東中野氏の徹底検証 3
反日撹乱工作隊(2)



東中野氏が取り上げるもう一つの「証拠」、「チャイナプレス」の記事を見てみましょう。まず、東中野氏の文章からです。

東中野修道氏『南京虐殺の徹底検証』より

 また、上海でアメリカ人の発行する『チャイナ・プレス』(一九三八年一月二十五日号)も、同じことを報じている。それによれば、十二月二十八日現在で、外国大使館や建物から、支那軍の将校二十三名と、下士官五十四名、兵卒一四九八名が摘発された。

  これは、十二月二十四日からの住民登録の結果でもあった。つづけて「チャイナ・プレス」一月二十五日号は、その前日公表された南京日本軍憲兵隊の報告書を引用する。
<その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。 彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民の第四部門のグループを指揮していた。 また、前第八十八師の副師長馬跑香(音訳)中将や、南京警察の高官密信喜(音訳)もいると言われている。馬中将は安全地帯内で反日攪乱行為の煽動を続けていた、と言われる。また、安全地帯には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、 王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。
 安全地帯に潜伏中の支那軍将兵が悪事を働いたのである。

 上海派遣軍参謀長・飯沼守少将が昭和十三年元旦の日記に、「他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑あるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり」と書き、 一月四日の日記に「保安隊長、八十八師副師長」を逮捕と記していることが、右の記事の正しさを裏付けている。(同書 P277)




 この「王信労」Wang Hsianglaoまたは「陳弥」Chen Miは、「王新倫」(「王興龍」)Wang Hsing-Lungまたは「陳嵋」と、「同一人物」であると断定して間違いはないでしょう。

 さて、 この「チャイナ・プレス」の記事は、ラーベ日記の英訳版( "The GOODMAN of NANKING")に掲載されています。なお、邦訳(講談社版)ではこの部分は省略されていますので、拙訳を付しました。

Report from the China Press in Shanghai, 25 January (Excerpt)

 Claiming that many Chinese army officers and other ranks were seeking refuge in the International Safety Zone established in Nanking following the evacuation of the capital by Chinese troops, Colonel Nagai, army spokesman, announced the report of the Nipponese gendarmerie in Nanking at yesterday's press conference・・・

 It was ascertained, the report claimed , the high officers of the Chinese army were evacuated by their staffs. Up to December 28 , it said, 23 chinese officers, 54 non-commissioned officers, and 1,498 privates were seized by the Japanese in the various building in the zone.

 Among them, it was claimed, was the commander of the Nanking peace preservation corps, Wang Hsianglao, "who masqueraded as Chen Mi" and was in command of the forth branch detachment of the International Safety Zone, Lieutenant General Ma Poushang, former adjutant of the 88th Division, and high official of the Nanking police, Mi Shinshi.


 General Ma, it is claimed, was active in instigating anti-Japanese disorders within the zone, which also sheltered Captain Huan An and 17 rifles, while the report states that Wang Hsianglao and three former subordinates were engaged in looting, intimidating and raping.


 In dugouts adjoining foreign embassy and legation quarters evacuated by their staffs, were found caches of arms. A search in one dugout disclosed:

one light artillery gun
21 machine guns of Czechoslovakian manufacture with 60 rounds
three other machine guns
10 water-cooled machine guns with 3,000 rounds
50 rifles with 420,000 rounds of ammunition
7,000 hand grenades
2,000 trench mortars shells
500 artillery shells

 When asked to specify the embassy adjoining the dugout, the spokesman said that that he did not feel he was at liberty to do so. He also evaded a question as to whether anybody was found in the United States legation.

 Although no official information was available, the spokesman continued, he understood that a number of Chinese army men arrested were executed on charges of looting. When asked whether prisoners would be regarded as prisoners of war or spies, he answered that this was entirely dependent on the circumstances under which they were arrested.

"The GOODMAN of NANKING"P172〜173


(「ゆう」訳) 中国軍の首都放棄のあと、南京に「国際安全区」が設立されたが、多くの中国軍将兵がそこに避難所を求めている。日本軍のスポークスマンである永井大佐は、昨日の記者会見において、そのように主張しつつ、南京の日本憲兵隊の報告を発表した。

 報告が主張するところによると、中国軍の高級将校が、館員が退去したあとの外国大使館・公使館の建物に隠れていたことは、確かだという。報告によれば、12月28日までに、23人の中国軍将校、54人の下士官、1498人の兵士が、安全区内のさまざまな建物内から日本軍によって発見された。

 その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労(音訳)がいた。彼は陳弥(音訳)と名乗って、国際避難民の第四部門のグループを指揮していた。また、前第八十八師の副師長馬跑香(音訳)中将や、南京警察の高官密信喜(音訳)もいると言われている。

 馬中将は安全地帯内で反日攪乱行為の煽動を続けていた、と言われる。また、安全地帯には黄安(音訳)大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わったという。

*「ゆう」注 斜線部分は、東中野氏の訳をそのまま使用しました。

 
館員が退去したあとの外国大使館・公使館に隣接する防空壕からは、隠匿兵器が発見された。ひとつの防空壕の捜索の結果は、次の通りである。

軽砲 1
チェコ製機関銃 21 弾丸60発付
他の機関銃 3
空冷式機関銃 10 弾丸3000発付
小銃 50 小銃弾42000発付
手榴弾 7000
迫撃砲弾 2000
砲弾 500

 我々は、防空壕に隣接するという大使館の特定を求めたが、スポークスマンは、自分にはそれを言う権限がないと思う、と言うのみだった。彼はまた、アメリカ公使館から誰かが発見されたのかどうか、という質問を避けた。

  彼が続けるには、公式情報は入手できないものの、逮捕された多くの中国軍兵士が略奪の罪で処刑されたと思う、ということだった。捕虜たちは戦時捕虜と見なされたのか、あるいはスパイと見なされたのか、という質問に対しては、彼は、それは捕虜たちが逮捕されたときの状況による、と答えた。

*以上、拙訳ですので、翻訳は、参考程度にして下さい。

 


 東中野氏はこのうち斜線部分のみを抜粋していますが、前後を見ればわかるとおり、これは、「日本軍憲兵隊」(Nipponese gendarmerie)の「報告」を、そのまま報道した部分です。

 記事中にも、「報告が主張するところによれば」(the report claimed)と明記されています。

 ちょっと見ても、ただの「大佐」だったはずの「王新倫」が「南京平和防衛軍司令官」というわけのわからない役職に「出世」している、 明らかに身分が「保証」されていた「王新倫」の「部下」2名についても「元兵士」であり「掠奪強姦」に携わったとの断定がなされている、 「南京警察の高官」までが「軍人」として逮捕されているなど、「報告」内容には大分問題がありそうです。

 少なくとも、この一方的な発表内容を、ストレートに「事実」と認定することはできないでしょう。



 同じ記者会見に、アベンド記者も出席しています。参考までに、アベンドの記事も紹介します。

南京の無法状態

ハレット・アベンド

<ニューヨーク・タイムズ>特電

 一月二十四日、上海発。

 軍事的必要その他の日本側の口実をすべて剥ぎ取ってみるに、日本軍の中国前首都攻撃から一月と十日経った南京の現状は、日本当局が外交官以外のいかなる外国人の南京訪問をも許可できないほど無法で蛮虐であるという赤裸々な事実が残る。

 十二月二十六日、上海の日本側高官たちは南京で略奪、暴行が続いていることを残念ながら認めると言い、記者に対し、軍規劣悪、命令不服従の部隊は小部隊ずつ長江北岸に移動されているところであり、その守備地域は精選された軍規厳正、行動良好の部隊によって替わられる、と約束した。

 さらに一月七日にも日本当局は記者に、遺憾ながら南京はまだ嘆かわしい情況であると認め、統制を逸し、日々に何百という婦人や少女への暴行を働いている軍の師団は二、三日中に南京から退去される見込みだ、と保証した。

(中略)

日本の報告発表

 ジョン・M・アリソン領事の南京からの報告に基づいて、アメリカが日本軍歩哨の米大使館構内侵犯に関し抗議したことへの明らかな対抗措置として、 今晩、日本陸軍司令部は一四日前に南京駐屯の憲兵部隊から受領したと称する報告を発表した。同報告は一月前の情況を扱っており、最後の日付は十二月二十八日である。

 本報告の報じる南京における査問会議は、難民キャンプおよび非軍事化されたはずの安全区に中国人将校二三名、下士官五四名、兵士一四九八名が隠れていた。その内の一部は掠奪の件で処刑されたということを明らかにした。これら高級将校の一部は、大使館、領事館、その他中立国旗を掲げた建物に避難していたことが、とくに強調された。

 これらの平服の中国軍将校及び副官は、明らかに多くの場合大量の軍需物資を隠匿していた。某国大使館近くと特に曖昧に言及された一防空壕の捜索では、軽砲一、機関銃三四、小銃弾四二○○○○、手榴弾七○○○、砲弾五○○、迫撃砲二○○○が発見された。

*「ゆう」注 「迫撃砲二○○○」は、「迫撃砲弾二○○○」の翻訳ミスであると思われます。

 記者側から質問を浴びせられて、日本の報道官は中国軍は全大使館員が退去した後に構内に入ったものであることを認め、いずれかの非中立的な外国が紛糾を起こしたと示唆しようというのではない、と言った。

 その大使館の国名を挙げるよう強く求められたが、報道官はこう言って返答を避けた。 「この問題については皆さん自身の回答にお任せしましょう。」

 さらにアメリカ大使館が関係しているかどうかと尋ねられても、彼の答えは「その点については触れないほうが良いと思う」というものであった。

 一月中、とりわけ十五日以降の南京の情況についての情報を求められたが、日本の報道官は、まったく知らないと断言した。

*「ゆう」注 この記事は、1月25日付のものです。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P443〜P444) 


 東中野氏の引用部分以外、ほぼ同一の内容であることがわかると思います。

 アベンドが東中野氏の引用部分を省略した理由は定かではありませんが、記事前半の記述から見て、「王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦に携わった」という発表内容に疑問を感じた可能性も、考えられないことはないでしょう。




2005.1.31 追記

 2003年9月発行の「1937 南京攻略戦の真実」には、このような記述が見られます。

「1937 南京攻略戦の真実」より

 安全地帯に中国軍将校が潜伏していたことを裏づける手記が出てくる。第三章の「南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗」である。 中国軍の高級将校が最後まで安全地帯に潜伏していたが、わざわざ安全地帯に残って何をしていたのであろうか。 「掠奪、煽動、強姦に携わっていた」という新聞記事が残っている。これはさらに考えてみなければならない。(同書 P157)

 「南京虐殺の徹底検証」の記述と比較すると、ややトーンダウンしている印象を受けます。

 なお、上の文章を読んだ方は、「中国軍の高級将校が最後まで安全地帯に潜伏していた」ことが「反日撹乱工作隊」説の裏付けの一つになる、という印象を受けると思います。しかし実際には>、「南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗」は、日本軍が安全地帯掃蕩を開始する前の「12月13日」の出来事でした。

 上のエピソードの時点では、日本軍はまだ先遣隊のみが城内奥深くに入っている程度の状態でしたので、安全区に「中国軍将校」が存在していても、何の不思議もありません。この記録を「反日工作撹乱隊」説につなげてしまうのは、強引以外の何物でもないでしょう。



2005.8.28 追記

 2005年2月発行の「南京事件「証拠写真」を検証する」では、上の「撹乱工作隊」報道が、再び事実として取り扱われています。

「南京事件「証拠写真」を検証する」より

 (ゆう注.『チャイナプレス』記事を引用して)安全地帯に潜伏していた将校が安全地帯の中国兵に撹乱工作を命じていたのだった。しかも、南京の欧米人のなかには将校を匿うという違法行為を行う人もいた。

 これと同じような記事は、小林太厳が『日本「南京」学会会報』第十二号(平成十六年三月)に詳論したように、『大阪朝日新聞』昭和十三年二月二十七日付)が『皇軍の名を騙り南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る』と題して、実名入りで報じている。(同書 P65)

 小林氏の論稿は確認しておりませんが、東中野氏のこの記述だけを読むと、『大阪朝日新聞』に「これと同じような」「中国兵」の「撹乱工作」の記事がある、と錯覚します。 しかし実際の記事は、中国側の「工作」でも何でもなく、単に「(元兵士ではない)中国人が、通訳の腕章を偽造して日本人を装い、強盗を働いていた」というだけのものでした。

大阪朝日新聞 1938.2.17付

皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行
不逞支那人一味捕る

【同盟南京二十六日発】
 皇軍の南京入城以来わが将兵が種々の暴行を行つてゐるとの事実無根の誣説(ぶせつ)が一部外国に伝わつてゐるので在南京憲兵隊ではその出所を究明すべく苦心探査中のところこのほど漸くその根源を突き止めることが出来た。

 右は皇軍の名を騙って掠奪暴行至らざるなき悪事を南京の避難地域で働いてゐた憎むべき支那人一味であるが憲兵隊の活躍で一網打尽に逮捕された。

 この不逞極まる支那人はかつて京城において洋服仕立を営業、日本語に巧みな呉堯邦(二十八才)以下十一名で皇軍入城後日本人を装ひわが通訳の腕章を偽造してこれをつけ、 南京玉■村五〇号、上海路十四号、幹河路一〇六号の三ヶ所を根城に皇軍の目を眩ましては南京区内に跳梁し強盗の被害は総額五万元、暴行にいたつては無数で襲はれた無辜の支那人らはいづれも一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れたものであるが憲兵隊の山本政雄軍曹、村辺繁一通訳の活躍で検挙を見たものである。

一味は主魁呉堯邦のほか・・・の十名でいづれも皇軍の入城まで巡警を務めてゐた。(ゆう注.原記事には十名分の氏名がありますが、省略しました)

 

 南京における「種々の暴行」を、ひとつの強盗団の仕業にしてしまおうという、苦心の発表です。そもそも「通訳の腕章」しかつけていないわけですから、「将兵」の「数々の暴行」を彼らのせいにしてしまうのは、無理があります。

 「いづれも一味を日本人と信じきつてゐたため発覚が遅れた」との部分が、当時の状況を問わず語りに語っており、興味深いところです。すなわち中国人は、「強盗」にあっても、その犯人が日本人であればあえてこれを通報することはできなかった、と見ることも可能でしょう。

 さらに言えば、「反日撹乱工作隊」事件なるものがもし事実であれば、この「民間強盗事件」などとは比べものにならないくらいの格好の対外・国内向け宣伝材料であったはずです。皮肉なことにこの記事は、
「反日撹乱工作隊」事件が国内で全く報道されなかったことの不自然さを、一層浮き彫りにする結果になっています。

(2002.12記 2005.1.31追記 2005.8.28追記)


 
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