731部隊(13) 中川八洋氏の論稿をめぐって(2)


 前記事では、中川氏の「フェルレポート」批判の部分を取り上げました。続けてこちらでは、氏の論稿の残りの部分を、サンプル的に取り上げることにしましょう。



1  ハバロフスク裁判 「十二人の証人」の行方


 「ハバロフスク裁判」は、ソ連で行われた、「731」関係者に対するBC級裁判です。

 西側ジャーナリストに公開されなかったことから、当時は「ソ連の宣伝行為」として疑問の目で見られていました。しかし研究が進んだ今日では、基礎的資料として十分に使える、との評価が定着しています。


秦郁彦『日本の細菌戦』(上)

 (「ゆう」注 ハバロフスク裁判に記録は)時期的に見て森村誠一著『悪魔の飽食』三部作(一九八一〜八三)の爆発的ブームに刺激されて復刻したものだろうか。前後して、元隊員の手記やルポライターの探索記事も続出、常石敬一らによる在米資料の発掘も進んだが、ハバロフスク裁判の記録は良くも悪くも、この分野における公開文献第一号であり、今でも基礎資料としての価値を失っていない。(P536)

(『昭和史の謎を追う』(上)所収)


松村高夫『七三一部隊作成資料 解説』

 しかしながら、日本側の七三一部隊に関する直接的な一次資料はほとんどみることができないという状況であったし、その状況は現在でも基本的には変わっていない。そのようななかでは、ソ連、アメリカ、中国による尋問調査記録が、決定的に重要である。

 ソ連の前記『ハバロフスク公判書類』については、厳密な資料批判が必要であることはいうまでもないが、それはいぜんとして七三一部隊に関する基礎的資料である。(P8)



『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』

 日本の細菌戦組織を裁くハバロフスク裁判が、なぜ開かれたのかを考える作業はなかなか面白い。細菌兵器のように微妙で劇的な問題の場合、見かけほどには簡単ではない。

 ソビエトは西側が石井や他の日本人科学者との接触を許してくれそうもないので、彼らの起訴を自分で実行したということなのだろうか。もしそうだとすれば、彼らは何も失わずに済む。多分アメリカが人体実験を実行した有罪の日本人科学者を保護しているということを暴露することで、アメリカのメンツを傷つけるという収穫を得ることになったはずだ。

 アメリカはこの裁判には事実当惑した。アメリカは隠ぺいするためには嘘をつかざるを得なかった。しかしアメリカのやった隠ぺい工作は、この裁判を無視することによって、裁判の最後に提起された問題から、注意をそらせることにもなった。

 以後数年間、ソ連は外交筋を通して、石井、北野、笠原、若松らの裁判を行うべきだと、主張し続けた。ハバロフスク裁判は西側では三五年間、ソ連のプロパガンダとして無視されてきたが、そこに提出され記録された証拠は、ほとんど細かい点まで正確であることを我々は今日認知している。(P199)



   これに対して中川氏は、「裁判」の事実性を徹底的に否定してみせます。

中川八洋『「悪魔の飽食」は旧ソ連のプロパガンダだった』  

 「ハバロフスク裁判」をもって歴史事実とするのは、狂信状態の共産主義者か、人間の良心のない極度な非人間か、のいずれかである。(P284)

(『正論』2002年11月号)


 何ともすごい書きようですが、その「材料」のひとつとなるのが、裁判の「十二人の証人の行方」です。

中川八洋『「悪魔の飽食」は旧ソ連のプロパガンダだった』  

 被告となった十二人は国際的にその名が知られた以上、ソ連としては、凍死/餓死と背中合せの状況下に戻すことはできなかった。一九五二年に早々と殺害された高橋中将と一九五六年に殺害されただろう柄澤少佐を除く十名は、無事帰国できた。

 しかし、「被告」役が犁蕎擇亮膠蘆僕ァ蹐箸垢譴弌狃演男優″である「証人」役を強制された十二人の消息ははっきりしない。多くは悲劇的な運命となっただろう。知る方がいれば是非教えて頂きたい

(『正論』2002年11月号)

 どうして「被告」が無事に帰国できて、「証人」が「悲劇的な運命」になるのか、このあたり、中川氏の論理がさっぱりわかりません。「証人」の十二人も、同じように「裁判記録」に登場していますので、「国際的にその名を知られ」ているはずなのですが。

 念のためですが、ハバロフスク裁判の「証人」十二人の中には、関東軍参謀副長・松村知勝も含まれています。松村は、「悲劇的な運命」どころか、戦後『関東軍参謀副長の手記』を著すなど、世間的にもよく知られた人物になりました。まあ、松村は「731」とはまた別の「罪」で服役しましたので、「被告」だから「無事帰国できた」という強弁も、通じないことはないかもしれません。

 それはともかく、「知る人がいればぜひ教えて頂きたい」とまで大見栄を切っていますので、元TBS報道局員のジャーナリスト、吉永春子氏に教えていただくことにしましょう(笑)。


吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 大阪から私は山陰地方に向かうことにした。そこには同じくハバロフスクの軍事裁判で証言台に立った古都義雄がいるはずであった。

 彼を探し出すのに、実はかなりの時間がかかった。古都はシベリアから帰国後、養子にいったのか姓が変わっていたからだった。山陰の山間部の村々を気づかれないよう、それとなく聞きこみを重ねた結果、彼が山陰の小都市の衛生関係の施設に勤めていることがわかったのだった(P33)

※以下、古都に対するインタビュー記録が続きます。



吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 ハバロフスク裁判で証人として出廷した倉員も、憲兵の一人であった。

(略)

 彼が中国地方の小都市の病院に勤務していることを知ったのは、一九七六年の早春の頃であった。しかしこの時も予算の関係があって出張取材はすぐに行くことも出来ず、他の幾つかの仕事もかねて倉員の元に向かったのは、一か月後のことだった。町の小さな旅館で一泊した後、翌朝その病院にスタッフと共に向かった。中規模程度の病院は人の出入りが激しかった。

 私は入口で彼の名を職員に伝え待つことにした。外にはカメラが構えていた。やがて五十代後半と思われる恰幅のいい男が、肩をゆさぶりながらやって来た。

 名前を確認すると倉員は不審な眼で私を見つめ直した。

「七三一部隊でのことを聞きたいのですが」

 彼の顔色がさっと変わった。

「今頃何を。バカな!」

 声がふるえている。

「丸太という囚人達を本部に運んでいましたね」(P97)


 吉永氏は、証人のうち2名の行方を突き止めています。念のためですが、この本の出版は、2001年12月。中川論稿より前です。中川氏は、この本をチェックしなかったようです。

 さらに近藤昭二氏は、福住、桜下、畑木の3名の証人と接触しています

近藤昭二編『731部隊・細菌戦資料集成(CD-ROM版)解説』

 ソ連側はハバロフスク裁判の記録をロシア語で一冊の本にまとめ、同時に英語版、中国語版、日本語版、朝鮮語版(ほかにもあるといわれるが筆者未見)などをつくって、各国に配布した。『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』である。[資料36−1]

 しかし、扉に「モスクワ外国語図書出版所」発行とあるのみで、流通経路もはっきりせず、ほかに関連資料も一切なかったために、偽書のように扱われ、裁判自体もはたして存在していたのかと疑われて、無視されてしまった。数年後に三友一男被告人本人の書いた書物で明らかになったにもかかわらず、家永教科書裁判の第3次訴訟の一審判決でもなお「来歴の窺いしれない書物」だと判断されてしまう。

 1992年になってソ連が捜査段階での記録や公判記録のファイル・写真を公開したために、ようやくこの本が歴然とした公式文書であると確定し、現在では評価は定着している。

 内容的にも、中国で戦犯として拘留されていた関係者の供述やフェル・レポートに記されているところと照合するときちんと符合し、信用性のあるものだということは、これまでの研究で明らかにされている。

 筆者も当事者の三友一男元被告、久留島祐司元被告、元証人の福住光由、桜下清、畑木章から直接に、陳述内容の記載が正確だという確認を取っている。(P117)



 当時においても戦後三十年以上も経っていることもあり、死亡したりなどで「追跡不能」になった証人もいたことと思います。しかし少なくとも、十二人の証人のうち、松村知勝を含む半数の六人までは、ジャーナリストの調査によって消息が明らかになっています。中川氏の「疑問」に、根拠はありません。




 三友一男の証言

 さらに氏は、被告の一人、三友一男を徹底的に攻撃します。

中川八洋『「悪魔の飽食」は旧ソ連のプロパガンダだった』  

 十二人の被告は、山田乙三(関東軍司令官、陸軍大将)、梶塚隆二(関東軍軍医部長、軍医中将)、高橋隆篤(同獣医部長、獣医中将)、川島清(第七三一部隊製造部長、軍医少将)、西俊英(第七三一部隊孫呉支部長、軍医中佐)、柄澤十三夫(第七三一部隊製造課長、軍医少佐)、尾上正男(第七三一部隊海林支部長、軍医少佐)、佐藤俊二(第五軍軍医部長、軍医少将)、平桜全作(第一〇〇部隊、獣医中尉)、三友一男(第一〇〇部隊、軍曹)、菊池則光(第七三一部隊衛生兵)、久留島祐司(第七三一部隊衛生兵)である。

 十二人のうち、三友は、シベリア抑留の将兵を共産主義思想に洗脳して歩く「アクチープ(共産主義煽動者)」(『細菌戦の罪』、泰流社、六頁、以下頁数は同書)であり、一切の罪の意識もなくソ連共産党から指示されたセリフを喜びをもってしゃぺったのであり、同情する必要はない。一九八七年出版のこの『細菌戦の罪』は、ハバロフスク裁判を正当化するための三友の回想記である。(P284)

(『正論』2002年11月号)

 「この『細菌戦の罪』は、ハバロフスク裁判を正当化するための三友の回想記である」 ― これは、中川氏の明らかなウソです。実際には三友は、ハバロフスク裁判を「正当化する」どころか、以下のように「裁判批判」を行っています。


三友一男『細菌戦の罪』

 それともう一つ、戦後何人かの人が細菌戦部隊のことについて筆をとっているが、その原典ともいうべきものは、一九五〇年モスクワ外国語図書出版所が出した『細菌戦用兵器の準備および使用の廉で起訴された、元日本軍軍人の事件に関する公判記録』ではなかろうかと思われる。

 しかし残念なことにこの記録は、一定の意図の下に、勝者が敗者を裁いた記録ともいうべきものであって、七三一部隊に関してはいざしらず、事一〇〇部隊に関する部分については誇張されていることが多く、必ずしも事実を正確に伝えているものとは言い難い

 にも拘らず、真実が明かされることのないまま、誤って伝えられていることがやがて真実として定着しようとしているのが現状である。こうしたことから、裁判に係わった被告の一人として、記録にとりあげられなかった部分や、細菌戦部隊、とりわけ一〇〇部隊のありのままを書き残して置くことが必要だと考えるようになった。(P263-P264)


 「一切の罪の意識もなくソ連共産党から指示されたセリフを喜びをもってしゃぺった」というのは、明らかに、中川氏の悪意ある決めつけです。常識で考えても、「戦犯」として裁かれ、そのまま刑に服することを「喜」ぶ人など、いるはずがありません。




 中川氏は、被告の一人、柄澤少佐の「死」に、このようにコメントしています。

中川八洋『「悪魔の飽食」は旧ソ連のプロパガンダだった』  

 なお、柄澤少佐は、帰国一ヶ月前の一九五六年十一月末に、三友がわざわざ「自殺」と書いているので(二三九頁)、ソ連に殺害されたと考えられる

 柄沢は、極東国際軍事法廷に石井四郎らをA級戦犯として米国に追訴させるペく東京で暗躍していたソ連工作員たちに協力させられて、「(日本が細菌兵器を使用した)証拠」として一九四六〜七年頃、ソ連の拘束下で東京にいた。(P284-P285)

 結果として、ソ連の嘘宣伝・謀略の全容を余りにも知りすぎていた。柄澤が犖封じ″された理由は明らかにすぎよう。

(『正論』2002年11月号)

 「三友がわざわざ「自殺」と書いているので、ソ連に殺害されたと考えられる」 ― この論理、私には理解不能です。読者の方にとっても、事情は同じでしょう。

 三友の記述を確認します。


三友一男『細菌戦の罪』

 柄沢さんの死亡は私達に大きなショックを与えた。

 帰国の命令が今日か明日にでも発表されようとしていた十一月末のことである。その日は土曜日で、例によって映画があり、終ってからの点呼で柄沢さんの居ないことが判り、大騒ぎになった。皆がクラブへ行く際、一人で部屋に残っていたことまで判明したが、その後のことは誰れも知らなかった。

 何にか不吉な予感がしたので、皆で手分けをして、厠や、暗い庭園、他の周辺などを見て廻ったが見つからず、更に一時間程探し廻った末、洗濯場で縊死しているのが発見された。急いで降ろしてみたが、勿論手遅れであった。(P238-P239)

 遺書一つなかったので、何故自殺しなければならなかったのか不明である。ハバロフスク裁判での最終陳述でも、被告人中唯一人家族のことに触れていた程、常々、年老いた母や、小供の事を心配していたので、帰国の日を誰よりも待ち望んでいた筈であった。(P239)


 別に不自然なところは何もありません。もしこれがウソだったとしたら、三友と同じくイワノフ収容所に収監されており、三友と同時に帰国した、元関東軍司令官の山田乙三や元関東軍参謀副長の松村知勝などが黙っていないでしょう。

 なお研究者の間でも、「柄澤の自殺」は、事実として認識されています。


常石敬一『七三一部隊』

 ハバロフスク裁判は一九四九年十二月二十五日から三十日まで行われた。被告は関東軍司令官山田乙三、関東軍軍医部長梶塚隆二、関東軍獣医部長高橋隆篤その他、合計十二人だった。被告全員が有罪となり、それぞれ矯正労働収容所で二年から二十五年を限度に暮らすことを命じられた。大半が刑期満了以前に帰国を許され、最後のグループは一九五六年十二月二十六日に舞鶴に到着した。

 その二月前、十二人の被告のうちの一人、元軍医少佐の柄沢十三夫は帰国できることがはっきりした十月二十日に自殺した。ソ連に対して自白したことを悔いての行動と言われている。(P43)


 柄澤少佐は、「謹厳実直」な人柄で知られていました。「自白」してしまったことを強い「恥」と認識し、帰国後に以前の仲間たちに合わせる顔がなかったのだろう、と考えて、特段の無理はありません。
※当時米軍が、「戦犯裁判で重要な証言をして、ソ連軍の細菌戦に協力してノウハウを持っていたから殺されたのではないか、と疑」った事実はあります(加藤哲郎『731部隊と戦後日本』P70)。しかしこれはあくまで「疑い」であり、特に証拠があるわけではありません。いずれにしても、ほぼ確定した事実であるかのような中川氏の書きぶりは、行き過ぎ、と言えるでしょう。




 さて、もう少し中川論稿を読み進めると、思わず引っくり返ってしまいそうな記述が登場します。


中川八洋『「悪魔の飽食」は旧ソ連のプロパガンダだった』  

 炭疽菌はソ連が一方的に攻撃兵器として使用できるのに、日本は防疫と治療を強いられる状況であった。そして、次のようにソ連は満州で炭疽菌撒布の実験を行なっていたのである

 「昭和十七年春先のこと。…数週間前から、興安北省のハイラル附近で、羊や牛の放牧の群に、原因不明の急性伝染病が発生するようになった。病獣の様子からして炭疽のようである…間もなく、上庫力という部落の近くで日本官憲に包囲された男(外国人)は、…隠し持っていた挙銃で自殺してしまった。…所持品に混って、この水筒と香水の瓶が発見された…(この液体を接種したモルモットの)血液の塗抹標本を作って顕微鏡で見ると、連鎖状になった大きな杆菌(=炭疽菌)が多数認められた」(『細菌戦の罪』、泰流社、五五〜五七貢)。

(『正論』2002年11月号)

 今さらですが、『細菌戦の罪』は、この三友一男氏の著作です。

 確か中川氏は、「(三友は)一切の罪の意識もなくソ連共産党から指示されたセリフを喜びをもってしゃぺったのであり、同情する必要はない。一九八七年出版のこの『細菌戦の罪』は、ハバロフスク裁判を正当化するための三友の回想記である」と書いていたはずですが・・・。

 「裁判を正当化するための回想記」に、しっかりと「ソ連の炭疽菌撒布実験」という「731部隊正当化」の材料が書かれている。この矛盾を、中川氏はどう説明するのでしょうか。

 なお「ソ連が先に細菌戦を始めた」という情報については、研究者からは異論も聞かれます。

秦郁彦『日本の細菌戦』(上)

 もっとも上層部が踏み切るには、それなりの理由と名分があった。ノモンハン戦末期の絶望的戦況と、ソ連軍が先に細菌戦を始めたという情報である。ただし、情報の出所に疑問がないわけではない。

 たとえば七月十六日の小松原第二三師団長日記に「九日以来敵爆撃機は九機を以てノモンハン湖、アブターラ湖中間地区に爆弾を投下せり。夫より放射せる液を含む砂を検査するにF型及Y型赤痢菌あるを発見せり」との記事がある。

 小松原師団歩兵第七一連隊の花田大隊長日記(七月九日)にも「赤痢菌を混入したるものを、我が使用し在る湖水(ウズル水)に落下したるものの如く、大隊将兵一同十日以上赤痢のため悩まさる」とあるが、この程度でソ連の仕業と断定するには、いかにも根拠が薄弱である

 ところが、二十二日付で関東軍参謀長から陸軍次官あてに打電した関参一発第一六一号(満受大日記、昭一四−五)は、石井部隊の給水作業を賞讃したあと「敵はかくの如く局部作戦において細菌弾を使用せし結果よりみれば、将来における大作戦においては多量細菌の使用は当然これを予期せざるべからず」と述べている。

 小松原日記などに続報がなく、対ソ抗議もしていないのはいかにも不自然で、関係者のなかには報復使用の口実を得るための「石井さんの謀略じゃないか」と疑う人もいる。断定はできないが、石井がこの種の情報操作を得意としていたのはたしかで、他にも似たような実績がいくつかあった。(P535-P536)

 一九三五年頃のことだが、ソ連の諜者らしい男が持っていたというアンプルが石井から防疫研究室に持ちこまれた。北条軍医大尉がチフス、コレラ、ペスト、脾脱疽薗などを検出したところ、石井はさっそく幹部を説得して防疫給水部を設立させた、と北条は書いている。その北条は五年後、ソ連・フィンランド戦争でソ連が病原菌を謀略的に散布して、多数の牛馬が倒れたとの情報を確認するため、石井に選ばれてフィンランドへ出張した。

 一九四二年にも北浦で病原菌を携行していたスパイの自殺事件が起きているが、いずれも、疑心暗鬼か、石井の自作自演だった可能性が高いと私は判断している。(P556)

(『昭和史の謎を追う』(上)所収)


常石敬一『七三一部隊』

 実は、ソ連による生物兵器攻撃などはなかった。ソ連の「細菌爆弾」云々は、生物兵器を使ってみたかった石井がその使用を正当化する、すなわち味方の生物戦実行に対するためらいをなくすための自作自演劇、と見るべきだろう。

 相手が使った、と言い立てる情報戦は生物化学戦の重要な要素だ。相手が使ったと主張することで、相手の士気を挫き、味方の士気を鼓舞するという面がある。また敵の使用を言い立てることで、自軍によるその使用を正当化するという面もある。(P137-P138)





  「ソ連の事故」に触れていない?


中川八洋『「悪魔の飽食」は旧ソ連のプロパガンダだった』  

 一九七九年四月にスベルドロフスク(現在はエカチェンプルグ)の炭疽菌製造工場の事故で近隣住民が少なくとも一千人が死んだが(『化学・生物兵器概論』、じほう、一三一頁)、『悪魔の飽食』『続・悪魔の飽食』には一言の言及もない。常石敬一著『消えた細菌戦部隊』『標的・イシイ』でも触れられていない

(『正論』2002年11月号)

※細かいことですが、『化学・生物兵器概論』では、「市民約1,000人が死亡した」となっています。「少なくとも」の語は、中川氏の作文です。


 森村氏や常石氏らが対象としているのは、「731部隊」です。直接関係のない、ソ連での事件にまで触れる必要は全くありません。中川氏のこの論理、「南京事件の本で通州事件に触れていない」というイチャモンとほとんど同じレベルです。

 それはともかく、中川氏は常石氏の著作を2冊しか読んでいないようですが(笑)、ここまで言い切るからには、常石氏の全著作をチェックしておきべきでしょう。私がざっと捜しただけでも、氏がこの事件に触れている箇所が、二つ見つかりました。

 しかもそのうちの一つは、中川氏が「触れられていない」と断言した、『消えた細菌戦部隊』です。一体中川氏は、何を読んでいたのでしょうか。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 近年(一九八〇年三月)、ソ連で生物兵器汚染事故か、という報道がアメリカから流れた。当然ソ連はこの報道を否定し、家畜から炭疽病が伝染したのだと説明した。

 しかし性質を変化させることによって、感染経路が変えられた炭疽菌による感染であったろう、という疑惑は消えていない。現代の細菌戦の技術は、味方まで巻き込んでしまうほど、深く静かに攻撃を行なうことが可能となっている。(P205-P206)

(書籍版1981年、文庫版1993年発行)


常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 菌を紙に塗れば、その紙を通じて炭疽病を流行させることが可能となる。炭疽の場合、たんに菌に接触しただけでは感染することはなく、傷口があるとそこから菌が入り感染することとなる。

 また経口的にも感染し、一九七九年のソ連のスベルドロフスク(現在ロシアのエカテリンブルグ)での炭疽病の流行は、当初汚染肉を食べたためと説明されていた。一九九三年になってロシアは、軍の工場からもれた炭疽菌が原因であったことを認めた。(P154)

(1994年発行)

 1981年『消えた細菌戦部隊』では「疑惑」だったものが、1994年『医学者たちの組織犯罪』では「断定」に変わっていることがわかります。

 念のためですが、いずれも、中川論稿以前に発表されたものです。 ここでもまた、中川氏の攻撃は全くの見当違いでした。


 

(2017.1.1)


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