資料:日本人の著作に見る「南京事件」

このコンテンツでは、「南京事件」と直接の関わりを持たなかった方々が当時「事件」をどのように認識していたか、という視点から、いくつかの資料を紹介します。どちらかというと右翼・保守と目される方々の記述が中心です。

 どれも掲示板で時々引用される文章ですが、ここでは極力関連部分全体を収録することにより、原文のニュアンスをより正確に伝えるように努めました。

 なお、これはあくまで「資料」としての紹介です。以下の文を議論に援用される方は、各資料の背景、著者の事実認識の正否等に、十分にご注意ください。

*最初の児玉誉士夫氏の文は「華北」のもので、「南京」を対象にしたものではありません。しかし、「右翼」の大物として知られた児玉氏がこのような認識を持っていたことは大変興味深いので、ここで紹介しました。

<目次>

1.児玉誉士夫氏 「われかく戦えり」

2.法眼晋作氏 「外交の真髄を求めて」

3.徳川義寛氏 「侍従長の遺言」

4.徳川義親氏 「最後の殿様」

5.三笠宮崇仁氏 「闇に葬られた皇室の軍部批判」

6.瀧川政次郎氏 「東京裁判をさばく(下)」

7.菅原裕氏 「東京裁判の正体」



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●児玉誉士夫氏

児玉誉士夫随想・対談「われ かく戦えり」より

 満州でも蒙古でも日本人の進出するところ必ず派閥が伴ない、お互いがいがみ合っていた。戦乱の北支と内蒙を旅して感じたことは、日支事変にたいする本質的な矛盾と疑問だった。ことに驚かされたのはいたるところの戦場に奮戦する中国軍の頑強さと抗日思想の激しさであった。

 それに比較して日本軍幹部の堕落と、兵の素質の低下は全く意外であった。もちろん、まだ全般的にはそうではなかったが、特務機関とか謀略参謀の職責にある人々の日常は、皇軍の崇高な精神をまったく忘却したものであった。機密費の乱費、酒と女、こうした暗い影が占領地都市のいたるところにみられた。

 自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅するに必要な援助と注意を受けたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。

 そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできごとに直面してみると、この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。


  当時、大同では「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無惨にとり毀され、その壁には「何年何月何部隊占領」などと落書してあった。

 人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも若干の非行はあるとしても、当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果となったのだと思う。

 満州事変以来、国防国家の確立に名をかりて政治権力を獲得することに狂奔してきた軍の首脳部は、部下にたいする統御力をしだいに失ってきていた。陸軍大臣が中央にあったロボット化されていたと同様に、軍首脳部もまた現地軍を統御できなかった。そして現地軍の幹部は将校、兵士の非行を取締まるには、あまりにもその行いは威厳を失墜するものがあった。

 要するに軍部内に革新派が生まれ、首脳部がそれを政治的に利用し、政治的に進出するにつれて下剋上の思想は軍全体に漲ってきたのだった。いわば当初国内政治を革新することを目的とした、少数の下級将校の行動は知らぬ間に軍自体の規律を破壊し、日本軍を思想的に崩壊される結果となった。軍部内の下剋上のこの思想が結局日支事変を誘発し、そして現地における不規律を助長するようになったといえる。

 要するに戦線の詔勅なき戦争、名分の明らかならざる戦い、日支事変は畢竟、王師ではなく、驕兵であったかも知れぬ。自分は戦場を旅し、大陸における実情を知るにおよんで、在支百万の日本軍が聖戦の師であるか、侵略の驕兵なるかの疑問に悩まざるを得なかった。このことは自分のみならず現地を知るものの多数が考えさせられた問題であったと思う。

 しかし国民のなかの多数の者がそれを自覚し得たとしても、すでに軍国主義の怒涛が逆巻き、もはや何人の力をもってしてもそれを阻止することは不可能であった。

 そして、この軍国主義の怒涛は、昭和四、五年以来、政党不信をスローガンに、国民大衆が挙げた革新の叫びとその雰囲気のなかから生まれでているとすれば、そして自分もまたその革新勢力のなかの一つの勢力であった右翼派の一つとして行動してきたことを思うと、支那大陸に野火のように拡がって行く軍国主義日本の現実をみて、自らも悔いねばならぬもののあることを知った。

(「われ かく戦えり」 P78〜P80)
*「ゆう」注 いわずと知れた、右翼の大物として知られる人物の文章です。もとは巣鴨戦犯収容所で書かれた供述書(上申書)で、1948年に連合軍司令部の法務局長宛て提出されました。「戦犯」としての立場で書かれたものですが、1949年の出版後、1973年に氏自身の発意により「われかく戦えり」と改題して再版されていること、また同じ本に収録されている「恩師河相達夫先生を偲ぶ」(P320〜)でもほぼ同じ内容のことを語っていること、から、その後も氏の認識には変化がなかったことが伺えます。


2009.1.31追記

 当時の中央官庁においては、児玉氏が言及しているような「残虐写真」の存在は比較的知られていたようです。 以下の矢吹氏の記述によれば、その写真の出所は、出征兵士たちが家郷に送ったものが、検閲により没収されたものであるとのことです。

矢吹一夫『政変昭和秘史』(上)より

 事実、当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だがお目にかけよう、と言って分厚い数冊の写真帳を貸してくれたので、開いて見たら、暴行の限りを尽くした写真が一杯である。

 ストリップ写真に食傷している現代人が見ても、ぎょっとするようなエロ・グロ写真、そして、血刀を差し上げている一兵士の周囲に、数十個の中国兵の首級が並べられているものだとか、近衛に相似した中国兵の首級を木の枝にひっかけ、葉巻をくわえたような形で、切断した男根を口に挿し込んだものとか、いまやまさにエイッと中国兵の首を打ち落とそうとしている瞬間のものだとか、筆紙に尽くしがたい残虐写真が満載されていた。

 私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午に開かれる国策研究会常任理事会に持ち込んで、皆さん、食事が済んだら大変な写真をお目にかける、と言ったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、珍しいものなら、食前でもよいから見せろ、といって聞かない。

 私が、食事が不味くなる、と言うのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、と言うので、では、と言って写真帳を開いた。一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううん、と唸ったきり、しばらくは一言も発するものもない。

 これらの写真は、小野次官の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇(?)を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。

 日本民族に潜在する残虐性が、戦場という異常状態に触発されて暴発したものであるにせよ、あまりにも無惨であり、ひどすぎるという慨嘆の声である。(P398)

 かつて外国人によって書かれた「奉天二十年」に見られる日露戦争当時の、軍規整々、を謳われたのと同じ日本人、しかも私共の父祖の時代との対比であるだけに、驚きは大きく、とくに下村海南は、日露戦争当時、逓信省郵政局長として活躍した人物だけに、痛恨の情はひとしおだったようだ。

 終戦後のこと、この問題に関連するのだが、支那派遣軍最高司令官だった岡村寧次陸軍大将は、引き揚げて帰国後、戦時中日本軍兵士が中国大陸で犯した残虐事件について、数多くの資料を持っていること、 日本人がかような残虐事件を犯すに至ったのは、過去の教育が誤っていたのではなかろうか、新生日本の将来を考えると、どうしても日本人の精神改造というか、人格の練り直しをはからねばならぬと思うが、研究してくれぬか、と大きな袋をかつぎ込んで相談にやって来たことがある。

 私ももちろん同感であったのだが、この頃の私は、いわゆる「追放中」の身分であるのみならず、米ソ両国の検事団によって、厳しい取調べを受けていたので、どうすることも出来ぬ立場であった。(P398-399)




●法眼晋作氏

法眼晋作回顧録「外交の真髄を求めて」より

 電信専門の官補時代に最もショックを受けたのは、南京事件(後述)であった。敗走する中国軍を追って南京を占領(昭和十二年一二月十三日)した日本軍が、筆舌を絶する乱暴を働いた事実である。あまりに乱暴狼藉がひどいので、石射猪太郎東亜局長が陸軍軍務局長に軍紀の是正を求め、広田外相も陸軍大臣に強く注意して自制を求めた。軍は参謀本部二部長・本間少将を現地に送って、ようやく事態は沈静に向かった。

 戦後現在に至って、南京事件の事実を否定し、これがため著書を発行したり、事実無根との訴訟を起こす者も出てきた。また、被害者の数を問題にする者もいる。残虐行為は被害者の数が問題なのではない。私に理解できぬのは、この世界を震駭し、知らぬは日本人ばかりなり(当時、報道が軍の厳重な統制下にあった)と言われた大事件を、如何なる魂胆かは知らぬが否定し、訴訟まで起こす者のいることで、このようなことはまことに不正明なことと言わねばならぬ。盗人猛々しいくらいの形容詞では足りぬ。

 歴史的事実はいかなるものであれ、事実として認めるほうが宜しい。さもなくば、日本は事実を秘匿し始めた、将来またやるかも知れぬ、と案じる外国人も出てこよう。この未曾有の事件を否定すればするほど、日本の恥の上塗りとなるくらいのことは、常識であると思う。

 (「外交の真髄を求めて」 P35〜P36)
*「ゆう」注 以下、巻末の著者紹介を引用します。

明治43年和歌山県に生まれる。昭和8年東京大学法学部卒業後、12年外務省に入る。34年在ソヴィエト連邦日本大使館参事官、36年欧亜局長となる。 以後、オーストラリア国駐剳特命全権大使、外務審議官、外務事務次官、外務省顧問を歴任。49年国際協力事業団総裁に就任(現顧問)、58年から国策研究会理事長を務めている。




●徳川義寛氏

徳川義寛「侍従長の遺言」より

 昭和十二年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか・・・。私の大学の友人で軍医だったのが、朝香宮さまのお供で現地へ行って見聞した話を、私は聞いていたからです。

 それに、南京攻略の総大将松井石根さんは名古屋の人で、私の母(徳川寛子)が松井さんの奥さんをよく知っていましたし、私の父(義恕)は名古屋の軍人の会の会長をしていましたから。

 松井さんは中国の勤務が長く、南京攻略後、「相手の死者も浮かばれまい」と、現地で日中両方の死者の慰霊祭をやろうとした。ところが、下の師団長クラスの連中に笑われ反対されたということでした。みな、「戦争なんだからそういうこともあっても・・・」といった感じだったそうです。

 松井さんは日露戦争も経験していたから、日本の捕虜の扱いが日露の頃は丁重だったことをよく知っていた。しかし、南京では、上の言うことを下が聞かず、軍紀の抑えがきかなくなっていた。それで松井さんは後に熱海に興亜観音を造った。松井さんは立派だったと思いますね。

 南京虐殺があったとか無かったとか論争があるようですが、当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。陛下が知っておられたかどうかはわかりませんが、折に触れて「日露戦争の時の軍と違う」ということはおっしゃっていました。明治天皇のご事蹟をよく知っておられましたから。

(「侍従長の遺言」 P38〜P39)
*ゆう注 以下、巻末の著者紹介です。
一九〇六年東京都生まれ。東京帝国大学文学部美学科卒。ドイツ留学、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員を経て、二・二六事件があった三六年に昭和天皇の侍従となり、以後五十二年間、側近として仕えた。八五年に侍従長、八七年四月から侍従職参与。九六年二月二日死去。生前は日本博物館協会会長の職にもあった。


 

●徳川義親氏

「最後の殿様―徳川義親自伝」より

 十一月に、貴族院では慰問団を北支と上海方面に派遣することになった。ぼくは尾張の人が多く出征しているので、志願して慰問団にいれてもらった。すると年少のぼくに団長になれという。考えてみると侯爵はぼくだけで、団員は伯爵樺山愛輔、子爵井上勝純、子爵三島通陽、男爵岡義寿。

(中略)

 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかというようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。

 藤田くんは、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、十月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

 中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、

「人を殺すのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。

 
長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、

「長、その話だけはだれにもするなよ」

と厳重に口どめしたという。

(「最後の殿様」P170〜P173)
*「ゆう」注 長中佐は大言壮語する人物であったようで、この話もどこまでが真実であるかは判然としません。ただ、この種の発言を「自慢話」として堂々と語っている事実から、長氏のメンタリティを知ることができます。

**著者紹介より。
 明治十九年(一八八六)十月五日、越前・福井藩主であった松平慶永(春嶽)の末子として生まれる。 幼名、錦之丞。明治四十一年、学習院高等科に在学中、尾張徳川家の養子となリ、徳川義親と改名。同年五月養父義礼の死後、かつて御三家の筆頭であった侯爵徳川家の十九代目当主として家督を相続。東京帝国大学国史科、生物学科に学ぷ。学生時代から始めた「木曽林政史」の研究業績は、わが国経済史研究の草分けとして評価が高い。大正十年のマレーでのトラ狩りは有名。豊かな学殖と帽広い行動力をもった異色・型破りの「殿様」として、現代史に多彩な足跡を残している。





●三笠宮崇仁氏

三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より

(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員) 

 ―最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。

三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。

 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

 しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。

 日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。(「ゆう」注 「ユーハイム」のことだと思われます)

(「THIS IS 読売」1994年8月号 P54〜P56)
*「ゆう」注 岡村寧次大将の認識については、こちらの「岡村寧次大将資料」をどうぞ。
**インタビュー記事の紹介より 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと) 一九一五(大正四)年十二月二日生まれ、七八歳。皇位継承順位は皇太子、秋篠宮、常陸宮についで第四位。オリエント学者。(略)昭和天皇の弟。(以下略)



2004.2.24 追記 

三笠宮氏に関して、興味深い記録を見つけましたので、併せて紹介します。

小川哲雄氏「日中戦争秘話」より

  あれは昭和十八年の春頃ではなかったか。総軍の若杉参謀から総軍司令部尉官将校に対し、次のような命令が下された。

 「支那事変が今に至るも解決せざる根本原因について思うところを述べよ。
 但し、三行三十字以内とする。」

 文章は長ければ楽だが、短くすればするほど難しい。われわれ若手将校はあれこれと知恵をしぽって解答を書いた。

 数日後、総司令部大会堂に尉官将校数百人が参集した。壇上には黒板を背にして若杉参謀が立たれ、左右には総軍司令官、以下参謀長、将官、佐官がずらりと居並んだ。陪席という恰好である。

 若杉参謀の講評がはじまった。

「支那事変未解決の根本理由に関する諸官の解答についてつぶさに目を通した」

 参謀はその解答の代表的なものについて一枚一枚手にとって読み上げられた。

 日く、蒋介石の徹底した抗日教育。
 日く、ソ連の延安を通ずる支援。
 日く、英米の物的援助。
 日く、ビルマルートの打通。
 日く、中国大陸の広大さ。等々。

 若杉参謀はその各々について、解説を加え、事変未解決の一つの原因であるかも知れない、とされながら、

 「しかし、そのいずれにも本官は満足しない。諸官の解答は事変未解決の原因の一つだとしても、それは単に枝葉末節的、あるいは部分的原因にすぎない。いずれも本官の考える根本的原因には程遠い。諸官の解答は落第である」

 若杉参謀は机の上に積み重ねた解答の中から一通の答案を取り出し、

 「但し、この解答だけは本官が期待した唯一のものである」

 「沢井中尉、前えっ」

 沢井中尉(大阪在住)は私と軍事顧問部の同僚であり、大阪外語の出身であった。

 沢井中尉は若杉参謀の前に進んだ。

 「読み給え」

 沢井中尉は自分の書いた答案を両手で眼の前に掲げながら、大きな声で読み上げた。

 「支那事変未解決の根本原因は、日本人が真の日本人に徹せざるにあり」

 沢井中尉が読み終わると、間髪を入れず、若杉参謀の声が語気鋭く講堂にひびいた。

 「その通り。事変未解決の根本原因は日本人が真の日本としての行動をしていないからだ。略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か。大陸における日本軍官民のこのような在り方で、いったい陛下の大御心にそっているとでも思っているのか

  若杉参謀の前にならぶわれわれ尉官はもとより、左右に居ならぶ総司令官以下、将官佐官、ひとしく頭を垂れ、満堂粛として声がなかった。

 若杉参謀はさらに語をついで

 「わが日本軍に最も必要なことは、武器でもない、弾薬でもない。訓練でもない。これだ」

 若杉参謀はくるりと後ろを向き、黒板に大書された。

 ”反省、自粛”

 「自らをかえりみ、自らをつつしみ、自らの一挙一動、果たして大御心にもとることなきかを自らに問うことである」

 言々火のごとき若杉参謀の一語一語であった。軍の驕慢、居留民の堕落を衝いて余すところなく、今、この時、真の日本人、全き皇軍に立ちかえることが出来ねば支那事変は永久に解決しないであろう、と斬ぜられた。

 満堂、声がなかった。

 私は参謀の御言葉の中に日中事変そのものの不道義性へのお怒りを感じた。

 全員起立のうち、若杉参謀が退席された。

 退席されるや否や、総軍高級副官が冷汗をぬぐいながら、われわれ尉官に対し、「只今のお言葉は、何ともその、恐れ多い次第であるが、その何というか、あまり、いやまあ、なるべくだな、外部には、口外せんようにな」

 汗をふきふき、しどろもどろの高級副官であった。

 若杉大尉参謀は、支那派遣軍総司令部における三笠宮崇仁親王殿下の御名であった。

(P31〜P34)
*著者紹介より

  小川哲雄(おがわ・てつお) 大正三年、大分県中津市上如水生れ。(略)昭和十七年、任南京国民政府軍事顧問・兼経済顧問補佐官。昭和二十年、終戦直後(八月二十五日)、南京国民政府陳公博主席以下政府要人七名の日本亡命を領導、京都金閣寺に入る。同年末、陳公博夫人を送って再び中国上海に赴き帰国。

**「著者紹介」にもありますが、この本は、小川氏が、「南京国民政府顧問」を務めた立場から陳公博主席らの日本亡命に付き添った体験談です。このような立場の人物も、三笠宮氏の認識に共感を示していることが注目されます。なお、著者は、「日露戦争を人種平等化への第一歩とするならば、大東亜戦争はまさに白人に対する有色人種の断固たる自己主張の雄叫びであり、人種平等化への巨大な第二歩であった」(P281)という、「大東亜戦争」を肯定する思想の持ち主です。
 



●瀧川政次郎氏

瀧川政次郎「新版 東京裁判をさばく(下)」より

  私はこれらの証人が語った残虐行為をここに載録するに堪えない。これらの証人の中には危く日本兵の虐殺の手から逃れた人々も交っているから、彼らは南京占領後に繰りひろげられた地獄図をまざまざと描いている。

 怨恨と復讐の念とに燃え上っているこれら証人の言に虚偽と誇張のあることは、その反対訊問の速記録を見ただけでもわかる。しかし、彼らの言に多少の誇張があるにしても、南京占領後における日本軍の南京市民に加えた暴行が相当ひどいものであったことは、蔽い難き事実である。

 当時私は北京に住んでいたが、南京虐殺の噂があまりに高いので、昭和十三年の夏、津浦線を通って南京に旅行した。南京市街の民家がおおむね焼けているので、私は日本軍の爆撃によって焼かれたものと考え、空爆の威力に驚いていたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いずれも南京陥落後、日本兵の放火によって焼かれたものであった。

 南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半歳を経た当時においてもなお冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語ったところによると、現在南京市内にいる姑娘(クーニャン)で日本兵の暴行を受けなかった者はひとりもないという。

 国民政府の首都南京をおとし入れて講和の機を掴もうというのは、随分馬鹿気た考えであった。首都抜かれて国に何の面目があるか。相手が死物狂いになってトコトンまで抗戦するのは知れたことである。国民軍は首都南京の防禦には死力を竭して戦った。激戦のあった南京の城壁は、私が行ったときまでも、日本兵の血で彩られていた。

 南京虐殺は、この国民軍の頑強なる抵抗によって沸き立った日本兵の敵愾心にも一因がある。通州事件による中国兵による残虐行為が南京攻囲軍の将兵の間に知れ渡ったことも亦その一因である。

 しかしその最大の原因は、軍の統率が失われ、軍紀が紊乱したことにある。大元帥陛下をないがしろにした将官たちは、佐官たちにないがしろにせられる。将官たちをないがしろにした佐官がちは、尉官たちにないがしろにせられる。一般行政権を離れて独立した総帥権は、軍を私兵化した。朝鮮越境を敢えてした軍は、軍人の軍であって国民の軍ではなくなってしまっていた。私兵化した軍隊に下剋上の風が行われるのは、必然の成り行きである。

 軍の実権はやがて佐官級に移り、尉官級に移り、果ては下士官級に移って行った。将校の言うことをきかなくなった下士官級によって統率される兵卒が、暴行、掠奪を行うに至ったのは是非もない次第である。

 私は南京視察後東京に帰り、私が九大で教授をしていた時の法文学部長であった美濃部達吉先生にお目にかかり、「今日において日本を匡救する途如何」を問うたところ、先生は「林銑十郎を処刑しない限りは、日本を匡救する途はない」と言われたが、今にしてその正理なることを痛感する。

 下剋上の風によって仆れる大廈は、松井大将の一本の能く支え得るところではない。南京虐殺の責を一身に背負わされて絞首台の露と消えた松井石根大将個人は、むしろ同情に値するものと言えよう。

 今次の戦争において行われた日本軍の残虐事件が、軍首脳部の諒知と同意とに依って行われたものであるという中国検察官の見解は、復讐に血迷った見解である。向哲濬氏も検察官としての立場においてかく論告したのであって、内心その非なることは自覚していたのかも知れない。

 軍の首脳部が、部下将兵の残虐行為を制圧し得なかった責任は免れ得ないと思うが、彼らが捕虜を虐殺してもよいというような乱暴な命令を出したというのは、人を誣うるのはなはだしいものである。彼らがそれほど猛悪な意思をもっていたとしたならば、俘虜収容所などは設けなかったはずである。

 中国において軍隊ならざる民衆が多く殺戮を被ったのは、軍隊が便衣を着用し、難民に化けて日本軍を攻撃する卑劣なる戦法をとったからである。便衣隊と難民とをゆっくり区別している暇のない日本軍が、難民を射殺したことは自衛上已むを得ない。難民虐殺の責のみが問われて、便衣兵の交戦法規違反が咎められないことは、正理に反している。故に弁護側は、これらの証人の反対訊問にあたって、便衣隊の活動を鋭く衝いている。

(「新版 東京最後をさばく(下)」P95〜P98)
*筆者の考えを正確に伝えるべく、長文の引用を行いました。「東京裁判」の被告人側弁護士が、「南京占領後における日本軍の南京市民に加えた暴行が相当ひどいものであった」との認識を持っていたことは、興味深いことだと思います。文中には私の認識とは大きく異なる記述も見られますが、「資料」としてあえてコメントなしで紹介します。



●菅原裕氏

菅原裕「東京裁判の正体」より

 残虐行為の証人たち

 残虐行為の主張は、中国代表向検事の宣伝演説にはじまり、検事団はつぎつぎにいわゆる被害者や目撃者を法廷に立たせて、法廷をして掠奪、強姦、放火の坩堝と化せしめたのであった。

 侵略論議や日本の伝統に対する理解に冷然たる法廷が、こと残虐行為に関する限り、非常な興味をもって、きき耳を立てて傾聴する態度に、心ある者は、あるいはその低級を不快とし、あるいは残虐行為の責任をもって、死刑のきめ手とする底意あることを看取して、法廷の現実に失望したのであった。

 インド代表パール判事は、その単独意見書に「これらの証人は、いい聞かされたすべての話を、そのまま受け入れ、どの事件も強姦事件とみなしていたようである」と各証言を一々論評してさすがに高い見識を示している。
*「ゆう」注 私見ですが、パール判事のこの認識は、各証言を十分に理解してのものではないと思われ、結構おかしな部分が目につきます。詳しくは「『パル判決』再考」をご覧ください。
 われわれ日本人弁護団も、最初は全然彼らの悪宣伝で、中国軍が退却に際し常套手段として行なう残虐行為を日本軍に転嫁しているのだ、と冷笑しながら聴いていたが、審理の進むにつれて、多少その考えを修正しなければならなくなった。

 もちろん彼らの主張する十中八、九は虚偽と誇張と見るべきであろう。しかし一、二割は実際にあったのではないかと、残念ながら、疑わざるを得なくなった。これは日清、日露の両役では、断じてきかれなかったことであって、日本民族としては、敗戦にもまして、悲しき事実の是認であった。


(同書 P144-P145)
*極東軍事裁判で元陸軍大将荒木貞夫の弁護人を務めた菅原裕弁護士の記述です。「一、二割は実際にあったのではないか」とは何とも控え目な推定ですが、ともかくも、瀧川弁護士と同じく、一定規模の「日本軍の残虐行為」を認めざるを得なくなったことが注目されます。

(2003.5.24記   2003.6.19 瀧川政次郎氏「東京裁判をさばく」追加  2003.12.14 「三笠宮インタビュー」追加   2004.2.24 小川哲雄氏の記述を追加 2007.11.17 菅原裕氏「東京裁判の正体」追加 2009.1.31 矢吹一夫氏の記述を追加))
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