日高信六郎氏の証言
日高信六郎氏の証言


 当時の外務省筋では、石射猪太郎氏のような「南京事件」認識は、田中正明氏の論とは裏腹に、決して珍しいものではありませんでした。

  「日本人の著作に見る南京事件」でも法眼晋作氏などの認識を紹介しましたが、ここでは、石射氏よりもさらに「現場」に近いところにいた、 日高信六郎氏の証言を取り上げてみたいと思います。

 日高信六郎氏は、南京事件当時、大使館参事官として上海に滞在していました。「東京裁判」における証言によれば、南京には、1937年12月17・18日、12月25・26日など、四回にわたり出向いています。(「南京大残虐事件資料集1 極東国際軍事裁判関係資料編」P180より 。なお、証言中に「入城式の前日(12月17日)」という表現が見られることから、最初の「12月17・18日」は、記憶が1日ずれている可能性があります)

 極東軍事裁判では当り障りのない証言に終始した日高氏でしたが、その後、大変生々しい証言を行っています。以下、広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」より引用します。

広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」より

 一体何故にかくの如き不祥事件が起こったのであろうか。この点に関して当時現地にあって外交折衝の任に従事していた南京大使館参事官日高信六郎は次の如く語っている。

(略)

 外国の権益の保護という点については、松井さんは特に厳しかったから、われわれも加勢して外国権益のあるところをマークした地図を兵隊に配布したり、立入禁止の立て札を立てたりしたのだったが、最初のうちはそれが徹底しない憾みがあった。

 ハーバード系の金陵大学における婦女暴行事件などはその著しい例で、外国でも大分問題にされた。

 しかし外国の権益は、概して保護されたといってよく、それほど大きな問題にはならなかったようである。

 陥落後の南京城内は、文字どおりカラであった。中国側の軍事行政その他の機関や官吏は一斉に退却し、市の役人や警察官まで姿を消し、完全な無政府状態であった。

 その上外国の大公使館、領事館の職員その他の外国籍職員も全部立ち去ってしまい、若干の米人宣教師と僅かに残ったドイツ人など数名の外国在留民が外国人居住地区のなかに設けた安全地帯に二十数万(戦前南京の人口百万と称せられた)の下層民が避難しているだけであったから、日本軍としてはとりつくしまもなかった。

 普通なら、市の有力者が自治委員会などを組織して、迎えに出たり交渉に当ったりするものだが、そういうものが全くなかった。ある意味では、非常に不幸なことで、そのようなことが結果的には日本軍をして無茶なことをやらせるところまで追い込んだのだと思われる。

 しかし、何と言っても、残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。

 たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。

 しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。

 そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。

 戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。
不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。

 問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたということであろう。しかも軍の上層部では戦争に没頭していたし、今日とは違ってラジオ・ニュースなどもなかったから、このような事件をあまり知らなかったのである。

 そこで私は、多分十二月 二十五日だったと記憶するが、司令官の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は全世界の注目を浴びているから、そのおつもりで・・・」と暗に注意を促してから、参謀長に会い、

「いま、こういう話をしてきたが、外国の権益のあるところでは慎重にやらねばならない。南京でやっていることが世界中の評判になっているから、大いに自重して欲しい」と申し入れたところ、素直に諒解してくれた。

 その他警備司令部、憲兵司令官などをも歴訪して同趣旨を説いてまわったことを覚えている。

 その後、南京における状況が東京にもわかって、外務省から陸軍側に知らせたり、外務大臣から陸軍大臣に善処方を要望したりする一方、陸軍も本間少将を現地に派遣したり、法務官をやって軍律を励行するなどしているうちに、事態は漸次改善されていった。

 この事件を通じて、外務省としては、現地においても、また東京においても、できる限り適切な処置をとったと私は信じている。

 広田外務大臣は事件を閣議に持ち出すべきだったという議論もあるが、それは当時の事情から言って、かえって逆効果をきたしたであろう。もし閣議にはかったりすれば、閣議が統帥権に容喙するとして、一層陸軍を刺激したに違いない。

 そこで外務省としては、陸軍大臣に厳談し、軍務局に厳重抗議したのである。

 広田さんとしては、南京事件に関する限り、最も有効と思われる手段をとったと私は思う。パネー号事件の時などは、みずからグルー大使を訪ねて頭を下げているが、もしその処置を誤まれば、危うく日米開戦にもなろうというところであった。

 結論としては、叙上のような特殊の事情はあったし、また日本軍は軍紀厳正だと信じ切っていた日本人一般の軍に対する過大評価も問題になるであろうが、根本は、軍人に限らず、日本人全体から、いつのまにかモーラル・チェックというものが失われていたという点にあると思われる。

 
いついかなる時も、人として絶対にある程度以下のことはしないという心構えの欠如が、南京事件を惹起した最大の原因であると私は思う。

(「広田弘毅」P311〜P315)


 なお日高氏は、城山三郎氏のインタビューにも答えていますので、これを合わせて紹介します。

城山三郎「南京事件と広田弘毅」(上)より

 掠奪や虐殺について、占領直後の南京に入った参事官の日高信六郎氏は、わたしに次のように語った。

「はげしかった。そこら辺にたくさん死んでいる。歩いていると、ポンポンと音がする。鉄砲が人に当たっている音だ。こりゃいかんと思い、憲兵隊長のところへ行った。

『街に出てごらん。手に何か持っていない兵隊がいたら、わたしは敬礼するよ』

といったが、隊長は、憲兵は十四名しかいないし、明日(十七日)の入城式に備えて忙しいからという。しかし、わたしがあまりいったので、風呂上がりであったが、軍服を着、部下を連れてトラックで出て行った。そして、掠奪している兵隊、強姦している兵隊を、サーベルの曲がるくらいひっぱたいたといった」

 残虐事件は連日続き、夜は掠奪したあとの放火の火が燃え上がる。

 日高氏は、上海方面派遣軍司令官の朝香宮を訪ね、「南京における行動が、世界中で非常に問題になっています」と告げた。第十方面軍司令官の柳川中将にも警告した。

 いちばん問題になっていたのは、第六師団であった。(ゆう注 「第十六師団」の間違いであると思われます)

 師団長の中島今朝吾中将は、かつて憲兵司令官をつとめ、またナポレオンの心酔者であった。攻略戦で負傷したこともあって、野に放った虎の感じがあった。

 日高氏は、中島中将へのかけ合いでは撲られることも覚悟して行ったが、中将は不在で、おとなしい参謀長に会い、警告を伝えた。

(「潮」1972年10月号より)


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