広田弘毅伝記刊行会編「広田弘毅」より
一体何故にかくの如き不祥事件が起こったのであろうか。この点に関して当時現地にあって外交折衝の任に従事していた南京大使館参事官日高信六郎は次の如く語っている。
(略)
外国の権益の保護という点については、松井さんは特に厳しかったから、われわれも加勢して外国権益のあるところをマークした地図を兵隊に配布したり、立入禁止の立て札を立てたりしたのだったが、最初のうちはそれが徹底しない憾みがあった。
ハーバード系の金陵大学における婦女暴行事件などはその著しい例で、外国でも大分問題にされた。
しかし外国の権益は、概して保護されたといってよく、それほど大きな問題にはならなかったようである。
陥落後の南京城内は、文字どおりカラであった。中国側の軍事行政その他の機関や官吏は一斉に退却し、市の役人や警察官まで姿を消し、完全な無政府状態であった。
その上外国の大公使館、領事館の職員その他の外国籍職員も全部立ち去ってしまい、若干の米人宣教師と僅かに残ったドイツ人など数名の外国在留民が外国人居住地区のなかに設けた安全地帯に二十数万(戦前南京の人口百万と称せられた)の下層民が避難しているだけであったから、日本軍としてはとりつくしまもなかった。
普通なら、市の有力者が自治委員会などを組織して、迎えに出たり交渉に当ったりするものだが、そういうものが全くなかった。ある意味では、非常に不幸なことで、そのようなことが結果的には日本軍をして無茶なことをやらせるところまで追い込んだのだと思われる。
しかし、何と言っても、残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。
たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々を打ち捨てられているさまは、いいようもないほど不愉快であった。
しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、入城式の前日(十二月十七日)憲兵隊長から聞いたところでは、隊員は十四名に過ぎず、数日中に四十名の補助憲兵が得られるという次第であったから、兵の取締りに手が廻らなかったのは当然だった。
そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。
戦争がすんでホッとしたときに、食糧はないし、燃料もない。みんなが勝手に徴発を始める。床をはがして燃す前に、床そのものに火をつける。荷物を市民に運ばせて、用が済むと「ご苦労さん」という代りに射ち殺してしまう。不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。
問題はこのような放火、殺人、暴行、掠奪といった残虐行為を、外国人の見ている前で働いたということであろう。しかも軍の上層部では戦争に没頭していたし、今日とは違ってラジオ・ニュースなどもなかったから、このような事件をあまり知らなかったのである。
そこで私は、多分十二月 二十五日だったと記憶するが、司令官の朝香宮を訪ね、「南京における皇軍の行動は全世界の注目を浴びているから、そのおつもりで・・・」と暗に注意を促してから、参謀長に会い、
「いま、こういう話をしてきたが、外国の権益のあるところでは慎重にやらねばならない。南京でやっていることが世界中の評判になっているから、大いに自重して欲しい」と申し入れたところ、素直に諒解してくれた。
その他警備司令部、憲兵司令官などをも歴訪して同趣旨を説いてまわったことを覚えている。
その後、南京における状況が東京にもわかって、外務省から陸軍側に知らせたり、外務大臣から陸軍大臣に善処方を要望したりする一方、陸軍も本間少将を現地に派遣したり、法務官をやって軍律を励行するなどしているうちに、事態は漸次改善されていった。
この事件を通じて、外務省としては、現地においても、また東京においても、できる限り適切な処置をとったと私は信じている。
広田外務大臣は事件を閣議に持ち出すべきだったという議論もあるが、それは当時の事情から言って、かえって逆効果をきたしたであろう。もし閣議にはかったりすれば、閣議が統帥権に容喙するとして、一層陸軍を刺激したに違いない。
そこで外務省としては、陸軍大臣に厳談し、軍務局に厳重抗議したのである。
広田さんとしては、南京事件に関する限り、最も有効と思われる手段をとったと私は思う。パネー号事件の時などは、みずからグルー大使を訪ねて頭を下げているが、もしその処置を誤まれば、危うく日米開戦にもなろうというところであった。
結論としては、叙上のような特殊の事情はあったし、また日本軍は軍紀厳正だと信じ切っていた日本人一般の軍に対する過大評価も問題になるであろうが、根本は、軍人に限らず、日本人全体から、いつのまにかモーラル・チェックというものが失われていたという点にあると思われる。
いついかなる時も、人として絶対にある程度以下のことはしないという心構えの欠如が、南京事件を惹起した最大の原因であると私は思う。
(「広田弘毅」P311〜P315)
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