シンガポール華僑虐殺


 「シンガポール華僑虐殺」は、太平洋戦争初期、1942年2月に起った事件です。

 シンガポールを陥落させた日本軍は、ただちに住民に対する「検問」を開始し、敵性分子と思われる者を選別して処刑しました。その数は、少なくとも数千名に及ぶものと伝えられます。

 敗残兵が市民に紛れこんだことがその「理由」の一つとなっていることを思えば、この事件は、あるいは「南京」における「敗残兵狩り」の太平洋戦争版、と言うことも可能かもしれません。「南京」であれだけの国際的非難を浴びたにも関わらず、日本軍はその教訓を生かせなかった形です。


 以下、事件の概要を見ていきましょう。




 「敵性華僑」を殲滅せよ


 日本軍はなぜ「華僑粛清」を行ったのか。

 華僑は至るところで日本軍の作戦を妨害した。そしてシンガポール陥落後、華僑の「義勇軍」は軍服を捨てて市民の中に紛れ込んでしまった。そこで日本軍は、義勇軍を含む、「敵性華僑」を市民の中から選別して処刑した。

 どうやらこれが、日本軍の「タテマエ」であったようです。事件に関わった杉田一次大佐、河村参郎少将は、戦後まもない時期、このように証言しています。


杉田一次証言

○フリ−マン弁護人 法廷証三〇六八号を朗読いたします。

(略)

三、新嘉坡(シンガポール)島攻撃間日本軍にも相当大なる損害(馬来全作戦間の二分の一の損害あり)があり陥落後日英間の空気は不良であり又華僑に対する日本軍将兵の気分は全作戦の進むにつれ華僑の作戦妨害により段々悪くなつて来て居りました。華僑の作戦妨害の例を申上げますと次の様であります。

(イ)昭和十六年十二月末頃タイピン北方山林中に於て華僑百数十名は武器を持ちて立籠り我が兵站戦の擾乱軍需品の焼夷を企図しました。

(ロ)昭和十六年十二月下旬カンパル附近の戦闘にて夜間屡々我が部隊附近に信号弾上り捜索の結果華僑の所為なることが判明しました。

(ハ)昭和十七年一月中旬ゲマス及セガマツト附近の戦闘並にクアラランプールに対する敵の空襲時の飛行場附近に同じく信号弾による敵砲火又は敵機の誘導をなしたのは華僑の所為なること判明しました。又一月中旬ムール附近の近衛師団の渡河に際し華僑は敵機の夜間爆撃を誘導しました。

(ニ)昭和十七年一月中旬及下旬近衛師団のマラツカ、バトハパト附近の戦闘間華僑はマラツカ海上の敵潜水艦と通謀し潜水艦よりの諜者の侵入誘導、保護に任じマラツカ海上よりする敵の艦砲射撃を容易且つ有利ならしめました。

(ホ)軍用通信機が華僑により破壊せられた 其の数は多くありました。

 此の間軍司令官は開戦当初の訓示を変更せらるることなく唯作戦を妨害せること明らかなるものに対しては厳罰を以て臨むべきことを強調せられてゐました。又日本軍将兵中悪いことをしたものに対しては厳格なる態度で臨まれました。(P445)

(『極東国際軍事裁判速記録』第六巻)


河村参郎『十三階段を上る』


 十七日夜、私は突然歩兵二個大隊と、既に市内警備中の憲兵隊とを併せ指揮し、新に昭南市警備を命ぜられたので、翌朝軍司令部に出頭して、正式命令と細部の指示を受けたのである。

 その際図らずも敵性華僑掃蕩に関する作戦命令を達せられた。以下その概要を述べると、山下将軍は厳然たる態度で私に対し、

「軍は他方面の新なる作戦のため、急いで多くの兵力を転用しなければならない。然るに敵性華僑は至る所に潜伏して、我が作戦を妨害しやう企図してゐる。今機先を制して根底より除かなければ、南方の基盤たるマレイの治安は期せられない。警備司令官は最も速かに市内の掃討作戦を実施し、これ等の敵性華僑を剔出し、軍の作戦に後顧の憂なきやうにせよ。細部は軍参謀長の指示によれ。」

と。それに引続いて、鈴木(宗作)軍参謀長から、実行の具体的方策について詳しい指示を受けた即ち、掃蕩日時、敵性華僑の範囲、集合、調査要領、処断方法等に亘ったが、特に右の結果、敵性と断じたものは即時厳重に処分(死刑)せよと指示された。(P163-P164)



 シンガポールの総日本領事館に勤務していた篠崎護も、同様の認識です。

篠崎護『シンガポール占領秘録』


 こうしていよいよ集団検問が開始されたが、軍としては何故、華僑の粛清を実施しなければならなかったのだろうか。

 当時の状況は極めて緊迫していた。マレー作戦を終了したあと、近衛師団はスマトラに、十八師団はビルマにそれぞれ進撃せねばならなかった。つまり南方の最重要兵站基地となる昭南は、ガラあきとなるわけである。

 また、日本軍はジョホール水道渡河戦や、ブキテマ高地の争奪戦で勇敢な華僑義勇軍(共産党及び華僑志願兵からなるダル戦闘部隊と呼ばれた)の猛烈な抵抗にあって多大の損害を受けたため、二十五軍司令部の華僑に対する憤激も極めて強かった。

 ブキテマ高地が日本軍に占領されると、彼等義勇軍は武器を山の中に穏し、隊員は服を棄てて市民の中に紛れ込んでしまった。占領後、方々で放火や、集積弾薬の爆発事件が起ったが、これらは共産党員や抗日分子の仕業と断定された。軍としては占領後の治安確保が何よりも急務とされていた。(P41-P42)



 ネットでも、「敗残兵が軍服を脱いで市民に紛れ込んだのが事件の原因」という理解を、よく見かけます。そしてさらに、「市民に紛れ込んだ敗残兵」を「便衣兵=ゲリラ」と理解して、「国際法違反の便衣兵=ゲリラを殺しただけ」と、「事件」を正当化しようとする書き込みを見かけることもあります。

※現実にはその実態は「便衣兵=ゲリラ」というものではありませんでしたし、例え「便衣兵=ゲリラ」であったとしても、後に述べる通り、その処刑には、国際法上、「裁判」の手続きが必要です。

 しかし実際には、「華僑粛清」はシンガポール占領前から計画されていた、と伝えられます。「事件」に関わり、戦後のBC級戦犯裁判で無期懲役の判決を受けた、大西覚少佐の証言です。


大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 軍としては、既にシンガポール攻略前から、この企図があったことは明瞭である、これについて横田昌隆憲兵中佐の証言がある。(P68)

 大石隊長はクルアンにおいて軍参課長鈴木宗作中将より、

軍はシンガポール占領後華僑の粛清を考えているから相応の憲兵を用意せよ

 との指示を受けた。大石隊長は、

「これは大変なことになった」

 と横田中佐に洩らしたそうである。(P69)



 さらに詳しい証言を残しているのが、3月にシンガポール入りした、大谷敬二郎憲兵大佐です。

大谷敬二郎『戦争犯罪』

 当時、わたしの聞いたところ、重慶政権に通ずる南方華僑の本拠を徹底的に剿滅することが目的とされていた、というにあった。

 たしかに、彼らは重慶政権にしばしば特使を送り、これに莫大なる財政的支援を与えていたし、また、シンガポール、マライにおける絶えざる排日排貨運動の本拠であり、その及ぼすところ、南方華僑全域に対する排日抗日の指導勢力であった。だからこそ、これに徹底的打撃を加え、日本軍の威武に戦慄せしめようとしたのが、この華僑弾圧ではなかったか。

 なるほど、軍は牟田口兵団が北方ビルマヘ、西村兵団がスマトラへ転進はした。だが、鯉兵団(第五師団)は昭南およびマライ一帯の警備についていたのであってみれば、兵力不足云々はどうかと思われるし、また、入市直後において「敵性華僑が至る所に潜伏してわが作戦を妨害しようと企図している」ということも、どうかと思われる。

 彼らの敵性あるものの大部分はすでに逃亡し、シンガポール、ジョホール水域に近い島々には、こうした華僑の避難民が充満しておったのではなかったか。

 さらに、昭南入市のあと、いわゆる排日華僑の大物といった者は、はたして捕獲されたか、わたしは寡聞にしてこれを聞かない。

 だから、逃げるに由なく昭南島に追いつめられた華僑、その大多数は、いわゆる一般大衆であって、その間、敵性といわないまでも反日的な分子はいたであろう。あるいは義勇軍の残党分子が残っていたかもしれない。だが、それらは微々たるものであった。(P181-P182)

 事実、抗日共産分子、マライ共産党は健在でマライ山岳地帯に拠って日ならずして抗日戦を始めたのではないか。すなわち、そこには抗日敵性分子はいなかったのだ。

 こう見てくると、この華僑弾圧は、日本軍の武力による威嚇政策によって彼らを縮み上がらせたということ以外に、軍としては意味がなかったといえる。(P182)

 


 真の理由は、「敗残兵が市民の中に紛れ込んだ」という「軍事的必要性」などではなく、単に「敵性華僑」の殲滅にあった。しかも現実には、シンガポールの「敵性華僑」は「微々たるものであった」、という説明です。

 結局のところ、以下の有力研究者たちの判定が、今日では定説になっている、と言えるでしょう。

原不二夫『シンガポール日本軍政の実像を追って』


(義勇軍が戦闘に加わったのはシンガポール防衛戦のみであるが、後述のように日本軍はシンガポール進攻のかなり以前に華僑大量粛清を決めていた。したがって実際には、義勇軍云々は単なる口実に過ぎなかった

(『アジア経済』1987年4月)


林博史『シンガポール華僑粛清』より


 シンガポール華僑粛清については、さまざまな弁明あるいは説明がなされている。ここではそれらの妥当性を検討したい。

 まず確認しておきたいのは、華僑粛清はシンガポール戦が始まる前から決められた方針であったことである。したがってシンガポール戦での経験は、直接の理由にはなりえない。そのことをふまえたうえで見ていきたい。(P204)





 「義勇軍」だけではなく・・・


 実際問題として、「粛清」の対象となったのは、市民の中に潜伏したと伝えられる「義勇軍」だけではありませんでした


篠崎護『シンガポール占領秘録』


粛清の対象は次の通り指示された。

一、華僑義勇軍
二、共産党員
三、抗日団体に所属する者
四、重慶献金者及抗日軍への資金援助者

等であった。(P42)



大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

二月十八日夕刻、分隊長以上集合の命令があった。早速フォードカンニングの憲兵隊本部に出頭すると、各分隊長も集合し、大石隊長より概要次のような命令が下達された。


検問実施命令

一、日時 二月十九日、二十日の間各警備担任区域の適当な広場に華僑を集合せしむ
   二月二十一〜二月二十三日の間検問を実施す(P69)

一、対象 華僑義勇軍、共産党員、抗日分子、重慶献金者、無頼漢、前科者等

一、資料 抗日団体名簿



 であった。当時市民は約七十万と見られていた。


 「軍」に参加した者ばかりでなく、どさくさに紛れて、実際に戦闘活動や破壊活動を行ったかも定かではない「共産党員」や「抗日分子」、果ては「重慶献金者」までも対象とされています。

 それどころか、「無頼漢」「前科者」までも「選別」の対象としてしまったのは、「やりすぎ」としか言いようがないでしょう。過去に犯罪を犯した「前科」があるからといって、捕えて即時処刑してしまっていいわけがありません。



 服装だけでパッパッと・・・


 それでも、「選別」が厳密なものであり、かつきちんと「裁判」の手続きを踏んでいれば、まだしも事件の「正当化」はある程度可能だったかもしれません。「検問」は、このような方法で実施されたと伝えられますが・・・。

大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』


 検問の要領は、検問所を三ヵ所つくり、第一検問所には覆面した現地人協力者十数名を配置し、検問者を一列にして通過させ、協力者に該当者を指摘させた。

 第二検問所では、指摘された者は列外に別離し、別所で憲兵が調査した。

 第三検問所では、第二検問所を通過した者をさらに検問して容疑がない者は良民証を交付した。

 良民証は準備不足のため十分ではなかった。(P71)



 しかし、「選別」の実態はかなりいい加減なものであった、ということは、関係者が口を揃えて証言する事実です。このあたり、まさに「南京」における「敗残兵狩り」を想起させられます。


大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』


 こうして検問を実施した結果、義勇軍、無頼漢、前科者などはおおむね捕促できたが、共産党員、抗日団体幹部等は逸した感がある。

 また検問が短時日であったため、その選別は困難を極め、ことに検問には現地人を利用したので、その宿敵などは不幸に遭っただろうし、玉石混淆を免れなかったのは事実である。(P73)



石部藤四郎『青春 憲兵 下士官 石部メモ』

 一方憲兵は


 1 従来からの現地警察官
 2 在住日本人
 3 抗日華僑及び義勇軍名簿
(作戦中大西隊で押収してあった)
 4 援蒋資金関係者

 


等の協力、資料により、検問ゲートを設け、二十一日より三日間検問を開始、約五万余りの華僑から四百名余りを拘束した。

 現場は言語に絶する混乱を極め、かつ短時日の緊急命令のため、検問資料の準備も充分行わず、全く「付け焼刃」的検問であり、実にいい加減な容疑者索出であったことは、認めざるを得ない。

 索出された容疑者は、各地域とも全員カトン海岸に送られ、軍による銃殺、その数約五千人。波打際は一時血の海になったと現場にいた兵は語っていた。無辜の華人住民には誠に気の毒であった。(P39-P40)



篠崎護『シンガポール占領秘録』


二月二十一日から各集結所で若い憲兵によって取調べが始まった。

 太陽の直射する広場や、道路一ばいに集められた何千、何万の群衆を一々検問するのは大変な作業であった。僅かな憲兵と無経験の若い兵士、下手な通訳とで、完全な取調べなど到底出来るものではなかった。ブスーッと立ったまま頭を下げない若者とか、名前を英語でしか書けない者とか、腕に入墨のある者は一応列外に分けられた。(P42)



 現場からは、こんな生々しい証言もあります。東南アジア近代史研究の専門家、明石陽至氏による、中山三男元憲兵へのインタビューです。

中山三男氏インタビュー記録


明石 馬共の話に入る前に、いままでよく書かれ、大西さんも書いておられますが、いわゆるシンガポールの華僑の虐殺について、何かお話をうかがえれぱと思うのですが。あれはいろいろ事情があってやったことで、憲兵隊自身にもかなりあれに対する不満があったと大西さんもいっておられましたが、中山さん自身もそれに従事されて、どういうふうに考えておられますか。

中山 あれは上からの命令でああいうことを自分も隊長もやったわけです。しかし実際に抗日分子を抽出するといったところで全然情報も入っていないし、それでどういう者が抗日意識が旺盛だとかいうようなことも全然わからんと思うんです。それを1週間ほどの短期間で抽出'するのはとうていできない。そういうように思ったですね。 

 しかし軍の命令だから、至上命令だからやらないかん。ただ人相、服装を見て、ああこれはインテリ、これはどうもというような区別に陥りやすかったように思いますが、それだけで本当に抗日意識の旺盛なインテリかというようなことはわからんと思うんです。

 入城直前に、散髪屋がわりかたこぎれいなかっこうをしていると聞いて、入城直後に散髪屋へ行っても男はおらない。だいたい女性の散髪屋が多かったですね。それはその当時に粛清にあった関係だと思いますが、とにかく服装でこれはインテリだ、インテリ階級はみな抗日意識旺盛なんだというように聞かされていたわけですね。

 それで、自分ら本当の命令だったかどうか知らんですが、シンガポールの華僑が85万か90万くらい現在おる、蒋介石が現在までに抗戦を続けてきておるのは南方の資金援助のおかげだ、それだから半分くらいは粛清せないかんのだ、というようなデマが頭に入っておる関係で、とにかくインテリのやつを人相と服装だけでパッパッとやっとるからね。

明石 人相といいますと、どういう・・・。

中山 まあこぎれいなかっこうをしておるとか、服装をピシッとしているとか、そういうことに陥ったように思うのですが、なかには憲兵に協力するような態度を見せて、あの者は抗日意識旺盛なやつだったとかそういうような密告もあったと思いますが、大多数はとにかく服装で見てる。それを1週間ほどの期間でやるのですから、結局そういうようになりがちじゃないかと思うんですけれどもね。(P2-P3)



 被害者側からは、このような証言も聞かれます。


洪錦棠 『日本軍進駐後のシンガポール』より


 ゲラン地区の検証の責任者は、人々にたいして「五百万ドル以上の資産を待っている者は手を挙げろ」と言った。富豪といわれていた張朝錦氏(張扶来の息子)は、正直にも即座に手を挙げたところ、さっそく逮捕され、その後の調査でも、彼の消息は杳としてわからない。

 この地区では、ほかにもこんな命令が出た。「政府の仕事に携わっていたすべての者」「すべての銀行職員」「かつて義勇隊員だったすべての者」は手を挙げろというものである。そこで、該当者が手を挙げると全員が逮捕され、その後の消息は知るべくもない。

 このように人命を木の葉のごとく軽くあしらいながら、そのうえ「抗日分子」という口実をもうけたわけで、そのやりかたはまったくいいかげんだった。

(『日本軍占領下のシンガポール』P18)

 ここまでいい加減なものでしたので、「抗日運動」とは無関係な、多数の民間人も「粛清」に巻き込まれてしまったであろうことは、容易に推察できます。




 余談になりますが、あえて「保護証」(良民証)を大量発行して、華僑を守ろうと努力した良心的な日本人がいたことには、注目してもいいでしょう。


篠崎護『シンガポール占領秘録』


 東洋ホテルに居を移した日、すぐホテルのコック鄭孝仁が家族と一緒にやって来て、我々の食事を作ってくれた。英人が残して行った食糧は豊富で、チャンギーの食事とは比較にならぬ豪華な食事であった。

 儒教の聖教総会の会員であった鄭コックは次から次に人々を連れて来て保護証を懇願するので、とうとうガリ版で印刷して発給したが、噂を聞いた人々はホテルに殺到して来た。それは、氏名、生年月日を書いた簡単な文面であった。


  
 保護証
                              氏名
                              生年月日

 右の者、戦前より我方と関係ある者に付、途中通行の安全並に保護供与相成度
  年 月 日
                           警備司令部特外高 署名 印


(P38)



 特外高とは、特別外事高等係のことであるが、警備司令部特外高というこの肩書が何よりも威力を発揮した。占領直後の混乱無秩序の際この一枚の保護証は市民の唯一の安全通行証であるばかりでなく華僑にとっては生命を守る一札ともなった。肩書の下には発行者の名を署名捺印して発行の責任を明らかにしておいた。

 やがて宗教団体、慈善団体などに、姓名年齢は各自で書き込むようにして一まとめにして渡したが、不特定多数の市民に渡ることを考えると若干のためらいも感じた。しかし、このドサクサの際、市民の不安を救うのはこれより外はなかった。

 抗日巨頭陳嘉庚の甥、現シンガポール中華総商会主席陳共存氏(K・C・TAN)はこの保護証を持っていた為、度々難を逃れたと話してくれた。

 市内では、山下パーシバルの協定に基づいて、英人の技師は市内に残留して電気水道の復旧に努め、連合軍捕虜は放置屍体の片付け、市街の清掃等に従事していた。(P39)

(筆者はシンガポール総日本領事館に勤務)

 ユダヤ人を救った、シンドラーの活躍を彷彿とさせます。



 機銃掃射で一斉殺害

 こうして「選別」された人々は、海岸もしくは沖合まで連行され、機銃掃射で殺されました。


 「粛清」は、数か所に分かれて行われました。その光景につき、四つの記述を紹介しましょう。

篠崎護『シンガポール占領秘録』


さて、集団検問で分けられた人々の運命は戦後になってその全貌が明らかにされた。

 集団射殺場から生きて返って来た五人の男達の証言が新聞に発表されたり、日本憲兵隊の報告書と照合されたり、遺骨が発掘されたりして、虐殺の事実が明白にされ、最後に華僑虐殺戦犯裁判で徹底的に次のように明らかにされた。

 数十台のトラックに積まれた人々は補助憲兵の手でカトン海岸十一哩付近から、チャンギー海岸、タナメラ海岸及びボンゴール岬付近の海岸の砂浜に穴を掘り、海に向けて坐らせられて背面から機銃で掃射された後、穴の中に埋められた。連合軍捕虜の一部がこの穴掘りに使役されたともいう。

 タンジョンパーカーの港付近で検束された人々は、両手を縛られ、ライター(艀)で海上を曳航されてプラカン・マテー島の沖合で機銃掃射を浴びせられた。屍体は海中に投げ込まれたが、何百人という人の血で、あたり一面は紅の海になったと、目撃者のインド人燈台看守が証言した。

(P49)



田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』より


 ところで、実際にこの工作を指揮したある憲兵の述懐を私は聞くことができた。



「発動機船を数艘つらねてブラカンマチ島の仲合へ連れ出したのですが、名目は島送りということでした。しかし彼らの恐怖は本能的なものでしたね。船に乗せるのに骨が折れました。機関士は敵性のないインドネシア人を使いました。

 一艘に百名近い華僑を乗せたのですが、綱で珠数つなぎにしてあるとはいえ、僕らの人数は少ないでしょう。多勢に無勢で、武器はもっておっても、一斉にとびかかられる危険がありました。気が気でありません。(P142-P143)

 沖合遠くへ出たところでいよいよ引導をわたすわけですが、"海へ飛び込め″と命じました。飛び込めば死ぬことは分かっていますが、飛び込まなくても銃剣を擬せられているのですから、これまた死です。絶体絶命、彼らは海に飛び込み、珠数つなぎで沈んで行きました。

 僕らの時は機銃は撃たなかったので、海水の色が変ったというようなことはなかったですね。むごいことですが、これも命令でやむをえませんでした」(P143)
 



リー・クアンユー回顧録(上)


 二月十八日。日本軍は十八歳から五十歳までのすべての華人男性は、尋問を受けるため五ヵ所の検査所に集まるよう通達を出し、拡声器を持った兵隊を動員した。憲兵隊は一軒一軒家を回り、出頭しなかった華人を銃剣で脅し収容所へ連れていった。女性や子供、老人に対してもそうだった。

 後にわかったことだが、私が抜け出したチェック・ポイントでいいかげんにより分けられた人はビクトリア学校のグラウンドまで連行され二十二日まで拘禁されていた。彼らは後ろ手に縛られ、四十、五十台のバスでチャンギ刑務所に近いタナ・メラ・ベサールの砂浜に運ばれた。

 バスから降ろされると今度は海辺のほうへ強制的に歩かされ、日本兵が機関銃を発砲し虐殺した。
彼らの死を確かめるため、死体は蹴られ、銃剣で突かれたりした。死体を埋葬しようとする気配はなく、砂浜で波に洗われている間に腐敗した。奇跡的に逃げられた何人かがこの身の毛もよだつ話を伝えた。

 日本も二月十八日から二十二日までに六千人の華人青年を殺害したことを認めている。戦後、華人商工会議所がシグラプ、プンゴル、チャンギで大量の墓地を発見した。商工会議所の推定によれば大量殺害の被害者は五万人から十万人に達した。

 理屈のうえでは、天皇の軍隊はこのような行為を法と秩序の回復、反日抵抗運動を封じ込めるための処置だったと正当化できるかもしれない。しかし、これは完全な報復措置だった。戦闘の最中に起きたことではなく、シンガポールがすでに降伏したあと起こったことである。

 この後も地方部、とりわけ東部でも反逆者一掃作戦が展開され、数百人の華人が犠牲になった。全員が若い不屈の男たちだった。(P39)



リー・ギョク・ボイ『日本のシンガポール占領』


 タン・チェン・ウィーはウォルスケル・ロードの親戚の家に使いに来たところを、リム・ボー・センの親戚の家にいたとして逮捕された。リム・ボー・センは反日レジスタンスの闘士で、日本軍が捜索していた。


 タンら二八名は、反日活動の罪で、アッパー・セラングーンの六マイルの里程標のところにあるシン・ミン校に連行された。タンは、ある将校からきびしい訊問を受けたが、幸いにもその将校は英語が話せた。そのため最終的には彼の弁明は認められ、家までの通行証をもらった。

しかし自転車に乗って帰宅途中、今度はセネット・エステートで一人の日本軍歩哨に止められた。歩哨は通行証を破り棄てると、タンに弾薬運搬を手伝わせたのである。二、三〇人の者が捕まって同じ仕事をさせられていた。作業が終わると、全員トラックに乗せられ、ベドクに連れていかれた。

 「そこに着くと、一列に並べって言われたんです。うしろは、私たちの墓穴でした。それから三人ずつ縛られて並ばされたんです。そこには、細長い穴が掘ってありました。・・・全部で墓穴は二列だったと思います。五、六〇人ずつのね。私たちはトラックに乗せられてきたんですが、ほかにも何台かのトラックで、人が連ばれてきました。(P116-P117)

もう日は落ちてました。私たちはずっとそこで待たされてたんです。それから、別のトラックが数台到着すると、全員が一列に並ばされ、機関銃の音が聞こえました。みんな倒れたので、私も倒れたんです。みんな撃たれて死にました。

私の腕にも当たったんですが、深夜になるまで何も感じませんでした。意識がはっきりしてきて初めて、痛みを感じたんです。だから、声をあげて泣いていました。そこへ折よく近くの村人がやってきて、私を見つけたんです。『おい、生きてるのか!』っていうわけです。

その時は自分がどこに連れてこられたのか分かりませんでした。村人たちは『それならタクシーで町まで行きなさい』と言ってくれました。そこでタクシーをひろって家まで帰ったんです。・・・・幸い傷はたいしたことなく、かすり傷程度でした。一週間もしたら、治ってしまいましたからね


(P117)

 



 日本側、被害者側とも、ほぼ同様の光景を語っています。「何が起こったか」ということについては、ほとんど争いはない、と考えていいでしょう。

 本来、「粛清」を行うためには、国際法上「裁判」の手続きが必要である、と解されています。しかし上の記述を見ても、日本軍がそのような手続きを行った気配は、一切ありません。


※ネットでは、「便衣兵=ゲリラであれば処刑にあたり裁判の手続きは不要」という間違った認識をよく見かけます。しかし「便衣兵」を「戦時重罪人」と認定して処刑しようとするのであれば、「裁判」の手続きが必要である、というのが、当時においても国際法上の定説でした。


立作太郎『戦時国際法論』

 凡そ戦時重罪人は、軍事裁判所又は其他の交戦国の任意に定むる裁判所に於て審問すべきものである。
然れども全然審問を行はずして処罰を為すことは、現時の国際慣習法規上禁ぜらるる所と認めねばならぬ。

 戦時重罪人中(甲)(乙)(丙)(丁)中に列挙したる者の如きは、死刑に処することを為し得べきものなるも、固より之よりも軽き刑罰に処するを妨げない。

(日本評論社、昭和六年発行、昭和十一年五版 P49)


篠田治策『北支事変と陸戦法規』より

而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず
。何となれば、殺伐たる戦地に於いては動もすれば人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることがあるが為めである。

(「外交時報」 84巻通巻788号 昭和12年10月1日P54-P55)


海軍大臣官房 『戦時国際法規綱要』

(ハ)処罰

(1)戦時重罪は、死刑又は夫れ以下の刑を以て処断するを例とす。

之が審問は、各国の定むる機関に於て為すものなるも、
全然審問を行ふことなくして処罰することは、慣例上禁ぜらるる所なり

(P54)


 当時の国際法の権威、立博士。外務省筋の「外交時報」。そして海軍大臣官房。このような当時一級の「権威」が、口を揃えて「戦時重罪人を処罰するには裁判が必要である」と言っているわけです。

 またネットでは、「裁判は慣習になっていなかった」(から裁判は不要である)という「論」を見かけることもあります。しかし少なくとも、上の識者見解、あるいは本稿で紹介する「シンガポール粛清」への反省などを見ると、「審問または裁判を経た処刑」が、当時においても「ルール」として認識されていたことは間違いないでしょう。

 カッセーゼの言葉を紹介します。


A・カッセーゼ『戦争・テロ・拷問と国際法』より

 法規則に違反したものが処罰されない例は、国際法においてもまた特に国内法においてもたくさんある。・・・したがって、重要なことは、たとえ繰り返して違反行為がなされても、法の存在そのものを否定してはならない、ということである。(P27)

例え「違反行為」が続発したとしても、「法の存在」まで否定することは許されない、という見解です。まずは当然のこと、と言えるでしょう。

なおこの「合法論」は、あまりに「常識」を逸脱した議論であるためか、現実世界の論壇にはほとんど影響を与えていないことは付け加えておきます。




 
 指揮官たちは反対したが・・・



 「南京事件」との一番の違いは、現場指揮官たちがこの「粛清」に反対した形跡が見られることでしょう。

 以下に紹介する河村少将、大西少佐は、戦後の戦犯裁判で有罪になった人物であり、あるいは「自己弁護」である可能性は否定しきれません。しかしともかくも、彼らは自分の手記に、自分が反対した旨のことを書き残しています。


大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 当時市民は約七十万と見られていた。この多数を、三日間の短期間に、言語不通、地理不案内の小数兵力の憲兵がいかにして検問するかが問題であった。

 大石隊長はこの命令を受けた際、検問実施期間を十日間の意見具申したが軍の次期作戦の関係上意見具申が認められなかった。(P70)



 厳重処分の命令

 二月二十三日正午頃、検問による選別者を補助憲兵をして、厳重処分にせよという命令を受けた。何という無茶な命令であろう。憲兵が治安確保のため検問を実施して、不逞分子や、抗日分子を排除することは当然の任務であるが、即時厳重処分とは余りにひどい。選別者の容疑も三日間の検問では自信が持てない。驚いた私は直属上官である横田隊長を訪れ、(P73)

 刑務所が空いているから選別者を一時刑務所に収容して十分取調を実施して、やむを得ぬものは後に処分する。
2 やむを得なければ島流しにしたらどうか。


 との二項を横田隊長に意見具申した。すると横田隊長は自分も同感であり、大石隊長も河村警備司令官も、軍に対し意見具申したが、これを容れられず、軍は断乎たる決意を以てこれを命令しているとのことであった。やむなくわたしは自隊に帰り、補助憲兵の中隊長にこの命令を伝達したのであった。
(P74)


河村参郎『十三階段を上る』


 二十三日午後、予は検挙処断等の実績を山下将軍に報告したが、同将軍は更に油断せず、剔出処断を続行せよと指示せられ、引続き鈴木軍参謀長に対し、この実情を報告するとともに、このような強硬手段は、将来中止するやう具申したのであるが、軍参謀長は痛く同情的言辞を以て私の苦衷を慰められたのである。(P166)



 インド独立を支援した「F機関」の長、藤原岩市も、「杉田(一夫)参謀」が「粛清」に反対したことを記録しています。

藤原岩市『F機関:インド独立に賭けた大本営参謀の記録』


 私は早速軍司令部に杉田参謀を訪ねて、これが軍の命令によって行われているのかと質した。参謀は暗然たる面持ちで、同参謀等の反対意見がしりぞけられ、一部の激越な参謀の意見に左右されて、抗日華僑粛正の断が、戦火の余燼消えやらぬ環境の間にと、強行されているのだと嘆じた。(P168)


 現場には、かなり広範な範囲に、無茶な「粛清」への反対が広がっていたことがわかります。


 
 
 真の責任者は誰か


 以上の証言を見ると、ここまで現場指揮官たちが反対したのに、どうしてこのような「粛清」が強行されたのか、という疑問が生まれます。

 「殺害」を実行させた張本人は誰なのか。関係者の証言には、辻政信、朝枝繁春という二人の名前が登場します。


 まずは、辻政信参謀です。

大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 華僑粛清に対する軍の方針は強硬で、その鼻息は荒く、馬奈木参謀副長も現地を視察したが、特に辻参謀、朝枝参謀の現地指導は、常軌を逸したものがあった。その実情を摘記しよう。

 軍作戦主任参謀辻政信中佐は、各検問所を廻り指導したが、二十一日横田隊長の案内により大西隊検問所を視察し、隊長大西中尉を呼び、

 辻参謀 容疑者を何名選別したか。
 大西中尉 只今のところ七十名であります。
 辻参謀 (大声で叱咤し)何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ。

 と激励した。もちろん、それは本気ではあるまいが、たとえ冗談であったとしても、これには大西中尉も驚いた。しかし軍参謀は憲兵分隊長の直接の上司ではない。中佐参謀と中尉とでは階級も違うので、その指示には従順であるが、承りおくの、マイペースは崩さなかった。

 辻参謀は大西隊のみならず、久松隊その他各検問所を廻り、同様強硬な指導を行っている。(P76)



田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』より


 右翼隊長だった城朝龍憲兵中佐(当時少佐)は、華僑粛清には反対の急先鋒だった。しかし表向き抗命はできない。その手記『血路歴程』でこう述べている。



 「"よし、斯うなったからには、俺は獅子身中の虫となって内部からひっくり返してやる″と心を決めた。そして其通りやった。

 先ずその手始めとして、シンガポール停車場前広場に集まっていた避難民・・・それは何千か何万か分からなかったが、其処へたまたま巡って来た辻参謀が、その地の管轄責任者久松憲兵中尉に対して、"殺ってしまえ!″と命令したと言う。そこで久松中尉は私の処へ指示を仰ぎにやって来た。

"残忍な辻がやりそうなことだ。彼は軍の一幕僚ではないか、貴官らに命令する権限なんかありゃせん! 其原住民らは即刻退散させよ″

 私はこう指示した。この簡単な指示一つで何千か何万かの命が拾われたのである」

(P153)


 「シンガポールの人口を半分に」する − 素直に読めば、男性皆殺し、ということになります。例え「冗談」であったとしても、辻参謀の異常とも言える「感覚」が、よく窺える発言です。


 さらにこんなエピソードも伝えられています。文中「T参謀」というのは、辻参謀のことでしょう。


総山孝雄『南海のあけぼの』


それで軍司令部から各師団に

 「華僑の抗日分子を摘発して厳重に処分せよ。」

 という命令が出た。厳重処分というのは、暗に処刑しろという意味である。

 しかし町を占領したばかりの外国軍隊が、地下に潜っているゲリラを摘発するのは容易ではない。

 憲兵隊も日本軍自身の不法行為を取りしまるぐらいの兵力しか来ていないので、所在の歩兵小隊が補助憲兵を命ぜられてこれを摘発することになったが、現行犯を捕えたり、住民の密告によって急襲したりして少数のものを逮捕処刑して報告していたところ、軍参謀から数が少ないと電話でどやしつけられたという。例のT参謀らしい。

 「五師団はすでに三百人殺した。十八師団は五百人殺した。近衛師団は何をぐずぐずしているんだ。足らん足らん。全然足らん。」

 と大変な権幕であったという。


(P144-P145)

(当時 近衛師団通信隊無線第二小隊長)


 なお辻政信参謀は、フィリピンでも、バターン半島における米軍投降者に対して、皆殺しの指示を出したことで知られています。かなりエキセントリックな人物であったようです。


 また朝枝繁春参謀も、「粛清」の推進に積極的に動いていた、と伝えられます。

田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』より


 シンガポールの華僑虐殺は、掃蕩作戦に名を借りた悪質な「厳重処分」の典型であり、且つその集大成とも言えるものであろう。

 憲兵隊の上薗隊にいた田金勇大尉(当時曹長)の記録『歌日誌』につぎの一節がある。検問開始前夜の出来事である。



 「『起きろ』『憲兵は居ないのか』恐ろしく大きな怒号で目を覚ました。隣に寝ている倉持曹長も目を覚ましたらしい。天井から吊った漏斗型の蚊帳の端が波打っている。裸電球の灯火の下に、軍刀を技いた将校が一人、大股に歩きながら広い部屋を横切って此方へやって来る。

 よく見ると朝枝参謀である。肩から胸に大きく動く参謀肩章が金色の光を放って、はっきり見えた。時間は午後十時である。どうしたのだろう。自分は急いで寝台から床へすべり下りた。

『軍の方針に随わぬ奴は、憲兵だってぶった切ってやる』

 そう怒鳴りながら近づいて来た。ところがどうしたのだろう。寝台の前に立っている自分を見て、急に方向をかえ、ガツガツ靴音を立て、足ばやに別の戸口から外へ出て行った」(P147-P148)



 憲兵までを脅さねばならなかったところに、恐怖政策の無軌道ぶりがあったといえよう。(P148)





 興味深いのは、戦後、辻政信と朝枝繁春が、お互いに責任をなすりあっていた事実です。


田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』より


 軍司令官山下奉文の発した軍命令の起案者が辻政信参謀であることは、関係者の多くが指摘するところである。

 戦後のことであるが、ある先輩から

「君は、蒋介石のおふくろの法事までする男だが、シンガポールではどうして華僑を何千人も殺すようなことができるんだい」(P152-P153)

と訊かれたことがある。辻の兄事する先輩であるだけに大いに恐縮し、「全く申しわけがありません。じつは朝枝参謀が起案し、私は内容を詳しく見ずにうっかり決裁してしまったんです

 と弁解したという。

 次に問題の朝枝中佐だが、


 「あれは全部、辻の責任ですよ」

 と簡明率直とも取れる答がはね返ってきた。(P153)



 朝枝は、次のようにも証言しています。

半藤一利『日本参謀論』より


半藤 最後にもう一つ、シンガポール虐殺の話が伝わっていますが・・・。

朝枝 はじめの方でお話ししました『これだけ読めば戦いは勝てる』の中にも、規律の問題がいちばん大切として、掠奪、暴行とかは厳に戒めてある。皇軍はアジア解放のために戦うのですからね。にもかかわらず、ああいう非常な不祥事が起った・・・。(P135)



朝枝 この仕事は、作戦主任の辻参謀の責任だからというので、私もアシスタントとして方々を見て歩いたら、驚いたことに、広場なんかに華僑の青年が黒山のように集められ、一列にならんで首実検をされている。

 言葉のわからん補助憲兵なんかがロクに尋問もせず、経歴も調べず、人相のいい悪いで華僑の品定めをしているじゃありませんか。人相の悪い、ふてぶてしい面構えの男は「敵性分子、こっち」、愛想のいいものは「良民」と、こんな調子なんですね。

 こういうお粗末なことをやっていると問題が起こるんじゃないか、と大変に心配した。そしたら案の定、ああいうことが起ってしまった。銃殺して海へ流したりした。いわゆる、実行段階における手抜かりということなんですよ。(P136)

 あとから軍司令部よりきついお達しをだしてとめたが、すでに後手になってしまっていた。せっかくの大作戦成功のあとだったたけに、九仭の功を一簣に欠いたうらみはある。本当に残念なことであったと、痛恨の想いのみが残っているのです。(P137)


 ただし、お互いの「自己弁護」がどこまで正確なのかは、不明です。結局のところ、当時の関係者たちはこの「弁明」を認めず、二人の「共犯」が常識として語られることになっています。

大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 わたしの推定に誤りがなければ辻参謀こそは、この暴虐なる華僑粛清の発案者であり、強硬な実行指導者であったと思う

 最近仄聞するところによると、この粛清命令の起案者は、朝枝繁春作戦参謀で、これに辻は盲判を押したと、辻参謀は語った由である。もしそれが真実であるならば、辻が朝枝に命じ起草させたものと考えざるを得ない。(P77-P78)



田々宮英太郎『参謀辻政信・伝奇』より


 ここに名前の出てくる朝枝参謀についてはさきにも触れたが、「台湾研究部」では辻と一緒に勤務した仲である。一種豪傑風な性格を身につけており、その点で辻と似たところがある。

 それだけに、仮に起案者が朝枝だったとしても、辻の意向がはたらかなかったと見ることはできない。それほどにも辻と朝枝は一体の仲で、むしろ辻が命じて起案させたと見る方が筋だろう

いずれにしろ、それは形式上の問題にすぎない。さきの辻の弁解も、せっぱつまった照れ隠しだったと見るほかはない。(P152)






 余談ですが、辻政信は、「事件」で戦犯として処刑された河村中将の遺書『十三階段をのぼる』に、「序文」を寄せています。辻が強要した「作戦」のために河村中将が犠牲となったとすれば、辻は一体どんな顔をして「序文」を寄せたのか。唖然とせざるをえません。

 元憲兵の大谷敬二郎も、「この無神経さにはあきれる」と、辻を非難しています。

大谷敬二郎『戦争犯罪』

 わたしの推論にして誤りがなければ、この辻参謀こそ、暴虐なる華僑粛清の発案者であり強硬な実行者であったと思う。それ故に、彼は終戦時「タイ」にあって、英国軍の戦犯引渡し要求に先んじて、敗戦国土復興に力を致すとの名目のもとに、潜行三千里、中国に逃避したのである。この人こそ、わが陸軍戦史に一大汚点を刻んだ張本人であったのだ。(P187

 いま、彼は多くの第一線指揮官たちを、このような苦悩に追い込んでおきながら、ひとり著述によって産を得、時に国防を論じ、再軍備を論じ、将来戦を予断するなど、軍人出身のジャーナリストとして、その生存をつづけていることは、なんとしても苦々しい限りである。

 彼に一片のざんげの心があるならば、速やかに世を捨てよといいたい。何よりも自己の指導によって多くの将兵を失い、戦後なお、不幸な人々を出している現実を、率直に反省し国民にその大罪を謝すべきではないか。俺は単なる補佐者だった、との遁辞に、世を欺くことは許されないことを自覚せよ、といいたい。

 もう一つ彼についていえば、彼はこの中将の十三階段をのぼる遺著にしゃあしゃあと序文を書いていることである。この無神経にはあきれる。彼にしてみればいくぷんの「贖罪」のつもりかもしれないが、絞首された上長の苦悩の書を読んで、何を感じていることだろう。何という厚顔、何という鉄面皮であろう。神は許すまい。このような彼にしてみれば、いつかは神の裁きをうけて、この世をおわるだろう。(P188)
 




 「事件」の評価


 「南京」とは異なり、この事件については、「事件」を否定したり、あるいは正当化しようとする声は全くといっていいほど聞かれません。以下、関係者の声をいくつか紹介します。


 まずは、戦後の戦犯裁判で「事件」に関して有罪判決を受けた、河村参郎と大西覚です。(河村は絞首刑、大西は終身刑=のち釈放)

河村参郎『十三階段を上る』


 本来これ等の処断は、当然軍律発布の上、容疑者は、之を軍律会議に附し、罪状相当の処刑を行ふべきである。それを掃蕩命令によって処断したのは、形式上些か妥当でない点があるが、それを知りつつ軍が敢へて強行しなければならなかった原因は、早急に行はれる兵力転用に伴ひ、在昭南島守備兵が極度に減少しなければならない実情にあったためである。(P167)



大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 不幸にもこの厳重処分の慣行は、大東亜戦争にも例外ではなく、南方作戦の至るところで実施された嫌いがある。

 その最たるものが、昭南粛清事件であろう。占領軍が、その占領地の安寧を期するため、掃蕩作戦を行うことは、軍として当然の任務であるが、現に対敵行為をしていない者を捕え、それがたとえ、義勇軍または抗日分子であったとしても、即時厳重処分に附したことは大なる間違いであった。

 これはその企画と、推進を強行した参謀個人の非を咎めることは、もちろんであるが、作戦倥偬(こうそう)の間強硬参謀の意見に引廻されたとはいえ、軍司令官、参謀長以下特抜された錚々たる首脳部揃いであったにかかわらず、あのような命令が発せられ、断行されたことは今でも理解し難い。(P92)



 さらに全国憲友会編『日本憲兵正史』の記述を紹介します。以下の「シンガポール華僑虐殺」に関する部分は上の大西覚の記述になるものと思われますが、これは同時に、元憲兵の組織である全国憲友会の、「公式見解」に近いもの、と考えられるでしょう。

『日本憲兵正史』より

 シンガポール攻略戦に先立ち、軍首脳が華僑の反日行動を予想したのは当然であるが、逮捕した華僑を処分するには、やはりそれなりに納得できる証拠や法的手続が必要である。不満足な調査によって処分を急いだことは、何といっても軍の責任を免れることはできない。

 惜しまれるのは、軍上級幕僚の中に、職を賭しても正義を貫く真の勇者がいなかったことである。(P979-P980)

 憲兵は憲兵学校において必ず国際法を始め多くの法律を学んでいる。したがって裁判や刑の執行については、軍司令官以下の幕僚よりはるかに専門家であった。だからこそ、華僑粛清に初めから消極的であり、処刑には疑問をもっていたのである。

しかしながら、命令によって刑の執行に当たったため、敗戦後、憲兵はこの事件の責任を負わされ戦犯の筆頭にされてしまった。憲兵の戦犯のはとんどはこのような例が多い。さらに憲兵の悪名は、いまもなおこの種のものから払拭されていないのは、まことに残念なことである。(P980)


 いずれも、「裁判の手続き抜きの処刑」を問題視する点で共通します。この認識は、広範な関係者にも共有されています。


藤原岩市『F機関:インド独立に賭けた大本営参謀の記録』

無辜の民との弁別も厳重に行わず、軍機裁判にも附せず、善悪混淆珠数つなぎにして、海岸で、ゴム林で、或はジャングルの中で執行された大量殺害は、非人道極まる虐殺と非難されても、抗弁の余地がない。たとえ、一部華僑の義勇軍参加、抗日協力の事実をもってしても。(P168)



大谷敬二郎『戦争犯罪』

 さて、こうした陳情はすべて日本軍による華僑粛清による犠牲者だったのである。だが、この華僑粛清、それが作戦上緊急なる自衛手段であったかどうかは別にしても、少なくともわれわれが担当した「軍政」といった面から見れば、著しいマイナスであり、この華僑弾圧と、これにつづく華僑献金といった、一連の対華僑政策は日本軍マライ占領行政上の「最大の悪」であったと断言してよい。

(P179)



 たしかに、この占領直後になされたる掃蕩作戦に名をかる華僑の大虐殺は、わが対外戦史上の一大汚点であり、長く後世史家のきびしい批判に堪えねばならぬものである。(P180)



し かし、そのことは市街在住者を悉く駆り出し、一区画ごとに集合せしめ、これを検問し検索して、そこから義勇軍、敗残兵、共産党、掠奪著その他敵性あるものを創出するというにあったが、一瞬の視察と、二、三の問答をもって、こうしたことに全くの素人だった兵隊、補助憲兵(憲兵教育を経ない、にわかづくりの憲兵)に、その適正な検出がはたして可能だったろうか。(P184-P185)

 しかも、この一瞬の判定によって容疑ありと認められれば、即時銃殺といったことが平然と行なわれたのである。

 しかも、これが戦闘間に行なわれたものならば、なお、作戦行動と是認されるかもしれない。だが、戦いすでにおわり、住民安堵の中に、異民族多民族の標本のようなシンガポールで、支那人だけにかかる暴虐が行なわれ、一万人に近い善良な市民が殺害されたことは、山下将軍のために千載の痛恨事といわざるを得ない。


(P195)


中島健蔵『昭和時代』より


 これが戦争なのか

 軍事裁判もなく、いいかげんな分け方で、何日間かかったか知らないけれども、それほど大ぜいの人間を殺してしまった、と聞いた瞬間に、わたくしは、何かで頭をぶちのめされたような気もちがした。

 どう考えても、戦争中だからしかたがないということの中にはいらない。相手が戦闘員であり、抵抗できる人間であれば、戦争だから殺し合うのは当然であろう。しかし、過去に何があったにしても、全然無抵抗な人間をこういうやり方で虐殺したとは。(P164)



 本「粛清」の問題点が、「裁判抜きの処刑」にあった、と認識されていたことは間違いないところでしょう。


 なお大谷敬二郎によれば、昭和十七年初夏以降、軍政法院の開設とともに、犧枷修覆して処罰されることなき瓩海箸布告され、以降、とりあえず「厳重処分」の流れにストップがかかった、とのことです。

 逆にいえば、当時においてすら、「厳重処分」=「無裁判処刑」が問題視されていたことがわかります。

大谷敬二郎『戦争犯罪』

 これをマライ、シンガポールについていえば、マライ作戦終了から数カ月、だいたい、十七年初夏の頃までは、すべて軍隊の「斬り捨て御免」であった。これが軍政法院の開設とともに軍司令官は、犧枷修覆して処罰されることなき瓩魄貳未防杞陲掘△泙拭軍隊には爾今厳重処分はまかりならぬと厳達した。これで、やっと現住民は一応生命の保障を得たのである。

 南方占領諸地域では、陸海軍ともに現地司法機構の回復とともに、こうした厳重処分は厳禁されたと見てよい。ともかくも、現住民に対する厳重処分の慢性化、いやその慣用は、そもそもこの華僑大粛清の根底に流れていた思想であったといえよう。

 その軽易なる実行と、その大量さにおいて、これに当面した軍隊指揮官にしても、いささかその無謀に辟易したというのが真相であろう。(P186)



 そして戦後の戦犯裁判では、結局、死刑2名、終身刑6名という結果になりました。


『日本憲兵正史』より


   事件の戦犯裁判

 この事件の戦犯裁判は、昭和二十二年三月上旬より、シンガポール公開堂で民衆罵倒の中で、まるで観劇のような状態で開始され、四月二日に判決がいいわたされた。命令行為は一切認められず、次のような判決であった。

終身刑(後に蘭印裁判で死刑) 中将 西村琢磨
絞首刑                中将 河村三郎
絞首刑                大佐 大石正幸
終身刑                大佐 横田昌隆
終身刑                中佐 城 朝竜
同                   少佐 大西 覚
同                   大尉 久松 晴治
同  (到着が遅れたため分離裁判)  少佐 水野 ケイ(金へんに圭)


 なお本件関係者中、上園英治大尉は未逮捕のため裁判を免れ、合志幸祐大尉はすでに他事件のため死刑の判決を受けていたので、この裁判から除外された。だが、この裁判が責任将校だけにとどまり、補助憲兵や憲兵准士官以下に及ばなかったのは、せめてもの慰めであった。(P980)




 余談ですが、大西覚は、このような発言を行っています。


大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』

 南京事件は、軍中央部では当時薄々とこれを知り、一部将校を派遣して事情聴取を行った模様であるが、さほど過大なものではなく、やむを得ぬ事情もあったとのことで、一部指揮官以下将校の更迭ということで、簡単にけりをつけてしまったのが実情のようである。

 もしこのとき軍中央部が、事件を重大視し本気で徹底的に究明し、責任者を厳罰に附し、全軍に警告し、適切なる指導監督を実施していたならば、爾後の支那事変はもちろん、大東亜戦争においては厳重処分の慣行は、ある程度是正されたものと思われる。

(P99)


 「南京事件」に対する「反省」がしっかりなされていれば、このような事件の発生を防ぐことができたかもしれない。これは、私の認識とも一致します。

 さらに余談になりますが、篠崎書には、松井石根大将がシンガポールを訪れ、松井大将が事件による「生活困窮者」のことを気にかけた、というエピソードが紹介されています。


篠崎護『シンガポール占領秘録』


 華僑の粛清が終り昭南特別市が発足して、軍政がようやく緒についた頃、昭南視察に来られた軍事参議官松井石根大将に突然呼び出された。場所はナッシム路の軍政部長宿舎であった。

 副官は私を松井将軍に紹介して、馬奈木閣下から貴官に会うようとのことで、特に煩わしたが、この会見は極秘にしてほしい、と云って我々二人を残して退席した。

 将軍の穏やかな小声の質問に逐一答えて、占領直後の市内の状況、華僑粛清の実施状況などを述べたが、将軍は検束華僑の処分について鋭く質問した。しかし、これが当時、一部の極めて限られた人々に判っているだけで、一切は極秘にされていた

・・・ヒソヒソと伝えられる噂では、海岸で大量に射殺されたというだけで詳細は不明であった。集団検問が終ってからは、多くの人々が行方不明者の捜査嘆願に私のオフィスに殺到して来た・・・。

 そうした状況を説明すると、将軍は静かに頷きながら、

 「生活困窮者が出るに違いないから、それには充分面倒を見るよう」といって二時間余りの会談を終った。

 将軍は、かつて南京攻略の総司令官であった。狷邉虐殺瓩里海箸あったので昭南の実体を憂慮して来られたのであろう。(P48)

 将軍の示唆に基づいて、占領期間を通じ困窮家族に毎月五十弗宛を支給し続けた。中には一家中の男子全員が行方不明となって老母と子供だけが残った悲惨な家族も多数あった。(P49)



 篠崎は、松井が「南京虐殺」への反省から遺族に気をかけたのだ、と理解しています。あるいは、そうだったのかもしれません。



 「犠牲者数」をめぐる諸論


 さてそれでは、「事件」の犠牲者数は、一体どのくらいなのか。

 日本側の「数千人」に対して、華人側は「数万人」と一桁多い数字を主張します。「南京」と同様、「犠牲者数」を確定するのは極めて困難なことである様子です。


 ここでは、「犠牲者数」をめぐる議論を比較的公正に紹介していると思われる『世界戦争犯罪辞典』の記述を紹介して、本稿を閉じることにしましょう。


『世界戦争犯罪辞典』より  

犠牲者は六〇〇〇か二万か


 犠牲者の規模については、日本側と華人側から様々な数字が提出され、双方の主張する数に大幅な差異がある。憲兵隊関係者は一〇○○人、水増し報告数を含め多くても二〇〇〇人説を主張している。『大本営大東亜機密作戦日誌』(昭和一七年三月三日)では「第一期粛清ニヨリ約五〇〇〇ノ不良分子ヲ検挙処分」したと記録している。

 戦後、旧陸軍省がまとめた「シンガポール華僑処断状況調査」(昭和二〇年一〇月二三日)によれば、義勇軍、抗日団体幹部、共産党員にして「三月末迄ニ厳重処断ヲ受ケタルモノ約五〇〇〇名ナリ」と、連合国側の俘虜関係調査部に報告していた。当時警備司令部の通訳として協力し、昭南特別市政庁の厚生科長を務め、終戦後にこの事件の証人にも立った篠崎護は、シンガポール攻略戦の最中、砲撃で死亡した市民、占領中に処刑、獄中死した犠牲者の数を合算して、一万九〇〇〇から二万人という人数を挙げている。

 一方、華人側は英軍検察官が日本軍によって虐殺された者は六〇〇〇人と断定したことに反発して、新加坡華僑集体鳴冤会(シンガポールかきょうしゅうたいめいえんかい)は、四万人の犠牲者家族に賠償金支払いをと叫んだ。元南洋大学の許雲樵教授が一九七八年一二月八日に発表した『付録馬来亜華僑殉難者名録』によれば、犠牲者数は八六〇〇余人となっている。この名録には、粛清時期以外にマレー半島方面で処断された人々が含まれている。この他、華人側では五万から一〇万説を唱えている団体もある。

 いずれにせよ、これらの人数は確証に基づいた数字ではなく、推定であるため、昭南粛清事件で厳重処分された人員は確定できないのが実情である。

 憲兵隊が言う最小限一〇〇〇人説の是非は別として、シンガポール陥落後の数週間に多数の華僑が処断されたことは疑えぬ事実である。無抵抗の市民を無差別に敵性分子と断定し、処断したことは、たとえ作戦命令による軍事行動の一環であっても、人道上からも国際法上からも許し難い違法であり、無謀な行為だった。(P129-P130)

 (明石陽至)



 

(2012.1.2)


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