リー・クアンユーと日本軍

『リー・クアンユー回顧録』より



 リー・クアンユーは、シンガポールの初代首相です。シンガポールの経済発展を成功させた功績とともに、野党を徹底的に弾圧して事実上の独裁体制を敷いたことでも知られます。

 現在のシンガポール首相は、その長男、リー・シェンロン(2011年現在)。独裁体制の世襲は「北朝鮮」を想起させますが、経済面での成功、また観光地としても有名であることから、シンガポールは 「明るい北朝鮮」と揶揄ぎみに表現されることもあります。

 『リー・クアンユー回顧録』には、第二次世界大戦中、日本軍シンガポール占領の時期に関して、興味深い記述があります。以下、紹介します。




 まずは、日本軍がやってくるまでのシンガポールの雰囲気です。イギリスの支配下にあった土地ですので、さぞかし「植民地支配」への抵抗感が強かったのではないか、とつい考えてしまいますが・・・。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 我々には白人に対する恨みなどの問題はまったくなかった。政府や社会における英国人の優越的な地位は単なる世の中の事実だったにすぎない。

 英国人は結局のところ世界で最も偉大な人たちだったのである。彼らは史上最大の帝国を築き上げ、領土は四つの海と五つの大陸にまたがっていた。我々はこれを学校で歴史の授業で学んだ。

 英国人はシンガポールを統治するために定期的に交代する数百人の兵士を配備するだけで十分だった。(P33)



『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 私は両親や祖父から英国の優越性を前提にした社会を自然のこととして受け入れるような教育を受けて育った。

私の記憶では、言葉であろうと行勤であろうと、白人の優越性に疑問を差しはさんだ現地人はいない。英語による教育を受けたアジア人で、英国人と平等の地位を求めて、敢然と闘う人はいなかった。(P34)



 英国人の優越的な地位は、単なる「事実」であり「自然なこと」。少なくとも青年時代のリーにとっては、イギリスの存在は、いわば「空気のようなもの」であったようです。

 この雰囲気は、日本軍がイギリスを破ったことにより、一変します。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 以上、述べてきたことが、十三万の英国兵、インド兵、オーストラリア兵を向こうに回し、日本が十一万の兵力を動員して攻撃し獲得したマラヤとシンガポールの実情だった。

 人々が驚き、動転し、それに愚かさが入り交じった七十日間で、シンガポールの英国植民地社会は、英国人は優秀だという虚構とともに吹き飛んだのである。(P35)



『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 白人は生まれながらに優秀であるという優越神話をうち立てることに成功したので、多くのアジア人は英国人に刃向かうことなど現実的でないと思い込んでいた。 しかし、アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し、白人神話をうち砕いてしまったのである。(P35)



 この意味で、日本軍の到来は、歓迎すべきことだったのかもしれません。

 しかしやがて、リーは「白人神話をうち砕いた」はずの日本軍に失望することになります。リーと日本軍とのファーストコンタクトは、こんな感じでした。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 私が日本兵と初めて接触したのは、カンポン・ジャワ・ロードに住む母の妹の家に行く途中だった。ブキット・ティマ運河にかかるレッド・ブリッジを渡ろうとすると、たもとに歩哨が行ったり来たりしていた。 周りに四、五人の日本兵が座っていた。分遣隊の隊員だったのだろう。私はオーストラリア兵が捨てた広い縁の帽子をかぶっていた。暑い日差しをよけるために拾ったものである。

 私ができるだけ目立たないようにして日本兵の脇を通り過ぎようとすると、一人の兵士が「これこれ」と言いながら私に手招きした。 近づくと、その兵士はいきなり剣付き銃の先でその帽子をはねのけ、平手打ちをし私に脆くよう仕草をしてみせた。私が起き上がると日本兵は私が来た道を戻るように指図した。(P36)



 リーは、わけのわからないままに、日本軍兵士に平手打ちされてしまったわけです。そしてこんな光景を目にします。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 ある日の午後、ノーフォーク・ロードの自宅のベランダに座っていると一人の日本人兵士が人力車夫に金を支払っているところが見えた。 日本兵は少し多く払ってほしいと抗議する運転手の右腕をねじり、柔道技で空へ投げ上げてしまったのだ。

 人力車夫は顔から真っ逆さまに落ちた。しばらくして人力車夫は起き上がったが人力車のそばでよろよろとふらついていた。あまりの仕打ちに私はショックを受けた。(P36)



 リーの眼に映る日本軍兵士のふるまいは、いかにも粗暴でした。

 さらにリーは、日本軍によって自分の家を「宿舎」にされてしまいます。その体験を、リーは「悪夢」と表現しました。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 その日の夜、日本軍下士官が数人の兵士とともに我が家にやってきた。家をひとわたり見回して私とテオンクーしかいないことがわかると、彼らは我が家を一時、宿舎にすることを決めたようだ。 これが私の悪夢の始まりだった。

 私はブラス・バサー・ロードにあった日本人歯科医院で治療を受けていたことがある。医者と看護婦は完璧なまでにきちんと清潔にしていた。 ミドル・ロードにある日本人の安売り十セントショップの日本人店員も男性、女性とも同様に清潔だった。

 私は衣類を洗濯せず、風呂にも入っていない日本兵が放つ吐き気がするにおいには我慢できなかった。彼らは室内や敷地を歩き回った。 彼らは食料を探しており、私の母が蓄えた予備食料を見つけ、食べたいものは食べてしまった。

 私は言葉が連う日本兵とは話すことができなかった。彼らは仕草や指図で白分たちの要求を伝えた。私が日本兵の要求をすぐに理解できずにいると、怒鳴られ何度も平手打ちを食らった。

 彼らは理解し難い人間だった。ひげも剃らず、髪もとかさず、聞くに耐えない攻撃的な口ぶりだった。私は心の底から恐怖にさいなまれ、夜も何度も目が覚めたりした。地獄のような三日間の後に彼らは立ち去った。(P36-P37)




 そしてリーは、悪名高い「シンガポール大検証」(「華僑虐殺」)に直面します。リーは、辛うじてこれを逃れます。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 日本兵が我が家から立ち去ってまもなく、華人はすべて尋問を受けるためブサール通りの華人登録センターに集合するよう日本軍からの命令が来た。 近所の人が家族と一緒に出向くのを見て、私も行ったほうが賢明だと思った。家にいて憲兵隊に捕まると必ず罰があるからだ。

 私はテオンクーと集合場所に向かった。人力車の運転手寮にあるテオンクーの部屋は鉄条網で囲まれた境界線の中にあった。数万人の華人家族が小さな一区画に押し込められていた。

 すべてのチェック・ポイントでは憲兵隊が見張っていた。憲兵隊の周りには何人かの現地の人々や台湾人がいた。私は記憶していないが、彼らの多くが顔が分からないよう頭巾をかぶっていたとの話を聞いている。

 テオンクーの部屋に一泊した後、私は思いきってチェック・ポイントから出ようとしたが、憲兵隊は外出を許可しなかったばかりか、中に集められていた華人青年グループに加わるよう指示したのである。 本能的に危険を感じた私は番兵に荷物を取りに部屋に戻る許可を求めるとそれは許可され、私はテオンクーの部屋で一日半を過ごした。

 それからもう一度同じチェック・ポイントから出ようとすると、理由ははっきりしないけれども許可が出たのである。私は左の上腕とシャツの前部に消えないインクを使ったゴムのスタンプが押された。

 漢字で「審査済み」のマークがあれば、私が当局のお墨付きをもらった証明だった。私はテオンクーと家まで歩いて帰った。私は本当に胸をなでおろした。


 人間の命や生死に関わる決定がこんなに気まぐれに安易になされるとは、私にはとても理解できることではない。私はマレー半島作戦を計画した辻政信大佐による反逆者一掃作戦からかろうじて逃れたのである。(P38)



 一体何が起きたのか。リーはのち、この時の虐殺事件についての情報を得ました。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 二月十八日。日本軍は十八歳から五十歳までのすべての華人男性は、尋問を受けるため五ヵ所の検査所に集まるよう通達を出し、拡声器を持った兵隊を動員した。憲兵隊は一軒一軒家を回り、出頭しなかった華人を銃剣で脅し収容所へ連れていった。女性や子供、老人に対してもそうだった。

 後にわかったことだが、私が抜け出したチェック・ポイントでいいかげんにより分けられた人はビクトリア学校のグラウンドまで連行され二十二日まで拘禁されていた。彼らは後ろ手に縛られ、四十、五十台のバスでチャンギ刑務所に近いタナ・メラ・ベサールの砂浜に運ばれた。 バスから降ろされると今度は海辺のほうへ強制的に歩かされ、日本兵が機関銃を発砲し虐殺した。

 彼らの死を確かめるため、死体は蹴られ、銃剣で突かれたりした。死体を埋葬しようとする気配はなく、砂浜で波に洗われている間に腐敗した。奇跡的に逃げられた何人かがこの身の毛もよだつ話を伝えた。

 日本も二月十八日から二十二日までに六千人の華人青年を殺害したことを認めている。戦後、華人商工会議所がシグラプ、プンゴル、チャンギで大量の墓地を発見した。商工会議所の推定によれば大量殺害の被害者は五万人から十万人に達した。(P39)




 犠牲者数が「五万人から十万人」というのはさすがに過大で、現在の日本では「数千人」が定説になっています。なにはともあれ、シンガポールの華僑から見れば、「恐怖の大量虐殺」であったことは間違いありません。

 ※事件の概要については、拙サイト『シンガポール華僑虐殺』をご覧ください。



 こんな体験を通して、クアンユーの対日本軍評価は一変します。日本軍は、「英国よりも残忍で常軌を逸し」ている、とまで酷評されることになります。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 ところが日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。 日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。

 同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。 日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と白分たちは違うと考えていたのである。(P35)
 



そしてついには、リーは「原爆投下」をあっさりと肯定してしまうに至ります。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より


 私は、広島と長崎への原爆投下が必要だったとする点では疑問を持っていない。原爆がなければ数十万人のマラヤやシンガポールの人々、そして数百万人の日本人も死んだだろう。(P41)



 被爆国民である我々から見ると、これは許し難い発言です。しかし残念なことに、これがシンガポールでは一般的な認識であるのかもしれません。

 中島みち氏も、シンガポールの「戦争記念館」を訪れた時の体験を、次のように語っています。

中島みち『日中戦争いまだ終らず』より


 ここシンガポールでも、見学者は殆ど欧米人とアジアの青少年である。みんな深刻な表情で説明文をじっくり読んでいる。 華文と英文であるためか、たまに入ってくる日本人観光客たちだけが日本軍の勇姿を懐しげに眺めながらザワザワと陽気に流れていく。 一枚一枚パネルの説明文を読むごとに、足は重くなるばかりだったが、パネル展示の最後の部屋へ入りかけて、私はそのまま立ち竦んでしまった。

 ヒロシマの原爆雲が、床から天井まで立ち昇っている。他のパネルとあまりにも不釣合な大きさである。(P240)
 
(中略)

 つまりこの戦争資料館というのは、一見、第二次世界大戦とシンガポールのかかわりの歴史的資料を展示しているにすぎないような形をとりながら、実は、英国は圏外に置き、ひたすら日本を告発しているのであった。 アメリカの原爆投下によって、やっと日本が戦いを終らせ、かくして我々シンガポーリアンは血塗られた日本の軍政から初めて解放された、というのであろう (その後、華人によって、この私の受け取り方は間違っていないことが確認された)。

 この時には、私も一瞬、冷静さを失って、「いくら日本が憎いからって、人類すべての新しい不幸の始まりである核兵器の投下に、喝采を送るなんて・・・」と、不快に思ったことは事実である。

 もう一人の私が、「まあまあ落ち着いて! これほどまでの反日感情がなぜ生き続けているのかのほうを大切に考えなくては」となだめて、 なんとか感情のほうは静まったが、それでもそのあと暫く、私はかなり厳しい顔付きで突っ立っていたのではなかろうか。 パネルをカメラにおさめていた中年の白人男性が注意深い目で私を見返りながら去っていった。

 「これでは、『原爆を用いなければ日本は戦争を止めなかったであろう。原爆投下はやむをえなかった』という米大統領の弁明の鵜呑みではないか。

 米大統領は、ソ連の参戦が日本の降伏の決定的な要因になるであろうということを認識しながら、なおも、原爆使用の機会を逃がすまいと原爆を広島のみならず長崎にまで落としたことは今ではかなり知られていることだ。 シンガポールー流の歴史家も関わっていると聞く資料館で、いまだにこのような姿勢をとっていることをどう受け取るべきなのだろうか・・・」

 私は心の中でこんなことを呟いていたのだった。(P20-P21)





 さてたったひとつ、クアンユーが日本軍から学んだことがあります。

 この本には、リー・クアンユーが「さらし首」を目撃したことが、二ヵ所にわたり記されています。


『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 しかし、いつもとは違い多くの人々は法律に従った。しかしこれまでのボスがいなくなったことで、機会に乗じ倉庫や百貨店、英国人所有の商店から略奪するつわものもいた。

  この略奪行為は日本軍が秩序を回復するまで数日間にわたり続いたが、日本軍は略奪者の集団を射殺し、首をはねて主要な橋や交差点に見せしめにしたので終結した。日本軍は人々の心に恐怖心を植えつけたのである。(P32)



『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 日本占領下でも日々の暮らしは続く。

(略)

 私が外出するときは市内に出かけた。私は家から二マイル歩いて学校の中古教科書を専門に販売しているブラス・バサー・ロードの書店へ出かけた。途中、私はキャセイ・シネマの正面入り口近くに群衆が集まっているのを見かけた。この映画館はかつて日本人をばかにした喜劇映画を見たところである。(P41-P42)

 群衆に混じって私は華人男性の首が柱の上の板に置いてあるのを見た。そこの横には中国語で何か書いてある。私は中国語は読めなかったが、だれかが「こんな目に遭わないための警告だ」と言った。この男は奪略行為に走り、打ち首にされた。軍令に従わない人間はこの華人男性と同じ方法で処分される、とある。(P42)



 なお、憲兵隊の大西覚少佐も「さらし首」を目撃しています。

大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 マレー、シンガポールはもともと生産地ではなく、商業地であったため、現住民はたちまち食糧難に陥り、日本軍の貨物廠が襲われる窃盗事件が多発した。同廠警備隊は警戒を厳にすると共に、憲兵もこれに協力していたが、事犯は依然として跡を絶たず、これに手を焼いた警備隊は、柵内に無断侵入した者は射殺することを公示した。

 布告後のある夜、インド人三名が窃盗の目的で侵入した。警戒兵は命令どおりこれを射殺した。そこで警備隊は、従来の見せしめという考えから、(昭和十七年春頃と思うが日時は明瞭でない)数日間、同市オチーロード街に壇を設け、かつ射殺理由書をかかげて晒首にした

 これを目撃した中立国人はもちろん、現住民も、日本軍の非人道、野蛮な行為を攣摩、非難した。(P149)


 『日本軍占領下のシンガポール』(青木書店)にも、7月6日の「さらし首」事件(P106-P107)、8−9月の事件(P155)の目撃談が登場します。


 「さらし首」事件などの日本軍の峻厳な取り締まりぶりから、クアンユーはこんなことを学びました。

『リー・クアンユー回顧録(上)』より

 私は、刑罰では犯罪は減らせない、という柔軟な考えを主張する人は信じない。これは戦前のシンガポールではなく、日本の占領下とその後の経験で得た信念である。(P54)



 大西覚も書いた通り、この「さらし首」事件は、当時、日本軍の「残虐さ」を印象づけるものとして知られていました。

 現在のシンガポールは、治安がいいことで知られます。このルーツが、もとをたどればこんな日本軍の軍政であったということは、何とも皮肉です。


 参考までに、マラヤ連邦初代総理大臣であったラーマンも、似たようなことを書き残しています。

『ラーマン回想録』より


水 攻 め


 もう一つ忘れられないのは、ミルクに不純物を入れたとして捕ったミルク売りのことである。 ミルク売りは留置され、弁護士を待っていたのだが、この弁護士も到着するや否や一緒に牢屋にぶち込まれてしまった。

 そして問題となったミルク ―その時はすでに腐って酸化していたのだが― を飲み干すように強要されたのである。
弁護士は話が違うので悲鳴を上げ、「私はあの男の弁護はしませんから許して下さい」と助命を願い出た。この嘆願は受け入れられ、弁護士は解放されたが、 ミルク売りは更に二週間勾留され、ミルクを飲まされ続けた。

 競馬の騎手や調教師も、日本軍の有名な「水攻め」を受けたが、レース自体はその後も続けられた。

 あるとき、ペナンで「カユ・ティガ」レースが行なわれた。これは三本足の馬のレースで、配当金も相当に大きかった。 ところが騎手達がこのお金を全部自分のポケットに入れてしまったのである。

 この不当所得のお祝いをしようとしていたところを、レースのやり方を査察に来た日本軍に踏み込まれ、彼らは捕ってしまったのである。 水が何杯ものバケツに用意され、無抵抗な騎手達の口から注ぎ込まれていき、最後には彼らの腹が馬の体くらいにふくれ上るまで続けられた。

 私はよく競馬へは行く方だったが、この話を問いて以来競馬は止めてしまった。ただしこの「勧善懲悪的」粛正以来、競馬がきれいになったことは認めざるを得ない。(P338)



(2011.4.2)


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