東中野氏の徹底検証 13
「日本軍の暴行記録」の欠落部分



 「南京安全地帯の記録」には、事例一から、事例四四四まで、殺人や強姦などの調査を要する事件が収録されている。 そのうち、事例一一四から一四三までと、事例一五五から一六四まで、そして事例二○四から二○九までが、恐らく著しく信憑性に欠けたからであろう、除外されている。合計四十六件が未収録であった。


(「徹底検証」P258)


 東中野氏の「・・・であろう」というのは、この本に繰り返して現れる、何の根拠もない、無責任なフレーズです。

 この部分に関しても、「除外」の理由が「信憑性が欠けたからであろう」ということに、全く根拠はありません。意図的に「除外」されたと考えるよりは、単に文書が残らなかっただけ、と考える方が自然でしょう。



 現実に、「南京安全区トウ案」の編者である徐淑希氏自身、「序」にて、次のように述べています。


 
以下におさめられている文書は、南京安全区(The Nanking Safty Zone)が所有していたもののすべてではなく、外務会議(The Council of International Affairs)が幸いに入手しえたもののみである。

(「南京大残虐事件資料集2」P162)


 念のために、「欠落部分」が、「南京大残虐事件資料集2」収録の「日本軍の暴行記録」の中でどのような位置付けになっているかを、以下、確認します。




○「事例一一四から一四三まで」

 「事例一一三」まで

「第十九号文書 安全区における日本兵暴行記録 1937年12月21日提出」(「南京大残虐事件資料集2」P172)

に、「事例一四四」以降

「第二十五号文書 安全区における日本兵暴行事件記録 1937年12月26日提出」(同P175)

に収録されています。

確かにこの間の「一一四から一四三まで」は、「国際委員会文書」では欠落しています。

 

  しかし実は、東中野氏が「おそらく著しく信憑性に欠けたから」「除外」されたと推定した「事例」のうち、「事例一三七〜一四三」については、この「南京大残虐事件資料集」で読むことができます。

この「事例」は、徐氏が入手した「国際委員会文書」には含まれていませんでしたが、「極東軍事裁判」への「提出資料」として、辛うじて残ったようです。

安全区における日本兵暴行事件記録再報

*(訳注)このFurther by Japanese soldiers in Safty Zone と題する文書は、極東軍事裁判において検察側から書証(一九○六)として提出され、法廷証拠(三二八)として受理された一九三八年一月二十五日付「南京の状態」の同封文書である。 これは、第一三七〜一五四件の事件を含んでいるが、本書に収録されている第二十五号文書は第一三七〜一四三件を欠いているので、ここには、その欠落部分を補足収録する。

第一三七件 十二月二十二日、ウィルソン博士(Dr.Wilson)は、午後二時ごろ漢口路五号の自宅に一時間の間、兵士を一人も見かけなかった(フィッチ、スミス、ベイツが追払ったため)。 ところが、これらの人びとが強姦されようとした二人の婦人を救い出したので、ウィルソン博士はこの二人を大学へつれて行った。 彼が帰宅してみると、階上に三人の兵士がいた。ウィルソン博士は憲兵一人が兵隊二人をつれてやってくるのを見た。博士が憲兵を呼ぶと憲兵自身は入って来ないで二人の兵隊をよこしたが、ウィルソン博士にせめたてられて、ついには例の三人の兵隊を追出した。(ウィルソン)

(以下略)

(「南京大残虐事件資料集2」 P174〜P175)


  ここではとりあえず「第一三七件」を紹介しましたが、 内容は非常に具体的で、「信憑性に欠けた」から「除外」された、という東中野氏の推定は、的外れであることがわかると思います。




○「事例一五五から一六四まで」

 「事例」自体は残っていませんが、その前書きは、前のものと同じく「極東軍事裁判提出資料」として残されています。

日本大使館宛手紙 1937.12.30

*(訳注) これもまた、第二十四号文書の後に掲げた補足資料同様、極東国際軍事裁判の検証一九〇六・法証三二八の同封文書である。ただし、本論だけで、暴行事例のリストを欠く。

日本大使館 御中

福井氏・田中氏の配慮を乞う

拝啓

 ここに第一五五件より第一六四件までを同封いたします。第一頁にある第一五五件〜一六〇件の多くは以前、貴下に簡単に報告してあります。 しかし第二頁にある第一六一件から第一六四件までの四つの事件は今日の正午われわれの知るところとなったものです。そのうち二件が今日の午後発生しました。十二歳の少女が中英文化交流会館から拉致された第一六四件については、貴下の方で直ちに調査を始めていただければ幸いであります。

  第一六一〜一六三件は安全区で起きた事件ではありませんが、二件は地区境界線で起きたものです。とにかく、安全区附近でこのような行動がなされると、住民が帰宅するのがきわめて困難で危険なことになります。

   これらの事件目録をお受けとりいただき、すみやかに注目され、特に第一六〇件については直ちに調査を始められますようお願いします。

敬具

(署名) 書記 ルイス・S・C・スミス

 (「南京大残虐事件資料集2」P176)


 この「暴行事例のリスト」が、「信憑性に欠けた」から「除外」された、と決め付ける根拠は何もありません。




○「事例二○四から二○九」まで

 事例二○三までは、

「第四十八号文書 現在の状況にかんする覚書 1938年1月22日午前9時」
(「南京大残虐事件資料集2」P183)

に、事例二一○以降は

「第五十六号文書 現在の状況にかんする覚書 1938年1月31日」(同 P186)

に収録されています。 両文書の日付はかなり飛んでおり、各事例の報告日から、「事例二○四から二○九」までは、1月21日頃から1月28日頃に起こった「事例」を扱っていたものと推定されます。

 こちらも、単に、文書が残らなかっただけの話である、と見る方が自然でしょう。



 ところが、この「根拠なき空想」が、東中野氏の頭の中では、いつのまにか「事実」に変換されてしまったようです。
次の文章に、ご注目ください。


 では、残る五十三歳の女性の事例はどうであろうか。これは「事例一三八」として国際委員会が受理し、東京裁判でも法廷証拠三二八として受理された。 ところが、これは『南京安全地帯の記録』すら意識的に排除した悪質な事例群―事例一一四から事例一四三―の中の一つであった。


(「徹底検証」P272)


「事例一一四から事例一四三」の中に含まれていることだけを理由に、この記録の信憑性を否定してしまいました。氏の「論理のアクロバット」ぶりには、あきれるしかありません。


前へ HOME 次へ