四、安全区での問題
中国軍が安全区を都合よく利用したことは、陥落以前の中国当局の民衆保護措置の不十分さと共に、「日記」の公開で初めて資料的に明らかになったことで、その意味で「日記」には相応の価値がある。
東中野氏は「日記」を全く出鱈目な、創作であると極め付けているが、そのような全面否定では、歴史の真実は追求できない。 私は十二月十四日の項などは、東京裁判での許伝音の偽証(ラーベ、フィッチ、許三者立ち会いの敗残兵捜索拒否)の可能性を示す重要な記述であると思う。
十二日夜の、龍大佐と周大佐の避難申し入れに対し、ラーベが匿ったことを論文は、「良心の呵責を覚えることなく」と評しているが、逆にラーベの良心とも言える。
米英仏伊など各国大使館、公使館には大勢の中国軍人が逃げ込んだ。蒋公穀のアメリカ大使館、郭岐のイタリヤ大使館などが有名だが、日本だって中国やアジアの独立運動などで「志士」たちを大勢匿っている。
汪兆銘は蒋介石の暗殺を逃れて、ハノイから日本側の護衛の下に上海を経て東京へ脱出した。 「窮鳥懐に入れば殺さず」と言うが、これは一般に当然の措置で、匿われた側から見れば、ラーベは「南京のシンドラー」になる。
「論文」には重症兵が安全区に入ってきたのは協定違反だとラーベが息巻いた、とあるが、この九四頁は、「本来ならこれは協定違反だ」としながらトリマー医師を訪ねさせた、と書いているので、
ラーベは別に息巻いたり理性が麻痺していたのではない。
また「論文」は、ラーベがドイツへの帰国の際、空軍将校を使用人と偽って香港への逃亡を援助した、と避難する。
しかし日本だって、松本重治は、高宗武を同盟記者と偽って自動車に同乗させ、共同租界の境界を突破している。
ラーベの場合も国際間の政治的な陰の部分では常識的(しかし決死的)出来事だが、乗船時にバレて逮捕・射殺されても、文句は言えない。
ドイツ人を含め、残留外国人たちは中国軍人を匿い脱出を援助した。スパーリングは蒋公穀の報告書を漢口へ送っている。スパーリングは青島で捕虜になって以来、徹底的に日本が嫌いになった。
松山収容所などでのドイツ捕虜の厚遇はしばしば「友好」の話題になるが、ドイツ人捕虜一般が日本に好意を抱いた、などと考えるのは甘い。(P286-P287) |