東中野氏の徹底検証 13 |
「日本軍の暴行記録」の欠落部分 |
東中野氏の「・・・であろう」というのは、この本に繰り返して現れる、何の根拠もない、無責任なフレーズです。 この部分に関しても、「除外」の理由が「信憑性が欠けたからであろう」ということに、全く根拠はありません。意図的に「除外」されたと考えるよりは、単に文書が残らなかっただけ、と考える方が自然でしょう。 現実に、「南京安全区トウ案」の編者である徐淑希氏自身、「序」にて、次のように述べています。
念のために、「欠落部分」が、「南京大残虐事件資料集2」収録の「日本軍の暴行記録」の中でどのような位置付けになっているかを、以下、確認します。 ○「事例一一四から一四三まで」 「事例一一三」までは 「第十九号文書 安全区における日本兵暴行記録 1937年12月21日提出」(「南京大残虐事件資料集2」P172) に、「事例一四四」以降は 「第二十五号文書 安全区における日本兵暴行事件記録 1937年12月26日提出」(同P175) に収録されています。 確かにこの間の「一一四から一四三まで」は、「国際委員会文書」では欠落しています。 しかし実は、東中野氏が「おそらく著しく信憑性に欠けたから」「除外」されたと推定した「事例」のうち、「事例一三七〜一四三」については、この「南京大残虐事件資料集」で読むことができます。 この「事例」は、徐氏が入手した「国際委員会文書」には含まれていませんでしたが、「極東軍事裁判」への「提出資料」として、辛うじて残ったようです。
ここではとりあえず「第一三七件」を紹介しましたが、 内容は非常に具体的で、「信憑性に欠けた」から「除外」された、という東中野氏の推定は、的外れであることがわかると思います。 ○「事例一五五から一六四まで」 「事例」自体は残っていませんが、その前書きは、前のものと同じく「極東軍事裁判提出資料」として残されています。
この「暴行事例のリスト」が、「信憑性に欠けた」から「除外」された、と決め付ける根拠は何もありません。 ○「事例二○四から二○九」まで 事例二○三までは、 「第四十八号文書 現在の状況にかんする覚書 1938年1月22日午前9時」(「南京大残虐事件資料集2」P183) に、事例二一○以降は 「第五十六号文書 現在の状況にかんする覚書 1938年1月31日」(同 P186) に収録されています。 両文書の日付はかなり飛んでおり、各事例の報告日から、「事例二○四から二○九」までは、1月21日頃から1月28日頃に起こった「事例」を扱っていたものと推定されます。 こちらも、単に、文書が残らなかっただけの話である、と見る方が自然でしょう。 ところが、この「根拠なき空想」が、東中野氏の頭の中では、いつのまにか「事実」に変換されてしまったようです。次の文章に、ご注目ください。
「事例一一四から事例一四三」の中に含まれていることだけを理由に、この記録の信憑性を否定してしまいました。氏の「論理のアクロバット」ぶりには、あきれるしかありません。
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