リー・クアンユーと日本軍 『リー・クアンユー回顧録』より |
リー・クアンユーは、シンガポールの初代首相です。シンガポールの経済発展を成功させた功績とともに、野党を徹底的に弾圧して事実上の独裁体制を敷いたことでも知られます。 現在のシンガポール首相は、その長男、リー・シェンロン(2011年現在)。独裁体制の世襲は「北朝鮮」を想起させますが、経済面での成功、また観光地としても有名であることから、シンガポールは 「明るい北朝鮮」と揶揄ぎみに表現されることもあります。 『リー・クアンユー回顧録』には、第二次世界大戦中、日本軍シンガポール占領の時期に関して、興味深い記述があります。以下、紹介します。 まずは、日本軍がやってくるまでのシンガポールの雰囲気です。イギリスの支配下にあった土地ですので、さぞかし「植民地支配」への抵抗感が強かったのではないか、とつい考えてしまいますが・・・。
英国人の優越的な地位は、単なる「事実」であり「自然なこと」。少なくとも青年時代のリーにとっては、イギリスの存在は、いわば「空気のようなもの」であったようです。 この雰囲気は、日本軍がイギリスを破ったことにより、一変します。
この意味で、日本軍の到来は、歓迎すべきことだったのかもしれません。 しかしやがて、リーは「白人神話をうち砕いた」はずの日本軍に失望することになります。リーと日本軍とのファーストコンタクトは、こんな感じでした。
リーは、わけのわからないままに、日本軍兵士に平手打ちされてしまったわけです。そしてこんな光景を目にします。
リーの眼に映る日本軍兵士のふるまいは、いかにも粗暴でした。 さらにリーは、日本軍によって自分の家を「宿舎」にされてしまいます。その体験を、リーは「悪夢」と表現しました。
そしてリーは、悪名高い「シンガポール大検証」(「華僑虐殺」)に直面します。リーは、辛うじてこれを逃れます。
一体何が起きたのか。リーはのち、この時の虐殺事件についての情報を得ました。
犠牲者数が「五万人から十万人」というのはさすがに過大で、現在の日本では「数千人」が定説になっています。なにはともあれ、シンガポールの華僑から見れば、「恐怖の大量虐殺」であったことは間違いありません。 ※事件の概要については、拙サイト『シンガポール華僑虐殺』をご覧ください。 こんな体験を通して、クアンユーの対日本軍評価は一変します。日本軍は、「英国よりも残忍で常軌を逸し」ている、とまで酷評されることになります。
そしてついには、リーは「原爆投下」をあっさりと肯定してしまうに至ります。
被爆国民である我々から見ると、これは許し難い発言です。しかし残念なことに、これがシンガポールでは一般的な認識であるのかもしれません。 中島みち氏も、シンガポールの「戦争記念館」を訪れた時の体験を、次のように語っています。
さてたったひとつ、クアンユーが日本軍から学んだことがあります。 この本には、リー・クアンユーが「さらし首」を目撃したことが、二ヵ所にわたり記されています。
なお、憲兵隊の大西覚少佐も「さらし首」を目撃しています。
『日本軍占領下のシンガポール』(青木書店)にも、7月6日の「さらし首」事件(P106-P107)、8−9月の事件(P155)の目撃談が登場します。 「さらし首」事件などの日本軍の峻厳な取り締まりぶりから、クアンユーはこんなことを学びました。
大西覚も書いた通り、この「さらし首」事件は、当時、日本軍の「残虐さ」を印象づけるものとして知られていました。 現在のシンガポールは、治安がいいことで知られます。このルーツが、もとをたどればこんな日本軍の軍政であったということは、何とも皮肉です。 参考までに、マラヤ連邦初代総理大臣であったラーマンも、似たようなことを書き残しています。
(2011.4.2)
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