サンダカン死の行進
捕虜約二千人、生還者6人 (2)




捕虜収容所、その後
到着地ラナウにて

 最初の表でも示した通り、総勢約2000 名の捕虜のうち行進に参加したのは約1064名、うち行進中の死者は540名ほどに過ぎません。 「事件」は「死の行進」の名を冠していますが、むしろ「行進」前後の、捕虜収容所での捕虜取扱の方が問題が大きい、と言うべきでしょう。

 「捕虜収容所」の実態については、戦後の「裁判記録」を参考にした田中利幸氏の記述が最も詳しいので、以下、それに沿って見て行きます。

 ただし田中氏の記述は、「第一陣」「第二陣」「ラナウ到着者」「サンダカン残留者」の記述が入り組んでおり、必ずしも読みやすいものであるとは言えません。 田中氏の記述から、「ラナウ」(またはその直前の「バギナタン」)到着捕虜の生存者数の推移を下の表にまとめてみましたので、以下の記述を読む参考にしてください。

    当初    2月21日 4月初旬  6月下旬   7月7日 7月18日  8月1日 
 第一陣   一〜五班  約270名  200名弱  150名
(一〜五班約90名?
六〜九班約60名?)
  6名  約100名   72名   33名
→全員銃殺
 六〜九班  約200名  約160名
(バギナタン待機)
 第二陣    536名  ―  ―  183名
 第三陣    75名  ―  ―  0名      

 第一陣は6月下旬にはわずか6名にまで減っています。そこに第二陣が合流してきましたが、こちらも7月までに大半が死亡しています。

 その多くは「自然死」ですが、最後の33人は銃殺されており、「自然死しなかった者は殺す」という日本軍の捕虜抹殺意思を伺い知ることができます。



 以下、田中氏の記述を追っていきます。

 第一陣の前半、第一班から第五班までの約270名のうち、ラナウまで到着したのは200名弱。 しかし捕虜たちにとって、「死の行進」はこれで「終わり」ではありませんでした。それからわずか1ヶ月ほどの間に、さらに「半減」した、と伝えられます。 (「ゆう」注 (1)の冒頭の表は『世界戦争犯罪時点』に依拠しましたが、以下の田中氏の記述とはやや人数が合いません)

田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 ラナウに残された二〇〇名たらずの捕虜(「ゆう」注 第一陣の第一班から第五班まで)は二週間ほどの休息を与えられたが、 食糧配給事情は相変わらず悪く、医薬品の供給もまったくなかったため、この間に数多くが死んでいった

 そのうえ、自分たちの住居用の草ぶき屋根小屋の建築や日本軍のための水汲み、薪集めなどさまざまな雑務労働に再び従事させられたため、衰弱し熱帯病にかかったこれらの捕虜は次々に死亡し、 一カ月ほどの間に捕虜数は半減している。(P100)




 一方、後半の第六班から第九班までの約200名は、行軍中に約40名の「脱落者」を出しました。 あまりに衰弱がひどく、ラナウの直前、バギナタンでいったん行軍を中止します。そしてそのバギナタンで、さらに100名ほどが死亡しました。

田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 しかしあまりにも衰弱が激しかったため、捕虜と日本兵両方の体力回復をはかるために、第六班から第九班までの四つの班の行進を最後の食糧補給地点であるバギナタンでいったん中止させている。

 この四つの班はバギナタンに二月一七日から二一日の間に到着したが、合計二〇〇人近くいた捕虜のうち四〇名ほどが途中で「落伍」していた。 さらに、ここまでたどりついた一六〇名も極端に衰弱しほとんどの捕虜が熱帯病に冒されていたため、毎日何人も死んでいった。

 結局彼らはラナウから運ばれてくる米の補給にたよりながらここに一カ月ほど留まったが、この間に一〇〇名ほどが死亡した。(P99)

 後半第六班から第九班までの「バギナタン待機」は、先行した第一班から第五班にも影響を与えました。後半組に食糧を運ぶために、前半組が「使役」に使われたのです。


田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 ラナウに到着した捕虜の数が急速に減少していったのには、もう一つの理由があった。

 それは捕虜たちの中で体力が残っているとみなされた六〇人ほどが選びだされ、バギナタンに留まっている捕虜と日本軍兵士のために食糧補給をするため、 米袋を背負わせてバギナタンまでの四五キロ近い道程を何回も往復させたためであった。

 捕虜たちは一人当たり二〇キログラム前後ある米袋を担がされ、往きには三日、帰りに二日をかけて往復。キース・ボッテリルは五回も往復させられている。 途中で倒れ動けなくなった捕虜は日本兵に銃剣で刺殺されるか銃殺され、死体はジャングルの中に放置された。

 落伍した捕虜が担いでいた米袋は、残りの捕虜が分担して背負わなければならなかった。あるときボッテリルは二〇人の捕虜仲間と米袋を担いでバギナタンに向かったが、 ほとんど毎日数人が落伍して殺され、ラナウに戻ってきたときには彼を含めて五人しかいなかったという。(P99)


 半死半生になっている捕虜に、さらに米袋をかつがせ、片道45キロ近い道を何度も往復させる。ほとんど「残虐行為」に近い、と言っても過言ではないでしょう。



 結局、第一陣約470名(『世界戦争犯罪時点』では453名)のうち、「四月初旬」の「生き残り」は約150名。 さらに6月下旬まで生き残った者は、わずか6名に過ぎませんでした。

田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 バギナタンから最終的に到着した捕虜を加えて、四月初旬にラナウに生き残っていた捕虜は一五〇名ほどであった。 ところが六月下旬に、第二陣の行進でサンダカンから連れてこられた捕虜たちがラナウに到着したとき、 生き残っていた捕虜はこのうちのたった六人だけであった。(P101)


※ここでは田中氏の記述をそのまま引用しましたが、サンダカンからラナウに派遣された「永田大尉」の戦犯取調べ「口述書」によれば、 「私が、ラナウのP.W(捕虜)キャンプの委託を受けた昭和二十年四月二五日、当時ここには約二三〇名の俘虜がいた 。彼らの約一〇〇名は"パギナタン"に尚ほ残っていたといふ」(福永美知子『心果つるまで』P87)と、やや数字が異なります。 どちらの数字が正しいのかは不明です。いずれにしても、第一陣の捕虜は、6月下旬段階ではほぼ全滅することになりました。




 6月下旬には、第二陣の生き残り、183人が合流します。その直前、わずかとなった第一陣の生き残りのうち10名ほどが銃殺される、という事件が発生しています。


田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 一方、六月下旬の段階のラナウには、第二回目の行進を生き延びた一八三名と第一回目の行進の生存者六名、 合計一九〇名弱の捕虜が生き残っていた

 第一回目行進の生存者たちが第二回目の捕虜生存者に合流する直前には、病気で衰弱していた一〇名ほどの捕虜が銃殺され、 体力がまだ比較的残っていた六名だけが選ばれた。(P118)


 同一の事件であるかどうかわかりませんが、福永美知子氏が台湾人軍属に取材した『心果つるまで』にも、「捕虜殺害」の話が登場します。


福永美知子『心果つるまで』

 <テキギニ ショブン セヨ>

 六月初旬、俘虜たちは、「第一密林キャンプ」では危ない、ということで、さらに十キロほど奥地に入ったジャングル内の、 「第二密林キャンプ」 へと、移されることになりました。

 鄭さん、荘さんが一しょに訴えられた「事件」というのは、この移動の最後の日に起こっています。

 裁判の「起訴理由概要」には、

 「北ボルネオ"ラナウ"附近において、昭和二十年六月十日頃、意識的かつ合法的根拠または理由なくして、約八名の俘虜を殺害せり

 として、山部軍曹以下、台湾人六人が訴えられています。(P89)



 この時点ではもう、日本軍の「捕虜全滅方針」は確固たるものになっている、と判断すべきかもしれません。生き残った捕虜に対しても、食糧の配給制限、強制労働が続けられます。

田中利幸『知られざる戦争犯罪』


 しかし一九〇名弱の捕虜のほぼ全員がなんらかの熱帯病か栄養失調ないしは脚気に冒されており、行進で極端に身体が衰弱していた。 そのため第二回目の行進がラナウに到着した六月二五日から三日後にはすでに一九人が亡くなっている

 相変わらず配給される食糧は最低限にとどめられ、一日二人あたり七〇ないし七五グラムの米だけで、肉類は言うまでもなく野菜の配給もほとんどなかった

 にもかかわらず、第二回目の行進がラナウに到着するや捕虜たちには休息する暇もほとんど与えられず、 日本軍人や監視員のための宿舎それに自分たちが寝るための草ぶき屋根小屋を作るために必要な竹の切り出しと建築作業に従事させられた。(P118)


 そして、捕虜の数はどんどん減っていきます。

田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 ボッテリルたちが逃亡した七月七日には、まだ一〇〇名ほどの捕虜が生き残っていた

 七月一八日、捕虜収容所の建物ができあがったため、それまで野宿をさせられていた捕虜たちはこの建物に移った。 とはいっても「捕虜収容所」とは名ばかりで、長さ九メートル、幅五・五メートルほどの吹きさらしの草ぶき屋根小屋であった。

 床が少し高くしてあったが、これは捕虜の中に赤痢にかかっていた者が多くいたため、他の捕虜に感染しないように彼らを床下に寝かせたのである。

 この建物ができあがったときには捕虜の数は七二人にまで減っており、このうちの三八名が床上に、三四名が床下に寝ているところから、 この段階では生き残っていた捕虜のほぼ半数が赤痢患者であった。(P120)


 6月25日の「約190人」が、7月7日には「100名ほど」、そして7月18日には「72人」。日本軍の「捕虜全滅方針」は、もはや明らかでしょう。

 これ以上ここにいても死を待つばかり。この間、7月7日にはボッテリル、モクサン、ショート、アンダーソンの4人が逃亡を試み、成功しています。 また7月28日にはスティップウイッチ、ライザーの2名が逃亡しました。

 この6人のうち、アンダーソン、ライザーを除く4名が、北ボルネオに上陸したオーストラリア軍との接触に成功し、奇跡的に「生還」することになります。
※冒頭の表でも触れた通り、最終的な生還者は、 「第二陣」の行進中に逃亡に成功したキャンベル、プレイスウェイトを含め、6名でした。


 そして8月1日、なおも生き残った33名の捕虜は、高桑卓男大尉の命令により、全員殺害されました


田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 八月一日朝、高桑は生き残っている捕虜を全員銃殺することを決定、下士官たちを集め命令を下した。 この時点で生き残っていた捕虜は三三名であったが、これを三つのグループに分けて「処分」することにしたのである。(P121-P122)

(略)

 これら三つのグループの捕虜銃殺と死体処分は午前一〇時から午後一時ごろまでの間にすべて完了した。 かくして八月一日をもってラナウの「捕虜収容所」からは捕虜が一人もいなくなったのである。(P123)


 ラナウで死亡した約500名のうち、どれだけが「自然死」で、どれだけが「日本軍による殺害」であったかは、今日ではもう知ることはできません。

 しかしいずれにしても、「行進」が終了した後の「自然死」の続出は、「捕虜収容所」の待遇に起因するだけに、日本軍は責任を免れることはできないでしょう。




捕虜収容所、その後
出発地サンダカンにて

   一方、行軍に耐えるだけの体力を残さない捕虜は、そのままサンダカンに残置されることになりました。こちらも同じように、捕虜の「減少ぶり」を確認しておきましょう。

   2月初旬  5月末 6月9日   7月12日  7月13日  8月15日
 捕虜数  (第一陣出発後)
1300名弱
 (第二陣536名出発)
824名→ 288名
 (第三陣75名出発)
260名→185名
 50名  (27名銃殺)
23名
  0名

 1月下旬の捕虜数1850名、うちラナウへ向けて移動した者は1064名ですので、単純に計算すると、約800名がサンダカンに止まったまま死亡したことになります


 「死因」のひとつには、米軍の「空襲」がありました。

田中利幸『知られざる戦争犯罪』


 一方、サンダカンは一月以降も引き続きほとんど毎日連合軍による空襲を受けた。一九四四年一〇月にサンダカンへの空襲が開始されてまもなく、 星島は収容所内に一字につき縦横一〇メートルの大きさで「POW」(Prisoner of War=捕虜)という標識を設置した。

 しかしこの標識もあまり役にはたたず、 しばしば収容所は誤爆を受け、一九四五年四月下旬までに三〇名近い死傷者が捕虜の中から出た

 四月下旬、なぜか第三七軍司令部はこの標識を撤去するよう星島に命令しており、星島はしぶしぶこの命令に従っている。 自分の住居が収容所のすぐ近くにあった星島は、自分の身の安全のためにもこの標識を設置したのであった。

 またあるときは、薪木集めに出ていた捕虜が空襲にあい、二〇名の捕虜と数人の監視員が死亡している。(P101)


 しかしやはり、最大の要因は、日本軍による「虐待」でしょう。

 1944年6月頃から、捕虜への食糧の配給は確実に減らされていきました(福永美知子『心果つるまで』P72)。 そして1945年4月以降、食糧と水の配給は完全にストップしました。もはや日本軍には、捕虜を生き永らえさせる意図はない、と判断せざるをえません。


田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 一九四五年一月にはもともと少なかった米の配給がさらに削減されたため、飢餓と病気による死亡者が続出するようになり、三月には毎日一〇人から一二人ほどの捕虜が死んでいったという。(P101-P102)

 四月に入ると米と水の配給が完全に停止されたため、捕虜たちは少ない配給の中から細々と貯えてきた米を分けあい、野生植物の根や茎を主食とし、 水牛に汚された近くの泥池から水を汲んでこなければならなくなった。

 この段階までくると、たんに反乱防止のために捕虜の身体を衰弱させるという意図をはるかに超えて、日本軍側の「捕虜抹殺」の計画がここにはっきりと現われてきているように思われる。

 一月末から二月初旬にかけてラナウへの第一陣の行進が出発した直後のサンダカンには一三〇〇名近い捕虜が残っていたはずであるが、 五月末には捕虜の数は八三〇名弱にまで減少していた。(P102-P103)


 1月末の「第一陣」出発から5月末の「第二陣」出発にかけて、捕虜の数は470名ほど減少し、「830名弱」になっています。 その「830名弱」のうち「歩ける者」536名が、「第二陣」として西海岸へ向けて出発しました。残存は、288名、ということです。

 日本軍は、第二陣の出発にあたり、捕虜収容所を焼き払いました。日本軍はもはや、残された捕虜を生かし続ける意思などなくなっていたのでしょう。 以降、残された捕虜たちは、野宿を余儀なくされます。


田中利幸『知られざる戦争犯罪』


 五月二九日午前九時過ぎ、ラナウへの移動第一団の出発後使われていなかった第二・第三捕虜収容所の建物に火がつけられて破壊され、 収容所の近くにあった弾薬庫が爆破された。捕虜たちには五匹の豚が突然支給された。

 収容所要員のあわてふためいた様子を見た捕虜たちは、連合軍がまもなく上陸してくるために敗北を予期した日本軍側が捕虜たちに突然食糧を提供し始めたのではないかと考え、救出の希望をもった。

 午前一一時、捕虜たちが残っていた第一収容所に高桑がやってきて、病気で動けない捕虜は全員収容所の建物から運び出し外の集合場に横たえるように、 そして第一収容所の建物を燃やすように捕虜たちに命じた。(P104)



 捕虜たちが行進を開始するや、ごく一部の建物を残して収容所の日本軍要員の宿舎やそのほかの建物にも火がつけられた。(P105)


 残された捕虜の境遇は、悲惨なものでした。食糧供給を断たれた彼らの主食は、「沼地にはえている野生植物の根や茎」になってしまったようです。


田中利幸『知られざる戦争犯罪』


 ラナウヘの行進の第二団がサンダカンを離れたあと、収容所には二八八名の捕虜が残されたが、そのほとんどは衰弱しきって動けない状態にあった。 しかし、その中には比較的体力が残っていたにもかかわらず、仲間の捕虜の世話をするために行進に参加せずに収容所に残った者が少数名いたようである。

 建物をすべて焼き払われたため、彼らは近くに生えていた木や葉っぱを集めてきて雨よけを作り、その下に仲間の捕虜たちを横たえた。この時点での収容所の日本軍要員は、 室住久署長の他一六名の台湾人監視員、数名のジャワ人労働者、それに台所要員として雇われていた四名の現地中国人だけであった。(P114-P115)

 捕虜たちは相変わらず医薬品も食糧も与えられず放置された状態におかれたため、沼地にはえている野生植物の根や茎を主食とし、 たまに収容所要員が腐って食べられなくなり捨てた魚や肉を口にしてなんとか生きながらえた。(P115)


 6月9日時点では、「260名」の捕虜が生き残っています。そのうち75名は、「第三陣」としてラナウへ出発しましたが、ジャングルの中で全滅した模様です。

 残る捕虜は185名。しかし劣悪極まる環境の中で、それから一ヶ月後の7月12日には、「50名」にまで減少しています。

田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 七五名がたどりつく見込みもないままラナウへと向かった六月九日、サンダカンには一八五名の捕虜が生きながらえていた。 しかし彼らは次々と死亡していき、ジャワ人労働者たちが毎日死体を埋葬する仕事にあたった。そして一ヵ月あまりのちの七月一二日には、その数が五〇名にまで減っている

 この間おそらく森竹は、残りの捕虜が「自然死」するのを待っていたのであろう。「自然死」すればラナウまで移転させる必要はないし、自分たちの行進も楽になり途中で死亡する危険性がそれだけ少なくなる。(P116)


 捕虜全滅まで、「もう一息」です。捕虜の監視を指揮していた森竹中尉は、捕虜を「近いうちに死亡するであろう」23名と「まだかなり時間がかかる」27名に分け、 後者27名の銃殺を指示します

田中利幸『知られざる戦争犯罪』


 しかし森竹はこの数日前、サンダカンをなるべく早く撤退し、撤退する途中で捕虜を処分せよという命令内容の手紙をラナウに駐留している高桑から受け取った。(P116-P117)

 もうこの時点ではサンダカン地域に残っている部隊はほとんどなかったため、いつまでも要員を収容所においておくのは危険であった。 そこで森竹は、放っておいてもごく近いうちに死亡するであろうと思われた二七名はそのままにしておき、 「自然死」するにはまだかなり時間がかかると思われる二三名を選んで銃殺することにしたのである。

 ところが彼はこのときマラリアに冒されていたため、二三名の捕虜銃殺場所を飛行場建設現場にある防空壕と指定し、室住曹長にその命令実行の任務にあたらせた。

 七月一三日の夕方六時ごろ、室住は一二名の台湾人監視員に二三名の捕虜をそこまで連れださせ、防空壕の前に一列に並べさせた。そして一二名の監視員を捕虜の反対側に一列に並べさせ、 全員に一斉射撃で捕虜を銃殺するよう命じた。

 捕虜を飛行場建設現場に連れだすように命じられた監視員の中にこの命令に躊躇した者がいたため、室住は「上官の命令に背くものは処刑する」と、彼らをなかば叱咤しなかば脅迫した。

 室住は自分のピストルを抜きとり、監視員たちから三歩ばかりうしろに下がってから銃殺命令を出しており、命令に従わない監視員をその場で銃殺する構えを見せたという。 監視員たちは、命令に従い捕虜に向けて発砲せざるをえなかった。銃殺された捕虜の死体は、この後防空壕に投げ捨てられ埋められた。(P117)


 そして、死期が近いと見られていた残りの捕虜も次々と死亡していき、「八月一四日か一五日」に捕虜はついに一人もいなくなった、と伝えられます。


田中利幸『知られざる戦争犯罪』


 森竹はマラリアが悪化し七月一七日に死んだため、室住が引き続きサンダカン収容所の指揮官代理を務めた。

 しかし残り二七人の重病の捕虜は、森竹が期待していたほどには早く死ななかったようである。 数日おきに一人、二人と死んでいったらしく、八月一四日か一五日に二人の捕虜が死んだのを最後に、捕虜がまったくいなくなったと室住は戦後の取り調べで証言している。(P117)


 最後の捕虜が本当に「自然死」したかどうかは、かなりの疑問があるようです。しかし日本軍の「捕虜抹殺」意思は明らかなものであり、ここまでくると、 「自然死」だろうが「殺害」だろうが、日本軍の責任の区別をする意味はあまりない、と私は感じます。



 戦後行われた「戦犯裁判」の結果です。


田中利幸『知られざる戦争犯罪』

 五 捕虜虐待・虐殺の責任と日本の捕虜政策

 戦後豪州軍が行なったBC級戦犯裁判で、一九四五年五月中旬までサンダカン捕虜収容所の所長であった星島進大尉には、 捕虜虐待を命令・許可しその結果捕虜の中から死亡者をだしたこと、病気で衰弱していた捕虜を強制労働に従事させたこと、さらには食糧・医薬品を捕虜に十分提供することを怠ったことなどの罪により、 絞首刑が言い渡された。

(略)

 森竹中尉の命令でサンダカン収容所に生き残っていた捕虜のうち二三名の銃殺を台湾人監視員を使って実行した室住久雄曹長には、 終身刑が言い渡された。

 日本人上官の命令で捕虜虐待や銃殺を実行した台湾人監視員たちの間には死刑に処せられた者はおらず、ほとんどが一二年から一五年の懲役刑に科せられた。(P132-P133)


 基本的には彼らの行動は、上級の意思に沿ったものだったのかもしれません。しかし「現場責任者」として、捕虜の死への責任は免れませんでした。



 食糧配給をゼロにする。捕虜収容所を焼き払う。さらにはそれでも「自然死」しない捕虜を銃殺する。日本軍の、捕虜抹殺意思は明らかです

 問題は、その「動機」です。日本軍幹部が自ら語った「証言」は見あたらず、推定するしかありません。

 田中氏は、次のように推定しています。

田中利幸『知られざる戦争犯罪』


 おそらく司令部の幹部たちは、連合軍がサンダカンに上陸したとき日本軍による捕虜虐待の実態が発覚するのを恐れ、 事実隠蔽をはかるために収容所を完全に焼き払ったうえ捕虜を全員「移転」させ、証拠がいっさい残らないように努めようとしたのではなかろうか。

 証拠が残らないようにするためには、捕虜の中から移転中に「落伍者」を出してはならず、なにがなんでも「全員移転」を遂行しなくてはならない。(P134-P135)

 しかし「落伍者を出さない全員移転」は、捕虜の健康状態や、食糧・医薬品の供給状態からして「たてまえ」にしかすぎないことは、命令を発令した司令部の幹部たち自身が十分に知っていたことである。

 ラナウへの第一回目の行進以前から司令部では、証拠隠滅のためには遅かれ早かれサンダカンの捕虜を抹殺しなければならないことを承知していたのではなかろうか。(P135)


 「虐待」ぶりを連合軍に知られないために抹殺したのではないか、という説明です。 この推定が正しいかどうかここでは断言しませんが、この通りだとすれば、あまりに身勝手、としか言いようがありません。





5  参考文献

 以上、「事件」の概要を見てきました。

 コンパクトにまとめてしまいましたが、実際には「事件」の全体像はさらに複雑で、この間に生じたエピソードの多くを、上では割愛しています。

 それを補うために、「事件」に関する主な参考文献を補記しておきます。より詳しく知りたい方は、こちらに当たられることをお勧めします。
※以下は、私が入手した文献、及び国会図書館から取り寄せることができた資料だけに限っていますので、関連文献を包括的に網羅したものでないことはお断りしておきます。 また他にも、部分的に「サンダカン」に触れた資料は多数ありますが、こちらでは割愛しました。




 「サンダカン死の行進」を概説的に取上げた書籍・文献は、必ずしも多いものではありません。「事件」の全体像を採り上げたものは、私の知る限り、次の1〜5のみです。

1.田中利幸 「知られざる戦争犯罪」(大月書店) 第二章

2.ハンク・ネルソン 「日本軍捕虜収容所の日々」(筑摩書房) 第八章、第九章

 前者は、「裁判記録」をもとに「事件」の全体像を解き明かしたもので、「死の行進」に関する基本テキストとも言える本です。本稿でも、多くの記述をこの書に負っています。

 後者は、「生き残り」捕虜たちへのインタビューから「事件」を再構成したもの。ボッテリル、ショート、プレイスウェイト、キャンベルらが登場します。 本稿ではスペースの都合上割愛せざるをえませんでしたので、関心のある方は、ぜひご覧ください。

3.福永美知子 「心果つるまで」(水晶工房)

 「第二回行進」では、日本兵は直接手を汚さず、台湾人監視員に「脱落者処分」を命じたケースが多く報告されています。 本書はこの台湾人監視員にスポットライトを当ててインタビューを行ったものであり、監視員たちの苦悩、戦後の戦犯裁判の様相や帰国後の苦しい生活が印象的です。

 また、逃亡に成功したスティップウイッチが、戦後の戦犯裁判で証言に立ち、台湾人監視員らに「死刑には絶対にしない」と約束し、その「約束」を守ったシーンも心に残ります(P110-P116)。 興味深いエピソードですが、こちらも本稿では割愛せざるをえませんでした。


4.半藤一利、秦郁彦、保阪正康、井上亮 「「BC級裁判」を読む」(日本経済新聞社)

 どちらかと言えば「保守派」の歴史研究家たちによる、「BC級戦犯裁判」の総括です。「サンダカン死の行進」は第一章の一部で取り上げられています。 「サンダカン」に限らず、大変面白い本ですので、「BC級裁判」に関心をお持ちの方は一読をお勧めします。


5.上東輝夫『太平洋戦争期の北ボルネオにおける英・豪軍捕虜の「死の行進」について』
(名古屋商科大学総合経営・経営情報学部『NUCB journal of economics and information science』2003.3)

 こちらは雑誌論文です。筆者は、平成6年から9年にかけて、北ボルネオで「コタ・キナバル総領事」を務めていた、とのことです。「事件」の全体像、戦後の戦犯裁判をコンパクトにまとめています。
※「サンダカン死の行進」は、「ラナウ行進」として、 極東国際軍事裁判の判決文にも登場します。 事実認識は必ずしも正確なものとはいえませんが、こちらに引用しておきましたので、関心のある方はご覧ください。





 直接「捕虜移送」に携わった部隊の「戦記」としては、以下のものがあります。


6.キナバル会 「キナバルを越えて 堀川隊の足跡」 (独立混成第二十五連隊第二大隊第五中隊)

 「第一陣」の移送を担当した「独立混成第二十五連隊第二大隊」(山本正一大尉)のうち、「第五中隊」(堀川隊)の復員者による、回想録集です。 堀川中隊長自身も、論稿を寄せています。「部隊戦史」ものですので当然ながら「捕虜殺害」を匂わせる記述はほとんど登場しませんが(むしろ捕虜との「交流」が強調されます)、 「移送」の苦難がリアルに描かれており、参考になります。




 以下は、日本軍の「死の転進」を扱った、従軍記録、部隊戦史ものを紹介します。(「捕虜」の記述はほとんど登場しませんので、念のため)


6.豊田穣『北ボルネオ死の転進』(集英社文庫)

 戦記小説であり、「フィクション」が中心となりますが、綿密な取材を窺わせる内容です。巻末の「参考文献」が、大変参考になります。 なお同じ筆者の「玉砕」(光人社NF文庫)は、タイトルが違うだけの同一本ですので、ご注意を。


7.藤原稜三 「落日のラブアン島」 (独立歩兵第三七一大隊 奥山部隊)

 本文中でも紹介しましたが、奥山部隊は、当初の992人が「死の転進」により443人に減少、さらにラブアン島の戦いで玉砕した、いわば「悲劇の部隊」です。 本書は、綿密な取材を元に、この奥山部隊の運命を語っています。

 「死の転進」に反対した馬奈木参謀長が、「推薦のことば」を寄せています。また、「死の転進」の決定過程を推理した部分が興味深く読めます。


 その他、「北ボルネオ死の転進」を扱った部隊戦記、従軍記録は多数あります。繰返しますが、以下の書のテーマはあくまで「日本軍の死の転進」であり、「捕虜」に関する記述はほとんどありません。


8.広瀬正三編・独歩三六七大隊の足跡『あゝボルネオ』(正、続)
9.三六八ボルネオ会『ボルネオ秘録』(独立歩兵第三百六十八大隊)
10.森田稔『北ボルネオ 一兵士の軌跡』(独立歩兵第五五四大隊第三中隊 山縣部隊)
11.松本國雄『キナバルの東』(独立機関銃第二十大隊)
12.田中保善『町医者 ボルネオに戦う』(独立歩兵第四三二大隊)
13.上野逸勝『北ボルネオ密林 死の行軍六〇〇キロの真実』(独立混成第二十五聯隊 家村部隊)
14.中原眞澄『サンダカン1945』(北ボルネオ・東海岸州庁衛生課勤務)


 その他、多数の私家版の「部隊戦史」があるようですが、国会図書館にも置いておらず入手困難なものが多数です。私も確認できませんでしたので、こちらでは割愛します。

 なお本文中では紹介しきれませんでしたが、上の「部隊戦史」ものには、部分的に「捕虜」と出会った記述も登場します。特に、森田著、上野著の記述が印象深いので、こちらに紹介します。

 
森田稔『北ボルネオ 一兵士の軌跡』

独立歩兵第五五四大隊第三中隊(山縣部隊)

(二月十日)

 前方より台湾の義勇兵が一人の裸足の捕虜を連れて下って来た。

 サンダカン飛行場建設に使用された二千名許りの捕虜は既に何処かに逓送されたものと許り思っていたのに、まだこのジャングル内に居残っているとは誠に遅々たる行進速度であった。

 裸足の補虜の足指からは血が流れていた。眼は虚ろで首を振り、泳ぐ様にしてやって来た。すれ違う時、彼は胸で十字を初った様に見えた。瞬間、私はああこれは銃殺されるんだなあと思った。

 案の定、暫くして後方で銃声が木立をゆすった。そして義勇兵一人が足早に帰って来て吾々を追い抜いて行ってしまった。

 この様に落伍した足手まといの捕虜は殺せとの命令が出されていると言う事だったが、吾々も同じ様に落伍兵だ。 割切れぬ気持ちであったが、如何ともなす方法はなかった。(P249)



上野逸勝『北ボルネオ密林 死の行軍六〇〇キロの真実』

(六月)

 翌日、我々一般の兵は、俘虜部隊が出発して、その姿が全く見えなくなってから、ゆっくり出発するように兵站から指示された。

 この日の道は、始は川沿いで少しづつ登りになっており、一時間程歩くと、川の流は遥かな下になって見えなくなった。前方で時々小銃の音がする。 いやな気持気持ちになって、一緒に歩いていた他部隊の兵にきいてみると、

「俘虜の中には栄養失調やマラリヤ発熱中の者、脚気で歩けない者などが沢山いる。これ等の人が、隊列から遅れてとても一緒に行軍できず、最早寿命の限界だと判断され、 遅れた距離が二百米以上になると、そのずっと後からついてきた俘虜輸送兵が已むをを得ず銃殺することになっているのだ。時々きこえる小銃の音はそれだ」(P172-P173)

と話してくれた。

 我々の行軍仲間にも、とても駄目だから一思いに殺してもらいたいと思い乍ら、苦しんで死んで行った者も沢山いた事であろう。(P173)


 いずれも、「脱落した捕虜は処分する」方針があることを伝え聞いています。

 特に森田著は明らかに「第一陣」に関する記述です。「第九班」のもの、という可能性もないではありませんが、第九班以外の「捕虜殺害」の可能性を示唆するものである、と言えるかもしれません。

(2014.6.1)


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