東中野氏の徹底検証 15
公務以外の外出は不可能?




日本兵は公務で外出する以外、外出は原則として不可能であった。
厳しい軍規の下、強姦に出かける可能性は極めて少なかったように思われる。

(「徹底検証」P274)


 「極東軍事裁判」でも、このような証言が行われています。確かにこの通りであれば、「不軍紀事件」などおこりようがありません。

しかし実際には、「南京戦史資料集」などに収録されている兵士の日記を見ると、結構自由に外出しているようです。




初年兵の手記「硝煙の合間にて」 (歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵)

十二月十四日、南京城内

 (略)午後部屋を片付け終ってから水を探したり又今夜のお菜にするため材料を見つける為に堀田さんと二人で家を出た、南京には占領と同時に多くの憲兵が入って軍紀風紀の取締についていると言われていたので、自分達は裏町づたいに家を覗いていった。

(「南京戦史資料集機廝丕械牽機


水谷荘日記「戦塵」 (歩兵第七聯隊第一中隊・一等兵)

十二月十七日

 (略)今日は五時起床。歴史に残る南京入城式だ。指揮班からH伍長、I、G(注.橋本伍長、稲垣上等兵、常光上等兵?)が参加する。宿舎の直ぐ裏にドイツ人の住宅があり、何となく親近感をもって遊びに行く。 此の家の主人シハイリン氏は居ないが、中国人の給仕が居て葉巻を出してくれた。たどたどしい日本語を話せるのも居たので、正午迄遊んで帰る。

 午後は近くの池に、支那軍の手榴弾を投げ込んで魚をとった。六○種以上もある大きなのが五匹も取れ、その以下のものも十数匹取れたので、早速天ぷらや塩焼にして食う。

 夜昨日の裏の山寺へ行って、魚をとる為の手榴弾二箱を取って来る。

(「南京戦史資料集機廝丕械坑掘


牧原信夫日記 (歩兵第二十聯隊第三機関銃中隊・上等兵)

十二月十八日

午前六時半起床、自分は岡山と炊事当番であった。八時に食事を終る。皆は食事が終ると何時とはなしに徴発に出る。自分は事務室に居残る。

(「南京戦史資料集機廝丕苅娃掘

 


 更に、「公務外出」と書くと書類を届けにいくような用事を連想しますが、そんな立派な用事ばかりではありません。東中野氏は、別の章で、次のように書いていますが・・・。


 また、それから二日後、山田支隊の堀越文男伍長(仮名)は部隊長の命を受けて城外から城内に入った。 堀越伍長が公用外出して見たものは、路上の死体の山ではなかった。露店であった。そこで堀越伍長は、「難民の売る平たいパン様のもの」を買っている。


(「徹底検証」P232)



  堀越伍長の、日記の該当部分です。

堀越文男 陣中日記 十二月十九日

 聯隊は揚子江を渡江し警備のため冬営するの目的を以て明二十日出発の予定につき南京城内に至りて炭焼きに必要なる斧鋸その他のものを徴発すべしとの部隊長の命令をうけて小泉准尉以下十名南京城内へ出発す、九時なり。

 難民区に至りて難民の売る平たいパン様のものを食ふ、テンプラうまし。

 南方へ、山へ、よきたてものあり入りてチャン飯を馳走になる、よろこびてもてなしくれたり、うましうまし正にうまし、午後二時自動車にてかへる。

(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P79)


 「公用外出」とは、実は「徴発」、言い換えれば「略奪」のことでした。あまりいばれたものではありません。東中野氏は、これを「公用外出」の言葉でごましているわけです。




 最後に、板倉氏が東中野氏を批判した文を、紹介します。

板倉由明「東中野論文「ラーベ日記の徹底検証」を批判する」

 日本兵が特に「外出禁止」だったことはない。

 
ただ危険な場所(たとえば貧民街の狭い路地)などには入らぬよう注意があったらしいが、ロシア大使館が不審火で焼けた後、笹沢部隊(独立機関銃第二大隊)の伍長以下三名が捕まっている。 飯沼日記は「今に至り尚食料に窮するのも不思議、同大使館に入り込むも全く不可解」とノンキなことを記している。

 外務省への報告のほか、上海派遣軍報道部長・木村松治郎大佐の「嘆げかわしき乱脈ぶり」との報告、 飯沼参謀長の「実に慨嘆に耐えず」との日記、朝香宮司令官も呆れて何とかせよと仰せられたなど、相当な「乱脈ぶり」だったことは間違いない。

(「正論」平成10年6月号)


 
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