安全区入口の「歩哨」 |
「極東国際軍事裁判」では、日本側から、「安全区の入口には歩哨が立っており立入禁止」「兵士は公用以外外出禁止」という資料・証言が提示されています。
「外出禁止」については「東中野氏の徹底検証 第12章(5) 公務以外の外出は不可能?」に資料を掲示しておきました。 参考までに、こちらに掲げた「自由に外出する兵士」の記録のうち二つが、「第九師団」のものです。 「公用の将校の外は各個に外出した兵士はありません。私の師団は全部さうでした」とする大杉証人の証言は、一見して無理であることが見てとれます。 さて安全区の「立入禁止」の方ですが、日本側と国際委員会との交渉を、「南京安全区国際委員会文書」により追うことにしましょう。 日本軍南京占領の翌十二月十四日、国際委員会から日本側に対し、「安全区の入口各所」への衛兵配備が要請されました。
「特務機関長」は、これに対して、一応は国際委員会の要請を認める回答を行いました。
しかしこの約束は、実際にはなかなか履行されなかったようです。国際委員会は十六日、重ねての衛兵配備要請を行っています。
結局、「国際委員会」の要請は、日本軍の対応の遅さに業を煮やしてか、「(安全)地区の入口各所」から、より具体的に、「比較的大きな難民収容所の入口」に変更されました。
何日から「歩哨」が立つようになったのかはこの記録からは判然としませんが、少なくとも「12月20日」以降であることは確実です。 なお参考までに、「井家叉一日記」には、 「12月24日」に、「午後三時から大隊討伐区域を警戒し、歩哨として上番す。我々は十字路下士哨として勤務するのだ。支那兵南京の要塞地帯と市内と連絡地点として未だ西康路・漢口路・十字路下士哨だ。 此の付近の避難民に混り尚残敵多数あり。此の下士哨は現在地付近に位置して大隊掃蕩地区内に出入する大隊に属する以外の者の取締に任ずるのである」 との記述が見られます(『南京戦史資料集』P480)。 この表現からは、「歩哨」の任務が日本軍の不法侵入者の「取締」にあるのか、「残敵」の取締にあるのか、微妙なようにも思われます。 しかしそもそも、安全区掃蕩に携わった「第七連隊」は、十二月十五日以降、安全区内に宿舎を置いています。例え「歩哨」を立てて外部からの安全区への侵入を防止していたとしても、部隊の一部が安全区内にあるのでは、わざわざ「立入禁止」にする意味が薄くなってしまいます。
また、「歩哨」の存在が必ずしも「兵士の安全区内への侵入」を防止するものではなかったことは、これ以降も「安全区における日本兵暴行事件記録」に膨大な数の「事件」が報告されていることから、明らかでしょう。「ラーベ日記」にも、以下の記述があります。
(2003年記 2006.3.19一部加筆)
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