安全区入口の「歩哨」



「極東国際軍事裁判」では、日本側から、「安全区の入口には歩哨が立っており立入禁止」「兵士は公用以外外出禁止」という資料・証言が提示されています。


中山寧人証言 

 南京の中立地帯、すなわち難民区に対しましては、一部の軍隊をもつて警備し、その入口・出口は軍隊をもつて歩哨を立てておりまして、何人も上級司令部の許可がなければ、はいることはならないようになつておつたのであります。

 (『南京大残虐事件資料集1』P214) 


大杉義秀証人 宣誓口供書 (第九師団山砲兵第九連隊第七中隊) 

 私達は十二月十五日に南京に入城し支那軍の兵営に分営しました。そして各隊は衛兵を立て兵の外出を禁止しましたから、公用の将校の外は各個に外出した兵士はありません。私の師団は全部さうでした。従つて一人の不法行為者もありませんでした。

  公用で外出した友人将校の話によれば、難民区には多数の避難民が居る様子であつたが、憲兵によつて護衛され兵は勿論将校でも立入禁止せられていたとのことでありました。 

(『南京大残虐事件資料集1』P238)


  「外出禁止」については「東中野氏の徹底検証 第12章(5) 公務以外の外出は不可能?」に資料を掲示しておきました。 参考までに、こちらに掲げた「自由に外出する兵士」の記録のうち二つが、「第九師団」のものです「公用の将校の外は各個に外出した兵士はありません。私の師団は全部さうでした」とする大杉証人の証言は、一見して無理であることが見てとれます。

 さて安全区の「立入禁止」の方ですが、日本側と国際委員会との交渉を、「南京安全区国際委員会文書」により追うことにしましょう。




 日本軍南京占領の翌十二月十四日、国際委員会から日本側に対し、「安全区の入口各所」への衛兵配備が要請されました。

第一号文書 1937年12月14日

  以下のことを委員会の手でおこなうことを要請いたします。 

1 安全区の入口各所に日本軍衛兵各一名を配備されたい。 

(『南京大残虐事件資料集2』 P120) 


 「特務機関長」は、これに対して、一応は国際委員会の要請を認める回答を行いました。

第四号文書 特務機関長との会見の覚え書 

 一九三七年十二月十五日正午、交通銀行において。

 通訳 福田氏。(会見は機関長による一方的言明であって、何ら質問も話し合いもおこなわれなかった。それは十二月十四日付のわれわれの手紙にたいする回答であった。(中略)) 

2 安全区の入口各所に衛兵をたてる。 

(『南京大残虐事件資料集2』 P123)


 しかしこの約束は、実際にはなかなか履行されなかったようです。国際委員会は十六日、重ねての衛兵配備要請を行っています。 

第五号文書 1937年12月16日

 国際委員会は、この状態を急速に改善するために、日本軍が次のような措置をただちにとられるように提案します。

 1 責任ある将校のもとで正規に編成された兵士の集団により全捜査をおこなうこと。(三人から七人の兵士の群れが将校の監督もなくうろつきまわることから多くの事件が発生しています。)

 2 夜間、そしてできれば昼間も安全区の入口各所に衛兵をおき(昨日、少佐から提案された)、それによって、安全区に日本兵が一人も入りこまないようにすること。

 (『南京大残虐事件資料集2』 P124) 

第六号文書 1937年12月17日

  ところが、昨夜の八時から九時にかけてわれわれの職員で委員会のメンバーである五人の西洋人が安全区をまわって状況を視察したところ、 当方は区内あるいは出入口を巡回している日本軍衛兵の姿を一人も見ることはできませんでした。

 
昨日の脅迫と警官の連行によって当方の警官は全員路上から姿を消してしまいました。われわれが見たものは、 二、三名の日本兵が連れだって安全区の路上をうろついている姿ばかりで、 現在私がこの手紙を書いている間にも、安全区内の各所から統制もなく侵入する兵隊がひきおこす強盗・強姦事件の報告が刻々と耳に入ってきます。

 このことは、 昨十二月十六日の当方の手紙の第二項にあった安全区の出入口各所に衛兵を立て兵隊が侵入しないようにするという当方の要請につき何らの措置がとられていない、ということです。

(『南京大残虐事件資料集2』 P127) 



 結局、「国際委員会」の要請は、日本軍の対応の遅さに業を煮やしてか、「(安全)地区の入口各所」から、より具体的に、「比較的大きな難民収容所の入口」に変更されました。

第七号文書 1937年12月18日 

 2 十二月十六日付の手紙で、当方は地区の入口各所に衛兵を立て、夜間に徘徊する兵隊たちを締め出すように要請しましたが、この措置はいまだにとられていません。 しかし、われわれは、日本軍が、特に夜に入って兵隊が兵営にあるべき時に彼らが市民に対しておこなう強盗・強姦・殺人行為を防止するため何らかの方法をとられることを希望するものであります。 

 3 兵隊たちの間に全般的に秩序が回復するまで、一九ヵ所の比較的大きな難民収容所の入口に歩哨をたてていただきたい。これらの歩哨には、兵隊たちが塀をよじ登って建物に侵入するのを防止するよう指示を与えられるべきです。

 (『南京大残虐事件資料集2』 P130)

第十六号文書(徐淑希編) 日本大使館宛手紙 1937年12月20日 

今日まで何ら他の方法が効を奏さなかったので、われわれが強く望むことは、一八ヵ所の難民収容所と鼓楼医院に今夜以降、歩哨を立て、さらに日中には金陵女子文理学院の向かい側にある五台山無料食堂と同学院の運動場に歩哨を立てることであります。

(『南京大残虐事件資料集2』 P171) 


  何日から「歩哨」が立つようになったのかはこの記録からは判然としませんが、少なくとも「12月20日」以降であることは確実です。

 なお参考までに、「井家叉一日記」には、

「12月24日」に、「午後三時から大隊討伐区域を警戒し、歩哨として上番す。我々は十字路下士哨として勤務するのだ。支那兵南京の要塞地帯と市内と連絡地点として未だ西康路・漢口路・十字路下士哨だ。 此の付近の避難民に混り尚残敵多数あり。此の下士哨は現在地付近に位置して大隊掃蕩地区内に出入する大隊に属する以外の者の取締に任ずるのである

との記述が見られます(『南京戦史資料集』P480)。 この表現からは、「歩哨」の任務が日本軍の不法侵入者の「取締」にあるのか、「残敵」の取締にあるのか、微妙なようにも思われます。



 しかしそもそも、安全区掃蕩に携わった「第七連隊」は、十二月十五日以降、安全区内に宿舎を置いています。例え「歩哨」を立てて外部からの安全区への侵入を防止していたとしても、部隊の一部が安全区内にあるのでは、わざわざ「立入禁止」にする意味が薄くなってしまいます。


水谷荘日記『戦塵』より 

 十二月十五日

 今日も夕方になって漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。

(『南京戦史資料集』 P502)

*筆者は歩兵第七連隊第一中隊・一等兵。 



N・Y一等兵『初年兵の手記 硝煙の合間にて』より 

 十二月十五日、南京城内

 漸く宿舎にする家が定まったので、領事館の前を出ると出発したのはもう夕暮近い頃であった。背嚢や嵩ばるものを自動車に積んでいると鼓楼寺院の先刻の運転手がガソリンを十缶ばかり持ってきてくれた。それらを全部積んで宿舎へ走った。

 宿舎になる家は三階建の大きな家で難民が一杯入っていたのであったが、自分たちが来ると聞いて続々又一式の家具を担って出ていった。夜具も釜も何にも残っていないと言うので、今朝居た家迄自動車でとりに行く事になった。

(『南京戦史資料集』 P495)

*筆者は歩兵第七連隊第一歩兵砲小隊・一等兵。 


『井家叉一日記』より 

十二月十五日


 本日又居住家屋を変えて外人街の家に入って又寝る。付近は避難民で一杯である。我々が入って行くと恐る恐る笑ふ。又上手もするのは哀れ敗残国民として全く同情に値するものと想う。

 (『南京戦史資料集』 P475〜P476)

*筆者は歩兵第七連隊第二中隊・上等兵。






  また、「歩哨」の存在が必ずしも「兵士の安全区内への侵入」を防止するものではなかったことは、これ以降も「安全区における日本兵暴行事件記録」に膨大な数の「事件」が報告されていることから、明らかでしょう。「ラーベ日記」にも、以下の記述があります。

ジョン・ラーベ日記 十二月二十八日 


 それから、今後安全区に衛兵を派遣することになったと聞かされた。日本兵が入りこまないようにするためだというのだ。あるとき私は、その衛兵とやらをじっくり観察してみた。 日本兵はだれ一人呼びとめられるでも尋問されるでもない。それどころか、奪ったものをかかえて日本兵が出てくるのを見て見ぬふりをしていることもある。これで「保護します」とは聞いて呆れる!

(『南京の真実』 文庫版P175) 


(2003年記 2006.3.19一部加筆)



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