東中野氏の徹底検証 12
日本軍の不法殺害


 安全区の「住民登録」の際、「以前に兵隊だった者」が「進んで自首するならば生命は助けてやる」との日本軍の呼びかけに応じて「二、三百人」が「自首」したところ、結果として漢中門外で処刑されてしまった、という事件が起こりました。

 この事件は、ベイツの他に、何人かの外国人の日記にも記載されています。しかし東中野氏は、あえてこの事件の存在自体に疑問を投げかけます。

 以下、東中野氏の記述を追ってみましょう。


 日本軍が不法に処刑したという話をもとにして、一九三八年一月二十五日、ベイツは「メモ」を書き上げる。それが上海のティンパーリのもとに送られ、テインパーリ編「戦争とは何か」の第三章となって一九三八年七月に出版された。

 その「メモ」の中でベイツは、十二月二十四日から始まった兵民分離をも問題にした。それによれば、避難民の登録と良民証の発行に際して、三千人の男が大学図書館横に集められたという。日本軍は、進んで自首すれば生命は保証すると、彼らに約束したという。 すると、ベイツたちが見ている前で、「二、三百人」の男が兵士であることを認め、列の前に出てきたという。そして、「二組に分けられ」て連行されたというのである。

 ところが、日本軍は約束を破って、ひそかに彼らを漢西門外と漢中門外で処刑した―そう主張する八人の男がベイツの前に次々と現れた。

 (中略)

 「二、三百人」の死体ともなると、かなりな量の死体である。その死体が発見されたのであろうか。死体があれば殺人事件となるが、死体がなければ悪質な宣伝となる。

 そこで、ベイツは埋葬グループがその死体を目撃したと記す。
<三千体がその地点にあって、大量処刑のあと積み重ねられたり並べられたりしたまま放置されてると埋葬グループは報告している。>

 しかし埋葬は昭和十三年二月から始まったから、この時点(十二月二十五日)では「埋葬グループ」など存在しなかったはずである。しかも、今度は死体が「三千体」になっていた。果たして「埋葬グループ」はあったのであろうか。その疑問は、次の一事により氷解する。

 すでに述べたように、ベイツの「メモ」は『戦争とは何か』の第三章を成すとともに、他の英文四書にも転載されていた。そこで、ベイツの「メモ」を収録した本を全て列挙すると、次のようになる。

.謄ンパーリ編『戦争とは何か』 一九三八年(昭和十三年)三月二十三日(序文日付)
⊇淑希編『日本人の戦争行為』 一九三八年四月十二日(序文日付)
徐淑希編『要約・日本人の戦争行為』 一九三九年一月二十八日(序文日付)
ぁ悒船礇ぅ法璽此Εぅ筺璽屮奪一九三八―三九』 一九三九年三月十五日(序文日付、徐淑希執筆)
ソ淑希編『南京安全地帯の記録』 一九三九年五月九日(序文日付)

 「公式資料」から編纂された『チャイニーズ・イヤーブック』を含む、右の△らイ留冓源予颪蓮峪粟藺里(略)放置されていると埋葬グループは報告している」という一文を削除している。

 従って、三千体という死体はなかった。ベイツが支那人から聞いた話は不確かなものになってくる。支那兵に、自首すれば生命だけは保証すると約束しながら、日本軍はその約束を破って処刑した―という話は、根拠のない話であったことになる。

(「徹底検証」P326〜P329)


 一見して、奇妙な文章です。

 最初問題になっていたのは、「二、三百人」の「死体」の存在でした。そうであれば「二、三百人」の「死体」の有無が焦点となるはずなのですが、それがいつのまにか、「三○○○体」の死体がなかったから「事件」は根拠のない話である、ということになってしまいました。


 「埋葬は昭和十二年二月から始まった」と書くこと自体、東中野氏の勝手な推察なのですが、この点についてはここでは触れません。とりあえずは、「ベイツメモ」の該当部分を見てみましょう。

ティンパーリ「戦争とは何か」 「第三章 約束と現実」より

 この男の報告と証言になお次の二つの事項をつけ加えなければならない。

 中国赤十字の責任者の一人は、われわれが漢中門外に行って、多数の死体があるのを視察するよう要請した。 国際委員会のクレーガー氏は城門の外へ早朝に出て見たところ、その途中でこれらの死体を自分の目で見たと私にいった。しかし、城壁の上からは死体は見えなかったそうである。

 埋葬隊はその地点には三○○○体の遺体があったと報告しているが、それらは大量死刑執行の後、そのままに列をなして、あるいは積みかさねたまま放置されていた。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」P46〜P47)


 「多数の死体」の存在については、クレーガー氏も確認していました。 これだけで、「事件の死体」の存在の証明には充分でしょう。文脈を見れば明らかな通り、その死体が「三○○○体」であったかどうかは大した問題ではありません。

 しかし東中野氏は、問題を、その死体が「三○○○体」であったかどうか、ということにすり替えてしまいました。そして「三○○○体」の死体が存在したかどうか疑わしいから「事件」には根拠がないという、トリッキーな論理で読者を幻惑しようとしています。




 そもそもの話、「南京事件」について少し知識がある方でしたら、東中野氏の記述の「時間的順序」がおかしいことにすぐに気が付くでしょう。

 ァ崙邉安全地帯の記録」は、日本大使館等にリアルタイムで提出された記録です。 一方、 崟鐐茲箸浪燭」は、事件後に編纂されたものです。

 「南京安全地帯の記録」の方が先だったのですから、 「戦争とは何か」にある表現が「南京安全地帯の記録」にないことを「削除」と表現することはできません。ベイツは後日得た情報を元に書き加えた、と見るのが自然でしょう。

 従ってこれは、「三千体という死体」の存在を否定する根拠には、なりえません。



*なおこのベイツの「加筆」については、渡辺さんが、「"What War Means"第3章と「档案」の異同について」で詳細に論じられていますので、ご参照ください。





 なお、東中野氏の文では、「十二月二十五日」時点で「死体」が「目撃」されたかのように読めますが、少なくとも「中国赤十字の責任者の一人」が死体を目撃したのは、「一月十七日」だったようです。

「ヴォートリン日記」に、その記述が見られます。

「南京事件の日々」 1月20日

 中国赤十字会のG氏の話では、彼は、一月一七日、米を手に入れに出かけたさい、漢中路の外側に男の死体が堆く積まれているのを目撃した。

 付近にいた人たちが言うには、 一二月二六日ごろ現場に連行されてきて、機関銃で射殺されたそうだ。登録のさいに、かつて兵士であったことを告白すれば、労務要因として賃金を支払ってもらえるという約束で、おそらく、事実を認めた人たちなのだろう。

(P127)


 
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