731部隊(10)   終戦時、「マルタ」の「処分」


 終戦時、731部隊が平房から引き揚げるに当たって、それまで生き残っていた「マルタ」は、証拠隠滅のため全員殺害されました。「731」の数多い残虐行為の中でこの件が問題にされることは少ないのですが、「殺害」という結果自体は同じであり、「戦争犯罪」のいう点では同列に扱われるべきものでしょう。

 併せて、「物的証拠」を残さないために、731部隊の主要建物、そして多くの資料も、この時に破壊・焼却されました。以下、その実態を見ていきたいと思います。



 「証拠隠滅」の指示


 「証拠隠滅」の指示を出したのは、大本営の朝枝繁春参謀です。朝枝は、ソ連の侵攻を知って、あわてて平房の731部隊に飛びます。
※余談ですが、朝枝は、「シンガポール華僑虐殺」の命令者の一人として知られます。


共同通信社社会部編『沈黙のファイル』

 靖福和の一家を絶望のどん底にたたき込んだ七三一部隊。その撤収命令を出したのは大本営の対ソ作戦担当参謀、朝枝繁春だった。

あの時は決死の覚悟だった。ソ連に七三一部隊の人体実験の証拠を握られると、まかり間違えば天皇陛下まで責任を問われかねない。それだけは絶対阻止しようと満州に飛んだ

 八十三歳になった朝枝が、川崎市の自宅で五十年前の出来事を振り返った。切れ長の鋭い目付き。顔を紅潮させ、野太い声でまくしたてる。

 一九四五年八月九日未明。ソ連軍は満州北東のアムール川や、西のモンゴル平原の国境線を破り、進攻した。関東軍国境守備隊との激しい戦闘が始まった。

僕が関東軍から『ソ連と交戦状態に入った』と直通電話で連絡を受けたのは午前四時だった。すぐ大本営の対ソ作戦命令を書き上げ、十一時には関東軍総司令部やソウルの司令部に電報を打ち終わった

 その直後の午前十一時二分、長崎に原爆が投下された。翌十日未明、御前会議で国体護持を条件にポツダム首言受諾が決定した。朝枝は混乱する参謀本部を後に、東京・立川の飛行場から軍用機に乗り込んだ。(P136)

 十日正午すぎ、偵察機や連絡機が慌ただしく離着陸する満州の首都・新京の飛行場に着くと、一八〇センチを超す長身の男が滑走路で待っていた。太い八の字の口ひげ。金地に二つ星の襟章。七三一部隊の創設者の軍医中将、石井四郎だった。

 朝枝はつかつかと石井に歩み寄り、声を張り上げた。

「朝枝中佐は参謀総長に代わって指示いたします」

 石井は背筋をぴんと伸ばし、直立不動の姿勢を取った。

貴部隊の今後の措置について申し上げます。地球上から永遠に、貴部隊の一切の証拠を根こそぎ隠滅してください

 石井は母校京大などから優秀な医学者を集め、ハルビン郊外の平房に世界最大規模の細菌兵器開発基地をつくり上げていた。

 朝枝が「細菌学の博士は何人ですか」と聞くと、石井は「五十三人」と答えた。朝枝は「五十三人は貴部隊の飛行機で日本に逃がし、一般部隊員は列車で引き揚げさせてください」と指示した。

「分かった。すぐ取りかかるから安心してくれたまえ」

 石井は自分の飛行機へ数歩、歩いて立ち止まり、思い直したように引き返してきた。

ところで朝枝君、貴重な研究成果の学術資料もすべて隠滅するのかね

 朝枝は、思わず声を荒らげた。(P137)

何をおっしゃいますか、閣下。根こそぎ焼き捨ててください」(P138)
 

 朝枝は、同様の証言を、自らの手記を含め、いくつかのインタビューに残しています。どの証言でも、「石井が「資料隠滅」に抵抗を示したが、朝枝はそれを叱りつけた」というエピソードが共通して登場します。
※結果として、石井は、朝枝の指示には完全には従わず、一部の資料を日本に持ち帰ったようです。この資料が、米軍との「戦犯免責」取引に当たり貴重な「交渉材料」となったのは、また後日の話です。


 なお、ここではぼかされていますが、言うまでもなく、「根こそぎ隠滅」すべき「一切の証拠」の中には、生き残った「マルタ」たちも含まれます。生かした結果、戦後に不利な証言が行われることを恐れたのでしょう。
※ドイツの「アウシュビッツ」では、戦後、数多い「生き残り」の証言により、その実態が世界に知られることになりました。一方「731」の実態解明は、1980年代の研究進捗を待たなければなりませんでした。「アウシュビッツ」と同様に「マルタ」が生き残っていれば、「731」の実態解明がより速やかに行われたことは確実でしょう。


 朝枝は「細菌戦裁判」で陳述書を提出しており、そこには「人体実験用捕虜の焼却処分」の文字が明確に含まれていたようです。(私自身はこの「陳述書」自体は未確認ですので、資料をお持ちの方、お示しいただけると大変助かります)

一瀬敬一郎『細菌戦裁判と松村証言』 

 元大本営参謀の朝枝繁春氏は、細菌戦裁判で陳述書を提出し、一九四五年八月十日、石井四郎に対し、七三一部隊の施設を含む一切の証拠物件の隠滅、人体実験用捕虜の焼却処分などを直接指示した旨供述した (死亡により証言できず)。(P340)

(『裁判と歴史学』所収)  




 「マルタ」の処分


 この「命令」に基づき、「マルタの処分」が行われました。その証言は数多いのですが、まずは、「反"悪魔の飽食"派」からも高く評価される、郡司陽子氏の本から紹介しましょう。


郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

第二部五課(攻撃・実戦担当)K・Sの証言

 八月十日朝、わたしは五課課長に呼ばれた。課長のところへ行くと、「直ちに七棟・八棟へ行って『丸太』処理にあたるように」と命令された。

 われわれ五課からも何人かが「丸太」処理に出た。七棟・八棟に着くと、すでに他の班からの隊員たちが集まっていた。その数は、総勢四〇人ほどではなかったかと思う。指揮は細谷(石井)剛男特別班班長がとっていたのではなかったかと思うが、いまとなっては、判然としない。(P114-P115)

 「丸太」の処分が始まった。われわれは、用意された三尺から四尺のロープを持って、「丸太」の監房へ行った。そして、中国人の「丸太」に向かって「メィファーズだ」といよいよ最後の時であることを伝えた。このロープで、それぞれに首を縊って自分で死んでくれと頼んだ。

 もはや逃がれるすべはないと観念したのであろうか。中国人「丸太」たちは、ほんとうに素直で従順であった。黙ってロープを受けとると、扉の窓の鉄枠にロープをかけて、次々と自分で首を縊って死んでいった。

 それは、いままで見ていた「丸太」の死に様とは、明らかに違っていた。いままでは、「丸太」は実験の材料であり、その結果としての死、いわば、物としての終わりであった。しかしながら、いま「丸太」は自分の手で自分の命を断っていた。絶望のなかで、わずかにつかみ得た「自由意志」であった。

 中国人「丸太」の八割ほどは、こうして自ら命を断っていった。だが、残りの「丸太」は、こうした死に方を拒否した。とりわけ、白系ロシア人の「丸太」は、激しい抵抗をみせた。(P115)

 もはや一刻も時間的余裕はなかった。毒ガスの専門家が呼ばれた。われわれが俗に「チビ」(「ゆう」注 シアン化水素)という毒ガスが、「丸太」棟にかけられた
※「ゆう」注 以下に見る通り、毒ガスの「種類」については、隊員ごとに認識がバラバラだったようです。ただし「マルタ」の処分に毒ガスが使われた、という点は一致しています。

 監獄のなかの、残った「丸太」たちは、バタバタと倒れていった。それでもなお死にきれないで、監房を出て、廊下に出て暴れるロシア人「丸太」がいた。彼らの生への執念は恐るべきものであった。

 死にきれないで暴れる「丸太」は、隊員がパーン、バーンと小銃で射殺した。やがてあたりが静まった。すべての「丸太」が処分されたのであった。(P116)


  石井四郎の運転手を務めていた越定男も、同様の証言を残しています。


越定男『日の丸は紅い泪に』

証拠隠滅=殺しつくし、焼きつくす

 撤収作業で緊急を要したのは、マルタの処置であった。

 ロ号七、八棟に、青酸ガスを噴出させて、かなりのマルタを殺した、また、私たちが直接手を下さないで確実に殺す方法をあみだした。つまり、マルタ二人を互いに向かい合わせ、首にロープをまき、その中央に棒をさし込んで、二人がねじるのである。

 もちろん、私たちはかたわらで銃をかまえている。二、三分で二人とも自らの首を自らの手でしめ上げていった。この方法で私たちは多数のマルタを殺した。また、その他いろいろな方法で、マルタを整理したのである。

 私たちは、マルタを殺す前、マルタ自身に溝を掘らせてから処置することも忘れなかった。そんな時、彼らは足枷を引きずりながら、生気のないドロンとした眼で、シャベルや鍬をにぎっていた。きっと、その溝が何のためのものかわかっていたのだろう。(P154)



 郡司本の証言と比較すると、細部にはやや異動も見られますが、殺害に「ロープ」と「ガス」を使用した、という点は共通します。

 「少年隊」出身で、のち第二部田中英雄班に配属された小笠原明氏も、「毒ガスによる殺害」を証言しています。

小笠原明『エントツから出る黒い煙』

撤退

 昭和二〇年(一九四五年)八月九日、ソ連軍の飛行機がばらまいた照明弾で、夜なのに昼以上にあたりが明るくなりました。部隊はすぐに撤退するから一木一草残さず証拠湮滅して逃げよということになりました。

 当時収容されておりました"マルタ"は全員、毒ガスでもって殺してしまったんです。先輩の草薙さんが言っておられますが、あのガスは青酸ガスではなく塩素系のガスだということです。先輩は運び出されてきた死体の顔を見て、青酸ガスではない、青酸ガスならかならずけいれん症状が起きて引きつった顔の死に方になっているんだ、ということからそう思ったらしいのです。(P85)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)



 この時犠牲となった「マルタ」の数は何名か。証言として残っているのは、溝渕俊美伍長が同僚から聞いたという、「四〇四」名という数字です。溝渕は、太田昌克、西里扶甬子両名のインタビューに応え、ほぼ同一の証言を行っています。


太田昌克『731免責の系譜』


 破壊作業の開始から丸三日が経過した一二日昼ごろ、溝渕伍長は同じ林口支部出身で顔なじみの伍長がやつれた表情でロ号棟から出てくるのを確認した。「マルタ四〇四本の焼却処置が終了しました」。この伍長は総指揮官の大田大佐に業務報告を行った。(P34-P35)

 ゲッソリと痩せ目がくぼんだ伍長は報告後、近くにいた溝渕にこう話しかけた。「おい、えらいことだ」。彼が言うには、ロ号棟に入った時点ですでに大半のマルタは息絶えていた。そして三日間、ひたすら遺体を焼き続けたという。


 彼はマスクをせずに素面で入っていったから、青酸ガスではないだろう。メタンガスの放射だと思う。


 マルタの殺傷方法を類推しながら、溝渕は当時をこう振り返る。

 部隊幹部の間で最大の懸案事項だったマルタの処理。現場を預かる大田大佐は部隊員の労をこうねぎらったという。「ほぼ処理の目的が達成された。これで天皇は縛り首にならずにすむ。ありがとう」(P35)



西里扶甬子『生物戦部隊731』

 七三一部隊の建物の徹底的破壊と証拠隠滅作戦は、太田澄軍医大佐が直接の指揮の下、八月九日から一四日まで続いた。(P54-P55)

 証拠隠滅作業のなかで、何よりもまず先に片づけたのは、呂号棟の「マルタ」だった。現役兵として警備隊分隊長の任務についていた溝淵俊美伍長は、警備隊指揮斑長を命じられ、本部本館の玄関ポーチに陣どった。

 ゲッソリとしたようすで三日ぶりに呂号棟から出てきた高松出身の西山整爾伍長は、同年兵の溝淵に皆殺しにあった「マルタ」について詳しく語っている。

 人数は四〇四人で、西洋人の女性が一人いて、子どもはいなかった。男はイギリス人が一人、ロシア人が三、四人、あとはすべて「中国人」と「朝鮮人」だった。(P55)
※連合国軍捕虜が「731」に送られた事実は確認されませんので、この「イギリス人」は誤認である可能性が高い思われます。




 なお、「機密保持」のために犠牲になったのは、「マルタ」ばかりではなかったようです。伝聞ではありますが、「マルタ」以外の外国人の雇人、また部隊員のうち「撤退」への同行が困難であった長期入院患者も、やはり殺されてしまった、という証言が残っています。


赤間まさ子(「ゆう」注 証言内容が全体として同一であることから、「高名トミ」と同一人物であると推定される)『七三一部隊の看護婦だった』

引き揚げ

 部隊を破壊する命令が出されたとき、夫がいた憲兵室にも日本人以外の通訳を殺せという命令があったそうです。後になって夫から聞いたのですが、夫はそれまで信頼して仕事をいっしょにしてきたロシア人の通訳を、同僚にピストルで殺させたそうです。

 そのロシア人の腕時計を形見にしようと持ち帰ろうとしたけれども、さすがに気持ちがとがめて日本に帰る途中、船から海に投げ捨ててしまったそうです。(P140)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)



高名トミ『「悪魔の飽食」看護婦の証言』 

 七三一撤収の際、大問題となったのは、長期保菌者の存在でした。長期保菌者とは、七三一在任中におこなった細菌実験の過程で感染し、一般隊員から隔離・入院させられた隊員患者のことです。

 治療を尽したが体内に巣食った病菌を根絶することは出来なかった。といって部隊勤務に戻しては、他の一般隊員が感染する危険がある。そんな長期保菌者が、約四十名、本部診療所と南棟に入院していました

 七三一部隊上層部は、部隊撤収に当たって戦争犯罪秘匿の見地から、

 「長期保菌者はこれを処置すべし

 と判断したのです。ソ満国境を越え、怒涛のように進撃してくるソ連軍の手に、多数の七三一隊員の身柄が移れば、秘密が露見してしまいます。

 「これを飲んでぐっすり眠るように……」

 七三一の医者が、長期保菌者に声を掛けながら、青酸加里の錠剤を配って歩いた ― という話を、私は釜山からの引揚船の中で聞きました。本部付憲兵をしている夫と再会できるかどうか、配偶者の安否を確かめることもできないほど、大混乱の中での撤退でした。(P280-P281)

(『婦人公論』1982年11月号掲載)




 死体を焼き、骨を河に流す


 これで「殺害」は完了しましたが、「証拠隠滅」を完璧にするために、今度は「死体処理」の問題が生じます。

 とりあえず死体は建物の外に運び出され、焼却されることになります。隊員たちの証言は、ほぼ共通しています。


篠原鶴男『七三一部隊破壊と証拠湮滅作業』


 明けて一〇日、七・八棟の二階の一二号室に、私は他の二人といっしょに入っていきました。今までは、絶対に入れない場所へ入ったのです。廊下には三名ほどの"マルタ"の死体が転がっておりましたが、もうほとんどの"マルタ"の死体はロ号棟の外に運び出されておりました。

 外には穴が掘られており、穴の中に薪と"マルタ"が交互に積み上げられ、あとは火をつけるだけになっていました
。(P93)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

第二部五課(攻撃・実戦担当)K・Sの証言

 ところが、ほんとうの意味での処理は、それからであった。

 七棟と八棟の近くに、それぞれ大きな穴が一つずつ掘られていた。この穴に、直径一五センチぐらいの丸い鉄棒が何本も平行にわたされた。ちょうど、巨大なバーベキューの網のようである。

 わたしたちは、二人一組になって各監房から「丸太」の死体を中庭に運び出した。運び出した「丸太」の死体は、鉄棒の上に並らべられた。そのうえに、たしか重油だったと思うが、燃料がぶちまけられた。火が放たれた。瞬間、赤い焔とともにもうもうたる黒煙があがった。

 「丸太」はこうして、次から次へと、鉄棒の金網の上で焼かれていった。全部で二〇〇体くらいはあったのではないか。(P116-P118)
※「ゆう」注 実際には、前述の溝渕証言によれば、この時処分された「マルタ」の数は404名であった、と伝えられます。
 鉄棒のうえで、火にまかれた「丸太」の死体は、まるで生きているかのように蠢めいていた。ジュージューと、脂肪の溶ける音がする。

 あたりには、目もあけられない、息もつけないほどの黒煙がたちこめた。マスクもしないわれわれに、形容のしようもない異臭が襲ってきた。この臭いばかりは、いまにいたるも、適切にそれを表わす言葉を見つけることができない。黒煙と異臭は遠く外部にいる隊員や家族にも、みとめられた。

 とにかく、すごい、ものすごい臭気であった。ふとあたりを見回すと、千葉出身の見知った顔があったが、不思議なことに七棟・八棟勤務の特別班員の顔はみえない。彼らの大半は、「丸太」の処理からは、はずされたのだろうか。

 この「丸太」の処理は、七三一部隊の証拠湮滅のなかでも、とくに完壁になされねばならなかった。「丸太」が存在していたという証拠は、跡かたもなく消滅させねばならなかったのである。(P118)



大竹康二『満蒙開拓青少年義勇軍から七三一部隊へ』

教育部

  ある朝、ソ連参戦後の八月九日か一〇日だったか、作戦命令が出て初めてロ号棟に入りました。

 入った時には中庭にたて長の穴が掘ってあって、その中に薪が積んでありました。穴の上には鉄の棒がかけてありました。穴の深さは一メートル二、三〇センチあったかな。ストープをたく時のロストル〔かまどの火の下にしく火床〕のかわりだよね、鉄の棒が二〇センチ間隔に置いてありました。薪はその半分の高さぐらいまでたくさん積んでありました。

 七棟だったか、八棟だったか、二階にあがって部屋に入りました。一つ一つの部屋に死体がありました。一体だったか二体だったか。大人の男ばかり。それを二人で、はじっこにあった浴槽まで運んでドボンとつける。浴槽の中には消毒液が入っていたと思います。それからまたそれをひっぱ出して、二階の窓から中庭に落としました。窓から中庭まではトタンみたいな金物のシュート〔荷などを上から下へすべりおとすための樋〕がつけられていました。それを使って下にビューと落とすのです。シュートの長さは一〇メートルぐらいだったかな。(P113-P114)

 死体を鉄の棒にのせ、いっぱいになってから油かけて火をつける。でも火をつける時わしはもうそこにいなかったです。ロ号棟を出てから煙は見ました。兵舎の方からも見えました。あとから聞いた話では、焼けてからふるいにかけて骨だけ川に捨てにいったそうです。風葬という詰も聞きました。(P114)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


小笠原明『エントツから出る黒い煙』

 私が七、八棟に入ったのは八月一〇日くらいだったと思います。"マルタ"、つまり犠牲者の人たちの死体を各部屋から引っばり出して、それを中庭に持って行って、掘られた穴にどんどん積み重ねて焼いていったんです。

 私はちょうど盲腸の手術をしたあとで十分に体が動かせなかったので、運んだ死体は二体か三体だったと思います。とにかくその時は、命令でやったんだから何とも感じはしませんでしたけれど、どうしてこんなに多くの人が焼き殺されなきゃいかんのかな、という気持ちもありました。(P85-P86)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


溝渕俊美『七三一部隊を破壊する』

八月一二日

 昼過ぎに、ロ号棟の内部に入り作業していた者たちが外に出てきた。西山伍長は作業完了の報告をするため、ハルビン本部総指揮所の大田大佐のところへ出かけた。報告を終えた西山伍長の顔はゲッソリ痩せ、目は窪み顔色は悪く、どう見ても病み上がりの病人のようであった。わけを聞くと、「三日間、何も食べてない。飯が喉を通らなかった」という。

 "マルタ"の焼却にあたったのだが、目をむいている者やまだ息をしている者をかまわず二階から投げ落とし、ガソリンをかけて焼いたという

「人間を焼くのは難しいわ。頭と腹はどうしても焼けきれずに残ってしまう。そのうち雨が降ってきたので、よけいに苦労したわ。次から次へと二階から爛泪襯拭蹐鰺遒箸靴討るので、薪を敷いて死体を並べてガソリンをかけ、その上に鉄板を置き、その上にまた薪を敷いて死体を並べガソリンをかけ、というように、三重に積み重ねて焼いたんじゃ。しかし頭と腹はジュージューいうて焼けずに残ってしまう。そんなところで飯なんか食えるか。命令といっても無茶苦茶や……」(P125)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 私はこの取材の旅に出る前、一人の男に会った。彼は秋山浩のペンネームで、七三一部隊の体験記を出版していた。名をかくしているとはいえ、隊員が七三一部隊の実情をその一端にしろ記すことは、当時としては、稀有に近いことだった。

 秋山は少年兵として、終戦前年に七三一部隊に入隊していた。私は彼にテレビ取材を申し込んだが、彼は出演の返事を保留した。しかしその時、七三一部隊本部の脱出の凄惨な模様を話してくれた。


 七三一部隊は、戦争終結という情報を、特別ルートで入手した。そこで隊長石井四郎を初めとして幹部達は、十年以上にわたって行なってきた数々の人体実験の証拠隠滅と自分達の身の保全を考えた。

 そこで実験材料として収容している中国人、ロシア人などの毒殺をはかった。朝食に毒をいれ皆殺しをはかった。しかしそれでも死にきれなかったり、生き残った囚人達を今度は機関銃で射殺した。

 死体は四百人か五百人に及んだ
(「ゆう」注 溝渕証言の「404体」という数字とも整合します)

 次に待っていたのが死体の処理だった。大きな穴を掘ってそこに死体を埋め、石油をかけて燃やし、全部灰にしてしまうということだった

 囚人を全部殺した段階で、秋山などの下級の兵隊が召集された。「急げ!」と死体を一体ずつかつぎ、穴のところまで運んだ。秋山は終わりの頃は時間がないので背負ったりなどして運んだ。

 穴はたくさんあった。そこに次々に投げこみ、石油をかけ火をつけた。途中何度も完全焼死したかどうか掘り起こし、焼けてないと、さらに石油をかけ燃やした

 死体の処理に要した時間は三十時間ぐらい。その後本部をダイナマイトで爆破したのであった。
(P39)

 その光景は地獄そのものだったと秋山は眼を閉じた。
(P40)


※秋山浩は著書『特殊部隊七三一』の中で上の体験を詳しく語っていますが、あまりに長くなりますので、ここでは吉永春子氏によるインタビューを紹介しました。 



 「死体を焼く」作業に続くのが、「骨を細かく砕く」作業です。


郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

第二部五課(攻撃・実戦担当)K・Sの証言

 焼きつくされた「丸太」の骨は、穴の底や鉄棒の上に山積していた。この骨を、ここに放置したり、埋めたりするわけには、絶対にいかなかった。

 どうするのかな、と思っていると、ボイラー室の脇に積まれていた石炭殻が中庭に運びこまれてきた。われわれは、シャベルを手にとって、まだ熱い「丸太」の骨をすくい、これと石炭殻を混ぜ合わせた。足で踏み固めるようにして、骨と石炭殻を砕いて粉々にし、判別できないようにするのである。(P118-P119)

 もう夜になっていた。われわれは、ただ黙々と働いた。石炭殻と混ぜ合わされて、黒っぼい色の粉末状になった「丸太」の骨は、もはや、知らない人間がこれを見ても、識別できないようになった。(P119)



 そしてこの砕かれた骨は、松花江に投棄されました。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

第二部五課(攻撃・実戦担当)K・Sの証言

 われわれは、この粉末を、用意されたカマスに詰めていった。カマスは何袋も何袋も一杯になっていく。別の隊員が、このカマスを担いで中庭を出て行く。外で待っているトラックに積み込むのである。

 数台のトラックに積まれたカマスは、夜陰にまぎれて部隊本部を出て、遠く松花江河畔に達し、そこで河の中に投棄された。「丸太」の痕跡は、完全に消えてしまった。(P119)



越定男『日の丸は紅い泪に』

松花江にすてたマルタ

 マルタの骨は熱くて、すぐ拾えるものではなかった。カマスに骨を入れ終った時は、暗くなりかけていた。私たちは、そのカマスをスンガリ(松花江)に運んで、すてることになった。私たちはタテに縄をかけたカマスをトラックに積み込んだ。カマスは意外に重く、運びあげる時ガサガサ骨のきしむ不気味な昔がした。カチカチ鳴るのは足錠や手錠であった、そのカマスは二百ほどになった。

 どういうわけか運転士は私一人であった。部隊からスンガリまで二十キロの夜道を、人骨一杯のカマスを山と積んで、独り走るのは並大低な仕事ではなかった。スンガリに着くと、バックで車を堤防につけ、河にカマスを投げこむのである。

 堤防には五、六人の隊員が待っていて、一つひとつカマスの口を結んだ縄をはずしてほうり投げる。水流で骨がカマスからとび出し、河底に沈むように、最後まで証拠隠滅には気を使ったのである。(P157)



 トラックの数が「一台」だったのか「数台」だったのかはわかりませんが、「骨が入ったカマスを松花江に捨てた」という点は一致します。 特に越証言は、実際に「骨」を運搬した運転手の証言であり、信頼性が高い、と言えるでしょう。





 建物の破壊


 七三一部隊は、「研究」の痕跡を抹消すべく、建物自体も破壊しようと試みました。ただし建物が頑丈すぎて、「破壊作業」は必ずしも順調には進まなかったようです。


溝渕俊美『七三一部隊を破壊する』

八月一二日

 そのうち作業に当たっていた少年隊も出てきた。彼らは、一般の軍属の残留者といっしょに、午後二時頃に部隊に入ってきた列車に乗って南下するということだった。四時頃になって、その列車は出発していった。

 それを待っていたかのように、部隊の飛行場に配列していた砲兵隊が、ロ号棟の砲撃を開始した。ところが見ていると、どの砲弾も壁に跳ね返されてしまう。しばらくして今度は野砲隊がやってきて砲撃を始めたが、頑丈な作りの建物には歯がたたなかった。そのうち猖人″の群衆はさらに数を増し、部隊の西側は人で埋まって黒く見えるようになってきた。「わぁー、わぁー」と歓声を上げていた。(P125)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


胡桃沢正邦『わたしと七三一部隊』(聞き書き=池田久子)

 そのころ上部で手配したらしく、ほかの部隊から、工兵隊が応援にかけつけました。七棟、八棟のマルタ小屋の爆破や、本部、施設すべての破壊作業です。特設監獄などは、すごいがんじょうで、破壊作業がすすまず、こまった、こまったといっていました。

 わたしら数十名が、いちばん最後までのこりました。現場の破壊状況や、焼却の状態をしらべて、証拠をのこさないように、よくたしかめてから退却したんです。(P27)

(『続・語りつぐ戦争体験4 満州第731部隊』より)


大竹康二『満蒙開拓青少年義勇軍から七三一部隊へ』

教育部

 死体処理のあとは、こんどはコンプレッサーの取りつけの仕事をしました。つまり建物の取り壊しのための作業。これが始まってからは三日か四日全然寝てないと思います。平房を出るまで不眠不休。寝ても立ったままの状態で、前にいる仲間の背負い袋に頭をつけて寝たりもしました。歩くのも何も、もう自分の感覚じゃないよね。夜になるとソ連軍の照明弾で昼間みたいに明るかったです。(P114-P115)

 コンプレッサーでダイナマイトつめる穴を壁にあけようとしましたが、すごい固い壁で、相当やってもあきませんでした。そこで工兵隊が来て二〇〇キロ爆弾を各部屋全部に入れました。信管ひいてやったけど何にもならなかったです。音はすごいけど、建物はほとんど壊れませんでした。結局迫撃砲で砲撃したらしいけど、でもその時わしらは平房を離れていました。(P115)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


 そのため、破壊しきれなかった建物も多かったようです。ネットでは、「破壊されたはずの731部隊関連の建物がなぜか残っている」なる、おかしな「否定論」が流れてくることがありますので、念のため付け加えておきましょう。

高知新聞社『流転 その罪だれが償うか』

証拠隠滅

 七三一部隊は数日間にわたって建物の爆破や資料を焼却したが、混乱のため、かなりいい加減なものだった。敷地内の穴から死体の手足が突き出ていたり、破壊しきれずに残った建物も多い

 幹部は資料を持ち出し、戦後、研究論文などに活用。一方で石井四郎部隊長は撤退時に「秘密を守り通せ。公職につくな。部隊員同士で連絡を取るな。この石井がどこまでも追い掛けるぞ」と部隊員を恫喝した。ベスト菌に感染したノミやネズミが放たれたのが原因で、部隊周辺ではベストが流行。百人以上の死者が出た。(P68)






 資料の湮滅


 「証拠隠滅」の対象となったものは、「マルタ」だけではありません。同時に、部隊に残されているさまざまな文書・写真などの資料も、「隠滅」の対象になりました。石井四郎自身が、恩師の葬儀の場で、次のように発言しています。

石井四郎の発言

 ※次に、石井の唯一と思われる公式の場での発言を載せる。昭和三〇年十二月二十七日清野謙次氏が死去、翌日、清野邸でなされた「御通夜回想座談会」からの収録である。
 (編集代表者天野重安『故清野謙次先生記念論文集 第三輯 随筆・遺稿』P642以下)


 所がここで不意に中立条約を破つてソ聯が出て来た為に、この敗戦の憂き目を蒙りまして、部隊は爆発し、一切の今迄の何十巻にのぼるアルバイトも、感染病理に関する心魂こめて作つた資料も全部焼かざるを得ない、悲運に到着したのであります

(『続・現代史資料(6)軍事警察』(みすず書房)所収  「資料解題」P119)


 写真班は写真類の処分に忙殺されました。

郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

総務部調査課写真班 T・Kの証言

 八月十日。写真班は総出で資料の処分に忙殺された。おびただしい写真、ネガ、乾板類が箱にギッシリつめられている。それをボイラー室まで運んで燃やすのだ

 ことに乾板(主としてスタジオ撮影のために使用された)は、重いうえに、ガラス製なのでなかなか燃えない。自分たちの努力の結晶が消えてしまうという感傷などカケラもなく、ただただ、焼却の肉体的つらさに、泣く思いだった。(P46)



郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』

第二部五課(攻撃・実戦担当)K・Sの証言

 八月八日、ソ連は対日宣戦を布告し、九日午前零時を期して満州になだれこんできた。五課も、部隊の朝鮮方面への転進にあたって、すべての資料・器材を処分することになった。

 あわただしい処理作業が続くなかで、わたしの任務は、第二部関係の写真を焼却することであった。攻撃・実戦担当の第二部に保管されている、種々の記録写真は、絶対に湮滅されねばならなかった。(P114)



 資料としては、部隊内で「七三一部隊史」なるものが作成されていたようです。残っていれば、部隊の実態解明のための貴重な資料になっていたはずですが……。

太田昌克『731免責の系譜』

 この年の三月に林口支部から本部教育部に転属となった溝渕俊美伍長(一九二二年生まれ)は幹部からソ連軍侵攻を知らされた直後、仲間の現役兵や顔見知りの少年隊員がマルタのいるロ号棟へ入っていくのを目撃した。

 部隊長の石井中将は九日の時点で奉天へ出張し不在。戦時下の総指揮は総務部長兼第四部長の大田澄軍医大佐が執ることになった。そして陶器製のウジ型爆弾などの各種細菌爆弾や実験器具が破壊され、書類やレントゲン写真が次々に燃やされ始めた

 溝渕伍長も顕微鏡の処分や、教育部に配布されていた「七三一部隊史」の焼却を行った。部隊史の焼却は教育部長で孫呉支部(満州第六七三部隊)長を兼務した西俊英軍医中佐の厳命だった。溝渕は焼却前に二時間ほどかけて、ガリ版刷りの部隊史を隅から隅まで精読した。そこには中国やノモンハンでの細菌作戦や、マルタを使った人体実験などの重大機密が書かれていたという。(P34)



 溝渕伍長がちらりと触れた「実験器具」の「破壊」については、秋山浩(仮名)も語っています。


秋山浩『特殊部隊七三一』

 私たちは、ごったがえしているその騒ぎをみながら、研究室に入って医療器具、研究材料などを片っばしから集めて燃えるものは燃やし、鉄製の器具などは酸素溶接機を用いて形のわからぬよう溶解した。普通の医学実験には用いない特殊な器具が主体だったところから、こうした処置が必要だったのだろう。

 培養中の生菌や、貯蔵菌は、鉄爐に入れて焼却したあとらしく、焼け残った試験管をさらに粉々にふみつぶしている者もいた。

 各研究室に据えつけてあった約三千台の双眼顕微鏡を集めてまわり、一室に投げこんだら、二十坪ほどの部屋に一ばいになった。私たちではみだりにふれることをゆるされず、極めて慎重に取扱っていた顕微鏡を、かたっばしから投げこむのだから、仕方ない事態なのだとわかっていても、やはり「もったいない」という気がした。(P172-P173)



 人体実験の標本は、地中に埋められたようです。

胡桃沢正邦『わたしと七三一部隊』(聞き書き=池田久子)

おもいきって体験談を

 二十年八月九日になると、退却の命令がでました。しかし、わたしら一部のものは、もう半年もまえに降伏はわかっていましたよ。それで研究、実験のデータ類は、ごっそり日本へおくられていたんじゃないですか。東大、京大、金沢大、新潟大などの医学部の先生がたが、学会で報告したり、大学で講義していたとききます。(P26-P27)

 この八月九日以後の部隊の混乱状態はひどくて、まるで大地震のあとのようでした。まずわたしらの班では、生体実験の証拠となる標本類をすてろというわけで、いくつも穴をほっては、はこびだした首や臓器や手足を、どさりどさりとぶちこんで、うめました

 はじめは焼却炉で焼いていたんですが、生ものでしょう。なかなか焼けません。十日の夜、雨の中をトラックにつんで松花江へもっていってすてたものもあったようです。

 臓器や手足や首はそうして始末したが、標本ビンの始末にはこまりました。ぶちこわしたガラスが、あたり一面にとびちって、足のふみ場もありません。(P27)

(『続・語りつぐ戦争体験4 満州第731部隊』より)

 余談ですが、1989年5月、新宿区の、「731部隊」とも関係の深い「陸軍軍医学校」の跡地から、多数(一〇〇体分以上)の人骨が発見されました。人骨は多様な人種にわったっており、戦前に作られた「人体標本」だった可能性が高い、と見られています。これも、終戦時の「資料隠蔽」だったのかもしれません。


 

(2018.3.18)


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