731部隊 ネットで見かけたトンデモ議論(3)
「少年隊」は存在しない? 


 「731部隊」における「少年隊」の存在は、あまりに有名です。彼らは未成年の「軍属」として部隊に参加し、各班に配属され、その助手のような役割を果たしていました。

 少年隊を設立した目的については、石井四郎部隊長自身が明快に語っています。

1958年8月17日 房友会結成大会 『石井四郎挨拶要旨』より

 少年隊を設立した当初の意義は、家庭の事情で勉強したくても勉強出来ない諸君を満州に呼んで勉強させ、国家を救う七三一の重要な人材となって貰うためであった。そのために中等学校以上の資格を与えてやり、更に優秀なものには大学迄進学させる考えであった。

 ところが文部省当局からは苦情が出たり、国家情勢がそれを許さなくなり、遂にその目的を達することが出来ず残念であった。

(『房友』第二巻第六号 石井先生挨拶要旨=森村誠一『新版・悪魔の飽食』(文庫版)P244より再引用)


 「少年隊」出身の証言者も、数多く存在します。何人か、並べてみましょう。

小笠原明『エントツから出る黒い煙』

少年隊員としての教育

 私が配属されたのは、防疫給水部の少年隊です。少年隊には後期の第一期生の先輩がいて、私は二期生として昭和一八年四月三日に入隊しました。その時の教育部長は園田太郎軍医中佐で、私たちの少年隊長は田部邦之助軍医少佐です。



 軍事学に関するもののほかに、教養科目として英語、ドイツ語、"満州語"つまり中国語、さらに数学、物理、化学、生物、のちには細菌や防疫給水といった勉強もさせられました。(P77)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


鶴田兼敏『昆虫班でのノミの増殖』

 私は昭和一三年(一九三八年)一一月、関東軍の軍属要員として東京から未成年八〇人ばかりと一緒に"満州"、今の中国東北地方のハルピンに送られました。着いたところが石井部隊、いわゆる七三一部隊だったわけで、正式名称は関東軍防疫給水部です。私たち八〇名は、少年隊という名のもとに三個班に分かれました。私は第三班の班員になりました。班員は一六歳から一八歳までの約三〇名でした。

 入隊は一一月一三日でしたが、そのときはまだ平房の部隊建物は建設中でした。建設資材が運ばれてくるので、私たちは使役に出てそれを運ぶ作業を手伝いました。建物は鉄筋コンクリート三階建てでした。(P62)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


石橋直方証言

 私は大正九年六月生まれで、七三歳になります。石井部隊に入隊したのは昭和一三年一〇月で、人骨が出て騒がれている東京牛込にあった陸軍軍医学校の防疫研究室の研究助手として軍属になりました。「支那事変」が二年目に入って戦線が拡大していたときだったので、そこの防疫給水部に入って中国の戦線に行きたかったんです。(P240-P241)

 しかし、東京に来て一〇日ばかり立つと、ハルビンの石井部隊に行けと命令を受けて、私たち未成年の軍属と青年男子の軍属あわせて一七〜一八名が、一一月一〇日に東京を出てハルビンに赴任しました。(P241)

(ハル・ゴールド著『証言・731部隊の真相』所収)


 さらにこのような正式の「少年隊」編成に先立っても、未成年の軍属募集があったようです。

鎌田信雄『生体解剖をやらされた』

 昭和一三年(一九三八年)三月、一五歳だった私は盛岡で少年航空兵の募集があると知り、親父のタンスから金を失敬して、県の公会堂へ行きました。

 そこで身体検査官として来盛中の増田大尉と降旗軍医中尉に、「お前は俺がめんどうをみて育てるから、俺のところにこい」と言われて、その年の六月に私は東京の陸軍軍医学校に行きました。

 陸軍軍医学校では厳しいテストが行なわれ、五〇人いた中から六、七人が選別されたのです。オヤジ〔石井四郎〕はヨーロッパの視察旅行から帰って軍医学校に防疫研究室を作ったそうで、当時中佐だったオヤジは軍医学校の教官でした。

 私は関東軍防疫給水部隊に軍属として配属され、一〇月末頃に新潟港から船に乗り、羅津〔北朝鮮〕経由でハルピンに行ったのです。

 今もそのときに作ってもらった名刺を持っていますが、そのときの住所は「満州国濱江省ハルピン市吉林街五号」です。ハルピンに着くと当時大佐だった松井石根隊長の特務機関の建物に連れていかれました。(P49-P50)

 私たちは「まぽろしの少年隊一期生」と言われていますが、"まぽろし"というのは、後に正式な形で少年隊の一期から四期が編成される以前の募集だったからです。

 私の同期は、二三〜二八人ぐらいだったと思います。このときはまだ平房の本部建物は完成していませんでした。

 ハルピン郊外にあった南棟に隣するレンガ造りの建物で石井式濾水機について教えられました。

 その頃は待遇がよく、貧乏だった私の田舎では見たこともないようなご馳走を食べることができました。

 平房の本部では、毎日三時間ほどしか寝られないくらい勉強しなければなりませんでした。

 八時から午後二時頃までぶっ通しで基礎教育(一般教養・外国語・衛生学など)を教えられ、その後はそれぞれ班に分かれて研究班の手伝いをしました。(P50)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)


 そして少年隊出身者らは、戦後、OB組織である「房友会」を結成しています。

少年隊員三名(匿名)

 われわれは少年隊として特殊な環境にいたわけだから、会をつくろうではないかと名簿を集めて、昭和三三年八月精魂会の慰霊祭と一緒に房友会の結成大会を開きました。そのとき、石井、北野先生といった幹部連中も集まりました。会はずっと続き、機関紙も一〇〇号まで発行しました。(P213)

(ハル・ゴールド『証言・731部隊の真相』より)



 ところがdeliciousicecoffee氏によると、そもそもこの「少年隊」なるものは存在しないそうです。

「731部隊の少年隊」に居たと証言する篠塚良雄(中帰連)や森下清人の怪

篠塚良雄という元731部隊の少年隊の一員だった爺がいる。
この篠塚良雄はテレビに出演するのが大好きだ。

2005年8月6日(土曜日)の「朝まで生テレビ」にも出演し、「中帰連だ」と恥ずかしげもなく自己紹介し、「731部隊に志願して入ったのは1939年」と証言し、医学部出身でもなく医療の知識がないのに保菌部隊に入れて、よくよく計算すると、志願した当時、なんと14歳だった篠塚良雄(81歳)

その篠塚良雄・81歳は、2006年1月17日の『筑紫の「ニュース23」(TBS)』の【731部隊の石井中将の日記特集】にも出演して、「証拠隠滅のために731部隊に収容していたマルタを全員皆殺しにした。」と証言した。

しかし、731部隊に14歳の少年兵が所属する「少年隊」はなかった

 deliciousicecoffee氏は明らかに、「軍人」と「軍属」との区別がついていません

 「軍人」であれば、徴兵年齢、あるいは志願可能年齢は18歳でしたので、それ未満の者は存在しません。しかし「少年隊員」は「軍人」ではなく、「軍」で働く民間人、すなわち「軍属」です。 制度上、14歳の「軍属」が存在していても、何もおかしなことはありません。



 さて、deliciousicecoffee氏の篠塚証言への批判は、これだけです。完全に的外れに終わっていますが、続いて氏は、同じ少年隊出身の森下清人氏に矛先を向けます。


731部隊の人体実験・細菌戦は嘘(全て作り話)3・「731部隊の少年隊」に居たと証言する篠塚良雄(中帰連)や森下清人の怪

森下清人(元七三一部隊少年隊2期生)

インタビューは大分協和病院において91年9月に行われた

<少年隊に入隊>
・・・・
いや、飛行機です。そのために専用の飛行場持っとるんですから。
呑龍(どんりゅう)いう大きな飛行機も持っとるんです。

あれで上海やら重慶やらから直接連れてきとったんじゃないですかねえ

そりゃハルピンからも連れてきとったんかもしれませんけど。

よく深夜とか明け方近くに飛行場の滑走路に明りがともるんですよ。
そしたらゴーいうて大きな爆音がして飛行機が着陸するんです。

少年隊の宿舎からちょいちょい見えてました。
ああ、またマルタ連れてきたなあ思いよりましたですなあ
・・・・
―――――――


戦後も時が経ち、反日思想が充満すると、人はこうもいい加減な事を口走るようになるのだろうか。

こいつは、マルタを重慶から連れてきたように想像している。

日本軍がいつ重慶に行ったのだろうか。

重慶は国民党(蒋介石政府)の首都だが、日本軍はここを陥落していないし、占領もしていない。

戦後の馬鹿ガキなら間違えても仕方ないが、当時、その時代を生きていた日本軍の者が、安易にこんなことを口走るとは。

占領もしていない重慶から、どうやってマルタを連れて来たのか?!


ちなみに、こいつは、昭和17年(1942年)の3月29日に、大分高等小学校を14歳で卒業し、ハルピンに向かい、731部隊の「少年隊」に行ったそうだ。

昭和17年といえば、上海では戦闘などなく、ほとんど日本の支配地みたいなものだった。

どうしてそんな上海からマルタを連れて来る必要があったのだろうか。
外国人や報道関係者も多いし、人目が憚られる。

もう少し戦地に近いところで、捕虜で死刑にすべき者などを連れてくれば良かったし楽だったろうに。

よりによって、こいつは、【日本軍が占領もしていない敵の中心地の重慶】や【外国人や報道関係者が沢山居た大都市の上海】からマルタを飛行機に乗せて満州国へ連れて来ていたと考えていた。
こんなことを話した時点で、法螺話であることがバレバレだ。


それ以前の問題として、そもそも、731部隊に14歳の少年が所属する「少年隊」が有ったとは、到底信じられない話なのだが・・・


 このインタビューの原文はこちらですが、あまりの長文で可読性にやや難がありますので、体裁を整えて拙サイト内に転載しました。

 全体としては興味深く読める証言ですが、「語ったこと」を編集なしにそのまま掲載したものである以上、部分的な記憶違い、錯誤、誇張などの存在はやむえないところでしょう。

 しかしそれにしても、このdeliciousicecoffee氏の突っ込みには、私は、え、そこなの? という感想しか持てませんでした。氏が批判する該当部分を転載します。

森下清人証言

<マルタの収容>

他にその年でなにか強烈な記憶になっているのは?

マルタに?

ええ


ああ、一つあります。マルタが連れてこられるところを1回見ました

え、マルタをですか。あの、やはりハルピンからトラックに乗せて連れてくるんですか?

違います。トラックですか? そういう話は聞いたことがないですがねえ。私ら、マルタは飛行機で運んでくるいうふうに思うとりましたが。その時も、飛行機でした。ちょうど土曜日の夕方ですけど、少し薄暗くなったころでしたかねえ、飛行機の爆音がしたんですね。大きな爆音です。そのとき呂号で残業しとったんです。培養缶の後片付け。そで、あの北側の扉、あれが開いていて、外のぞいたら憲兵がずらーと並んどるんです。

憲兵が。並んでたいうのは一列でですか?

いや、20mおきくらいに通路の両側にです。その中を8人。目隠しされて、手をうしろでにされて紐で繋がれてるのが歩かされとったんです。

8人。それは確かですか?

こやって指さして数えたから。前と後に一人づつ、横に確か二人づつ軍属がついてました。そやって見てたら近くにいた憲兵に見つかって、手振ってあっちいけいうふうにされて。それでさーと呂号の西側の方に逃げました。だから中に入ってくるところは見てません。

その8人というのは、何人だったんですか? 男女とか?

皆、中国服きてましたから、中国人だったと思います。私服だった思います。男か女かいうのはちょっとわからんかったねえ。

それはマルタに間違いない?

間違いないですよ。マルタ小屋に入れるなら、あそこからしか入れられんですから。

しかし、飛行機で連れてくるんですか。何か本ではハルピンに留置場があって、そこから足りなくなったら補充するいうように書かれていましたけど?


いや、飛行機です。そのために専用の飛行場持っとるんですから。呑龍(どんりゅう)いう大きな飛行機も持っとるんです。あれで上海やら重慶やらから直接連れてきとったんじゃないですかねえ。そりゃハルピンからも連れてきとったんかもしれませんけど。よく深夜とか明け方近くに飛行場の滑走路に明りがともるんですよ。そしたらゴーいうて大きな爆音がして飛行機が着陸するんです。少年隊の宿舎からちょいちょい見えてました。ああ、またマルタ連れてきたなあ思いよりましたですなあ。

いや、この話は本当に初めて聞きました。よく思い出してくれました。どうやってマルタ連れてきていたのかいう問題がありましたから。



 森下氏は、「マルタ」を「捕虜」として認識しています。

 どこか遠いところの戦場で捕まって、飛行機で送られてきたんだろうな、程度の認識なのでしょう。その「遠いところの戦場」の例として、思わず口から出たのが「上海」「重慶」という地名だった。

 それだけの話です


 さらに言えば、デリ氏は「日本軍の者」という言い方で「軍人」であったかのようなイメージを読者に与えようとしていますが、実際には「少年隊」であり、すなわち「軍に雇用された民間人」=「軍属」です

 毎日、新聞を読んでいたわけでもないでしょうし、「戦況」にあまり詳しくなかったとしても不思議はありません。

 実際、インタビューにも、こんな発言が出てきます。

森下清人証言

戦況がわからないから、日本が危なくなっているとかいうのは?

全然。勝ってるもんだとばかり思っていた



森下清人証言

(「ゆう」注 昭和)20年でしょう、内地の情報は少しは?

いや、全然入りません。もちろん勝ってると思うていた。どんどん占領しとるんやろなあと


 この程度の認識でしたので、「日中戦争において、日本軍がどこまで進出したのか」について不十分な知識しか持っていなかったとしても、怪しむ必要はないでしょう。


 そもそもこの部分、森下氏の「見聞」ではありません。単なる「推察」です。

 一般に証言において重視されるのは、「証言者が何を見て、何を聞いたか」です。「証言者がどう考えたか」は枝葉の部分であり、これが誤っていたからといって、「見聞」のレベルを誤りと決めつけることはできません



 余談ですが、むしろ私は、「マルタが飛行機で連れてこられた」という部分に違和感を覚えました。「マルタ」は通常、ハルビンから「護送車」で平房の七三一部隊に送り込まれた、と伝えられます。

 常石敬一氏は、「マルタ」の移送風景をこのようにまとめています。

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)

 各地の憲兵隊から石井部隊で人体実験の材料となるべくハルビンに送られた人びとは、ハルビン駅で石井部隊付の憲兵に引渡された。これにはハルビン憲兵隊本部の駅詰めの憲兵長が立ち会ったが、主に夜間行なわれた。

 石井部隊付の憲兵は、ハルビンの憲兵隊本部からの連絡にもとづき、特別の護送車に乗ってハルビン駅に向かう。そして駅で特移扱とされた人を受け取り、護送車に乗せる。そして直ちに平房の石井部隊に戻る

 この護送車はトラックほどの大きさで、特移扱とされた人を二〇人程度乗せることができた。特移扱とされた人を収容する部分はドアがひとつ付いているだけで、通風窓ひとつ付いていなかった。色は黒または草色だった。この護送車は全体として非常に奇怪な印象を与えたという。

 人体実験の犠牲となる特移扱とされた人を乗せた護送車は、石井部隊へは表門から入構していた。護送車は表門のところで停車し、憲兵の一人が降りる。その憲兵は衛兵所に入り、そこから構内監獄の当直者に電話で連絡をとる。

 しばらく表門で待つうち、当直の一人がやってくる。そこからはその当直の指示で護送車は本館の特別の入口、監獄専用の入口に横づけされ、特移扱とされた人はそこで降ろされる。彼らはその入口から入り、トンネルを通って監獄へ送り込まれる。

 ハルビン駅から特移扱とされた人を護送してきた憲兵ですら、特別に許可されない限り、構内監獄に足を踏み入れることはできなかった。本館の入口までしか行くことができなかった。(P99-P100)


 ハルビンから、外からは中が見えない「護送車」で夜中にこっそりと運ばれる。そして平房に着くと、外部からわからないように専用の通路を通って監獄に送り込まれる。これが、マルタ移送の一般的なイメージでしょう。

 インタビューアも「飛行機」云々は意外だったらしく、「いや、この話は本当に初めて聞きました」と反応しています。


 資料を調べると、「マルタが航空機輸送された」という証言がいくつか見つかりました。ただしこれは、平房の監獄に連れ込まれるところではなく、平房から北西に260キロ離れた安達(アンダー)の野外実験場への輸送です。

 ここに「マルタ」を運ぶ手段は原則としては「トラック」でしたが、場合によっては飛行機を使うケースもあったようです。以下、証言を並べてみます。

一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

 この実験に使用された一五名の被実験者は部隊構内の監獄から届けられ、実験が行われていた地域で特別に地中に埋めた柱に縛りつけられていました。飛行機が容易に方位を定め、容易に特設実験場を認め得るために特設実験場には旗が掲揚され、煙を昇らせました。

 平房駅から特別飛行機が飛来しました。飛行機は実験場地域上空を飛行し、実験場の上空にきた時二〇個ばかりの爆弾を投下しましたが、爆弾は地上一〇〇乃至二〇〇米の所に達せぬ内に炸裂し、中から爆弾に充填されていたペスト蚤が飛出しました。此等のペスト蚤は全地域に蔓延しました。

 爆弾投下が行われた後、蚤が蔓延し、被実験者を感染させることが出来る為、相当の時間待ちました。其の後これらの人間を消毒して、飛行機で平房駅の部隊構内監獄に送り、そこでこれらの人間がペストに感染したかどうかを明らかにするため彼等に監視がつけられました。(P307)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


航空班・松本正一証言

 七三一部隊から北西へ約二六〇キロの所(現在の大慶油田の近く)に七三一部隊専用の特設の実験場「安達実験場」がありました。そこでは中国人捕虜たちを使ってのさまざまな細菌投下実験が行なわれたのですが、松本さんは腸チフス菌を充填したウジ弾(宇治式陶器爆弾)の実験に参加したのです。

 「『マルタ』たちは部隊から車で運ばれてくる場合、その場合は八時間くらいかかったが、飛行機で運ぶ場合とがあったね。飛行機のときはせいぜい一〇人くらいを運んだと思いますね」(P146)

(森正孝『いま伝えたい細菌戦のはなし』より)


西野留美子『七三一部隊のはなし』

運輸班・越定男証言

 平房の本部から安達まで、車で七、八時間はかかったでしょうかねえ。安達実験場で実験するときに使う『マルタ』を、特別車で運ぶわけです。一度に四十本連れていったこともありましたね。

 ただ、細菌を感染させてない『マルタ』の場合、飛行機で運んだこともありましたね。といっても、一度にそう何人も運べませんがね。しかし飛行機だと、本部から安達まで三十分ぐらいで行ってしまうから、はやく届けたいときは、そういうこともありました。飛行機の担当は、航空班でした。

 それがね、飛行機に乗せる場合は、『マルタ』になかで暴れられたら大変でしょ。それで『マルタ』の頭から、真っ黒い布袋をかぶせるんですよ。外が見えないようにね。飛行機に乗せるときと降ろすときに、私ら運輸班が特別車で運んだわけですよ」(P75)


 ひょっとすると、森下氏が見たのは、「マルタが731部隊に連れてこられる場面」ではなく、「安達の実験場から輸送されてくる場面」だったのかもしれません。

(2017.7.9)


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