態でこの行進に臨んだが、無事に歩き終えた。筋肉や関節が痛み、足の指には三つのマメができた。しかしそれでも、足は惰性で動くのだ。

 このことは、移送計画自体が、そう無理なものではなかったということも示している。実際に道をたどると、なるべく目的地まで近い道を選択しており、組織的な虐待という指弾はあたらない。

 ただし、これは水分を補給した上での話である。自分が歩いてきた道程を考えれば、わずかな水と食料だけで行進するのは、かなり過酷であることは事実だ

(「死の行進」では、暑さを避け、早朝と夕刻に行進し、昼間は休息したという記述もある。その意味では、私の方が炎天下を歩いたことにはなる)。

 パターン半島には、いくつもの川が流れており、当時は沼地も点在していた。水分補給とまではいかなくても、熱中症対策ぐらいはできたのではないかと思われる。

 しかし、監視の目を盗んでそれを行うのは困難だったろう。「(日本兵は)我々がどんな水源からでも水を得ようとするのを禁じ、動物のように追い立てた」と、捕虜の一人は証言している。

 もっとも、これら捕虜たちの証言は、鵜呑みにできないものも少なくない。「死の行進」という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書である。また、戦犯裁判では反証を行っても公正に取り扱われないため、事実関係が確定できない。(P207-P208)

 なかには、「ジャップは道端に並んで、捕虜たちが行進していくと、殴ったり、唾を吐きかけたり、泥を投げつけたり、果ては便器の中身をぶちまけたり、とにかく我々を侮辱するためには何でもやった」「時計や金品を奪った」などという、にわかには信じがたい証言もある(国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録)。

(略)

 むしろ、最大の問題は、水不足や栄養失調より、捕虜たちがマラリアなどの病にかかっていたことではないだろうか。 マラリアは重症の場合、しばしば死に至ることがあるが、もし「死の行進」の最中に捕虜がマラリアで亡くなったのだとしたら、それは行進に起因するものというより、米比軍側のそれ以前の治療体制が不十分だったことを示している。種類にもよるが、マラリアの潜伏期間はだいたい二週間程度だからだ。

 もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくないが、少なくともすべてが日本軍側の責任であったかのような捉え方はあたらない。(P208)

(『文藝春秋』2005年12月号)

 この文を一読した方は、おそらくこう錯覚するでしょう。

 自分は、当時の捕虜とほぼ同条件で「行進」を行ったが、十分歩き切ることができた。従って問題は「水不足や栄養失調」ではなく、「マラリア」である。これは「行進」以前の衛生環境の問題で、責任は米比軍側にある。

 以下に述べる通り、この「錯覚」は他の「バターン否定派」にも共有されているようです。



 しかし実際には、先に触れた通り、笹氏が行進中に「水と食糧」に不自由していた形跡はありません。

 つまり笹氏は、(おそらくは)水も食糧もきちんと補給して行進を行い、その自分の経験をもとに(!)、自分は歩き通せた、従って捕虜の死亡は「水不足や栄養失調」が主因ではない、と言っていることになります。明らかに、経験した「事実」と、そこから導かれる「結論」とが、一致していません。



 何度も触れてきた通り、捕虜の行進を過酷なものにしたのは、「マラリアなどの疫病の蔓延」に加え、「食糧不足」「水不足」も大きな要因でした。笹氏は、日本軍を免責するため、このうち「食糧不足」「水不足」の要因をまるごと否定したいようです。

 しかしよく読むと、どうして「栄養失調」が主因でない、と言っているのか、「自分が栄養失調状態からスタートした」という以外、全く説明はありません。どう見ても、笹氏の「栄養失調状態」は途中で解消しているのですが


 「水不足」が主因でない、についても、氏の記述はかなり強引です。曲がりくねった表現ですが、要するに捕虜が「水不足」であったとはいえない、と言いたいようです。

※氏にしても、捕虜が「水」を十分に得ていた、とまでの断定はできないようです。そうであれば、「水不足」が「最大の問題」ではない、と言い切ることはできなくなると思うのですが。

笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

 パターン半島には、いくつもの川が流れており、当時は沼地も点在していた。水分補給とまではいかなくても、熱中症対策ぐらいはできたのではないかと思われる。

 しかし、監視の目を盗んでそれを行うのは困難だったろう。「(日本兵は)我々がどんな水源からでも水を得ようとするのを禁じ、動物のように追い立てた」と、捕虜の一人は証言している。(P207)

 もっとも、これら捕虜たちの証言は、鵜呑みにできないものも少なくない。「死の行進」という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書である。また、戦犯裁判では反証を行っても公正に取り扱われないため、事実関係が確定できない。(P207-P208)

 なかには、「ジャップは道端に並んで、捕虜たちが行進していくと、殴ったり、唾を吐きかけたり、泥を投げつけたり、果ては便器の中身をぶちまけたり、とにかく我々を侮辱するためには何でもやった」「時計や金品を奪った」などという、にわかには信じがたい証言もある(国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録)。

(『文藝春秋』2005年12月号)


 「水分補給とまではいかなくても、熱中症対策ぐらいはできたのではないか」の一節は意味不明です。どうも氏は、「水分補給」をしなくても水が存在するだけで「熱中症対策」ができる、と考えているようです。

 それはともかく、要するに氏は、「日本軍が水分補給を妨害した」という証言は疑わしい、ということにしたいようです。

 そのために、氏は話をいきなり「証言一般の信憑性」に広げてしまいます。「捕虜たちの証言は、鵜呑みにできないものも少なくない」、従って「事実関係は確定できない」、というわけです。

 確かに、「戦犯裁判」では、検察側に都合のよい「偽証」も多数行われたと伝えられます。しかし、日本兵が水分補給を妨害した、というのは、別に「戦犯裁判」にだけ見られる証言ではありません。至る所で目にする、ほとんどパターン化された証言です。別に「捕虜の一人」だけのものではありません


 これについては、多数の捕虜証言をベースとした、以下のノーマンの記述が妥当でしょう。この本には、「日本兵による水分補給妨害」証言が、うんざりするほど登場します。

マイケル・ノーマン エリザベス・M・ノーマン『バターン死の行進』

 飢えよりも深刻なのが渇きだった。カブカベン到着後の混沌とした状態のなか、近くの小川で水筒に水を詰める許可はめったにもらえなかった。捕虜のほとんどは水を携帯しておらず、たちまち脱水状態になり、暑気あたりに苦しんだ。こめかみは脈打つように痛み、頭は燃えるように熱くなった。意識が遠のき、めまいのせいで足がふらついた。(P244)


 あるいは、先に紹介したレスター・テニーの証言もあります。笹氏は、これらの膨大な証言群を、どのような「理屈」をつけて否定しようというのでしょうか。「戦犯裁判証言」だけを否定してみせても、あまり意味はないのですが。



 これ以上は余談となりますが、笹氏はさらに、「証言」が信頼できない事例として、次のような例示を行います。

笹幸恵『「バターン死の行進」女一人で踏破』

 なかには、「ジャップは道端に並んで、捕虜たちが行進していくと、殴ったり、唾を吐きかけたり、泥を投げつけたり、果ては便器の中身をぶちまけたり、とにかく我々を侮辱するためには何でもやった」「時計や金品を奪った」などという、にわかには信じがたい証言もある(国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録)。(P208)

(『文藝春秋』2005年12月号)


 「時計や金品を奪った」ことまで、「にわかには信じがたい証言」なのだそうです

 ここまでくると、笹氏のナイーブさには驚かざるをえません。「捕虜からの略奪」は、あちこちの戦場で生じた、ごくありふれた話です。きっと氏にとっては、敗戦後の日本兵捕虜が連合軍兵士から略奪にあったことも、「にわかに信じがたい」ことなのでしょう(笑)。

 いずれにしても、これが「バターンに関するすべての捕虜証言を疑う」根拠となるとは、とても思われません。



 ちなみに前半にしても、どうして「にわかには信じがたい」とまで断定してしまうのか、不思議に思うところです。

 「バターン」に関するものではありませんが、日本軍の捕虜に対する態度は、『「BC級裁判」を読む』にある谷尾軍医大尉の証言がわかりやすいでしょう。

日本経済新聞出版社刊 『「BC級裁判」を読む』より

 谷尾誠軍医大尉は

「日本の将校たちにもジュネーブ条約のことを知っていたものはほとんどいなかったのではないだろうか。日本では俘虜になったら自決することが常識化されていたし、その実例も聞いていた。したがって捕虜が生きていることはもってのほかで、これは人間扱いする必要はないと考えられていた

と日本軍側の意識の問題を述べている(一九六二年十月三十日の聞き取り調査)。

(執筆:井上亮=日本経済新聞編集委員)

 「人間扱いする必要はない」と考える相手なのですから、「便器の中身」云々はともかく、「殴ったり、唾を吐きかけたり、泥を投げつけたり」程度の「いやがらせ」は十分ありうることである、と考えるのが自然でしょう

 参考までに、本間将軍の伝記を書いた角田氏も、「残虐行為」の存在については素直に肯定しています。


角田房子『いっさい夢にござ侯 本間雅晴中将伝』


 捕虜の引率に当った日本兵は、彼らをどのような思いで眺めたであろうか ―。

 日本の将兵はすべて「生きて虜囚のはずかしめを受けず」と教えこまれ、これを絶対の軍律として戦場に立っていた。敗戦となれば、玉砕を目指して最後の一兵まで戦うのが、彼らに課された義務であった。こうした日本の将兵の多くが、恥じる色もなく捕虜となった米比軍の将兵に対して軽侮の念を持ったのは当然であろう

 検察側証人の多くが「われわれの中で、当然の抗議や要求をした者は日本兵によって殴打され、蹴られ、それらはしばしば死に至るまで続けられた」というたぐいの証言をしているが、投降した後は国際法規による捕虜として扱われるのが当然と信じている彼らの抗議や要求を、日本兵は「捕虜のくせにナマイキな」と受けとって、暴力を振う気になったのであろう。(P387)




 また当然ながら、「マラリアの患者を、食糧や水の十分な供給もなくそのまま歩かせた責任」は、間違いなく存在します。笹氏はこの点には、全く触れません。


 そして何よりも、「日本軍に殺された」捕虜の問題は無視できません。「パンティンガン川の虐殺」など、笹氏の視野には全く入っていなかったようです。

 ただ一応、氏は「もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくない」と、日本軍の一定の責任は認めていることはご記憶ください。





 さて、この笹氏の論稿は、「バターン否定派」に強い印象を与えたようです。例えば、先の溝口氏です。


溝口郁夫、本郷美則対談『可視化された「バターン」の虚構 「死の行進」なのになぜかティータイム!』より

本郷 ジャーナリストの笹幸恵さんが、同じ行程を実際に自分の足で辿っています。彼女はこの道のりを四日間かけて歩き、「栄養失調気味の私ですら踏破できた」と感想を述べています。決してばたばたと捕虜が死んでいくような過酷な行程ではなかったんです。

溝口 「バターン死の行進」が「あったあった」という人は、『比島従軍記南十字星下』や笹さんの本を読んで、それから発言してほしいですね

(『歴史通』2011年9月号)


 また、タカ派論客で知られる高山正之氏も、このように書きます。

高山正之『「バターン死の行進」はクサイぞ!」より

 で、それはどれほどの苦行だったのか。ジャーナリストの笹幸恵女史が数年前に実際にそのルートを歩いた顛末を『文藝春秋』誌(〇五年十二月号)に載せた。バターンを実際に歩いて、マッカーサーの言葉を検証してみたのが日本人では彼女が最初だったというのも驚きだが、彼女の語る実態にはもっと驚いた。

 全行程はたった約百二十キロ。うち半分は貨車輸送で、米兵はそれを四、五日掛かりで歩かせられたことにしている。彼女史は貨車輸送の区間も含めてその道を四日間で「それもやや風邪気味だったけれど」(前掲誌)ちゃんと歩き通して見せた

 そう言えば西村知美だって日テレ24時間一〇〇キロマラソンをやっていた。それに比べ米兵がそこまで華奢とはホントに信じられないというのが彼女のルポの読後感だった。

(『歴史通』2010年9月号)

※「ゆう」注 余談ですが、上の一文だけで、高山氏が「バターン死の行進」についてほとんど知識を持たないことがわかります。 捕虜により出発点はまちまちでしたので「全行程約百二十キロ」というのはともかく(参考までに、最初に紹介した上田氏のまとめでは合計約百四十キロ)、そのうち四十キロに満たないサンフェルナンド−カパス間の列車輸送区間が「うち半分は貨車輸送」ということになっています。

何よりも、
笹氏は「貨車輸送」の出発点であるサンフェルナンドで行進を終えていますが、高山氏は笹氏が「貨車輸送の区間を含めて」歩き通したことにしてしまっています。本当に「バターン」に関心を持ったのであれば、ありえないレベルの「間違い」です。


 笹氏の「追体験」が、必ずしも当時の捕虜の環境を正確に再現したものでなかったことは、先に触れた通りです。溝口氏・高山氏も、同様に「錯覚」してしまったのでしょうか。

 しかしその笹氏ですら、「もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくない」と、日本軍の一定の責任は認めているわけです。お二人は、この部分を読み飛ばしてしまったようです。


 最後に、この笹論稿を掲載した文藝春秋編集部が、2006年3月号「三人の卓子 読者と筆者と編集者」の中で、明確に「日本軍の捕虜虐待行為」を認める発言を行っていることを確認しておきます。


「三人の卓子 読者と筆者と編集者」

<編集部より>

 二〇〇五年十二月号掲載、笹幸恵氏「『バターン死の行進』女一人で踏破」について、日本軍の捕虜として六十四年前、「バターン死の行進」を体験したレスター・テニー氏より、抗議の手紙が編集部に届きました。

 「バターン死の行進」で日本軍の捕虜虐待行為によって多くの犠牲者がでたことは、歴史的事実です。笹氏の記事はこうした蛮行の否定を意図したものではありませんし、編集部にもそうした意図がないことは言うまでもありません。

 同記事では元捕虜の人々の証言を紹介することができませんでした。捕虜として悲惨な体験をされたテニー氏の肉声は貴重です。(P488)


 溝口氏が、この部分を認識した上で「「バターン死の行進」が「あったあった」という人は、『比島従軍記南十字星下』や笹さんの本を読んで、それから発言してほしいですね」と発言しているとすれば、それはかなり悪質、と言わざるをえません。

(2014.2.15記  2014.2.22 テニー・レスター氏の見解を追記 )


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