731部隊(11)  三友一男『細菌戦の罪』
 
−ハバロフスク軍事裁判の実相−


 1949年12月、ソ連のハバロフスク市で、日本軍の「細菌戦部隊」に対する軍事裁判が行われました。いわゆる「ハバロフスク軍事裁判」です。

 被告となったのは、関東軍幹部・第七三一部隊関係者などの12名。法廷では、「人体実験」「細菌戦」といった戦争犯罪行為が取り上げられ、被告全員が懲役1年〜25年の有罪判決を受けました。
 ※裁判の内容は、『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』という本にまとめられ、公表されています。「日本の古本屋」などで、入手は容易です。

 当時においては、裁判が西側マスコミに公開されなかったこともあり、「単なるソ連のプロパガンダ」と見る向きもありました。しかし今日では、研究の進捗により「裁判の内容」が比較的正確であったことが判明し、「今でも基礎資料としての価値を失っていない(秦郁彦『日本の細菌戦』(上))という見方がほぼ定着しています。


 三友一男は、1941年から1944年まで、「細菌戦部隊」のひとつである「第一〇〇部隊」に所属していました。当時「人体実験」に関わっていたことから、裁判の被告の一人となり、15年の有罪判決を受けました。

 三友の回想録『細菌戦の罪』は、この「ハバロフスク裁判」の実相をリアルに伝えるものです。以下、内容を見ていきましょう。



 三友への尋問

 三友は、終戦時には「第一〇〇部隊」を離れており、東満州牡丹江省の石頭(セキトウ)にある、「石頭予備士官学校」に所属していました。

 終戦に伴いソ連軍の捕虜となり、1945年11月には、シベリアの「ホルモリン第五地区」に移送されました。三友は、まさかそれがマークされるきっかけになるとは思わず、自分が「第一〇〇部隊」の出身であることを正直に申告しています。

 1947年2月には、「三〇四収容所」に転属させられます。ここで三友はソ連の「細菌戦部隊」捜査の網にかかり、1948年10月、戦犯容疑者として、ハバロフスク市の「十八分所」に送られました。

 三友は、厳しい訊問を受けることになります。特に深夜にわたる取り調べは、かなりこたえたようです。

三友一男『細菌戦の罪』

 こうして、十一月に入ってから本格的な予審訊問が始まった。毎晩、夕方食事が済むと呼び出され、夜中、時には深夜の二時、三時まで訊問が続けられた。いくら日中寝ていられるからといっても、毎晩深夜まで、緊張した訊問が続けられるのは、想像した以上に身にこたえ、これは一種の拷問のようなものだった。(P173)



 なお取り調べの昼夜逆転ぶり、そしてその「精神的苦痛」については、松村知勝・元関東軍参謀副長の手記とも一致します。

松村知勝『関東軍参謀副長の手記』

 しかし、彼らは、懲罰的な意味で捕虜を監獄に入れることもしばしばあったようだ。取調べに当たるのは内務省軍隊、いわゆるゲ・ペ・ウの将校である。いや味を言うことは、しばしばであった。

 さすがに私たちに対し拷問らしいことはしなかったが、精神的苦痛は大きかった

 収容所の門は閉まっているので、迎えの自動車が来るとベルを押す。その音は私たちの部屋にも響く。

 また、取調官の生活は普通とは半日ずれているらしい。正午前後に朝食、夕方に昼食、真夜中が夕食のようである。

 だから呼びに来るのは午後で、取調べは夜半におよぶのが普通であり、こちらの返事が気に入らないと払暁におよぶ

 帰ってからの起居は制限されないが、同僚はみな普通の時間で起居しているのだから、午前中寝ていようと思ってもなかなか寝ていられない。だから、連日取調べを受けるとへとへとになる。(P116)





 さてソ連側は、尋問に先立ち、三友を追求する十分な材料を集めていたようです。

三友一男『細菌戦の罪』

 人体実験については、その非人道的な点を指摘されれば、一言の抗弁の余地もない事であった。それにしても、ほんの一握りの者しか知る筈もなかったこの実験の事が、すっかりソ連に知られていることが訝しかった。(P177)



三友一男『細菌戦の罪』

 取調べでは一〇〇部隊創設の目的、編成、業務の具体的な内容などが、改めて問い質されたが、取調べが進むにつれて、彼等が予想以上に一〇〇部隊の内容をよく知っているということが、次第に明らかになってきた。

 例えば、三河の夏季演習について、演習の行われた期間、参加人員など正確に承知しているらしく、こちらの漠然とした供述では納得しなかった。平桜中尉の他に、誰れか内容を知っている者が捕えられているようだが、それが誰れなのか判らなかった。(P173-P174)

 六科で行った極秘の実験についても、誰れがその実験に参加していたのかを知っていて、忘れていた水野憲兵の名前など、却って教えてもらう始末だった。(P174)



三友一男『細菌戦の罪』

 予審訊問も最終段階に入った或る晩、ポイコ中尉が、何時ものように紅茶と煙草を出して雑談しながら、

 「君はこういう者を知っているか。」

 と言って、机の引出しから何冊かの訊問調書をとり出し、頁の下の署名を見せた。それらには、福住、児玉、桑原、桜下等の名前があった。桑原君については記憶がなかったが、福住君と児玉君は共に六科で働いていた同僚で、児玉君とは三河の夏季演習も一緒だった。

 署名を見せられるまで、正直言って彼等の事は念頭になかったので、意外な者が調書をとられているのに驚いた。二人の名前が私の前に現れたのはその時だけで、彼等がどこでどうしていたのか、そしてその後どうなったのか、何んにも聞いていない。(P177)

 ソ連の尋問ぶりからは、多数の関係者を捕らえ、各々の証言を突き合わせて「事実」を再構成する、という手法を伺うことができます。



 ただし取り調べでは、「事実」をソ連側のストーリーに沿った形に歪めようとする傾向があったことは否めません。

 三友は、意に沿わない調書へのサインに抵抗します。しかし結局は、訊問者の執拗さに粘り負けして、妥協してしまったようです。


三友一男『細菌戦の罪』

 同じ内容の質問が、日を替え、時を置いて、色々な角度から執拗に繰り返され、前に言ったことと違ったことを言うと、それを追求された。

 こうしたやり方が訊問の常道だということは解っていても、しまいには面倒になってしまって、こちらの言おうとしていることと、ニュアンスの違う調書が作られても、妥協してサインをしてしまうことになった。(P173)



 予審は、取調べを行うポイコ中尉と、取調べられる私との一騎打ちのようなものであった。

 中尉の誘導訊問に乗せられないよう注意しながら、自分の主張を繰り返していたが、調書ができ上ってみると、何時の間にか彼の思わくに沿った表現になっているので、何度も署名を拒否してみたが、彼の執拗なまでの執念の前に、抵抗し続けることを断念し、心ならずも妥協させられる破目になってしまった。(P175)





 さて、「尋問」の内容を、もう少し詳しく見ていきましょう。

 三友は、ソ連側の「ストーリー」をそのまま認めたわけではありません。何ヶ所かでは、取調官に対して抵抗を試みています。主な争点は、以下の三点でした。

三友一男『細菌戦の罪』

 予審で、私とポイコ中尉の対立していた第一の点は、一〇〇部隊の創立の目的についてであった

 私は軍属の防疫を第一義として創設されたものだと主張したが、彼は、七三一部隊と同様、細菌戦を目的として設立されたものだとして譲らなかった。(P174-P175)

 第二の点は、細菌の培養に関するものであった。

 「君は一〇〇部隊ではどんな細菌の培養を行っていたか」と聞かれるので、「鼻疽菌や炭疽菌だ」と答えると、『私は細菌戦用の鼻疽菌・炭疽菌の培養に積極的に参加し……』という、彼等なりの註釈つきの調書が作られ、鼻疽菌の生産量についても、「一週間に五kg程の生産実験をしたことがあった」という答えに対し、週に五kgでは月に二十kg、年に換算すると二百四十kgになるからといって、『一〇〇部隊の鼻疽菌の生産能力は、二百四十kgにも達していた』という調書を作って署名を要求した。

 三つ目の三河での夏季演習については、その目的に対する見解の相違ばかりでなく、実験についての専門的な判断等といった点でポイコ中尉の手に負えなくなり、彼の上司のアントノフ検事少佐が直接訊問をするようになった。

 私が、デルブル河に放流した鼻疽菌は、その量や、ソ連領までの距離などからして、下流のソ連領土で流行源になる筈がないと主張し続けたので、遂に、ハバロフスク医科大学の教授まで訊問に立ち合った。

 実験の内容を詳しく聞いた教授は、私の主張を認めた為か、裁判に提出された鑑定書は、この点に言及することを避けていたが、最終の判決文においては、ソ連の主張通り、三河の演習はソ連に対する謀略行為であったと断定したものになっていた。(P175)
※「ゆう」注 三友が記す通り、最終の判決文はこのようなものになっています。

「十、三友一男 −第一〇〇部隊員− は、細菌兵器の製造に直接参加し、且つ、生きた人間を使用して自ら細菌の効力を実験し、この惨虐な方法によって彼等を殺害していたものである。
三友は、三河附近に於ける対ソ同盟細菌謀略の参加者であった」((『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』 P735)



 つまり、「一〇〇部隊の創立目的は「細菌戦」にあったのか否か」「鼻疽菌の生産能力はどのくらいか」「デルブル河での演習はソ連に対する謀略を目的にしたものか」という三点です。

 逆に言えば、この三点以外は、概ね三友の主張に沿った調書がつくられた、と見ることも可能でしょう。



 以上で見てきたような三友の訊問は、どのように記録に残されたのか。『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』に掲載されている、三友の尋問調書の一部を紹介します。

被告三友一男の訊問調書

1949年12月6日、ハバロフスク市

(答) 私は左の点に於て自己を有罪と認めます。

 即ち、一九四一年一月四日私は炭疽、鼻疽、牛疫、羊痘の病原菌を製造する関東軍第一〇〇部隊に志願兵として入隊し、更に、是等の病原菌が特に対ソ戦の為に製造される事を知りながら、第一〇〇部隊の特別実験室に於ける是等細菌の製造に積極的に参加したのであります。

 上記の部隊に入隊後、私は炭疽菌及び鼻疽菌の培養に関する特別講習を受け、是等の細菌を私の担当する培養器を以て培養しました。私は此の職務を、同部隊に於ける全服務機関に亘って、即ち一九四一年四月より一九四四年十月に至る迄遂行しました。

 夫れ以外に私は、動物及び生きた人間を使用して、私の製造せる殺人細菌の効力を検査する実験に度々参加しました。此の実験は、日本軍統帥部が是等の細菌を対ソ戦に使用する為に行われたのであります。

 例えば、一九四二年七月-八月私は第一〇〇部隊の他の勤務員と共に、三河地方への派遣隊に参加しました。

 同地では、鼻疽菌の持久性試験がデルブル河に於て、炭疽菌の持久性試験が貯水池に於てそれぞれそれぞれ実施せられました


 本派遣隊の指揮者は、第一〇〇部隊第二部長村本少佐でありました。

 同地に於て、私は鼻疽菌、炭疽菌を自ら培養しました。而して派遣隊は是等の細菌を、デルブル河及び貯水池に於ける試験に使用されました。此の実験は・・・ソヴエト同盟国境のアルグン河に注ぐデルブル河に於て行われたのであります。(P108-P109)

 一九四四年八月−九月、私は研究員たる松井経孝の指導の下に、第一〇〇部隊内に於てロシア人及び中国人の囚人七−八名に対する実験を行い、是等の生きた人間を使用して毒薬の効力を試験しました。即ち、私は是等の毒薬を食物に混入し、之を以上の囚人達に与えたのであります。

 一九四四年八月末、私は松井の指図を受け、粥に約一グラムのヘロインを混入し、之を中国人の一囚人に与えました

 同人は此の粥を食し、食後約三〇分にて人事不省となり、人事不省の儘約一五−一六時間経過した後に死亡しました。

 以上の用量のヘロインを与えた時、吾々は夫れが致死量であることを知って居りましたが、併し、吾々にとっては、彼の生死は問題ではなかったのであります。

 私は朝鮮朝顔、ヘロイン、バクタル、ヒマシの種子の効力を調べる為、若干名の囚人に対してそれぞれ五−六回宛実験を行いました。ロシア人の一囚人は実験の結果衰弱し、実験に使用することが不可能となったので、松井は私に、青酸加里の注射によって此のロシア人を殺害する様命じました。注射後此のロシア人は即死しました。

 私は又、私が実験に使用した囚人三名を憲兵が銃殺した時に臨場しました・・・(P109)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)

※三友の裁判記録の詳細は、ハバロフスク軍事裁判  被告三友一男の記録にまとめました。

 実際の調書では、「デルブル河での細菌試験」と並んで、「人体実験」が大きなテーマとなっています。
※なお、三友の回想では「人体実験」についてはほとんど触れられていません。

 本人も、「私が一〇〇部隊について書く以上、人体実験について触れないということは、必ずしも表現は適切ではないかもしれないが、竜を描いて眼を点じないことになるであろうが、
私はこれ以上この問題について公の場で発表するつもりはない」「個人的な問題はさて置き、かつての上司や同僚達に対して、頑なに沈黙を守るということが私のなし得る唯一最善の方法だと考えているからに外ならないと、この問題への言及を避けたことを明言しています。


 尋問のピークを超えると、ソ連側の態度は、目立ってソフトなものになっています。この段階ではもう、必要な情報はすべて引き出してしまい、あとは、「裁判」の時に三友が証言を覆さないか、ということだけが懸念材料だったのでしょう。

三友一男『細菌戦の罪』

 十二月の上旬までに取調べはほとんど終了していた。一ヶ月余りの間、時には大声でやり合ったこともあったが、総てが終った今、私も言うべきことを言ったので、胸の中がスッキリした気分だった。

 取調べは概ね鄭重で、訊問が終ると、時には紅茶が出され、煙草を毎晩一箱ずつくれた

 中旬になって、その日は珍しくケーキまで振舞ってくれたと思ったら、今回の裁判は関東軍総司令官山田乙三大将等十二名が被告になっているということを教えられた。(P177-P178)


 そして実際の裁判に先立っては、「証言を覆させない」ためのプログラムが組まれることになります。


三友一男『細菌戦の罪』

 取調べが済んでからも、公判で予審調書の通り陳述をしてくれるか、法廷で供述を翻しはしないかということが心配だったらしく、今まで供述した通り法廷で陳述する様再三念を押された

 供述書や、証拠書類の閲覧をさせたのも、供述内容をもう一度復習させるとともに、事件の全容を、彼らが如何に正確に把握しているかを誇示する為のデモストレイションの一つだったようである。

 そんな彼等の様子を見ていると、不馴れな演出家が、役者が台詞をしっかり憶えこんでいるか気がかりでならない、といった風にさえ思われた。ハバロフスク裁判を、ニュールンベルグや、東京国際裁判と並ぶ歴史的なものとして演出すべく、彼等は精一杯の努力を続けていたのである。(P180)


三友一男『細菌戦の罪』

 その上、これから、裁判に提出される、被告や証人達の供述書と証拠書類を閲覧させるということであった。これは、日本軍の細菌戦準備がどのようなものであったのか、全般的な概念を予め被告に承知させて置こうという、ソ連側の裁判に対する準備工作だったようである。

 資料は三十二冊もあって、全部目を通すのに何日もかかる程だった。

 被告や証人達の述べていることは、私にとっては耳新しいことばかりであり、それを裏付ける証拠書類の中には、七三一部隊の支部創設に関する関東軍命令とか、「特移扱」についての憲兵隊や野戦鉄道司令部の命令、ハイラル特務機関長の業務報告書、関東軍防衛会議の議事録等々、私などが到底目に触れることのできない最高機密書類が多数含まれていた。

 これらの書類によって、関東軍の細菌戦準備、七三一部隊の実態、人体実験に使われた人間がどのようにして供給されたのか、といったことを、正直なところ、私はここで初めて知ったのである

 それまで私が知っていたのは、私の前に展開した極く限られた狭い範囲のことでしかなく、そうした全般的な様子など想像することすらできなかった。

 それに比べ、このような資料に基づいて、全体を把握した上で取調べが行われていたとあっては、私の乏しい知識などでは、到底大刀打ち出来ない筈だったと、そこで改めて認識させられた。(P178)


 ネットではよく、、「ハバロフスク裁判」の証言を、「どうせ洗脳されていたんだろう」などと決めつけて否定する発言が見られます。

 しかし三友の回顧録を見ると、三友はかなりの程度「自由意志」を保って尋問に対応しており、「洗脳」なるものの気配は伺えません。また、「精神的苦痛」はともかく、物理的な拷問を受けた形跡もありません。

 ソ連の尋問は確かに厳しいもので、またソ連に都合のよいように事実関係を捻じ曲げてしまう嫌いもあったようですので、裁判記録は、その点を考慮して慎重に読む必要はあります。

 しかし三友の回想を見る限り、少なくともその内容が全くの虚偽であることはありえない、と考えていいでしょう。
※なおこの本には、関東軍石頭予備士官学校の同僚、佐藤清氏が「解説」と題する前書きを寄せています。

 その中には、「
勝者が敗者を裁く軍事裁判は、検察側のシナリオどおりに進められることは東京裁判でもあきらかなとおり、ソ連側にとっては一〇〇部隊の隊員であれば誰れでもよく、同じ証言をみちびき出したに違いない。その意味で、洗脳されていた三友は格好の証言者であったのであろう。これはあくまでも推測である。」と「洗脳」の字が見えますが、本書の内容から見て、これはいささか的外れの評価なのではないか、と感じます。あるいは後述の通り、単に当時三友氏が「マルクス主義」に傾倒していたことを示しただけなのかもしれません。

ただしこの佐藤氏にしても、関東軍の細菌戦計画と人体実験にかかわるハバロフスク裁判は疑わしいものとされ、西側からはソ連の宣伝としてかたずけられていた面もあったが、
戦後二七年もかかって、アメリカ政府は公式文書を公開し、日本細菌戦計画と人体実験は事実であったことを明らかにしている。このことは厳粛に受けとめなければならない」と発言していることは明記しておきます。


 中川八洋氏の「論難」

 以上、三友の回想に沿って、ハバロフスク軍事裁判における取り調べの様子を見てきました。

 さて、中川八洋氏の論稿をめぐって(2)でも触れましたが、この三友回想に、全くの見当違い、としか言いようのない論難を加える向きが存在します。

中川八洋『「悪魔の飽食」は旧ソ連のプロパガンダだった』  

 十二人のうち、三友は、シベリア抑留の将兵を共産主義思想に洗脳して歩く「アクチープ(共産主義煽動者)」(『細菌戦の罪』、泰流社、六頁、以下頁数は同書)であり、一切の罪の意識もなくソ連共産党から指示されたセリフを喜びをもってしゃぺったのであり、同情する必要はない。一九八七年出版のこの『細菌戦の罪』は、ハバロフスク裁判を正当化するための三友の回想記である。(P284)

(『正論』2002年11月号)

※中川論稿の詳細については、中川八洋氏の論稿をめぐって(1)中川八洋氏の論稿をめぐって(2)で取り上げています。


 何ともエキセントリックな文章ですが、これかもう、読んでいない読者を騙そうとしているとしか思えないレベルです。

 この『細菌戦の罪』は、ハバロフスク裁判を正当化するための三友の回想記である」というのは、中川氏の明らかなウソです。実際には三友は、ハバロフスク裁判を「正当化する」どころか、以下のように「裁判批判」を行っています。


三友一男『細菌戦の罪』

 それともう一つ、戦後何人かの人が細菌戦部隊のことについて筆をとっているが、その原典ともいうべきものは、一九五〇年モスクワ外国語図書出版所が出した『細菌戦用兵器の準備および使用の廉で起訴された、元日本軍軍人の事件に関する公判記録』ではなかろうかと思われる。

 しかし残念なことにこの記録は、一定の意図の下に、勝者が敗者を裁いた記録ともいうべきものであって、七三一部隊に関してはいざしらず、事一〇〇部隊に関する部分については誇張されていることが多く、必ずしも事実を正確に伝えているものとは言い難い

 にも拘らず、真実が明かされることのないまま、誤って伝えられていることがやがて真実として定着しようとしているのが現状である。こうしたことから、裁判に係わった被告の一人として、記録にとりあげられなかった部分や、細菌戦部隊、とりわけ一〇〇部隊のありのままを書き残して置くことが必要だと考えるようになった。(P263-P264)



三友一男『細菌戦の罪』

 関東軍司令部の命令によって、一〇〇部隊では細菌兵器の開発、増産準備にとりかかった。又、起りうべきソ連の侵攻を想定し、ハイラル地域に兵用地誌調査要員を派遣して、これらの地域における家畜が、侵入してきたソ連軍に利用されるのを阻止するための準備を開始した。

 ハバロフスク裁判では、こうしたことだけをクローズアップして、恰も一〇〇部隊が、細菌戦準備の為に創設され、長年に亘って、部隊の総力をあげてこれに取組んでいたように印象づけようとしているが、これは事実ではない。(P41-P42)


 また「一切の罪の意識もなくソ連共産党から指示されたセリフを喜びをもってしゃぺった」というのは、明らかに、中川氏の悪意ある決めつけです。

 常識で考えても、「戦犯」として裁かれ、そのまま刑に服することを「喜」ぶ人など、いるはずがありません



 抑留の初期、三友が「マルクス主義」に関心を持ち、地区本部の「オルグ」として活動していたことは事実です。

三友一男『細菌戦の罪』

 私が三〇四分所に来る前から、分所では高原茂を講師にして、「マルクス主義研究会」が開かれていた。

 飢えと、寒さと、馴れない労働という悪条件に少しつつ順応し、精神的にも多少のゆとりが出てきていたので、生来の好奇心から、私もこの研究会に顔を出すようになった。マルクス主義とか、資本論、唯物論、弁証法とは一体どんなことなのか、知っておくことも無駄ではあるまいと考えたからである。(P155-P156)

 戦争中、あのような弾圧を受けた共産主義とはどんな思想なのか、資本主義は滅びゆく経済制度だと言われているが何故なのか、捕虜になって、図らずもその共産主義の国に連れてこられて、今こそそれを知る絶好の機会であった。(P156)



 白樺や落葉松の若葉が一斉に萌えだす春六月、私と斎藤君は地区本部のオルグになった。プロプスカをもらって、帰国者の集結分所や、残留者を集めた分所へ出向き、民主委員会の組織作りや、活動の指導に明け暮れる日が続いた。(P159-P160)



 しかし三友が「共産主義」へのシンパシイを持っていたのはこの一時期のことで、その後はソ連社会に対して批判的な立場に転じたようです

三友一男『細菌戦の罪』

 研究会の勉強を通じ、唯物論的、弁証法的思考方法には共感、理解することもできたが、社会主義の国のその底辺に身を置かれて、マルクス・レーニン主義的な党によって指導され、共産主義の社会を目指している国家の、理論と現実とが余りにもかけ離れている様子や、一般国民の実生活をつぶさに見聞する機会を得て、納得しかねる点が多かったことも否めない。(P156)


 ソ連が行った、明らかな国際法違反の不当行為、「シベリア抑留」への批判も忘れません。

三友一男『細菌戦の罪』

 しかしそこはロシア人のやること、シベリヤの酷寒の中で、収容する建物すらない所で天幕生活をさせ、食糧の、量も質も不足していることも省ず、強制的に重労働をやらせたので、栄養失調や伝染病が流行し、死亡する者が続出した。その数は、全抑留者の一割近い五万五千名にも及び、その大部分は、二十年の暮から二十一年の春にかけて亡くなっている。(P143)

 この本では、三友は批判すべきことはきちんと批判しており、「ソ連に対する遠慮」は全く伺えません。三友は、自分の体験を、自分が感じるままに語っている、と見るのが自然でしょう。

(2018.2.25)


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