日米開戦 5 |
「日米開戦」まで1ヵ月(1) 11月1日「大本営政府連絡会議」 |
なぜ日本は、無謀ともいえる「日米戦争」を始めてしまったのか。 まず、よくある「誤解」を見ます。 ネットの世界などでは、「ハル・ノート」の無茶な要求によって日本は「戦争」に追い込まれた、すなわち「ハル・ノート」こそが日米戦争の原因である、 というイメージが広がっているように思います。 その「元凶」は、パル判決の中の次の有名な一節でしょう。
しかし実際には、日本は別に「ハル・ノート」に直面して初めて「戦争」を考えたわけではありませんでした。1941年11月1日午前9時から2日午前1時にかけて行われた「大本営政府連絡会議」の決定を見ます。
つまり日本は、「ハル・ノート」以前に、「十二月一日午前零時までに対米交渉が成功しなければ米英蘭戦争に突入する」という決断をしていたわけです。 実際問題として期限通りに外交交渉を決着させることは極めて困難な情勢でしたので、これは「事実上の戦争決意」と言ってよいでしょう。 例え「ハル・ノート」がなくとも、「外交交渉」が期限切れとなればそのまま「戦争」に突入した可能性が高いものと考えられます。 さらに言えば、ネットの世界ではほとんど触れられることはありませんが、「開戦派」であった参謀本部にとって「ハル・ノート」はむしろ「天佑」と受け止められていた ことを付け加えておきます。 ※連合艦隊が真珠湾攻撃に出発したのは、「ハル・ノート」提示の前日、11月26日のことでした。交渉が成立すれば引き返す、との条件付きではありましたが、軍部がその「交渉成立条件」に同意しない限り「引き返す」ことはありえません。 以下で見る通り、軍部が納得する形での「妥結」の可能性は極めて低いものであったと見られます。 以下、11月1日「連絡会議」から11月27日「ハル・ノート」提示に至る道筋を見ていきます。 ※日米交渉では、「三国同盟」「中国からの撤兵」「中国の門戸開放」など、多岐にわたるテーマが話し合われました。 ただし以下のコンテンツでは、煩雑を避けるために、「日米交渉」の複雑な枝葉を切り落としてあえて単純化していることをお断りしておきます。 例えばこれらの点についての日本側の最終提案が「甲案」ですが、本スペースでは「甲案」をめぐる動きはほとんど省略し、「暫定協定案」である「乙案」のみを取り上げています。 「日米交渉」の詳細を知りたい方には、大杉一雄『真珠湾への道』、 森山優『日本はなぜ開戦に踏み切ったか』を推薦します。
「連絡会議」の話題に入る前に、その背景を簡単に説明します。 日米対立のきっかけは、1941年7月の、日本軍の南仏印(南ベトナム)進駐でした。 日本にしてみれば、フランスの対独降伏によって「空白地帯」となったフランス領南仏印を、英国などに押さえられる前に先手を打って押さえておけ、程度の軽い気持ちであった、と伝えられます。 しかしアメリカはこれを、日本が蘭印(インドネシア)を目指して本格的な南進のステップを踏み出したものと判断し、強く反発しました。 そして「石油の対日全面禁輸」という強硬措置に出ることになります。 石油がなければ、いずれ艦隊も航空機も動かなくなります。日本としては、何とかしてこの状況を打破する必要に迫られました。 手段としては、二つあります。一つは外交交渉により「禁輸」を解いてもらう道。もう一つは、自ら南方の資源地帯に打って出て資源を確保する、という道です。 しかし外交交渉は思い切り難航します。アメリカ側は「日本軍の中国からの撤兵」を求めますが、日本側は軍部が「撤兵」に強硬に反対する。10月段階では、お互い「原則」を譲らないままの、膠着状態でした。 こんな中、東郷外相ら「非戦派」は、なお「外交交渉」による打開の道を求めます。その一方、参謀本部を中心とする「開戦派」は、アメリカに対する「即時開戦」を主張します。 「開戦派」の主張については、東條首相による「開戦決意」の理由説明がわかりやすいので、ここに紹介します。 (念のためですが、東條首相自身は、後述するように「外交交渉=開戦準備二本建て派」でした)
このままでは「戦争」は不可能になり、日本は自滅して「昔の小日本」に戻るしかなくなる。それを打開するには今「戦争」するしかない。 結果としては「敗戦」により日本は「昔の小日本」に戻ってしまったわけですが、ともかくもこれが、参謀本部を中心とする「開戦派」の主張でした。
この両派の対立の中、東條首相は、「戦争しない」「直ちに開戦を決意する」「外交交渉と戦争準備を並行して進める」という3つの案を用意します。
「二つの極論(第一案、第二案)と中間案(第三案)」(五百旗頭真『日本の近代6 戦争・占領・講和』P109)という構成です。 この組立てに明らかな通り、東條首相自身の本音は「中間案(第三案)」に会議を誘導することにありました。 この3つの案を巡って、十一月一日、「連絡会議」が行われることになります。 この席で、「開戦派」(第二案)の永野参謀総長・塚田参謀次長らと、「非戦派」(第一案)の東郷外相・賀屋蔵相との間で、大激論が展開されます。
※連絡会議の進行を詳細に記した「杉山メモ」十一月一日の項全文を、 こちらに掲載しました。 そうした中、海軍は突然「外交期限」を「十一月二十日」とする発言を行いました。事実上「第三案」(外交交渉・戦争準備並行案)を容認するものです。
塚田参謀次長もそれに引きずられて、思わず「十一月十三日」までは外交をしてもよい、と発言してしまいました。この背景には、参謀本部の次のようなスケジュール感があったものと思われます。
かくして議論は、東條首相の思惑通り、中間の第三案に収斂していきます。 しかしその「条件」は、あまりに過酷なものです。 外交交渉はあと2週間しか継続を許さない。これには、さすがに東郷外相は抵抗します。
『杉山メモ』には、塚田次長が嶋田海相を怒鳴りつける場面も登場します。当時の軍部の雰囲気が伺えます。
結局「交渉期限」については、軍部側がやや歩み寄る形で決着しました。
かくして、会議の結論は「第三案、外交交渉期限十一月三十日」ということになりました。
軍部側の厳しい「交渉期限」突き付けに対し、東郷外相は、何とか「十一月三十日」まで期限を引き延ばすことに成功しました。 しかしいずれにせよ東郷外相は、一ヵ月以内にこの難交渉をまとめあげなければならない、という重い課題を背負うことになりました。 できなければ、即ち「開戦」ということになります。
続いて、具体的な交渉条件に議題が移ります。 会議ではまず、(少なくとも日本側の主観では)「米国の意向に最も近い最大限度の譲歩案」 (東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』P309)である「甲案」をめぐる議論が行われました。 煩雑になりますのでここでは詳細は省略し、森山氏による「まとめ」だけを紹介します。
森山氏の文に見る通り、甲案は当初から成立困難なものであると見られていました。このまま会議が終われば、 「開戦派」の狙い通り、「日米交渉不調、開戦」への道はほぼ確定的なものになってしまいかねません。 しかし東郷外相は、最後の切り札を用意していました。会議もほとんど終わりに近づいた午後十一時、東郷外相は、突然、場の誰もが予期しなかった新たな提案を行いました。
おおまかにいえば、「日本軍の南部仏印撤退」と「禁輸措置解除」のバーターです。 そもそも、日本の南仏印進駐がアメリカの石油全面禁輸の「原因」となった、という経緯があります。そこから派生して「日米交渉」は著しく複雑化したわけですが、ややこしい問題はすべて棚上げにし、とりあえずはそもそもの「原因」を取り除いて「禁輸措置」を解いてもらおう、というわけです。 既に見てきた通り、参謀本部の本音は「即時開戦」にありました。「甲案」ならばほぼ成立不可能、予定通り十二月初頭の開戦ができる。 しかし「乙案」のような「問題棚上げ=暫定協定案」であれば、あっさり成立してしまう可能性がある。 そこで参謀本部は、猛反発します。参謀本部は、「南仏印からの撤兵」「中国問題の棚上げ」という、提案の中核をなす2点に攻撃を集中します。
まず参謀本部側は、「中国問題」について「条件吊り上げ」に成功します。
東郷外相の原案に「支那事件解決を妨害せず」という項目が加わりました。 即ち、アメリカの蒋介石援助の停止を求めるものです(いわゆる「援蒋停止条項」)。 ※「ゆう」注 文言は「支那事変解決を妨害せず」と抽象的でしたが、これが「援蒋行為の停止を求めるもの」であることは当事者の共通了解でした。 東郷外相は野村大使に「(乙案の)四、は米国の援蒋行為停止をも意味するものと御含み置あり度し」(十一月二十日東郷大臣発野村大使宛電報第八〇〇号)と明確な指示を出していますし、 現実に交渉は日米双方ともこの理解を当然のものとして進められています。 単純に「7月以前に時計の針を戻そう」ということであれば、交渉としては大変わかりやすいものです。しかし軍部は、ついでに「蒋介石援助をやめよ」という強硬な条件を加えてしまいました。 陸軍は、「ワシントンへの最終的提案である「乙案」に、決定的な点で修正を加えるように主張して成功した」 (バーンハート『日本陸軍の新秩序構想と開戦決定』P42=波多野澄雄他編『太平洋戦争』所収)わけです。 後で見る通り、この条項は交渉成立への大きなネックとなります。 以降会議は、もうひとつの争点、「南部仏印撤兵問題」を巡って紛糾します。
東郷外相は、杉山らの強硬論に対して、必死の反駁を試みます。
「援蒋停止条項」を加えた上に「南部仏印」からの撤退もしないのでは交渉にならない。これでは駄目だ。 確かに、ただでさえ頑なな米側に、何の譲歩もなく一方的に「禁輸解除」を求めるのでは、交渉のしようがありません。東郷外相の必死の抵抗により、会議は大激論となります。
議論が平行線を辿る中、いったん休憩とし、軍部側は別室で協議します。 さてそんな中、「参謀本部」側が恐れたのは、東郷外相が「辞任カード」を使うことでした。もし東郷外相が辞任すれば、折角の「開戦決意」は一からやり直しです。
結局軍部側の選択は、「南仏印撤兵」に関しては「妥協」でした。
「援蒋停止条項」を加えた以上、乙案に成立の見込みはあるまい。それよりも、話がこじれて東郷外相に辞任されたら大変だ。 であれば、「南部仏印からの撤兵」についてはとりあえず東郷外相の言い分を聞いて妥協しておこう。 これでどうやら軍部側の意向はまとまりました。こうして成立したのが、「乙案」です。
この(四)「援蒋停止条項」挿入は、この後の交渉に大きな影を落とすことになります。森山氏、大杉氏の評価はほぼ共通します。
東郷外相の当初案は、単なる「7月以前への現状復帰」でした。しかし軍部側に押し切られて、「援蒋停止条項」という、米側が間違いなく反発を示すであろう項目が挿入されてしまいました。 しかも交渉は、「十一月三十日まで」という期限付きです。 これで日本の開戦への道は、ほぼ固まった、と言っていいでしょう。以下、賀屋蔵相、「戦史叢書」、大杉一雄のコメントを並べます。
しかし東郷外相は、交渉の困難さを見越しながら、わずかな外交交渉成功の可能性に望みをかけようとします。
現地の野村大使らに命じての必死の対米交渉ぶりについて、次項で見ていくことにしましょう。 |