サンダカン死の行進 捕虜約二千人、生還者6人 (2) |
最初の表でも示した通り、総勢約2000 名の捕虜のうち行進に参加したのは約1064名、うち行進中の死者は540名ほどに過ぎません。 「事件」は「死の行進」の名を冠していますが、むしろ「行進」前後の、捕虜収容所での捕虜取扱の方が問題が大きい、と言うべきでしょう。 「捕虜収容所」の実態については、戦後の「裁判記録」を参考にした田中利幸氏の記述が最も詳しいので、以下、それに沿って見て行きます。 ただし田中氏の記述は、「第一陣」「第二陣」「ラナウ到着者」「サンダカン残留者」の記述が入り組んでおり、必ずしも読みやすいものであるとは言えません。 田中氏の記述から、「ラナウ」(またはその直前の「バギナタン」)到着捕虜の生存者数の推移を下の表にまとめてみましたので、以下の記述を読む参考にしてください。
第一陣は6月下旬にはわずか6名にまで減っています。そこに第二陣が合流してきましたが、こちらも7月までに大半が死亡しています。 その多くは「自然死」ですが、最後の33人は銃殺されており、「自然死しなかった者は殺す」という日本軍の捕虜抹殺意思を伺い知ることができます。 以下、田中氏の記述を追っていきます。 第一陣の前半、第一班から第五班までの約270名のうち、ラナウまで到着したのは200名弱。 しかし捕虜たちにとって、「死の行進」はこれで「終わり」ではありませんでした。それからわずか1ヶ月ほどの間に、さらに「半減」した、と伝えられます。 (「ゆう」注 (1)の冒頭の表は『世界戦争犯罪時点』に依拠しましたが、以下の田中氏の記述とはやや人数が合いません)
一方、後半の第六班から第九班までの約200名は、行軍中に約40名の「脱落者」を出しました。 あまりに衰弱がひどく、ラナウの直前、バギナタンでいったん行軍を中止します。そしてそのバギナタンで、さらに100名ほどが死亡しました。
後半第六班から第九班までの「バギナタン待機」は、先行した第一班から第五班にも影響を与えました。後半組に食糧を運ぶために、前半組が「使役」に使われたのです。
半死半生になっている捕虜に、さらに米袋をかつがせ、片道45キロ近い道を何度も往復させる。ほとんど「残虐行為」に近い、と言っても過言ではないでしょう。 結局、第一陣約470名(『世界戦争犯罪時点』では453名)のうち、「四月初旬」の「生き残り」は約150名。 さらに6月下旬まで生き残った者は、わずか6名に過ぎませんでした。
※ここでは田中氏の記述をそのまま引用しましたが、サンダカンからラナウに派遣された「永田大尉」の戦犯取調べ「口述書」によれば、 「私が、ラナウのP.W(捕虜)キャンプの委託を受けた昭和二十年四月二五日、当時ここには約二三〇名の俘虜がいた 。彼らの約一〇〇名は"パギナタン"に尚ほ残っていたといふ」(福永美知子『心果つるまで』P87)と、やや数字が異なります。 どちらの数字が正しいのかは不明です。いずれにしても、第一陣の捕虜は、6月下旬段階ではほぼ全滅することになりました。 6月下旬には、第二陣の生き残り、183人が合流します。その直前、わずかとなった第一陣の生き残りのうち10名ほどが銃殺される、という事件が発生しています。
同一の事件であるかどうかわかりませんが、福永美知子氏が台湾人軍属に取材した『心果つるまで』にも、「捕虜殺害」の話が登場します。
この時点ではもう、日本軍の「捕虜全滅方針」は確固たるものになっている、と判断すべきかもしれません。生き残った捕虜に対しても、食糧の配給制限、強制労働が続けられます。
そして、捕虜の数はどんどん減っていきます。
6月25日の「約190人」が、7月7日には「100名ほど」、そして7月18日には「72人」。日本軍の「捕虜全滅方針」は、もはや明らかでしょう。 これ以上ここにいても死を待つばかり。この間、7月7日にはボッテリル、モクサン、ショート、アンダーソンの4人が逃亡を試み、成功しています。 また7月28日にはスティップウイッチ、ライザーの2名が逃亡しました。 この6人のうち、アンダーソン、ライザーを除く4名が、北ボルネオに上陸したオーストラリア軍との接触に成功し、奇跡的に「生還」することになります。 ※冒頭の表でも触れた通り、最終的な生還者は、 「第二陣」の行進中に逃亡に成功したキャンベル、プレイスウェイトを含め、6名でした。 そして8月1日、なおも生き残った33名の捕虜は、高桑卓男大尉の命令により、全員殺害されました。
ラナウで死亡した約500名のうち、どれだけが「自然死」で、どれだけが「日本軍による殺害」であったかは、今日ではもう知ることはできません。 しかしいずれにしても、「行進」が終了した後の「自然死」の続出は、「捕虜収容所」の待遇に起因するだけに、日本軍は責任を免れることはできないでしょう。
一方、行軍に耐えるだけの体力を残さない捕虜は、そのままサンダカンに残置されることになりました。こちらも同じように、捕虜の「減少ぶり」を確認しておきましょう。
1月下旬の捕虜数1850名、うちラナウへ向けて移動した者は1064名ですので、単純に計算すると、約800名がサンダカンに止まったまま死亡したことになります。 「死因」のひとつには、米軍の「空襲」がありました。
しかしやはり、最大の要因は、日本軍による「虐待」でしょう。 1944年6月頃から、捕虜への食糧の配給は確実に減らされていきました(福永美知子『心果つるまで』P72)。 そして1945年4月以降、食糧と水の配給は完全にストップしました。もはや日本軍には、捕虜を生き永らえさせる意図はない、と判断せざるをえません。
1月末の「第一陣」出発から5月末の「第二陣」出発にかけて、捕虜の数は470名ほど減少し、「830名弱」になっています。 その「830名弱」のうち「歩ける者」536名が、「第二陣」として西海岸へ向けて出発しました。残存は、288名、ということです。 日本軍は、第二陣の出発にあたり、捕虜収容所を焼き払いました。日本軍はもはや、残された捕虜を生かし続ける意思などなくなっていたのでしょう。 以降、残された捕虜たちは、野宿を余儀なくされます。
残された捕虜の境遇は、悲惨なものでした。食糧供給を断たれた彼らの主食は、「沼地にはえている野生植物の根や茎」になってしまったようです。
6月9日時点では、「260名」の捕虜が生き残っています。そのうち75名は、「第三陣」としてラナウへ出発しましたが、ジャングルの中で全滅した模様です。 残る捕虜は185名。しかし劣悪極まる環境の中で、それから一ヶ月後の7月12日には、「50名」にまで減少しています。
捕虜全滅まで、「もう一息」です。捕虜の監視を指揮していた森竹中尉は、捕虜を「近いうちに死亡するであろう」23名と「まだかなり時間がかかる」27名に分け、 後者27名の銃殺を指示します。
そして、死期が近いと見られていた残りの捕虜も次々と死亡していき、「八月一四日か一五日」に捕虜はついに一人もいなくなった、と伝えられます。
最後の捕虜が本当に「自然死」したかどうかは、かなりの疑問があるようです。しかし日本軍の「捕虜抹殺」意思は明らかなものであり、ここまでくると、 「自然死」だろうが「殺害」だろうが、日本軍の責任の区別をする意味はあまりない、と私は感じます。 戦後行われた「戦犯裁判」の結果です。
基本的には彼らの行動は、上級の意思に沿ったものだったのかもしれません。しかし「現場責任者」として、捕虜の死への責任は免れませんでした。 食糧配給をゼロにする。捕虜収容所を焼き払う。さらにはそれでも「自然死」しない捕虜を銃殺する。日本軍の、捕虜抹殺意思は明らかです。 問題は、その「動機」です。日本軍幹部が自ら語った「証言」は見あたらず、推定するしかありません。 田中氏は、次のように推定しています。
「虐待」ぶりを連合軍に知られないために抹殺したのではないか、という説明です。 この推定が正しいかどうかここでは断言しませんが、この通りだとすれば、あまりに身勝手、としか言いようがありません。
以上、「事件」の概要を見てきました。 コンパクトにまとめてしまいましたが、実際には「事件」の全体像はさらに複雑で、この間に生じたエピソードの多くを、上では割愛しています。 それを補うために、「事件」に関する主な参考文献を補記しておきます。より詳しく知りたい方は、こちらに当たられることをお勧めします。 ※以下は、私が入手した文献、及び国会図書館から取り寄せることができた資料だけに限っていますので、関連文献を包括的に網羅したものでないことはお断りしておきます。 また他にも、部分的に「サンダカン」に触れた資料は多数ありますが、こちらでは割愛しました。 「サンダカン死の行進」を概説的に取上げた書籍・文献は、必ずしも多いものではありません。「事件」の全体像を採り上げたものは、私の知る限り、次の1〜5のみです。
前者は、「裁判記録」をもとに「事件」の全体像を解き明かしたもので、「死の行進」に関する基本テキストとも言える本です。本稿でも、多くの記述をこの書に負っています。 後者は、「生き残り」捕虜たちへのインタビューから「事件」を再構成したもの。ボッテリル、ショート、プレイスウェイト、キャンベルらが登場します。 本稿ではスペースの都合上割愛せざるをえませんでしたので、関心のある方は、ぜひご覧ください。
「第二回行進」では、日本兵は直接手を汚さず、台湾人監視員に「脱落者処分」を命じたケースが多く報告されています。 本書はこの台湾人監視員にスポットライトを当ててインタビューを行ったものであり、監視員たちの苦悩、戦後の戦犯裁判の様相や帰国後の苦しい生活が印象的です。 また、逃亡に成功したスティップウイッチが、戦後の戦犯裁判で証言に立ち、台湾人監視員らに「死刑には絶対にしない」と約束し、その「約束」を守ったシーンも心に残ります(P110-P116)。 興味深いエピソードですが、こちらも本稿では割愛せざるをえませんでした。
どちらかと言えば「保守派」の歴史研究家たちによる、「BC級戦犯裁判」の総括です。「サンダカン死の行進」は第一章の一部で取り上げられています。 「サンダカン」に限らず、大変面白い本ですので、「BC級裁判」に関心をお持ちの方は一読をお勧めします。
こちらは雑誌論文です。筆者は、平成6年から9年にかけて、北ボルネオで「コタ・キナバル総領事」を務めていた、とのことです。「事件」の全体像、戦後の戦犯裁判をコンパクトにまとめています。 ※「サンダカン死の行進」は、「ラナウ行進」として、 極東国際軍事裁判の判決文にも登場します。 事実認識は必ずしも正確なものとはいえませんが、こちらに引用しておきましたので、関心のある方はご覧ください。 直接「捕虜移送」に携わった部隊の「戦記」としては、以下のものがあります。
「第一陣」の移送を担当した「独立混成第二十五連隊第二大隊」(山本正一大尉)のうち、「第五中隊」(堀川隊)の復員者による、回想録集です。 堀川中隊長自身も、論稿を寄せています。「部隊戦史」ものですので当然ながら「捕虜殺害」を匂わせる記述はほとんど登場しませんが(むしろ捕虜との「交流」が強調されます)、 「移送」の苦難がリアルに描かれており、参考になります。 以下は、日本軍の「死の転進」を扱った、従軍記録、部隊戦史ものを紹介します。(「捕虜」の記述はほとんど登場しませんので、念のため)
戦記小説であり、「フィクション」が中心となりますが、綿密な取材を窺わせる内容です。巻末の「参考文献」が、大変参考になります。 なお同じ筆者の「玉砕」(光人社NF文庫)は、タイトルが違うだけの同一本ですので、ご注意を。
本文中でも紹介しましたが、奥山部隊は、当初の992人が「死の転進」により443人に減少、さらにラブアン島の戦いで玉砕した、いわば「悲劇の部隊」です。 本書は、綿密な取材を元に、この奥山部隊の運命を語っています。 「死の転進」に反対した馬奈木参謀長が、「推薦のことば」を寄せています。また、「死の転進」の決定過程を推理した部分が興味深く読めます。 その他、「北ボルネオ死の転進」を扱った部隊戦記、従軍記録は多数あります。繰返しますが、以下の書のテーマはあくまで「日本軍の死の転進」であり、「捕虜」に関する記述はほとんどありません。
その他、多数の私家版の「部隊戦史」があるようですが、国会図書館にも置いておらず入手困難なものが多数です。私も確認できませんでしたので、こちらでは割愛します。 なお本文中では紹介しきれませんでしたが、上の「部隊戦史」ものには、部分的に「捕虜」と出会った記述も登場します。特に、森田著、上野著の記述が印象深いので、こちらに紹介します。
いずれも、「脱落した捕虜は処分する」方針があることを伝え聞いています。 特に森田著は明らかに「第一陣」に関する記述です。「第九班」のもの、という可能性もないではありませんが、第九班以外の「捕虜殺害」の可能性を示唆するものである、と言えるかもしれません。 (2014.6.1)
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