サンダカン死の行進 捕虜約二千人、生還者6人 (1) |
1944年秋、北ボルネオ東海岸のサンダカン捕虜収容所には、約2000名の連合軍捕虜が収容されていました。 ※一般には「2000名」と称されますが、田中利幸『知られざる戦争犯罪』によれば、より正確には、 1944年9月時点で2250名、1944年末時点で1850名、ということです。 その間、「強制労働」「虐待」「熱帯病」「食糧の大幅削減」で、400名ほどが死亡したことになります。 そして翌1945年1月から6月にかけ、彼らのうち徒歩行進が可能な者累計1064名は、三陣に分かれて、北ボルネオ西海岸に近いラナウへ移送されます。 まずは下の表をご覧ください。
※『世界戦争犯罪事典』、及び、田中利幸『知られざる戦争犯罪』により作成。「人数」については諸説あるが、主として『世界戦争犯罪事典』の数字を採用した。 表の「行軍開始時捕虜数」1850名は、田中書による1944年末時点のもの。『世界戦争犯罪事典』の記述では、第一陣の「ラナウ到着者数」は、その直前の「バギナタン」到着者数を含むものと思われる。 「行軍非参加者」数は、捕虜総数から行軍参加者の人数を減算した略数字。 約2000名(第一陣出発時点約1850名)の捕虜のうち、戦後まで生き残った者は6名のみ。 「行進」以前にも多数の死者が発生していましたが、それに加えて、「行進」では約540名が死亡、体が弱って行軍に参加できなかった約800名も全員死亡。 さらに何とかラナウに到着した500名強も、やはりほとんどが死亡しています。 生き残った6名は、全員、「逃亡」に成功した者です。つまり、最後まで日本軍管理下にあった捕虜の「生き残り」は「ゼロ」ということになります。 太平洋戦争中の「日本軍捕虜収容所」における死亡率の高さはよく知られていますが、この「高率」はいささか異常です。以下、この事件の経緯を見ていきましょう。 ※この事件は、一般には「サンダカン死の行進」と呼ばれていますので、こちらでもそれに従いました。 念のためですが、上表の通り、実際には全員が行進で死亡したわけではありません。 行軍中に死亡したのは540名程度で、あとは、ラナウ(またはその直前のバギナタン)到着後、 あるいは行軍に参加できないままに死亡しています。
実はこの「捕虜移送」は、日本軍主力の東海岸から西海岸への「転進」作戦の一環として行われたものでした。捕虜たちは、それに巻き込まれてしまった形です。 フィリッピン戦当時、日本軍は「次はボルネオではないか」と警戒し、主力をフィリッピンに近い東海岸に貼り付けていました。 しかし「主戦場」がそのまま北方に移る可能性が高くなると、今度は連合軍の西海岸上陸を警戒しだしました。 その見通しに従って、日本軍は「兵力の西海岸への移動」を企図します。
※具体的な「転進」ルートについては、こちらの地図をご覧ください。 このうち「サンダカンーラナウ」、約300キロが、捕虜の移送ルートです。 ところがこの「転進」は、制海権を連合軍に奪われていたため、ジャングル内のとんでもない悪路を通る、「徒歩行進」にならざるをえませんでした。 マラリアなどの疾病、食糧不足などが相俟って、日本軍にとっても「死の行進」になりました。
人数がどこまで正確かはわかりませんが、「万」を越える軍が東海岸を出発し、うち半数だけが西海岸に辿りついた、というイメージは概ね一致しています。 「転進」の実態については数々の「部隊戦史」ものが語ります。 ネットでは、「広瀬正三編・独歩三六七大隊の足跡「あゝボルネオ」より」を見ることができます。
この「転進命令」は、現場指揮官から見ても、明らかに無謀なものでした。第三十七軍参謀長・馬奈木敬信少将が、この命令に反対した、という記録が残っています。
「疫病の巣窟」である大密林を通る「転進」は、いたずらに兵力を損耗するだけで、作戦上も意味がない。のちの「結果」を見ると、まずは妥当な判断であるといえるでしょう。 しかし結局は、「転進」命令が発出されることになります。この間の経緯は今日に至るも不明のままですが、藤原稜三氏は次のように推定しています。
命令は、馬奈木参謀長の留守を狙って馬場正朗・第三七軍司令官が出した、ということです。 この藤原氏の「推定」の正しさを裏付けるものとして、戦後たまたま馬場中将と出会った、田中保善軍医の手記があります。
馬場中将は、この「転進」作戦でもって連合軍に「一泡吹かせた」と認識しているようです。 あるいは 「自己正当化のための強がり」なのかもしれませんが、これは、日本軍兵士や捕虜たちの悲惨さを顧みない、とんでもない「感想」だとしか言いようがありません。 例えば、馬場中将の言う「ラブアン島」で戦った奥山部隊の運命を見ましょう。
※「ゆう」注 なお、この奥山部隊の一部は、「第二陣」の捕虜移送に「応援」として加わっています。 奥山部隊は、「転進」により992人の兵力が443人に半減。その挙句、結局はラブアン島の戦いで「玉砕」してしまった。 結果的には「転進」は無駄に終わったわけであり、 「何をやっていたのか」(『「BC級裁判」を読む』P117、秦郁彦発言)の感想を、私も共有します。 余談ですが、奥山部隊のうち最後の5人が「玉砕」したのは、終戦のわずか10日前、8月5日のことであったと伝えられます。 もう少しだけ生き永らえることができれば、ひょっとすると無事に日本に帰れたかもしれないのに・・・と複雑な気持ちにならざるをえません。
日本軍の主力が移動してしまう以上、捕虜をそのままにしておくことはできません。サンダカンの捕虜に対しても、「移動命令」が発せられます。 第一陣については、「弾薬運搬」などの使役に使う、という意図もあったようです。 サンダカン―ラナウ間は約300キロ。一日20キロも歩けば、十数日で到達することができる。「捕虜輸送」に当っては、おそらくは軍司令部のそんな甘い判断があったのでしょう。 しかしこのルートは、現実には、ほとんど未踏のジャングルを抜けていく大変な悪路でした。田中利幸氏の文を見ます。
道は泥沼化。にもかかわらずほとんどの捕虜は靴さえも履いていない。加えて大量の山ヒルの襲撃。この点は、日本側証言を含め、ほとんどの証言に共通したものです。 余談ですが、このルートが大変な悪路になった背景には、次のような事情があったと伝えられます。
長期間の捕虜生活で、既に捕虜たちは衰弱しています。「食糧不足」と「マラリアの蔓延」に加え、これだけの悪条件が揃えば、脱落者が続出することに何の不思議もありません。 ※計画では一定距離ごとに設けられた「補給基地」で食糧などを補給する予定でした。 しかし実際には、「補給基地」にはほとんど物資がなく、各部隊は食糧不足に悩まなければなりませんでした。 例え物資があった場合でも、ジャングルの悪路・捕虜の衰弱などにより予定通りの行軍速度を確保できず、例えば四日分の食糧を八日間で食いつなぐなどのケースが続出しました。 上の表でも示した通り、約1064名の行軍参加者のうち、ともかくも目的地ラナウに辿りついたのは、わずか521名でした。 「事件」の責任の大半が、このような無茶な行軍を命じた軍司令部にあることは間違いありません。論者の見解はこの点一致しています。 第三十七軍司令官・馬場正朗中将は、いったん帰国後、戦犯裁判に召喚され、絞首刑の判決を受けました。
問題は、引率に携わった現場部隊の責任をどう考えるかです。 実際問題として、捕虜は、「脱落」してジャングルの中に一人取り残された時点で「生還」の可能性はほとんどなくなっています。 しかし日本軍は、念には念を入れて脱落者を「処分」していった、と伝えられます。 「自然死」であればまだ言い訳も立ちますが、「捕虜殺害」であれば国際法違反の誹りを免れることはできません。戦犯裁判では、現場部隊の「脱落者」に対する取扱いが焦点となりました。 最初の表の通り、捕虜の「行進」は三陣に分かれていました。 1945年1月にサンダカンを出発した第一陣は、概ね50名単位の九つの班に分かれ、一定の間隔を置いて西海岸を目指しました。 「行進」では脱落者が続出し、脱落した捕虜は、道端で動けなくなりながら後続部隊を待つ展開となりました。 最後尾の第九班に対して、先行する第一班〜第八班の「脱落者」を処分するように、との命令があったようです。
第二陣では、「脱落者処分」の方針はさらに明確なものになっています。第一陣では最後尾のみが「処分」担当であったと伝えられますが、 第二陣では、引率部隊全体で組織的に「処分」が行われたようです。
※第三陣は、捕虜・日本兵あわせて生還者1名、という状況でしたので、 実態はほとんど不明です。しかし「第一陣」「第二陣」の様相を見れば、「何が起ったのか」は容易に推察できるでしょう。 戦後の戦犯裁判では、「行軍」の引率責任者のうち、「捕虜殺害」に関与したとされる四名が死刑となりました。
(2014.6.1)
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