日米開戦
「日米開戦」まで1ヵ月(1)
11月1日「大本営政府連絡会議」


 なぜ日本は、無謀ともいえる「日米戦争」を始めてしまったのか。

 まず、よくある「誤解」を見ます。 ネットの世界などでは、「ハル・ノート」の無茶な要求によって日本は「戦争」に追い込まれた、すなわち「ハル・ノート」こそが日米戦争の原因である、 というイメージが広がっているように思います。

 その「元凶」は、パル判決の中の次の有名な一節でしょう。


『共同研究 パル判決書』(下)より

 現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。

 すなわち「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものとおなじような通牒を受取った場合、 モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして戈をとって起ちあがったであろう」。(P441)



 しかし実際には、日本は別に「ハル・ノート」に直面して初めて「戦争」を考えたわけではありませんでした。1941年11月1日午前9時から2日午前1時にかけて行われた「大本営政府連絡会議」の決定を見ます。

帝国国策遂行要領

昭和十六年十一月一日
大本営政府連絡会議決定


一 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為此の際米英蘭戦争を決意し左記措置を採る(P378)

(一)武力発動の時機を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す

(二)対米交渉は別紙要領に依り之を行ふ

(三)独伊との提携強化を図る

(四)武力発動の直前泰との間に軍事的緊密関係を樹立す

二 対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す

(参謀本部編『杉山メモ 上』P379)


 つまり日本は、「ハル・ノート」以前に、「十二月一日午前零時までに対米交渉が成功しなければ米英蘭戦争に突入する」という決断をしていたわけです。

 実際問題として期限通りに外交交渉を決着させることは極めて困難な情勢でしたので、これは「事実上の戦争決意」と言ってよいでしょう。 例え「ハル・ノート」がなくとも、「外交交渉」が期限切れとなればそのまま「戦争」に突入した可能性が高いものと考えられます。

 さらに言えば、ネットの世界ではほとんど触れられることはありませんが、「開戦派」であった参謀本部にとって「ハル・ノート」はむしろ「天佑」と受け止められていた ことを付け加えておきます。
連合艦隊が真珠湾攻撃に出発したのは、「ハル・ノート」提示の前日、11月26日のことでした。交渉が成立すれば引き返す、との条件付きではありましたが、軍部がその「交渉成立条件」に同意しない限り「引き返す」ことはありえません。 以下で見る通り、軍部が納得する形での「妥結」の可能性は極めて低いものであったと見られます。


 以下、11月1日「連絡会議」から11月27日「ハル・ノート」提示に至る道筋を見ていきます。

※日米交渉では、「三国同盟」「中国からの撤兵」「中国の門戸開放」など、多岐にわたるテーマが話し合われました。 ただし以下のコンテンツでは、煩雑を避けるために、「日米交渉」の複雑な枝葉を切り落としてあえて単純化していることをお断りしておきます。 例えばこれらの点についての日本側の最終提案が「甲案」ですが、本スペースでは「甲案」をめぐる動きはほとんど省略し、「暫定協定案」である「乙案」のみを取り上げています。 「日米交渉」の詳細を知りたい方には、大杉一雄『真珠湾への道』 森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』を推薦します。

※※念のためですが、私は「開戦責任を一方的に日本の側にのみ求める」という議論には組しません。「ハル回顧録」を素直に信じるのであれば、1941年7月の日本の南仏印進駐時、 ハルは「これから後日本に対するわれわれの主な目的は国防の準備のために時をかせぐことであった」と、既に「戦争やむなし」の決意を表明しています。本コンテンツはあくまで、 「ハル・ノート伝説」に対するアンチテーゼに過ぎない、とご理解ください。



 背景 「開戦決意」の理由

 「連絡会議」の話題に入る前に、その背景を簡単に説明します。


 日米対立のきっかけは、1941年7月の、日本軍の南仏印(南ベトナム)進駐でした。

 日本にしてみれば、フランスの対独降伏によって「空白地帯」となったフランス領南仏印を、英国などに押さえられる前に先手を打って押さえておけ、程度の軽い気持ちであった、と伝えられます。

 しかしアメリカはこれを、日本が蘭印(インドネシア)を目指して本格的な南進のステップを踏み出したものと判断し、強く反発しました。 そして「石油の対日全面禁輸」という強硬措置に出ることになります。


 石油がなければ、いずれ艦隊も航空機も動かなくなります。日本としては、何とかしてこの状況を打破する必要に迫られました。


 手段としては、二つあります。一つは外交交渉により「禁輸」を解いてもらう道。もう一つは、自ら南方の資源地帯に打って出て資源を確保する、という道です。

 しかし外交交渉は思い切り難航します。アメリカ側は「日本軍の中国からの撤兵」を求めますが、日本側は軍部が「撤兵」に強硬に反対する。10月段階では、お互い「原則」を譲らないままの、膠着状態でした。


 こんな中、東郷外相ら「非戦派」は、なお「外交交渉」による打開の道を求めます。その一方、参謀本部を中心とする「開戦派」は、アメリカに対する「即時開戦」を主張します


 「開戦派」の主張については、東條首相による「開戦決意」の理由説明がわかりやすいので、ここに紹介します。 (念のためですが、東條首相自身は、後述するように「外交交渉=開戦準備二本建て派」でした)

十一月四日軍事参議院会議における説明要旨

東條陸相

(「ゆう」注 東條首相は陸相を兼任)


 永野総長の説明のように二年後の戦局の見通しもつけられないのに、開戦を決意した理由は次のとおりである。

 四年にわたる対支戦果をもって動かず隠忍自重する方策はあるが、その場合二年後の状況は油は不足し米国の準備は整い、特に航空兵力はいちじるしくわれと懸隔し、 南方要地は難攻不落の状態となり、わが対南方作戦は難しくなる。その場合米が積極的に出ればわれは屈服のほかはないであろう。

 以上は物の面から考えてである。

 支那事変の見地から見ると対日経済封鎖はますます強化し、われとして策の施しようがなくなるであろう。こうなるとその影響は重慶、ソ連に反映するのはもちろん満州、台湾、朝鮮の向背も心配となる。

 従って手を拱いていては昔の小日本に戻ることとなり、わが光輝ある歴史を汚すこととなる

 以上により、二年後の見通しが不明であるため、無為にして自滅に終わるより難局を打開して将来の光明を求めようとするものである。

 南方資源地域を確保し全力を尽くして努力すれば、将来勝利の基は開きうるものと確信する。

(戦史叢書『ハワイ作戦』P210-P211)

 このままでは「戦争」は不可能になり、日本は自滅して「昔の小日本」に戻るしかなくなる。それを打開するには今「戦争」するしかない

 結果としては「敗戦」により日本は「昔の小日本」に戻ってしまったわけですが、ともかくもこれが、参謀本部を中心とする「開戦派」の主張でした。




 連絡会議1 「非戦」か「開戦」か


 この両派の対立の中、東條首相は、「戦争しない」「直ちに開戦を決意する」「外交交渉と戦争準備を並行して進める」という3つの案を用意します。

『杉山メモ』(上)より


第一案 戦争せず、臥薪嘗胆す
第二案 直に開戦を決意して作戦準備をぐんぐん進め、外交を従とするもの
第三案 戦争決意の下に作戦準備をすすめるが外交交渉はあの最小限度にて之を進める
(P370-P371)



 「二つの極論(第一案、第二案)と中間案(第三案)」(五百旗頭真『日本の近代6 戦争・占領・講和』P109)という構成です。 この組立てに明らかな通り、東條首相自身の本音は「中間案(第三案)」に会議を誘導することにありました。

 この3つの案を巡って、十一月一日、「連絡会議」が行われることになります。 この席で、「開戦派」(第二案)の永野参謀総長・塚田参謀次長らと、「非戦派」(第一案)の東郷外相・賀屋蔵相との間で、大激論が展開されます。


『杉山メモ』(上)

永野 今戦争やらずに三年後にやるよりも今やって三年後の状態を考へると今やる方が戦争はやりやすいと言へる、それは必要な地盤がとってあるからだ

賀屋 勝算が戦争第三年にあるのなら戦争やるのも宜しいが永野の説明によれば此点は不明瞭だ、然も自分は米が戦争をしかけて来る公算は少いと判断するから結論として今戦争するのが良いとは思はぬ

東郷 私も米艦隊が攻勢に来るとは思はぬ、今戦争する必要はないと思ふ

永野 「来らざるを恃む勿れ」と言ふこともある。先は不明、安心は出来ぬ、三年たてば南の防備が強くなる敵艦も増える

賀屋 然らば何時戦争したら勝てるか

永野 今! 戦機はあとには来ぬ(強き語調にて)


※連絡会議の進行を詳細に記した「杉山メモ」十一月一日の項全文を、 こちらに掲載しました。

 そうした中、海軍は突然「外交期限」を「十一月二十日」とする発言を行いました。事実上「第三案」(外交交渉・戦争準備並行案)を容認するものです。

『杉山メモ』(上)


次長(「ゆう」注 塚田参謀次長)  先づ以て決するべきものは今後の問題の重点たる「開戦を直に決意す」「戦争発起を十二月初頭とす」の二つを定めなければ統帥部としては何も出来ぬ  外交などは右が定まってから研究して貰い度い、外交やるとしても右を先づ定めよ

伊藤 (此時突如として)海軍としては十一月二十日まで外交をやっても良い

塚田 陸軍としては十一月十三日迄はよろしいがそれ以上は困る



 塚田参謀次長もそれに引きずられて、思わず「十一月十三日」までは外交をしてもよい、と発言してしまいました。この背景には、参謀本部の次のようなスケジュール感があったものと思われます。


戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯<5>』より

 そして第三案採択の場合、右手続きのうち作戦軍に対する作戦準備下令までは、 開戦決意前に直ちに実施するものとして(それに伴い南部佛印及びパラオに対する作戦軍の展開は、今度は外交等の事情に制肘されずに行う) 作戦軍に対する作戦任務の下令は少なくも開戦決意後でなければならず、しかもそれは開戦日の約三週間前(作戦発起下令は開戦日の約一週間前)であることが必要 であるというのであった。

 そこで開戦日を十二月八日とすれば、作戦任務下令は十一月十七日、開戦決意は十一月十五日ころ、 外交打切りは十一月十三日ころでなければならぬという目途であった。(P228)



 かくして議論は、東條首相の思惑通り、中間の第三案に収斂していきます。

 しかしその「条件」は、あまりに過酷なものです。 外交交渉はあと2週間しか継続を許さない。これには、さすがに東郷外相は抵抗します。

『杉山メモ』(上)

東郷 十一月十三日は余り酷いではないか、海軍は十一月二十日と言ふではないか



 『杉山メモ』には、塚田次長が嶋田海相を怒鳴りつける場面も登場します。当時の軍部の雰囲気が伺えます。

『杉山メモ』(上)

島田 (伊藤次長に向ひ)発起の二昼夜位前迄は佳いだらう

塚田 だまって居て下さい そんなことは駄目です




 結局「交渉期限」については、軍部側がやや歩み寄る形で決着しました。

『杉山メモ』(上)

 茲に於て田中第一部長を招致し総長次長第一部長に於て研究し「五日前迄はよろしかるべし」と結論せられ之に依り「十一月三十日迄は外交を行ふも可」と参本としては決定し再開す


 かくして、会議の結論は「第三案、外交交渉期限十一月三十日」ということになりました。


『杉山メモ』(上)

以上の如くして

(イ)戦争を決意す
(ロ)戦争発起は十二月初頭とす
(ハ)外交は十二月一日零時迄とし之迄に外交成功せば戦争発起を中止す


に関しては決定を見たり



 軍部側の厳しい「交渉期限」突き付けに対し、東郷外相は、何とか「十一月三十日」まで期限を引き延ばすことに成功しました。 しかしいずれにせよ東郷外相は、一ヵ月以内にこの難交渉をまとめあげなければならない、という重い課題を背負うことになりました。 できなければ、即ち「開戦」ということになります。




 連絡会議2 「交渉」の条件


 続いて、具体的な交渉条件に議題が移ります。

 会議ではまず、(少なくとも日本側の主観では)「米国の意向に最も近い最大限度の譲歩案(東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』P309)である「甲案」をめぐる議論が行われました。

 煩雑になりますのでここでは詳細は省略し、森山氏による「まとめ」だけを紹介します。


森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』

 甲案は、中国と仏印からの日本軍の撤兵、日独伊三国同盟の死文化、通商無差別条約の中国への適用など、一見すると日本がアメリカに大きく歩み寄ったかのような案だった。

 しかし、良く読むとさまざまな留保条件が付されており、アメリカの受諾は望み薄だった


 たとえば中国からの撤兵は蒋介石との和平交渉成立による平和回復が前提だった。

 仮に平和が回復しても、北支、蒙疆、海南島という要衝には軍を留まらせ、 駐留期間は二五年を想定していたのである(さすがに、この年数をアメリカに提示すると交渉の成立は難しいので、米側から質問された場合に限って説明するものとされた)。

 通商無差別問題も原則的には同意するが、「全世界」へ適用された場合という条件を付しており、実質的には拒否に等しかった。(P162-P163)



 森山氏の文に見る通り、甲案当初から成立困難なものであると見られていました。このまま会議が終われば、 「開戦派」の狙い通り、「日米交渉不調、開戦」への道はほぼ確定的なものになってしまいかねません。

 しかし東郷外相は、最後の切り札を用意していました。会議もほとんど終わりに近づいた午後十一時、東郷外相は、突然、場の誰もが予期しなかった新たな提案を行いました。

森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』

 日付も変わろうかとする午後一一時に至って、東郷は突然、乙案を連絡会議の場に持ち出した

 。これは、日米間で最大の難問だった中国問題を棚上げし、 南部仏印の日本軍を北部に撤兵させることと引き換えに、物資を獲得しようという案だった。

 陸海軍と事前協議なしで提案するのは、それまでの慣行に反する異例のやり方だった。その内容は、以下の通りである。


一 日米両政府は仏印以外の南東アジア・南太平洋地域に武力的進出をしないことを確約する

二 日米両政府は蘭印において必要物資の獲得が保障できるよう相互に協力する

三 アメリカは年一〇〇万トンの航空ガソリンの対日供給を確約する

備考 一 この取極が成立したら、南部仏印に駐屯中の日本軍は北部に移駐する用意あり
    二 必要に応じて、従来の提案の中にある通商無差別と三国条約の解釈・履行に関する規定を追加挿入する


(P143)


 南部仏印に展開している日本軍を北部に撤兵させることと引き換えに、 日本の最大のウィークポイントであったガソリンをアメリカから確保し、さらに蘭印の戦略物資入手の糸口を掴もうというのである。(P144)



 おおまかにいえば、「日本軍の南部仏印撤退」と「禁輸措置解除」のバーターです。

 そもそも、日本の南仏印進駐がアメリカの石油全面禁輸の「原因」となった、という経緯があります。そこから派生して「日米交渉」は著しく複雑化したわけですが、ややこしい問題はすべて棚上げにし、とりあえずはそもそもの「原因」を取り除いて「禁輸措置」を解いてもらおう、というわけです。


 既に見てきた通り、参謀本部の本音は「即時開戦」にありました。「甲案」ならばほぼ成立不可能、予定通り十二月初頭の開戦ができる。 しかし「乙案」のような「問題棚上げ=暫定協定案」であれば、あっさり成立してしまう可能性がある

 そこで参謀本部は、猛反発します。参謀本部は、「南仏印からの撤兵」「中国問題の棚上げ」という、提案の中核をなす2点に攻撃を集中します。

『杉山メモ』(上)

塚田 南部仏印の兵力を撤するは絶対に不可なり(とて之に付繰返し反論す)乙案外務原案によれば支那の事には一言もふれず現状の儘なり 

 又南方から物をとることも仏印から兵を撤すれば完全に米の思ふ通りにならざるを得ずして何時でも米の妨害を受ける、 然も米の援蒋は中止せず 資金凍結解除だけでは通商ももとの通り殆んど出来ない、特に油は入って来ない。

 此様にして半年後ともなれば戦機は既に去って居る、帝国としては支那が思ふ様にならなければならない、

 故に乙案は不可、甲案でやれ




佐藤賢了『東條英機と太平洋戦争』より

 この乙案に対しては、杉山参謀長、塚田参謀次長の強硬な反対があった。

 理由は、乙案が問題を南方だけに限定し、支那事変の処理を全く除外しているというのだ。これでは交渉が成立しても禍根を将来に残すし、果して米国から必要な油が入ってくるかどうかも疑わしかった。

 とすると、日本は依然として米国によって国防上の死命を制せられ、一時的に姑息な平和をえてもやがて戦わなければならない。しかも、そのときはすでに戦機は去っているというのである。(P236)




 まず参謀本部側は、「中国問題」について「条件吊り上げ」に成功します。

『杉山メモ』(上)

 以上の如く協議せられ第三項を「資金凍結前の通商状態を回復し且油の輸入を加ふる」如く改め又第四項を新に加へ「支那事変解決を妨害せず」とせるも南部仏印撤兵問題は解決せず

 東郷外相の原案に「支那事件解決を妨害せず」という項目が加わりました。 即ち、アメリカの蒋介石援助の停止を求めるものです(いわゆる「援蒋停止条項」)。
※「ゆう」注 文言は「支那事変解決を妨害せず」と抽象的でしたが、これが「援蒋行為の停止を求めるもの」であることは当事者の共通了解でした。 東郷外相は野村大使に「(乙案の)四、は米国の援蒋行為停止をも意味するものと御含み置あり度し」(十一月二十日東郷大臣発野村大使宛電報第八〇〇号)と明確な指示を出していますし、 現実に交渉は日米双方ともこの理解を当然のものとして進められています。


 単純に「7月以前に時計の針を戻そう」ということであれば、交渉としては大変わかりやすいものです。しかし軍部は、ついでに「蒋介石援助をやめよ」という強硬な条件を加えてしまいました。

 陸軍は、「ワシントンへの最終的提案である「乙案」に、決定的な点で修正を加えるように主張して成功した(バーンハート『日本陸軍の新秩序構想と開戦決定』P42=波多野澄雄他編『太平洋戦争』所収)わけです。

 後で見る通り、この条項は交渉成立への大きなネックとなります。




 以降会議は、もうひとつの争点、「南部仏印撤兵問題」を巡って紛糾します。

東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』より


 乙案の討議に際しては、自分は戦争勃発の危険は極力これを阻止するを要し、そのためには事態を南部仏印進駐、資産凍結以前の状態に復帰せしめ、以て局面の安静化を企図するの絶対に必要なる所以を強調せるに対し、 統帥部殊に参謀本部に強硬なる反対があった。

 即ちその云うところは、日米間に多くの重要問題が未解決である間に、南部仏印から撤退するのは過大の譲歩で到底承諾は出来ないと云うので、 杉山参謀総長が特に強硬であった。(P317-P318)


 東郷外相は、杉山らの強硬論に対して、必死の反駁を試みます。


『杉山メモ』(上)

東郷 通商を改め又第四項に支那解決を妨害せずを加へ而も南仏撤兵を省く条件なれば外交は出来ぬ、之では駄目だ、外交はやれぬ、戦争はやらぬ方が宜し



 「援蒋停止条項」を加えた上に「南部仏印」からの撤退もしないのでは交渉にならない。これでは駄目だ。

 確かに、ただでさえ頑なな米側に、何の譲歩もなく一方的に「禁輸解除」を求めるのでは、交渉のしようがありません。東郷外相の必死の抵抗により、会議は大激論となります。

『杉山メモ』(上)

 右の如く南仏より北仏に移駐すること及乙案不可なることに就ては総長次長は声を大にして東郷と激論し東郷は之に同意せず時に非戦を以て脅威しつつ自説を固辞し





 議論が平行線を辿る中、いったん休憩とし、軍部側は別室で協議します。

 さてそんな中、「参謀本部」側が恐れたのは、東郷外相が「辞任カード」を使うことでした。もし東郷外相が辞任すれば、折角の「開戦決意」は一からやり直しです。

森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』

 東郷は、撤兵が条件に入らなければ外交は不可能であり、戦争すべきでない、と強硬に主張した。

 このとき、東郷は口には出さなかったものの、 案が認められなければ辞職を決意していることは、周囲の人間にも看取されていた。(P144)

 もし東郷の単独辞職となれば、事態の混乱は免れない。このような状況で、筒単に外相の引き受け手が現れるかどうかの保証はない。統帥部は期限を切って突き上げてくるだろう。 東郷が居座れば内閣総辞職の危険性もある。

 そうなったら、窮地に立だされるのは東条首相であり、陸軍である。総辞職となった場合、非戦内閣ができる可能性すらある。(P145)


 結局軍部側の選択は、「南仏印撤兵」に関しては「妥協」でした。

「石井大佐回想録補正」

 乙案をめぐって杉山、塚田両将軍と東郷外相とが正面衝突し、外相が辞職を仄かすまでになり、武藤局長の提案で休憩となる。

 別室で東條、杉山、塚田、鈴木、武藤の五人が集まり協議。東條首相は訴えるが如く参謀本部側を説くが、なかなか容れられない。

 たまりかねた武藤局長は杉山長老を廊下に誘い出して、次のように言った。

「責任の外務大臣が、これで外交をやってみたいというのを押えることはいかがでしょう。もし今晩、話がまとまらなければ政変ですよ。 そうなれば又、いろはからやり直しになりましょう。この際は我慢なされてはどうでしょう」と。

 かくてお人好しの杉山総長はとうとう折れた。

(戦史叢書『大東亜戦争開戦経緯』<5>P247)



『杉山メモ』(上)

 休憩間杉山、東郷(「ゆう」注 「東條」の誤り)、塚田、武藤別室に於て協議す

支那を条件に加へたる以上は乙案による外交は成立せずと判断せらる  南仏よりの移駐を拒否すれば外相の辞職即政変も考へざるべからず 若し然る場合次期内閣の性格は非戦の公算多かるべく又開戦決意迄に時日を要すべし 此際政変並時日遅延を緩さざるものあり」(P377)



 「援蒋停止条項」を加えた以上、乙案に成立の見込みはあるまい。それよりも、話がこじれて東郷外相に辞任されたら大変だ。 であれば、「南部仏印からの撤兵」についてはとりあえず東郷外相の言い分を聞いて妥協しておこう

 これでどうやら軍部側の意向はまとまりました。こうして成立したのが、「乙案」です。

乙 案

(一)日米両国は孰れも仏印以外の南東亜細亜及南太平洋地域に武力的進出を行はざることを約すべし

(二)日米両国政府は蘭領印度に於て其の必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力すべし

(三)日米両国政府は相互に通商関係を資金凍結前の状態に復帰せしむべし
   米国は所要の石油の対日供給を約すべし

(四)米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出でざるべし

(備考)

(一)必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は仏国政府の諒解を得て北部仏印に移駐するの用意ある こと竝支那事変解決するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立の上は前記日本軍隊を仏印より撤退すべきことを約束して差支無し

(二)尚必要に応じては従来の提案(最後案)中にありたる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する規定を追加挿入するものとす


(『杉山メモ』上P419)

※この時東郷外相が「辞任」の道を選んでいたら、日本は開戦できなくなったのではないか、という議論があります(五百旗頭真『日本の近代6 戦争・占領・講和』など)。 確かに、内閣が倒壊して、もう一度「開戦決意」をやり直さなければならない事態になったら、十二月の開戦は不可能になったかもしれません。 その場合、やがてはドイツの対ソ戦敗勢がはっきりしてきますので、日本が戦機を失う可能性も大いにあったものと考えられます。




 この(四)「援蒋停止条項」挿入は、この後の交渉に大きな影を落とすことになります。森山氏、大杉氏の評価はほぼ共通します。

森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』

 乙案最大のネックは、援蒋停止条項だった。これはそもそも陸軍が交渉を失敗に追い込むために盛り込んだものだった。これは譲歩の中に強硬な要求を混ぜ込むようなものである。

 先述したように、ハルは陸軍の意図に正しく反応した。この条項がある限り、乙案といえども交渉成立は不可能だった。(P189)



大杉一雄『真珠湾への道』

 ・・・軍部の援蒋中止の要求があまりに強いので、やむなく4項として追加したのである。軍部が4項を無理に挿入させたのは、米国をして乙案を拒否させることを狙っていたようでもあり、 事実ハルは乙案を提示されたとき、この点に難色を示し交渉上大きなネックとなる。(P405)




 東郷外相の当初案は、単なる「7月以前への現状復帰」でした。しかし軍部側に押し切られて、「援蒋停止条項」という、米側が間違いなく反発を示すであろう項目が挿入されてしまいました。 しかも交渉は、「十一月三十日まで」という期限付きです

 これで日本の開戦への道は、ほぼ固まった、と言っていいでしょう。以下、賀屋蔵相、「戦史叢書」、大杉一雄のコメントを並べます。


賀屋興宣『戦時の財政』

 ところが突然、十一月一日になって参謀本部と軍令部が即時開戦論を提議してきた。これにはさすがの東条氏もすぐ反対しました。これは内閣側五人全部が反対です。

 すると両統帥部は引き続き、十一月末までに日米交渉がうまくいかなければ開戦をしてもらいたい、また準備命令は即日出したい、こういう提案をしてきました。

 この提案は交渉成立の見込みが立てば、即時作戦行動は終止するという条件つきでしたが、 当時の状況では日米交渉がうまくゆくということははなはだ困難でしたから、事実上は開戦を九九パーセント決定することになる、実に重大な提案でありました。(P143-P144)

(朝日文庫『語りつぐ昭和史2』所収)


戦史叢書『ハワイ作戦』より

 この国策は条件付きとはいえ事実上の開戦決意であって、 従来の日米交渉の経緯を知るものにとっては、来栖大使の派遣もこの危局を打開することはほとんど期待できず、もはや十二月初頭の開戦はまず不可避のものと認められたもので、 両統帥部は最後の外交交渉に一抹の望みを託しながらも、両者は緊密な連絡を保ちつつ開戦準備の完整に遣漏のないように措置した。(P212)



大杉一雄『真珠湾への道』

 いずれにせよ十一月中に交渉を成立させなければ開戦する、という決定に賛成したことは、米国が妥協してこない限り、戦争ということであり、 事実上、日本の運命はこのとき決まったといってもよい。(P409)





 しかし東郷外相は、交渉の困難さを見越しながら、わずかな外交交渉成功の可能性に望みをかけようとします。

『太平洋戦争への道 7 日米開戦』より

(「ゆう」注 11月5日御前会議の席にての東郷発言。「注」によれば出典は「戦史室史料」)

乙案についても話はつきかねると思う

 例えば仏印の撤兵のことである、また第四条の支那問題についても、米は従来承知せぬので承諾しないのではないかと思う、また備考の二(通商無差別待遇)についても米側は日本の履行を求めているわけなる故、 なかなか承諾せぬと思う、

 ただ日本の言い分が無理とは思わぬ、米が太平洋の平和を望むならば、また日本に決意あることが反映すれば、米も更に考うる所あるべしと思う。

 ただ米にたいし日本より武力を強圧するということになるから、反撥することにならんとも限らぬ。また時間の関係は短い・・・従って交渉しても成功を期待することは少ない、 遺憾ながら交渉の成立は望み薄い、一割以上の見込みは立ち難い」(P320)



 現地の野村大使らに命じての必死の対米交渉ぶりについて、次項で見ていくことにしましょう。

(2013.1.12)
HOME 次へ