日米開戦
コミンテルン陰謀説(2)

元KGB工作員パブロフの証言

 
番外  ハル・ノートを書かせた男?
 パブロフの証言

 さてその後、1995年になり、「ハル・ノートをホワイトに書かせたのは私である」と証言する、元KGBの工作員が登場しました。ピターリ・グリゴリエッチ・パブロフという人物です。

 その証言がどこまで信頼できるかには疑問符もつきますが、とりあえずは須藤眞志「ハル・ノートを書いた男」及びサンケイ新聞社「ルーズベルト秘録」に沿って、その内容を見ていくことにしましょう。
※「ルーズベルト秘録」はパブロフ著『スノー作戦』(1995年刊)を、「ハル・ノートを書いた男」はNHKによるパブロフインタビュー(1997年)を、それぞれソースにしています。

 パブロフによれば、最初にホワイトに接触したソ連の工作員は、「ビル」こと「アフメロフ」なる人物であったそうです。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 Xは財務省の職員で、非常に重要な情報をくれるばかりでなく、他の職員のことについてもよく話してくれたという。

 Xによると、財務省には若い反ファッショの職員が多く働いており、彼らはドイツを、ファシズムを憎んでおり、いつでも援助してくれるという話で、Xが、とくに、と名前をあげたのは、デクスター・ホワイトというモーゲンソー長官の極めて有能な若い助手だったそうです。彼は書類の作成能力に優れており、国際情勢についてもなかなか洞察力が深いとXは評価していた。(P135)

 アフメロフはそのホワイトに強い興味を抱き、Xに、自分は非合法活動家だし諜報員だから、本名ではなくビルと呼ぶように言い、ホワイトに会えるように手配してもらったのです。アフメロフの願望はかない、ホワイトと知り合いになりました。(P136)



 アフメロフはのち、ソ連本国に呼び戻されます。

 その後にアメリカに派遣されたのが、パブロフでした。1941年5月、パブロフはアフメロフ(ビル)の「友達」を名乗り、ホワイトに接触を試みます。


須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

パブロフ きめておいた電話ボックスから電話をすると、「ホワイトです」と幸いなことに返事が聞こえました。私はほっとして一息つき、用件を言いました。

 「私はビルの友達です。ビルはあなたといつかある事情でお会いしていますが、ビルはあなたとお会いし、お話しできたことにいまだに大変感銘を受けています。 それで、もしホワイトさんが私のためにちょっと時間の都合をつけてくださるのでしたら、お礼の言葉を申し述べるようにビルから依頼されています。私は臨時にここに滞在しており、再び中国に帰らねばならないのですが」と。(P140-P141)

 「はい、ビルのことはよく覚えています。いいですよ、お会いしましょう」

 ホワイトはわりとすぐに返事をくれました。(P141)



 そしてパブロフは、ワシントンのとあるレストランで、ホワイトと昼食をともにすることになります。いよいよ「工作」のハイライトシーンであるはずなのですが、「工作」の内容がこの程度のものであったことに、読者の方はむしろ驚くかもしれません。


須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 私は話しはじめました。

 ここへは短期間で来ていること、実際にビルの生徒であること、ビルは語学のことでも、人生のことでも私の教師であること、ビルはアメリカについて、とりわけあなたについて多くのことを話してくれたこと、あなたは彼に大変深い印象を与えていること、等々です。

 それから、ビルを大変心配させている緊急の事柄を、どうかあなたに伝えて欲しいと頼まれたのだと言って本題に入りました。

 (略)

 「誤解しないでいただきたいのですが」と前置きしてから、「ビルから渡されているメモをあなたにお見せしたいのですが」と丁重に申し出ると、彼は快くそれを受け取り、読み始めました。私はそれを興味深く観察していました。(P143)



ルーズベルト秘録(下)より

 「中国にいるビルがどうしてもあなたに伝言してほしいといったので……」

 説明を制止するようにホワイトが何度も頷くのを見て、パブロフは「日米関係の問題で苦労している。 アジアにおける日本の侵略に強い懸念を抱いているからだ」と言って、アフメーロフが書いた一枚の紙切れをテーブル越しに差し出した。(P204)




 パブロフは、「友人」である「ビル」からの伝言だと説明して、「ビルから渡されているメモ」をホワイトに見せた。 実はパブロフの語る「工作」の内容は、これだけです。

 ホワイトが「ソ連の指示のまま動くエージェント」であったのであれば、これでも何らかの効果はあったのかもしれません。 しかしパブロフの証言によれば、ホワイトは「ソ連のエージェント」でも何でもなく、単なる「反ファッショ」であったはずです(後述)

 「証言」を読む限り、パブロフは「メモ」の内容を説明することすらしていません。「メモ」をどのように生かすか、という具体的なアドバイスもしていません。 「メモ」を見せただけで、あとはご自由に、では、「工作」としては尻切れトンボの感は免れないでしょう。



 しかもこの後パブロフは、おかしな行動に出ます。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 彼が読み終わったメモをポケットに入れようとしたので、私は「すみません、ちょっと」と言ってメモを返してもらいました

 たぶん彼は、私がメモをとりあげてしまうのではなく、もう一度自分で読みたがっていると思ったのでしょう。

 じつは、証拠を残さないことは諜報員としての鉄則だったのです。(P143)



 ホワイトはせっかくのメモを持ち帰ることはできず、パブロフに回収されてしまいました。ホワイトはパブロフのこの行動に、「怪しさ」を感じなかったのでしょうか。

 それはともかく、この「証言」が事実だとすれば、ホワイトは「一度だけ見せられた」こんな怪しげな「メモ」の内容をベースに、記憶をたどって「ホワイト=モーゲンソー試案」を書いた、ということになります。「不自然さ」を感じるのは、私ばかりではないでしょう。



 「証言」によれば、この「メモ」の内容は偶然にもホワイトの考えと一致していたようです。

ルーズベルト秘録(下)より

 ホワイトはそれをじっくり読んだあと紙切れを戻し「了解した。実はビルと私の考えは奇妙なほど符合している。その方向で努力するつもりだ」と確約した。(P204)



須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 私は「これは(あなたが)思い付いたことや、思い付いている考えに大変一致していると思いませんか」とたずねた。彼は「こういう方向でなにか必要なことをすることができると思います。あなたは私のいうことや、私の立場をわかってくださっている」と言いました。(P144)


 以上が、「パブロフ工作」の全容です。


 パブロフの証言によれば、パブロフとホワイトの「接触」は、この一回限り。それもパブロフはホワイトに対して何らかの「指示」や「説得」を行ったわけではありません。

 自分がソ連の工作員であることを隠したままで「メモをホワイトに見せた」(しかもそのメモを渡さずに回収してしまった)というだけの「工作」でした。



 ホワイトはその内容に強く心を動かされたのか、以降、「メモ」に沿った提案をモーゲンソー財務長官に提出することになります。

 しかしもし、ホワイトがこの「メモ」にここまでの強い興味を示さなければどうなったのか。あるいは、ホワイトが本来畑違いの「外交問題」に積極的に介入する気を起さなければどうなるのか。

 「工作」はあっさりと「失敗」に終ることになります。ソ連が本当にこんな頼りない工作を行うのか。私見ですが、どうも釈然としないものを感じるのですが・・・。



 それではこの「メモ」は、どのような内容だったのでしょうか。パブロフの証言を見ます。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 力と立場の現実の相関関係を考慮すること。現に進行している日中戦争、それから日本軍部の、北にあるいは南にと侵攻する志向を危険なものと考えること。(P145)

 そういう考え方から、ホワイト氏に渡したメモの最初の項目では、日本が大陸から自国の軍隊を引き揚げる問題について私たちの考えを述べていたと思う。満州問題とか、関東軍の問題ですが、それほど細かく書いていたわけではない。これが主要な項目のうちの一つです。

 二番目は、日本がそういう撤兵の決定をした場合は、アメリカは日本に対してなんらかの埋め合わせを行う用意をすること。その意味するところは、日本が原料その他の経済的条件で困窮していることに理解をしめすことです。一方で、日本は日本でアメリカにその軍事力、軍事的生産物で埋め合わせをしなくてはならない。

 アメリカ自身はまだ戦っていませんでしたが、反ドイツのアメリカの同盟国は戦っていた。その同盟国に戦略物資を送る通路を保証すべく、アメリカがその軍事力を自由にヨーロッパにふり向けることができるようにする。こんなところです。(P146)



 日本は大陸から撤兵する。そしてアメリカはその撤兵に対して経済支援という「埋め合わせ」をする。そうすればアメリカは軍事力をドイツ打倒に振り向けることができるようになる。 ―まさに、「モーゲンソー試案」そのものです。 (前項で見てきた通り、「ハル・ノート」とは一線を画します)




 さて、パブロフは「日米戦争」を煽ろうとしていたのか、それともそんな考えはなかったのか。パブロフの証言は、この点、やや微妙です。

 まずはNHKのインタビューを見ます。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 ―おききしたいのは、つまり、あなたの計画の中には、アメリカと日本を対決させるというような考えはなかったのですか。(P162-P163)

 パブロフ まったくそんな考えはありません。でも、いずれにせよ、アメリカと日本は、その極めて重要かつ死活的な利害から衝突するだろうとは確信していました。日本がもしその方向で何らかの行動を計画しているのなら、ことさら自分の状態を複雑にする必要はないと、そのことを警告するのがわれわれにとって重要だったわけです。

 それがすべてです。この件でわれわれが、日米戦争に関心を抱いていたと考えるのは間違っています。日米戦争はその他の歴史的な全く違った要因で起きたのです。(P163)



 つまり、「日本を対米戦争に追い込む」という計画は全くなかった、という証言です。

 もしこの通りであるのならば、「日本とアメリカを戦わせる」という「コミンテルンの陰謀」は、そもそも存在しないことになってしまいます

 須藤氏のコメントです。

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 ただ、そのことよりも、ここで注目したいのは、アフメロフやパブロフが考えた解決案が、対日強硬案とはいえないことである。

 パブロフ氏によれば、ソ連はけっして日米戦争を欲していたわけではなく、独ソ戦に備えて、ひたすら満州の日本軍の撤退を望んでいたという。

 日本が独ソ戦に乗じて満州から北進してくることに強い懸念があったからである。(P164-P165)

 それゆえホワイト工作の主眼も、なんとかして関東軍の撤退をアメリカの圧力と妥協で実現できないものかという点に置かれていた。モーゲンソー案にはそれがはっきりと現れている。

 そして日本軍が満州や中国から撤兵する、その「埋め合わせ」に日本に経済的利益をもたらそうというのが彼らの提案の枠組みであった。

 後者の一部には、日本の軍備をアメリカが買い上げるという奇抜な提案まで含まれている。

 満州から軍の主力を引く代わりに、日本は通商上の利益を極大化させ、満州国そのものも植民地としてその発展が認められるというもので、ある意味で日本にとって、かなり宥和的な提案のようにも思われる。

 結論的に言えば、ソ連の工作によって日米戦争が起こされたとするソ連陰謀説は、パブロフの証言を見るかぎり、まったく当たっていない。(P165)



 一方ロシアで行われたインタビューでは、ややニュアンスが違う語り方をしているようです。

ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道』より

八四歳になったパヴロフ退役中将はこう話している。


 日米戦争を引き起こした『ハル・ノート』を作成したのはハリー・ホワイトだ。 日本に対して厳しい最後通牒をつきつけるというアイデアを作ったのは内務人民委員部だ。

 一九四一年五月、私は、われわれのアイデアが書かれた一枚の『カンニング・ペーパー』をホワイトに手渡すためにワシントンに特別出張した。それを読むと、ホワイトが自分も同じ考えだと叫んだ。彼は言った。

 日本人を「厳しく戒める」時期がきた。そして自分にはそれができるいくつかの手だてがある、と。(P282)
  


 『ルーズベルト秘録』にも、同様の証言が見られます。

ルーズベルト秘録(下)より

 ソ連の元KGB工作員、ビターリ・パブロフが「今だから明かせる」と公開した秘密工作「スノー(雪)作戦」は、米財務長官、モーゲンソーの側近、ハリー・ホワイトを通じて米国の対日政策に影響を与えるという国際的な謀略だった。しかも、パブロフは「作戦は見事に成功し、日本に突きつけられた厳しい対日要求、ハル・ノートがその成果だった」と述べたのである。


 ただし先に見てきた通り、ホワイト=モーゲンソー案は、「日中戦争と不況で経済困難に陥っている日本に巨額の経済支援を約束し、その見返りに中国からの撤退などを求め、さらには日本の軍需産業の破綻を心配して、武器弾薬の買い取りまでを提案」(『ルーズベルト秘録(下)』(P205))するものでした。

 ソ連にとっては、あくまで目的は「日本の脅威を経済力で無力化し、日本軍を満州や中国から撤去させる(『ルーズベルト秘録(下)』P205))ことであり、上の提案がそのまま実現してくれれば「日米戦争」までを煽る必要はありません。

 そのような視点で上のパブロフ証言を読み返すと、パブロフが果たして「日米戦争」までを意識していたのか、やや曖昧です。

 ここでは断定は避けますが、NHKインタビューの内容を組み合わせると、「パブロフは日米戦争までを煽る考えはなかった」と考える方が、妥当であるように思われます。



 なおホワイトは案をモーゲンソー財務長官に示しましたが、モーゲンソーは当初は無関心であったようです。この「工作」は、「実現」まで何と5ヵ月を要しています。

ルーズベルト秘録(下)より

 問題は、モーゲンソーがこのとき、ホワイト案に興味を示さなかったことだ。

 ホワイト案が若干の修正を施されて再浮上するのは何と五ヵ月後の十一月十七日。日米交渉が暗礁に乗り上げる直前であり、日本との開戦を避けるには米国が何らかの暫定案を提示し、一時的にも緊張をほぐす必要が出た時だった。(P204)



 にもかかわらず、KGBはこの「成功」に大喜びしたようです。

ルーズベルト秘録(下)より

 パブロフは自著『スノー作戦』で、内務人民委員部(NKVD=KGBの前身)トップのラブレンティ・ベリヤに許可を得るなど「スノー作戦」が単なる思いつきで始まった謀略ではなかったことをさりげなく書いている。

 また、パブロブがホワイトに接触しただけなのに上司やアフメーロフから「よくやった。成功だ」と肩を叩かれ、ベリヤからは「作戦の記録はすべて抹消し、一切を極秘とする」と命令されたとも書いている。

 つまり、作戦がNKVD挙げての重要な謀略だったことをにおわせたわけだ。(P204-P205)


 普通に考えれば、「ホワイト案」がルーズベルト大統領に採用され、さらに日本側に提示されて、初めて「成功」ということになるでしょう。

 しかし当時のソ連にとっては、ホワイトに「メモ」を見せ、ホワイトがその内容に同意しただけで「成功」であったそうです。

 パブロフの証言内容には、違和感を感じざるをえません。さすがに「ルーズベルト秘録」も、皮肉めいた一言を挟まずにはいられなかったようです。

ルーズベルト秘録(下)より

 ホワイトを通じてモーゲンソーを動かし、さらに大統領のルーズベルトに影響を与えるというアフメーロフとパブロフの思惑はその意味で見事にはずれ、「スノー作戦」は少なくとも五ヵ月間は静止状態だった。

 しかもその間、独ソ戦が始まり、アフメーロフが心配した日本のシベリア侵略の恐れはむしろ増していた。

 この空白の五ヵ月間、アフメーロフらはホワイトに紙切れを見せただけで満足し、後はホワイトの次の行動を見守っていたのだろうか。(P204-P205)



 須藤氏はパブロフ証言の信憑性を疑っていないように見えますが、以上、少なくとも私には、首を傾げざるを得ない「証言」であるように思われます。

 また仮にこの「証言」が正確だったとしても、パブロフが「日米戦争」までを望んかどうかは微妙なところですので、「日米開戦=コミンテルン陰謀論」の根拠には、どうも使えそうにありません。




 ちなみにパブロフ証言の信憑性を疑う発言は、あちこちで見かけます。例えばロシアの歴史家、スラヴィンスキーの記述です。

ボリス・スラヴィンスキー『日ソ戦争への道』より

 ロシアの共産党系の新聞、特に「プラウダ」と「ソヴィエツカヤ・ロシア」に「雪」作戦をほめたたえる記事が掲載されたことが私の注意を引いた。ロシアの親ソ派は、スターリンとその功績をたたえる機会に飛びついたのだ。

 意外にも、毎日新聞は一九九五年一一月二二日、「ハル・ノート もう一つの真実」と題して三回の長い記事を連載した。

 注意深くその記事を読むと、毎日新聞は、親ソ傾向の猛烈愛国主義者の罠にかかったのだと分かった。

 そのときまでに私が得た知識によると、パヴロフの説明を擁護する者たちの論拠はまったくでたらめだった。多くの事実は結びついておらず、不確かだった。(P21)



 しかし、多くの人々がパヴロフの説明に疑念を抱いたロシア連邦対外情報局新聞部の顧問、ウラジーミル・ニコラエヴィツチ・カルポフのインタビューをここに引用しておこう。


 あなたと同姓のV・カルポフがあるインタビューのなかで、ソ連の元対外情報機関職員のパヴロフ中将が、ベリヤの命令によってルーズヴェルト大統領の顧問ハリー・デクスター・ホワイトを通じて日米戦争を挑発し、それによってソ連極東部への攻撃の脅威を遠ざけることに成功した、と述べています。これは事実でしょうか。

 そんなことはありえません。歴史から見て、そのような主張が成り立たないことは、ロシアの歴史家をはじめ世界中の歴史家がはっきりと示しています。ついでに言っておくと、米国人はパヴロフのそうした発言を黙殺しています。実際、彼らは自分たちの歴史、特に日本の真珠湾攻撃の原因をよく知っているのです。

 ロシア対外情報局に関して言えば、われわれの文書保管所には、パヴロフまたはほかの人物がホワイトと会い、ホワイトに対してこのような任務を与えたという痕跡はどこにもありません。彼の主張は、言ってみれば作者の想像の産物であり、それを補強するどんな記録もないのです。(P283)

 



 ヴィタリー・パヴロフがハリー・ホワイトと会ったという件は彼の主張以外には、いかなる証拠もない。これは「真のソヴィエト愛国者」の夢想ではあるまいか。

 
パヴロフは、セルゲイ・アガフォーノフの記事を読み、自らを、祖国を賛美するこの刺激的な探偵物語の参加者とすることにしたのではないか。

 われわれの調査によれば、ロシア対外情報局の当局者でさえパヴロフの説明を否定している。

 最後まで誠実さを貫くために、私自身、一九九六年九月一三日にヴィタリー・パヴロフと二回目に会ったとき、彼の目をじっと見て、「雪」作戦についての自分の考え方を述べた。

 パヴロフは、どう考えようと勝手だと私に答えた。しかし、彼は自分の意見を変えなかった。彼もその権利を持っている。(P292)

  


 「ヴェノナ」も、パブロフ証言の「信頼性は不確かである」という評価を行っています。

ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア『ヴェノナ』

 ホワイトを使ってアメリカの対日政策を強硬にし、日本に北進ではなく南進をさせてアメリカと戦わせることで、KGBはソ連を二正面戦争の危機から救ったということをパヴロフの記事は描いている。

 これはたしかにホワイトの影響力を誇張しているが、1941年半ば以降にモーゲンソー財務長官ら政府高官たちが日本に対する姿勢を議論したとき、ホワイトはモーゲンソーに彼の対日強硬姿勢を支持する覚書を送っている。

 本書第十章で議論するチコフの記事と同様に、嘘と真実が入り混じった内容によってパヴロフの信頼性は不確かである。(P541)



 右派論客として知られる福井義高氏も同様の見解です。

福井義高『東京裁判史観を痛打する「ヴェノナ」のインパクト』より

 しかし、パヴロフはロシア情報機関「公認」のもと、ソ連時代の諜報活動を賛美する執筆を行っており、その内容は必ずしも信用できない。

 いずれにせよ、日米交渉の過程で、ホワイトの関与があったにしても、それがルーズベルトのハル・ノート通告という最終決断に決定的影響を与えたとまではいえないだろう。(P94)

(『正論』2006年5月)



 さらに言えば、パブロフの証言に従うのであれば、ホワイトはそもそも「ソ連の工作員」などではなかったことになります

須藤眞志『ハル・ノートを書いた男』

 ―あなたは、ビルのエージェントのファイルからホワイトを見つけたと言われましたが、ホワイトはエージェントではなかったのですか。

 パプロフ われわれのエージェントのファイルには、ホワイトのものはありませんでした。 しかし、エージェントXのファイルには多くの職員の詳細な特性が書かれており、ホワイトについても多くの記述があった。(P147-P148)

 Xはホワイトのことをアフメロフに報告しましたが、アフメロフはホワイトを引き込むことはしなかった。なぜなら、われわれには財務省には、さらに二人のエージェントがいて、対外諜報に必要なすべての情報をくれていたからです。

 情報源としてのエージェントはこれ以上われわれには必要なかった。一時はアフメロフも彼を引き込むべきか否か考えていたが、やがて引き込むべきでない、という結論に達したのです。

 ホワイトは反ファッショです。こっそり耳打ちしなくとも役割を成し遂げるだろう。それにエージェントでなくとも大変に熟練しています。(P148)



 「ヴェノナ文書」によれば、ホワイトは明らかな「情報源」でした。パブロフ証言は、「ヴェノナ」の記述に対立します。

 パブロフが正しいのか、「ヴェノナ」が正しいのか。この点は論壇でも意見の対立があるようですが、少なくともパブロフ証言の信頼性を弱める要素となっていることは否定できないでしょう。

※この点については、パブロフはホワイトの正体を隠していたのだ、という見解も存在します。
『ルーズベルト秘録』(下)より

 ホワイト疑惑を十年以上も追及してきた歴史研究家、ブルース・クレイグはパブロフに二度にわたってインタビューし、その矛盾について聞いている。

 「パブロフは引退したとはいえKGBと強いつながりがある。 かつてのエージェントの名前を明かすわけにはいかない。 さらに三九年から四一年頃までを特定して"(ホワイトが)エージェントという関係をわれわれと保たなかった"という微妙な言い方をしたのもその辺に配慮したためだろう」(P205-P206)

 ただし私見では、この説明はいささか説得力を欠くように思われます。ここまでKGBの活動を赤裸々に告白しながら、どうして四十年近く前に死亡した「エージェントの名前」だけを明かすわけにはいかないのか、この説明ではよくわかりません。
(2012.9.16)
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